深い緑の中に、濃薄様々な藤の紫が彩りを添えていた。
たおやかに垂れ下がるその咲き様は、振袖姿のあでやかな女性にもたとえられ、その美しさを惜しげなく誇示している。
ほんの一瞬その紫に目を奪われ、ハッと気を取り直し弓を構え直したのは千手一族の次兄『千手 扉間』
すぐそばにある細い葉を少しも揺らすことなく光る矢の先には、大きなイノシシ。
扉間はそのイノシシが急所をこちらに向ける姿勢となるのをじっと待っていた。
注意をそちらに集中しながらも、森の香りや風をしっかりと楽しむ。
獲物のみに気を向けられず、ついとそうしてしまうのは、普段狩りではあまり来ないこの場所に久しぶりに来たせいかもしれない。
何年振りか…
最後にここへ来た時の事をほんの少し思い返す。
確かあれは10歳になったころ…。二年ほど前だったか。
あの時もこうしてこのあたりで身をひそめ、獲物を狙っていた。
だが、兄である柱間もそばにおり、気配を殺すことが苦手なその存在にことごとく邪魔をされた。
帰りの道で「二度とついてくるな」と自分に叱られて落ち込んでいた兄を思い出し、口元に小さく笑みが浮かぶ。
最近は兄もしっかりと気配を殺せるようになった。
また一緒に来てもよいかもしれないな…
そんなことを思ったその時。
ヒュッ…
本当にかすかな風を切る音が鳴り、イノシシがドシン…と音を立てて崩れ落ちた。
しかし扉間の弓はしなっておらず、矢もまだつがえたまま。
獲物をしとめたのは扉間ではなかった。
…誰だ…
矢をはずし、扉間は瞳を厳しく色づけた。
獲物を奪われたことにではない。
感知の力ではひけはとらないとの自負を持つ扉間のその力に全く触れなかった存在が近くにいる。
とはいえ、自分の感知にまったく触れないわけがない。
まだ幼いが、扉間のその力は千手においてもこれまでにないほど優れており、大げさに言えば風に揺れる木の葉の気配ですらかすかにでも捉えられるのだ。
その力をかなりの広範囲に張り巡らせていた。
にも関わらず感じなかったということは、それよりも外にいたということになる。
だが、そうなると容易にイノシシを狙える距離ではない。
今自分がいる場所ですらギリギリの距離だ…。
感知の中にいながら気配を感じさせなかったのか、それともその外にいてそこからイノシシをしとめたのか…
どちらにせよ、その者が只者ではない事に扉間の瞳がさらに厳しく染まる。
とその時、扉間の能力に気配が触れた。
それは自分から右斜め後方。
だが思いのほか近い。
となると、感知の中にいながら気配を感じさせず、自分より離れた距離から獲物をしとめたということだ。
まず間違いなく忍であろう。
いくつかの種族が頭に浮かぶがその大方は千手とは悪い関係にはない。
そうであっても、千手優勢であり不毛に争いになるようなことは起こさぬだろう。
唯一警戒しなければならないとすれば、過去から衝突を繰り返してきた『うちは』のみ。
もしうちはの者にこのような手練れがいるのであれば、把握せねばなるまい…
一瞬先日の父の話にあったうちはの族長の長兄である『うちはマダラ』が脳裏に浮かぶが、すぐにそうではないと打ち消す。
気配は一つ。
うちはの集落からかなり離れたこの場所に、そのような立場の者が一人でいるはずはないだろう。
自分ですら隠れてこっそり出てきているのだ…。
ならば、何者だ…
扉間は静かに弓をしまい、倒れたイノシシへと向かって跳躍した。
うちはであれ、どうであれ、何者か知っておく必要があるであろう。
あちらが自分を知り、敵対する存在であるならば容易に姿は見せず様子を伺ってくるはずだ。
逆であればすんなりと現れるであろう。
扉間は音を立てぬ動作でイノシシのそばに降り立った。
姿勢を落としてイノシシの様子を確かめる。
すでにこと切れており、深く刺さった矢は狂いなく急所を突いている。
しかもそれは随分と難しい角度から狙われていた。
目もよく、弓の腕も申し分ない。
申し分ないどころか、腕前は自分より上かもしれない。
自分ではこの角度からは狙えないだろうと、扉間の警戒は深まった。
