第一話
irregular─。
それは異例、異常、不規則という意味を表す言葉。
そう有りはしない事態や事象を指すのに用いられる。
辞書に乗っているありふれた単語の一つ。
俺─千堂
俺はファンタジー系小説的な言葉を用いると所謂、"転生者"と呼ばれる人間だ。神様にはあったこともなく、何か優遇されて生まれ変わった訳ではない。
ただ、今の生きている人生より以前の記憶。
前世から引き継がれている知識が子供の頃から詰まっていた。それのお陰で、俺は今、自分が生きている世界について、概ね理解している。
俺が生まれ変わって生きている世界は、俺が生きていた前世にて小説として語られていた物語の世界。
"ムシウタ"という作品の中。
"虫"という夢を食らう不可思議な存在を身に宿し、超常の力を振るう虫憑きと呼ばれる存在する普通とはかけ離れた異常な世界。
そんな場所に俺は再び生まれ落ちた。生まれてきてしまった。
最初から気付いた訳ではない。
此処が前世で読んだ事のある"ムシウタ"の世界だと気付いたのはごく最近の事だ。12年間生きてきて、漸く分かった。
気付いた理由は怪我をして地元の病院に通院した事が発端。自分でも何故気付かなかったのかと愚かしく思う。
俺の暮らしている街は"赤牧市"という地方都市。ムシウタの世界において舞台となった街であった。
その街にある赤牧市中央病院に受診しに行った時。
俺は自分が本当に物語と変わらない世界に生まれたのだと実感した。
病院で受診を待っていた際。一人の少女とふとした切っ掛けで顔を合わせた瞬間。俺はムシウタの世界に本当の意味で巻き込まれたのだ。
俺が病院で出会った少女の名は─花城 摩理。
ムシウタの世界で重要な鍵となる女の子だ。
"始まりの三匹"と呼ばれる原虫の一体、"アリア・ヴァレイ"の手によって同化型と云う虫憑きになる定めを持つ少女。
彼女と出会ったのは偶々、全くの偶然だった。
病院内の広い待合室で自分の順番を待っていた時だ。
彼女の主治医と思われる医者に声を掛けられ、少しの間、彼女の相手役を頼まれたのが切っ掛け。
病院生活が長く、病気のせいもあってか、悲観志向の傾向がある彼女の相手は中々に骨が折れたが、共通的趣味を持っていたためにある程度打ち解けられた。
小説原作の彼女は闘病生活の長さから身体を動かせない故に、俺と同じ読書家だった。
物語で語られていた様に愛読書は『魔法の薬』。まだ虫に憑かれてはおらず、彼女を虫憑きにした"先生"と云われる、"始まりの三匹"と呼ばれる一体、"アリア・ヴァレイ"を宿した人間は側にいない。
だが、家柄や容姿、病気の症状を見るにまず間違いなく彼女は花城 摩理だ。
モルフォチョウの虫憑きとなり、他の虫憑き達から"ハンター"と呼ばれ、恐怖された最強の存在。
今はまだ、違うが間違いなく、この世界が小説通りの流れで時が経っていけば、そうなるだろう。
その流れを断ち切る力は俺にはない。
例え、物語の行く末を知識として知っていようと、俺に何も出来ない。
傍らで、側で、見守る事くらいしかない。
──だから。
今日も俺は彼女の病室に本を片手に赴いた。
「こんにちは。摩理。御加減はどうだい?」
「こんにちは。裴晴。今日はいつもより良いわ」
虫憑きの運命を定められた少女と少女の未来と世界の行く末を知る少年は。
小さな白い病室で穏やかな日常を過ごしていく。
[0]
夢──。
それは人の希望や願望または欲望の形。
生きる目的そのものになるモノ。
その夢が自らの器から抑えきれず、大きくなった時。
何処からともなく現れ、夢を食らい、その夢の持ち主から様々なモノを奪っていく代わりに、超常の力をその所有者に与える昆虫に似た超常的存在「虫」
その虫に憑かれた人間は『虫憑き』と呼ばれ、その存在は公的には存在していないとされているが、その単語を知らない人間はいない。
噂の範疇を超えるものではないが、近年増加する目撃証言や異常現象によって、虫憑きは恐怖の対象と見なされていた。
摩理と出会い、もう一年。
13歳となり、中学に上がった裴晴はクラスメイト達が話す噂の殆どが真実である事を知りつつ、第三者の目線から、そろそろ摩理に運命の時が近寄ってきているのを実感しながら、彼女の居る病室を訪問して、いつも通りに話し相手となっていた。
「ねぇ。裴晴は信じてるの? その噂」
「虫憑きのかい? 眉唾物にしては目撃証言が多すぎるのが気になるけど……やっぱり信憑性は薄いかな」
この日は少し体調が優れないらしく、掛け布団を掛けられ、ベッドに身体を横たえながら話していた。
内容は、最近、都市伝説的に騒がれ始めている夢を食らう"虫"とそれに取り付かれ、超常の力を振るうと云われる虫憑きの話題であった。病院内でもナース辺りがそういう噂を話しているらしく、摩理も興味をそそられたらしい。
「まぁ、ありきたりな都市伝説の類いだよ。寓話や童話のようなものさ。君の好きな"魔法の薬"の本みたいなもんだよ」
「バカにしてる? あれ、私の大好きな本なんだけど」
ぷくっと頬を脹らませて、非難する視線を向けてくる摩理。裴晴は苦笑を浮かべて弁解する。
「別に摩理の本の趣味にケチはつけちゃいないよ。噂の内容は空想を語られている本みたいに余りにも荒唐無稽だって話だよ。現実に"魔法の薬"で出てくるような"天使の薬"も"悪魔の薬"もないだろ?」
