サビーネを乗せてレンテンベルク要塞を脱出した艦は帝国軍本部を目指したのではない。
そこでさえ危険なのである。本当ならリッテンハイム家の味方であるラインハルト元帥府に赴くべきなのだが、もうラインハルトは出立して作戦行動に入っており、正確な位置がつかめない。
現状、最も安全であると思われる場所を目指した。
それは帝国と距離をおく独立勢力、フェザーンだ。もはやそこしかない。
今、フェザーンは帝国の内乱が勃発しても不気味な沈黙を守っている。
レンテンベルク要塞に元からいた兵士たちをを途中で降ろすと、サビーネとほんのわずかな従者たちはフェザーンへ向けて進んだ。
それを予期した者がいる。
リッテンハイム侯の艦隊が進路を塞がれ、オーディンへ戻って来れなくなったことを知ったヒルダは、もはや艦隊戦の帰趨を負けと予想している。ブラウンシュバイク側の艦隊には質でも量でも勝てまい。
「どんなことをしてもリッテンハイム侯をお止めすればよかった。私が悪かったのだわ」
悔やんでばかりいても仕方がなく、次のことを考えるべきだ。
むろんそれはヒルダの進退のことではない。ヒルダにとってリッテンハイム家を見捨てて寝返るという選択肢は考えもしていない。
そうではなく、考えるべきは戦いで敗れたリッテンハイム家の今後である。
おそらくフェザーンしかリッテンハイム家の行くところは無い、そう思った。
消去法で他のところでは有り得ない。
戦いになったのならそれを見越し、ヒルダもまたオーディンから出ることを画策する。もうオーディンにいるべき理由はない。完全にブラウンシュバイク派閥の天下になるオーディンに留まるのは危険だ。
そして同時に二人の者もまた同時に脱出させ、守る。その一人は父フランツ伯であり、それはもちろんのことだ。
もう一人はラインハルトの姉アンネローゼだ。
ブラウンシュバイク公は前皇帝の寵姫など疎んじ、何をするか分からない。平民に落とすならまだしも処刑する可能性だってある。ヒルダはそこに同情せざるを得ない。
しかし、もっと深刻なのは戦術に利用されてしまうことだ。
ラインハルトがブラウンシュバイクの艦隊と戦うことになれば、むろんアンネローゼは捕らえられて材料にされてしまう。いくらなんでもそこまで考え付かないわけがない。
そして現実的にアンネローゼを人質に取られでもしたら、おそらくラインハルトは戦う前から白旗を上げるだろう。アンネローゼこそラインハルトにとって何にも代えがたいものであり、敗戦さえ呑むに違いない。
もちろん、その際ブラウンシュバイクは将来自分の死刑執行書にサインしたことになるのは明らかだが…… しかしいったんラインハルトは屈辱に甘んじることだろう。
ヒルダとしてはアンネローゼを何とか説得し、オーディンを共に脱出し、フェザーンに同行させることが必要になる。
ヒルダはアンネローゼと直接の面識はないが、ラインハルトと密約を交わしていることを匂わせれば訪問を断られることはなかった。
だがしかし、オーディン脱出の説得は予想外に難しかったのだ。
「アンネローゼ様、オーディンにいるのは危険です。わたくしと是非ご同行下さい。切にお願いいたします」
「ヒルデガルト様、お気遣い本当にありがとうございます。ですが、わたくしは弟やジークの足手まといになりたくはありません」
アンネローゼは動かない。
なぜならもう半分世捨て人であり、命をつなぐことを考えていない。皇帝の死去からもうこんな感じである。
仮にブラウンシュバイクの手の者に捕らえられる事態になれば自害すると決めているらしい。その覚悟はヒルダにも分かった。
しかしそれでは解決とは程遠いのだ。
もしアンネローゼが自害すれば、ラインハルトはすぐさまブラウンシュバイクを地獄行きの特急に乗せるだろう。
それはヒルダにとって利益になるといえばそうである。勝利は余計確固たるものになる。
しかし、ヒルダとしては決して望んだ結末ではない。もしもアンネローゼが失われたら、ラインハルトの鋭気はどこに向かうというのだろう。それは銀河帝国にもラインハルト自身にも計り知れない深い傷となる。
なんとかしなくてはならないのだが……
そんなヒルダに接近してきた者がいた。
かつてお互いに火花を散らすほど牽制し合った仲の者が。
「ヒルデガルト様、ご機嫌うるわしゅう。またお会いできましたわね。意外に早くに」
エルフリーデ・フォン・コールラウシュだった。
ヒルダは驚くしかない。
亡きリヒテンラーデ侯の懐刀エルフリーデ、無憂宮での事件の後は行方不明のはずだ。それがなぜか今自分の目の前に出てきた。昨日会ったばかりのような気易い声で。
しかもヒルダは現在の居場所を秘密にしている。ブラウンシュバイク側から襲撃されないために。
しかしエルフリーデがそれを見通していたということは、情報力も分析力もあるということだ。やはり侮れない相手であることは確かなようだ。
「驚きましたわ。エルフリーデ様。それで御用向きは?」
ヒルダとしても思わず口調が厳しくなるのは仕方がない。意図が不明なのだから。
「警戒しなくともよろしくてよ。ちょっとしたお願いがありますの。おそらくフェザーンへ行こうというのでしょう。ならばこちらも同乗してよろしいかしら?」
エルフリーデはヒルダがフェザーンへ向け脱出するのを見通している。
しかも、それだけではない。
「エルフリーデ様、よくお分かりですわね。しかし申し訳ないことですが、いつ出発とは申せませんわ」
「ふふ、ヒルデガルト様も回りくどいことをおっしゃる。今の懸念はアンネローゼ様のことでしょう。その方をお連れしなくては、どうにもならないのは分かりますわ。しかし動かすのは難儀でしょうね。直接訴えても、なかなか」
「正直また驚きました。そこまでお分かりとは」
エルフリーデはずうずうしいお願いをしてきたと思えば、今のヒルダの困難も見通している。おそらく同じ思考経路を辿り、アンネローゼの安全こそ鍵になると理解しているのだ。
そして何と解決策を示唆してきたではないか!