ほどなくして気配が近づき、ためらう様子なく扉間の前に静かな動きで降り立った。
そのしなやかな身のこなしに、一つにまとめられた黒髪がふわりとなびき、ゆったりとした藤色の装束が美しい線を描いて揺れた。
すっとした細い顎。すこし切れ長な目でありながら瞳は大きく、吸い込まれそうな漆黒。
息を飲むような美しい顔立ちであった。
扉間はそのあまりの美しさに戸惑いを覚えたが、それ以上に驚いたのは相手がまだ子供であった事だ。
自分もそうではあるが、それよりまだ一つか二つは幼いであろうその者に扉間は思わず言葉を失った。
この年で自分より優れた弓の腕前。そして感知に触れぬ身の隠し様。
やはり只者ではない。
だが敵対する種族のものではないのであろう。
これほどの者であればすでに戦場に出ているであろうし、そうなれば自分の事はもちろん知り得ているはずだ。
こうもすんなりと姿を現したということは、違うのだろうと扉間は読み考える。
それに何より、目の前にいる者は…
「女…か?」
幼いとはいえ、驚くほどにしなやかなその動き。それに体の形がどうにも男ではないようであった。
それもまた扉間を驚かせた要因であった。
弓の実力で女に劣るなどと考えてもみなかったのだ。
しかしイノシシをしとめた矢は偶然などというものではない。
目の前にいる人物の確かな腕前だ。
「あの…あなたの獲物でしたか?」
藤色の装束を少し正し、その人物は申し訳なさそうに目を細めた。
扉間は「構わん」と返してイノシシに目を落とす。
「仕留めた者の獲物だ。お主の矢の方が早かった。見事な腕前だ」
淡々とした言葉運びではあるが、飾ることなく率直に腕をほめられその人物は少しほほを染めた。
扉間の整った顔立ちと実際の年よりもいくつか上に見えるその風貌と言葉づかいも、頬を色づけた要因であろう。
「でも、あなたもかなりの御方とお見受けします。気配に全く気付けなかった…」
その物言いからそれなりの身分を感じると同時に、言葉の内容からやはり忍であろうことが読み取れ、扉間は警戒を解かぬまま少し距離を詰めた。
「弓はどのような物を使っているのだ?」
「これです」
ためらいなく差し出されたそれを手に取って確かめる。
これといって特徴のないシンプルな弓。かなり使い込んであるがしっかりと手入れされている。
軽く見るふりですべてを観察するが何も印はなく、どこかの一族というような証は見てとれない。
「よく手入れしてあるようだな」
大切にしているのであろうと、扱いに気をつけて返すとその動きに好感を得たのか相手は警戒せぬ柔らかい笑みで受け取った。
その動きにふわりと花の香りが混じり、扉間はほんの少し胸を鳴らした。
甘い蜜のような…藤の花の香り…。
「お主…」
名は…と、聞きかけたその声を飲み込んだ。
何者かの気配が触れ「姫ぃ様!」と呼ぶ女の声が聞こえたのだ。
その者もまた忍の動きでそばに降り立ち「またお一人でこんなところに」と、少し上がった息を静かに整えた。
「姫ぃ様…この者は…」
整えたばかりの息で扉間に警戒を向け、女の忍びが藤の香りを遮断する。
口調と動きから見てお付きの者と言ったところか。
そう考える扉間の前でひぃ様と呼ばれた者が少し申し訳なさを交えてふわりと笑う。
「彼の獲物をしとめてしまったようなのです」
少しも警戒しないその様子にお付きの忍も警戒を解く。
「そうでしたか。それは失礼をいたしました」
「いや構わない。ではな。オレはもう行く」
扉間は背を向け際にもう一度藤色の衣の忍を瞳に映し地を蹴った。
『姫ぃ様』…か。
ということはやはり女。
そしてどこかの長の娘なのであろう。
名のある一族でなくとも小さな忍の集落もある。
少なくともうちはではない。
うちはマダラには下に何人か兄弟がいるが、皆男だと父から聞いている。
扉間は無意識の中ほっとしていた。
それが何に対しての安堵なのかわからなかったが、ただ『また会えるだろうか』と、そんなことを思った。
うちは一族集落。
狩りを終え、幼い少女が清々しさを浮かべて「ただ今戻りました」と、集落の一番奥に建てられた館の門をくぐった。
その後ろではお付きであるくノ一が大きなイノシシを肩に担いで立っている。
