「ここにきて貴族の私領艦隊などが敵になるのか。その軽挙の報いを受けるがいい」
そう言いながらラインハルトは唇を噛む。
狼狽などしない。覇気がいっそう荒れ狂うばかりだ。
いったんはこの絶対不利な態勢から逃れるべく前進している。そこから反転し、どうやって戦う。
意図したことか分からないが、今や三万隻の貴族私領艦隊とイゼルローン要塞が協同歩調となっている。これではラインハルト麾下の四万隻でも難敵だ。少なくとも要塞攻略戦の遂行は難しくなった。
ラインハルトがどう決断するのか、何を優先し、どんな戦術を使うのか皆が注視している。
やっとオペレーターがオーディンから発せられた電文を伝えてくる。それもいっそう驚くべきものだった。
「皇帝フリードリヒ四世、不予!!」
「何! 何だと! 皇帝が……」
全く同じ時、リッテンハイム侯私領艦隊旗艦オストマルクにも同様の電文が届いた。
皇帝不予とは、それはヒルダにとっても驚きだ。
今、ヒルダはオストマルクの艦橋にある貴族用の貴賓席にいる。
帝国軍の艦船と違い、さすがに私領艦は乗員兵士以外の貴族が乗船することも考えて作られている。しかもオストマルクは大貴族リッテンハイム侯の御座船であり、艦橋にもまるで館の一室を思わせる豪華な一角が用意されている。実際はリッテンハイム侯が戦闘艦に乗ることはあまり考えられないのだが、それでも作りはそうなっている。
ヒルダは軽装用のドレスを着て、座り心地の良いシートに座っていた。
「こんなタイミングでそんなことがあるなんて。予想外のこともあるものね。作戦を少し修正しなくてはならないわ」
ヒルダの当初の作戦案は、先ずラインハルトに対し、皇帝病状悪化の報を聞いているにも関わらずそれを無視したことをなじることだ。
直ちにオーディンに帰参してこなかったことは臣下としてあるまじきことだと。
その上で、リッテンハイム家がその罪をとりなしてやると言えばいい。
ラインハルトの性格は分かっている。そんな恩着せがましいことを嫌い、おそらく激昂するに違いない。
しかし、実際にオーディンに来てみれば、アムリッツァで大勝利した凱旋どころか絶対零度の空気に色を失うだろう。
帝国で不敬は何によっても贖えない罪なのだ。
ランハルトは軍事の天才でも貴族としての経験は浅く、そういうところが分かっていない。
そこで初めてリッテンハイム家のとりなしの重要さに気付く。そうすれば、恩を着せると同時にリッテンハイム側と密約を結ばせるのだ。たぶん、ブラウンシュバイク側にそんな大胆な発想も実行力もないだろう。ラインハルトを侮るばかりなのだから。仮に同じことを考えたとしても動きの早いこちらが勝つ。
それがヒルダの練り上げた策だった。
順序立てれば簡単そうに見えるが、ラインハルトの立場を少しずつ悪化させながら、しかも決定的に追い詰めてはならない。その匙加減が重要になる。
しかし今、思いがけず皇帝不予の方に接し、少しの修正が必要かもしれない。
「向こうの旗艦ブリュンヒルトに連絡を取って下さい」
今度こそオストマルクからの通信を受け、ラインハルトとキルヒアイスがブリュンヒルトのスクリーンに立つ。
画面上で一番驚いたのはキルヒアイスだったろう。通信画面には先の事件で面識のあるマリーンドルフ家令嬢が映っているのだから。予想したリッテンハイム侯などではなく。
お互い軽く会釈する。その二人の様子に、ヒルダを初めて見たラインハルトは不思議そうにするしかない。逆にヒルダの方はかつてラインハルトを見たことがある。シャフハウゼン子爵領を巡ってラインハルトが決闘代理人になった時のことだ。
ヒルダは決闘で輝く美しい青年、ラインハルトを見て興奮したものだ。淡い記憶である。
まだ人生の何たるかも知らず、ただ無邪気でいることが許された女学生の頃だった。
あれから時が流れたのだ。
「帝国軍ローエングラム元帥、驚かせて申し訳ありません。私はヒルデガルド・フォン・マリーンドルフと申します。リッテンハイム侯の命を受けここまで参りました。用向きを手短に言いましょう。元帥が正道に立ち返るかどうか見極めるためです」
「フロイライン、それで我が帝国軍に敵対行動とはずいぶんな挨拶ではないか。しかもこんな大艦隊で。おまけに今、正道とか面白い冗談を聞いたように思うのだが」
ラインハルトが敵対心も露わなのは当たり前だ。
しかしそれを撥ね退け、ヒルダが素早く話を進める。機先を制するために。
「冗談などではございません。元帥の行動は皇帝に忠義かどうか疑わしいものがあります。しかしながら元帥は帝国軍でまことに有能な方であり、余人をもって代えがたいとリッテンハイム侯も理解しておられます。そんな元帥を今後あたら不遇な目に遭わすのには忍びない、リッテンハイム侯はそうも考えておいでです。元帥の力量とこれまでの功を評価し、守るべきである、それが帝国の藩屏、リッテンハイム家の責務だと」