もう作り上げた案があるらしい。
「ヒルデガルト様、それなら方法があると思いますわ。アンネローゼ様は優しいお方。周りの人に危害が及ぶとなると、たぶん動くでしょうね」
「…… エルフリーデ様、そのお考えに興味がありますわ」
こうしてヒルダとエルフリーデの共同作戦が始まった。
実はこのことだけではない。
以後、二人は長きに渡って協調していくことになった。
天性の戦略家ということではヒルダがずっと上だろう。頭の回転の速さもそうである。ただし、実戦で鍛えられた凄みはエルフリーデに分がある。最高の策略家リヒテンラーデ侯に長く師事していたのは伊達ではない。
二人は陰に陽に役割を果たし、銀河の歴史を変えていくことになる。
これはその始まりであった。
アンネローゼに知古は少ないが、一番交友関係があるのはヴェストパーレ男爵夫人であった。
そこを利用しようというのがエルフリーデの考えだ。
偶然にも都合のよいことがあった。
ヴェストパーレ男爵夫人ならば、ヒルダには知己である。かつてヴェストパーレ男爵夫人はヒルダのいた女学校で芸術科目の講師をしていたからだ。
さっそくヒルダが訪問する。
「突然訪問して失礼します。先生、緊急にお願いしたいことがあって参りました」
「何でしょうヒルダ。卒業した今頃補習をしたくなったのですか。あなたは試験はとびっきりですが、指先を使う実技はさっぱりですからね。それでやりたいのは音楽ですか、それとも刺繍? まさか料理ではないでしょう?」
これは単なる冗談だ。この情勢下でそんなはずはない。
ヴェストパーレ男爵夫人はユーモアがあり、快活な婦人だった。
「先生、どれも違います。どうせわたくしは習っても上手にはなりません。料理なんか何年やっても。そうではなくお願いしたいのは、グリューネワルト伯爵夫人アンネローゼ様のことです。この方を守るため、オーディンを出るよう一緒に説得して欲しいのです」
先ずはヴェストパーレ男爵夫人を引き込むのだ。お互いを思いやる心を利用する。
その後アンネローゼを説得すればいい。この順番が逆ではうまくいかないだろう。ヴェストパーレ男爵夫人もアンネローゼも自分が犠牲になる方を選んでしまうだろうから。
策を巡らし、多少悪辣であっても、今はそうしなければ誰もが不幸になる。
協力を約束してくれたヴェストパーレ男爵夫人を連れて、今度はエルフリーデがアンネローゼの元に赴く。
「エルフリーデ・フォン・コールラウシュと申します。アンネローゼ様、早くフェザーンへ逃げないと危険です」
「わたくしのためにそう言って頂けるのはありがたいのですが、申し訳ありません」
「ではアンネローゼ様、これだけは申します。我が叔父リヒテンラーデ侯は誰もが知る忠義の者。そのため皇帝から常々本心を聞いていました。皇帝は他の者は知らず、ただ一人アンネローゼ様だけは末永く平穏な人生を送ってほしいとおっしゃっておられたそうです。自分の死後も決して歩みを止めず、凍りついたような人生ではなく、幸せになって欲しいと」
「まあ、皇帝陛下が、そんなことを……」
これはエルフリーデの真っ赤な嘘だ。
しかし、聞いていないだけで事実と違うかどうかはまた別のことだ。
「アンネローゼ、フェザーンへ逃げましょう。私も一緒に行きますから」
横からヴェストパーレ男爵夫人が口添えする。こちらもアンネローゼを救うために熱が入る。
ここぞとばかりにエルフリーデは畳みかけた。
「アンネローゼ様、動かなければ男爵夫人も巻き添えになってどんなことになるか。おそらくアンネローゼ様に近しい者は皆酷いことになるでしょう。ここままでは全員が」
エルフリーデがそう言うのに合わせて、ヴェストパーレ男爵夫人もコクコクと首を頷かせる。ヴェストパーレ男爵夫人は自分の危険を訴える演技をしている。
「アンネローゼ、考えるのは後にして。そこのかわいい侍女さんでさえ、このままではどんな目に遭うかもしれませんよ」
ヴェストパーレ男爵夫人はたまたまそこに飲み物を運んで来た侍女を指さした。
確か、アンネローゼに付いているマリーカ・フォン・フォイエルバッハという名の侍女だ。マリーカは突然視線を集め、目を丸くして、盆を両腕で胸に抱いたまま固まる。まだまだ無邪気な子供だ。
「分かりました。一緒にフェザーンへ参ります」
こうしてヒルダとエルフリーデの作戦は無事成功した。
アンネローゼと侍女たち、ヴェストパーレ男爵夫人を連れ、エルフリーデ、ヒルダ、フランツ伯はフェザーンへと旅立つ。
次回予告 第八十二話 フェザーンへ
ついにあの者がフェザーンへ還る