その二人をむかえたのは館の主であるうちはタジマの長子、うちはマダラ。
マダラはあきれた面持ちで弓を片付ける兄弟を見た。
「何がただ今戻りました…だ。イズナ。お前また勝手に狩りに出たな」
ジトリとにらまれ、イズナは肩を小さくすくめた。
「ちゃんと手紙置いて行ったでしょ。兄上の机の上に」
「相手の返事を聞いてなければ勝手と同じだ。父上がいないからと言って好きな行動をとるな」
マダラは今度は後ろでイノシシを担いでいるくノ一をにらむ。
「夏日。お前がついていながらどういう事だ」
くノ一はイノシシを担いだまま頭を下げた。
「申し訳ありません…。隙を突かれまして…」
「忍が…しかも護衛が隙を突かれてどうするんだ」
夏日は10ほど離れたマダラの叱咤に身を小さくした。
「それよりイズナ…。お前誰にも見られていないだろうな」
「もちろんだよ」
先ほど会った青年の事を言えばややこしいことになる…と、イズナは夏日が言葉をはさめぬように続ける。
「でも、見られても大丈夫だって。一応変装してるし」
ぱちりと音を鳴らして後ろ髪としてつけていた作り物の毛を外し、いつもと違う場所で分け目を作っていた髪型をもとに戻す。
確かに、不思議な物でそれだけでもずいぶん印象は変わる。
だがマダラは口調を厳しくした。
「せめて変化してゆけ」
「やだよ…。感覚が少し狂うんだよ。それだと」
イズナは「それに」と続けながら廊下へと進む。
「外では本来の自分のままだからね」
普段は身に着けない藤色の衣をうまく揺らし、わざと少ししなりを作る。
「うちはイズナとは結びつかないでしょ。僕たちは男兄弟として知られてるんだからさ」
すっと所作を男の物に変え、イズナはキリットした顔で笑みを作った。
それは先ほどまでとはまるで別人のもので、マダラはその器用さに苦笑いを返した。
「だが気をつけろ。今はまだ戦場に出ていないからそれでも通るが、そうとなれば通らん。チャクラで見分ける者はいくらでもいるんだからな」
5人兄弟の中で唯一の妹であるイズナに、マダラはしっかりとくぎを刺した。
生まれたときから父はそれを隠し、イズナを男として育ててきた。
敵対する者から弱点として突かれぬように…。
一族の中でもそれを知るのは家族とこの屋敷に仕える一部の者のみ。
成長と共に隠しきれぬこととなってゆくであろうが、その時には容易に手出しはできぬほどの強い忍に…というのが父の考えであった。
それでもやはり力や動きはそうそう男と同等には鍛えきれない。
故に、イズナはまだ前線には出していない状況であった。
だが、ここ最近のイズナは随分と力をつけ、マダラとのつばぜり合いでも引けを取らぬほどになっていた。
そんなイズナを父はそう遠くなく連れ出すつもりにしている。
それを知るマダラはもう一度「気をつけろ」と自室へ向かうイズナの背に言葉を刺し込んだ。
守ろうとする兄の心などまるで気づかず、イズナは「承知しました」とわざとらしく真剣な表情を作ってマダラに返し、軽い足取りで部屋へと入って行った。
「まったく…」
大きく吐き出されたため息に夏日が言葉をかぶせる。
「あの、私これを調理場に運んできます」
ほんの少しイノシシを持ち上げて示す。
それを乗せた肩は細く、支える体も鍛えた体つきではあるがやはり細い。
マダラはほんの少しほほをひきつらせた。
「お前…相変わらずの怪力だな…」
「ありがとうございます」
「いや…褒めてない…」
「褒めてくださいよ」
フフ…っと夏日が小さく笑うのを見て、マダラはジトリとにらむ。
「褒められたかったら、イズナに隙を突かれるな」
「…う…。…はい…」
うなだれた夏日の影がイズナの部屋の障子に映る。
それを見ながらイズナは「クク…」と喉を鳴らし、窓を開けて少し夕色がかった空を見上げた。
今日の夕日は少し赤みがかっており、空をうすい緋色に染めていた。
それは先ほど会った少年の瞳と同じ色で、イズナは精悍な笑顔を思い出し「また会えるかな」と小さくつぶやいた。
柔らかく笑んだその頬には、空の緋色が薄く映っていた。