「それほど長々と冗談を言うとは、セリフを覚えるのも一苦労だったのではないか。フロイライン。褒めてくれるのは嬉しいがなぜ私がこれから不遇な目に遭うのだ? そのおかしな前提から議論を始めるのは無駄というものだ。その上、リッテンハイム侯がそれを哀れんで助けようなどと妄言が過ぎよう。かの御仁とはこれまで友誼もなく、理由の欠片も見つからない。妄言も行動が伴えば有害になる」
「では元帥、オーディンにて自分の目で確かめればよろしいでしょう。確かに議論をしている時間はありません。こちらと同様、皇帝陛下不予の報を聞いておられるはずです。直ちに艦隊を反転し、できうる限り早くオーディンへ戻るべきだと存じます。でなければ元帥は帝国に叛旗をひるがえしたと断じられ、取り返しのつかない事態になるのは自明です。こちらの艦隊が攻撃の準備をしたのは、嫌疑に対する用心のためです。そうせざるを得ない事態であるのはご理解下さい。わたくし個人は元帥が謀反を考えているとは思わず、望んでもいませんが、必ずしも皆がそう考えているとは限りません」
これにはさすがにラインハルトも考え込む。
ヒルダの言うことは理路整然としている。
皇帝に何かあれば、臣下は何をさておき参内しなくてはならない。文字通り何をさておき、である。それが忠誠心ある臣下の何より大事なことなのだ。
その程度はラインハルトにも分かっている。
先の病状悪化の知らせに対して無視をした負い目があるのも、今指摘された通りだ。
まして今回の報は皇帝不予、つまり意識不明とはそれと比較しても重大過ぎる。
帝国は石ころ一つでさえ全て皇帝のものである。まして帝国軍は皇帝の軍隊であり、皇帝の私物なのだ。帝国元帥といっても皇帝の道具に過ぎない。
皇帝の意識が無いということは、すなわち何も意思決定できる状態ではないという意味になる。もちろんそんな時に軍を動かすのは論外だ。
それに逆らえば、たとえ帝国の益になることが分かり切った軍事行動だろうが関係なく、当然のように元帥号剥奪の上、帝国軍を放逐されるであろう。いや、謀反とまで言われれば逆臣として討伐の対象になる。
通信を切った後、ラインハルトは一時間だけ迷う。
「しかしいかにも悪いタイミングだ。こんな要塞攻略戦の最中に。イゼルローン要塞はあともう一歩で陥ちる。もう一歩なのだ。それを諦めるのか。まるでアスターテの時と同じではないか」
その友キルヒアイスも気持ちは同じだ。あまりに残念である。しかしもう一つのことを考えてしまった。
「どうも釈然としません。リッテンハイム家の行動は何か恣意的なものを感じます」
キルヒアイスはヒルダの人となりをわずかにでも知る以上、引っ掛かるものがある。
あの頭がよく、公明正大で正義感のある少女がどうしてリッテンハイム家に肩入れしているのだろう。
だが、ラインハルトにもキルヒアイスにも一つの事実がのしかかる。
それが存在する以上、決断せざるを得ない。
「ですがラインハルト様、申し上げます。我々だけのことであれば、何があってもよろしいのですが」
「そうだキルヒアイス。お前の言う通りだ…… 姉上に何かあれば、取り返しがつかない」
軍事上だけのことなら、ラインハルトやキルヒアイスにはどうとでもできる。今の窮地を脱し、たとえ謀反を疑われ討伐を受けても返り討ちにする。
だが今、キルヒアイスが言ったのはもちろんオーディンにいるアンネローゼのことだ。
それだけは絶対に守らねばならない。
ラインハルトらが逆臣の疑いをかけられたらアンネローゼまで咎を負う危険性がある。
そして宮廷にいるアンネローゼは今現在身を守るすべが無いのだ。
アンネローゼは例外的に周囲からあまり恨まれてはいない。皇帝の一番の寵姫でありながら、穏やかで控えめな態度を変えないからだ。しかしそれも比較的、ということでしかない。全く恨まれていないという保証はなく、かつてのベーネミュンデ侯夫人のように害そうという輩がいないとは言い切れない。
しかもアンネローゼをこれまで守ってきた絶対の盾である皇帝自身が今や意識が無いとは。
このまま急死すれば、どんな変事が勃発しないとも限らない。オーディンに戻り、変事からアンネローゼを守れるのはラインハルトらだけだ。
「仕方がないか、キルヒアイス」
「要塞攻略など後でも可能でしょう。ラインハルト様の戦術の引き出しはもう尽きましたか」
「こいつめ、尽きるものか。人が作った要塞、人が陥とせぬはずがあるまい。ましてやこの俺が」
ラインハルトの覇気がこれで無くなるわけではない。わずか回り道するだけのことだ。
「よし、撤退する。全艦隊にそう伝えよ。先ずは艦載機隊の収容と救助を速やかに行え」
ヒルダの賭けはこうして成功した。
ラインハルトへ多少の貸しができたのだ。
次回予告 第七十三話 癒されぬ傷
同盟軍は……