一方、オーディンでの工作も進んでいた。
貴族の社交界でエルフリーデはほぼ無名だとはいえ、それでも顔を知られ過ぎている。
そこで、工作活動をするのはドミニク・サン・ピエールだ。
フェザーン人と違ってオーディンにも明るい。工作活動にはうってつけだ。
先ずはオーディンにとある噂を流す。
「ローエングラム元帥はあくまでブラウンシュバイク家と対決するつもりだ。その専横を赦さず、妥協をせず戦いぬく。もちろん心優しい元帥はオーディンを破壊したくない。だがそれでも穏便に済まない場合、オーディンを戦場にせざるを得ない。早く脱出しないと火の海に飲まれることになる」
これで人心の不安を煽るのだ。予想通りの混乱がいたるところに見られた。
しかしブラウンシュバイクの側では対抗してアンスバッハもまた人心の掌握に力を注いでいる。
先の噂が自然に口に昇ったのか、何者かが策謀として広めているのか、確証はない。
だがここで反論しておかなくては統制がとれなくなる。
「銀河帝国は五百年続いてきた。その間、いろいろな政変があった。しかし帝都オーディンは保たれ、王朝は途切れることなく続いている。この事実と伝統を思い出せ。今回のことも何ほどでもない。逆賊はいずれ討伐され、皇帝のおわすオーディンは再び安寧を取り戻す。いっときの混乱など過去何度もあったことではないか。そのとき右往左往した者は皆後で恥をかいた。その例にならってはならない」
さすがに上手い火消しだ。
もう一つ、アンスバッハは手立てを打つ。オフレッサー以下の装甲擲弾兵をノイエ・サンスーシーに集合させ、そこを臨時の拠点とさせた。
そして皇帝の閲兵を演出したのである。皇帝直々の声による出動という形を取り、異例の市街地巡回をさせた。足並みを揃え、街を闊歩する装甲擲弾兵の勇姿は人心を落ち着かせるのにこれ以上ない効果があった。
ドミニクとアンスバッハはお互い、先ずは宣伝戦で火花を散らす。
ただしそれは単なる地ならしであってドミニクの主な任務ではない。
次にドミニクはエルフリーデの指示に従ってとある貴族家に接近する。
狙った貴族はあまり目立たないが古くからブラウンシュバイク派閥の貴族として知られたヒルデスハイム伯爵だった。
巧みに焚きつけていく。
「オーディンはもうお終いだ。先に流れた噂はオーディンの破滅を貴族のせいにしたいローエングラム元帥の策略であり、責任をブラウンシュバイク派閥貴族の罪へすり替える悪辣なものだ。そしてもうオーディンへ空爆を行うことを決めている。ローエングラム元帥はオーディンに巣くう貴族社会そのものを憎んでいるからだ。空爆によって死の星にするのも厭わないだろう」
そして、ちょうどうまい具合にヒルデスハイム家に高速の宇宙船が手に入る。
商人が最後の一台だといって売り込んできたのだ。それはいかにもオーディンを脱出して下さいと言わんばかりのものだが、本人には気が付かない。
少し考えれば有り得ないことだと分かったろう。もちろん、ドミニクの差し金である。
ヒルデスハイム伯はさっそくオーディンを出ることを考えるが、問題は行き先だ。領地に行っても安全とは到底いえない。
そこで、ドミニクが格好の逃げ場所を吹き込んだ。
「安全な場所がまだ残っている。ついこの前、シャイド男爵がガイエスブルク要塞に逃げ込んだ。今の帝国軍が持つ最大の要塞、難攻不落のガイエスブルク、そこだけは大丈夫、いかに戦上手のローエングラム元帥でも手が届かない」
これだけお膳立てすればもう充分である。思い通り、ヒルデスハイム伯爵は家財をまとめて逃げ出す算段をつける。
ここでとどめだ。
「ローエングラム元帥は物資の関係でオーディン進軍ができないでいる。しかし、それもまもなく解決がつく。フェザーンが密かに物資の融通を決めたからだ。日を置かずして進発し、オーディンを艦隊で囲むだろう」
これは隠しようもない事実である。
ヒルデスハイム伯爵は今のうちだと慌てて出立し、そしてシャイド男爵同様ガイエスブルクに辿り着くことができた。
頃合いを見計らってまたドミニクはオーディンで噂を流す。どこにどういう話を流せば瞬く間に広まるか、そして火元を分からないようにできるかはエルフリーデがよく知っている。だいたいにしてそれは亡きリヒテンラーデ侯が確立したものだ。
「ブラウンシュバイク公はもうローエングラム元帥と手を打っている。もう強硬派筆頭のフレーゲル男爵はいない。ブラウンシュバイク公はほとんどの貴族をオーディンごとローエングラム元帥に売り渡す密約を交わした。代わりに自分だけは逃げられる手筈を整えている。先に腹心ヒルデスハイム伯爵が出奔したのは、実は露払いのために出したのだ」
オーディンの貴族社会は一気に疑心暗鬼に陥った。
各自がバラバラに生き残りを考え、もはや機能不全だ。
その噂と、貴族たちの動揺を知ったブラウンシュバイク公はアンスバッハに問う。
「アンスバッハ、もうこうなれば噂通りに配下の者を孺子に売り渡し、なんとか折り合いをつけられんか」
とうてい派閥の長とは思われない。責任感も矜持も何もない発言だ。
その弱気な言葉にアンスバッハも驚き呆れる。
「閣下、何ということをおっしゃいますか! 今、帝国全ての臣民を背負って立っているのですぞ。政治を動かし、多くの人間の運命を変えられるお立場なのです。上に立つ者の矜持をお持ちなされ。皆が動揺しているのならば尚更どっしり構え、安心させてやらねばなりません」