それからのち、二人は互いの身を明かさぬままに幾度かあの場所で会うようになった。
偶然と言えば偶然であり、そうでないと言えばそうでなく。二人は月の形や天候。様々な言葉を互いに残し、それを次に会う【約束】とした。
それでもやはり事情もあり会えぬこともあったが、どちらかと言えば会えることの方が多かった。
会うたびに弓の腕を競い。時には組手や手裏剣もやりあった。
その中でも二人が特に多く合わせたのは剣術であった。
腕はほぼ互角。
力や駆け引き、事の組み立てに関しては経験の多い扉間がやはり強かったが、イズナは読みが鋭くスピードがあり、その動きは器用かつ独特で、扉間の虚を突いてきた。
今までにないイズナの太刀筋。自分と互角に渡り合ってくる腕。
扉間はそこに心地よさを覚えていた。
その上イズナは『武』だけではなく教養も深く、本を読むのが好きな扉間とは話も合った。
たまたまいくつか同じ本を読んでいたことに互いに驚き、喜び語り合ったりもした。
話の中で時折イズナは歌を詠むこともあり、深い知識とセンスの良いそれにうまく返せればと、最近は扉間も歌を勉強し始めていた。
そうして二人は文武共に伸ばし合える良い仲となっていた。
警戒心の強い扉間にしては珍しい事ではあったが、天真爛漫に自分を慕ってくるイズナの性格と、コロコロとよく変わる愛らしい表情にすっかり心を許し、【友】とはまた違う感情を抱きつつあった。
この日は約2週間ぶりの幾度目かの再会。
二人は隠し身を競い合っていた。
いわばかくれんぼである。
とはいえ、方や感知の優能者。方や隠し身の有才者。
そう勝負はつかない。
今はイズナが隠れ、扉間が探す手だ。
始めてからすでに30分が経過していた。
その間イズナは時折気配をちらつかせて扉間を振り回し、いくつか分身までひそませて惑わしてくる。
「たちの悪い奴だ」
そう言いながらも、近くにこれほどまでに身を隠すのがうまい者はおらず、こういったことが普段できないため扉間は心底楽しんでいた。
しかしそれでも1時間もたつとさすがにしびれを切らしてきた。
そろそろ何とかせねばならないな。
そんなことを思い、不意に眉間にしわが寄った。
「……っ」
小さくうめいて肩を抑えその場に膝をつく。
「しまった…昨日の傷が開いたか…」
額にはうっすらと汗が浮かぶ。
「まずいな」
ふらつきながらも何とか立ち上がり、木に背をつけ座り込む。
「…う…」
さらに歪ませた表情に、さすがにイズナも姿を現した。
「どうしたの!」
近い木の上にいたらしく、イズナは高い位置から風を切って扉間の前に降り立った。
「いや…大したことはない」
「すごい汗じゃないか」
扉間の前に膝をついて座り、心配そうな表情を浮かべる。
「見せて」
イズナの手が扉間の肩に伸び、その手を扉間がパッとつかんだ。
「よし」
扉間の口端がにっと上がる。
「え?」
イズナが呆けた顔を浮かべ、扉間が勝ち誇ったように声を上げた。
「捕まえたぞ。オレの勝ちだ」
一瞬の間を置き、事態を把握したイズナが顔をひきつらせた。
「ずるい!こんな子供だまし!」
みるみる頬が膨らんでゆく。
扉間はそれがおかしくて笑いながら返す。
「子供だましに引っかかる方が悪い。…バカめ」
その言葉には十分なほどの愛おしみが込められてはいたが、気づかぬままイズナはさらに頬を膨らませた。
「バカっていう方がバカなんだから!」
振り上げた手を扉間は簡単に受け止め、少しも怖い顔になっていないイズナの表情に「ククク」と笑う。
それがさらにイズナの怒りをあおるが、次の言葉を浴びせるより早く「姫ぃ様~!」とイズナを探す夏日の声が響いた。
それが二人の時間の終わりを告げる合図であった。
「…行くね」
「…ああ」
小さく息を吐いて立ち上がるイズナの手を、扉間は名残惜しげに離した。
イズナは扉間に背を向け、不意に歌を詠んだ。
「白露に風の吹きしく秋の野は」
聞き覚えあるその句を扉間が続ける。
「つらぬきとめぬ玉ぞ散りける」
それは次の約束であった。
【白露】のあらわす9月8日。
それがまた会える日…
無言の確認ののち、イズナははにかんだ笑みを残してさっと姿を消した。