「儂の命がかかっておる時に下々のことなど考えておられるか!」
「公は長く派閥の長にありました。少なくともその責務があるではありませんか。忠義の者も未だ多くおります」
「責務か。どうでもいいわ! そんなことを考えていてはリッテンハイムの二の舞だ。アンスバッハ、儂はそんな末路はごめんだ」
危機だからこそその性根が露わになるのだ。
ブラウンシュバイク公は責務を最後まで放棄しなかったリッテンハイム侯とは違う。派閥というものは自分へ奉仕するために存在するものと思っている。アンスバッハはそれについての問答をすることは無駄だと理解した。
「しかし、その噂こそ出所が怪しいものです。自然に出たものではなくおそらく向こうの策略でしょう。ラングめに命じ、調査を強化いたします」
今さらどうしようもないかもしれないと思いながらもアンスバッハはするべきことをするしかない。
だがブラウンシュバイク公はもはやそれを聞いてもいなかった。
「そうだ、アマーリエや娘を取引材料にはできんか。ローエングラム元帥と婚姻という手もあるな……」
尚も一人で非現実的なことを呟いている。
その後、ブラウンシュバイク公はガイエスブルクに通信することを思い立つ。ヒルデスハイム伯爵の真意を問いただすためだ。
「ヒルデスハイム、その方は儂を裏切ってオーディンを脱出したのか。どうなんだ」
「あ、いえ、公爵様、決してそのようなことは」
ブラウンシュバイクの重い声に縮み上がる。ヒルデスハイムは苦しい立場に立たされた。根が殊の外小心なヒルデスハイムは派閥の首領ブラウンシュバイク公の怒気に委縮するばかりだ。実際自分だけが助かるためにした行動なので咄嗟に言い訳も思いつかない。
「行動が示しておるわ。自分だけオーディンを逃げ出したではないか。世間では露払いだの申しておるが、そうさせた覚えはない。まさか儂の物覚えが悪くて、儂だけが忘れたのか」
ヒルデスハイムは目を躍らせながら必死に言い逃れの言葉を探す。
「いえ、そんな、滅相もない。実は少し相談が遅れただけで、このガイエスブルク要塞は難攻不落、その詳細を確認すべく先に来た次第で」
途中からヒルデスハイムは自分の思い付きの言葉に酔い、いかにも素晴らしいアイデアを持っていたかのように力説する。
「ですので、露払いというのもまんざら嘘ではありません。全て公爵様のためにしたことです」
「本当か。そんな忠誠心のあるお前だったか」
「そんな! そういえば先にシャイド男爵がガイエスブルクに来たそうです。そちらにも聞いてみてはいかがでしょう」
次に通信画面にシャイド男爵が引きずり出される。
余計なことを言ってくれたとヒルデスハイム伯爵を恨んだが、それもブラウンシュバイクの顔を見るまでだ。シャイド男爵は派閥の長という以上にブラウンシュバイク公は叔父である。その詰問の声に頭が真っ白になってしまう。
「シャイド、お前はなぜそこにいる。預けてあったヴェスターラントはどうした」
シャイド男爵はブラウンシュバイク領惑星の一つを任されていながら氾濫によって失った負い目がある。その失態を隠す理屈を捻り出さなければならない。
「そ、それは、貧乏惑星一つよりも、大事なことがあると思いまして、ここガイエスブルクのことが頭にあったもので、それでなんとか」
「意味が分からん。何を言っているのだシャイド」
「ヒルデスハイム伯と同じです! ガ、ガイエスブルクは強い要塞なんです。艦隊に追われてもあっさり跳ねのけました!」
シャイド男爵は若く、ヒルデスハイム伯ほど言葉がすらすら出てこない。しかし、言いたいことはヒルデスハイムと同じ、ガイエスブルクの安全さの確認である。
つまりブラウンシュバイク公の逃げ込む経路の確保ということだ。
この言葉にブラウンシュバイクは納得し、安全な場所があったことに内心喜んだ。
「なるほど、そうだったのか。ではシャイド、ヒルデスハイム、ガイエスブルクをしっかり確保しておけ」
エルフリーデの用意した罠は周到である。それをヒルダとドミニク、三重奏で演奏し切った。
今回ブラウンシュバイク公に幾重にも仕掛け、何が虚偽で何が真実なのか分からないようにしている。亡きリヒテンラーデ侯ならばこうした罠の糸をもっと美しく織り上げただろうか。
エルフリーデはこうした謀略を考える際、いつもリヒテンラーデ侯のことを思う。
いつの日かそんなこともなくなり、自前で全て完結することになるのだろうか。
それがいいことなのか。いや、そうではない。そうなるべき必要はない。
エルフリーデはこう考える。リヒテンラーデはエルフリーデの内に住み、今も帝国のため力を尽くしている。帝国を支えたリヒテンラーデは自分という分身を残した。限りなく支え続けるために。
エルフリーデはそんな甘美な妄想に身を委ねる。帝国のために動くことは決して重荷ではなく、むしろリヒテンラーデの育んできた唯一無二の申し子として、自分の誇りなのだ。
誰よりもそれを誇ってやろうではないか。
「大叔父様、願いは私が引き継ぎました。見ていて下さいませ」
また、それが今のところエルフリーデの幸せでもあったのだ。いつの日か、他のことが心を占めるまで。
次回予告 第九十三話 発端
流血のオーディン