本の中の世界は所詮空想の産物。
実際にこの世にあるわけではない。人間の想像力が産み出した、"夢"のようなものだ。
「あったら良いな、とは思うけどね」
「"天使の薬"が? それとも"悪魔の薬"?」
「何かを代償にしないと願いが叶わない薬なんて、俺はいらない」
多大な代価を払ってまで求めたくない。
人間とは、もっと欲深い生き物だ。代価等払わずに踏み倒し、欲するモノを得ようとする。
裴晴もその例に漏れない。人間らしい欲深い望みを裴晴は摩理に答える。
「何の代償もなく、全ての願いが叶う"神様の薬"が欲しいね。 天使の薬や悪魔の薬は少し現実の厳しさ感があって、夢がないよ」
「貴方が夢見勝ちなだけよ」
「ほぅ……俺が夢見勝ちなら君はどうなんだ? なぁ、"パトリシア"?」
意地悪い笑みを浮かべて裴晴が摩理に問いかける。
パトリシアと呼ばれた摩理は眉を潜めて、フンと機嫌を悪くしたようにそっぽを向いた。
「一年前の話を蒸し返さないで。恥ずかしい」
「俺にそう名乗ったのは君だろ? 」
「……相変わらず意地が悪いわね」
皮肉を返す摩理に肩を竦め、裴晴は此処等で今日は退散しようと思い、不貞腐れる彼女に言う。
「そろそろ、おいとまするよ。今日はあんまり体調が優れないみたいだし」
「そんな事はないわよ。何時もよりは調子は良いの」
「嘘つくなよ。一年も顔を合わせてたら、顔色だけで概ねの察しはつくよ」
色白の肌が更に白く見える。
一年の付き合いで摩理の体調の良し悪しを裴晴は手にとる様に見て解るようになっていた。
「少し眠れ。また明日来るから」
「……分かったわ。じゃあ、次いでに本棚にある"あの本"を取ってくれる?」
「好きだね。君も」
少し呆れ交じりに裴晴は座っていたパイプ椅子から立ち上がった。広い簡素な病室の中で一ヶ所、部屋の中で唯一生活感を感じさせる沢山の本が納められた本棚へと近寄り、棚から一冊の本─"まほうの薬"を手に取って、摩理の枕の近くへと置いてやる。
「じゃあな。摩理。また明日来るよ」
「ええ。また明日」
別れの挨拶を交わし合い、裴晴は静かに病室から出ていく。今日も彼女が生きていてくれている事に細やかながら安堵する。
扉の近くの壁に背を凭れ、ふぅと一息吐くと、裴晴は鋭い目付きで視線を横に向けて、言葉を放つ。
「趣味が悪いぞ。聞き耳を立てるのは。入ってくれば、良かったじゃないか"先生"」
見詰めた先に居るのは白衣を着た青年。
責める様な口調の裴晴に苦笑いを浮かべながら青年は反論する。
「二人きりの時間にお邪魔するのはどうもね」
「お心遣いは痛み要りますが、不要です」
青年の言い訳を裴晴は一蹴した。
目の前に現れたこの男に、そんな心遣いをされても余計な世話だと思った。
気を使うならば、もっと別の事に使うべきだと。
「今日は余り体調が良くないみたいだ。医者の卵なら、患者の容体に気を配ったらどうですか?」
「耳が痛いね」
ははは、と乾いた笑みを溢しながら言う青年に裴晴は眉を潜め、非難する視線を浴びせる。
だが、それも僅かな間。裴晴は青年と話す事はこれ以上の益はないと思い、彼の脇を通って病院の廊下を移動する。
自分の横を通りすぎていく裴晴の背に、青年は声を掛けた。
「僕は何か嫌われる様な事をしたかな?」
青年からの唐突な問い掛け。
裴晴はそれを聞いて、ピタリと足を止め、振り返らずに返事をする。
「何故、そんな事を聞くんですか?」
「ちょっとした疑問だよ。最初はガールフレンドに近付く男に対する牽制みたいなものだと思っていたけど、態度を見るたびに違和感があってね。君のそれは嫉妬心とかそういう感情じゃない」
子供特有の独占欲とか、そういうチープな感情ではない。まるで、親鳥がまだ小さい雛鳥を守っているかのように、外敵を排除しようとする敵愾心の様なものを青年は裴晴から感じとっていた。
「君は何で僕を敵視しているのかな?」
「……」
青年の疑問に裴晴は口を開かずにただ見つめ返す。
裴晴が青年に対してそういう態度をするのは無論、理由がある。
しかし、それは摩理に、青年に、語れる事ではない。
未来を知るが故に。
青年……始まりの三匹─アリア・ヴァレイ。
原虫と呼ばれる虫憑きを産み出す忌まわしき存在を宿す彼に話せるものではない。
「別に敵視なんてしてませんよ。俺は摩理に関わる医者とかナースとかそういった人達にはいつも通りの態度です」
「何故だい?」
「気休めしか言わないで、
これは事実。
青年は特別敵視しているが、それと同じくらい裴晴はこの病院の医者を信用していなかった。
彼ら、誰もが、病院の後援者の親族である摩理の機嫌を損ねないように接していて、真に彼女を心配している人間は誰もいない。
「一年間、顔を付き合わせているから、解る。彼女の病状、余り良くないんですよね?」
裴晴の指摘に青年の表情が曇る。
その反応だけで裴晴は自分の目は確かだった事を認識した。
確実に摩理の命は蝕まれている。緩やかに静かに"死"へと近づいていっている。
「後どれだけ、俺は彼女に会えますか。"先生"?」
「……」
裴晴の問いに今度は青年が口をつぐむ。
答えが返ってくるとは裴晴も期待はしていない。
医者の卵とはいえ、医者には守秘義務がある。更に家族でもない赤の他人に患者の病状を教える義理はない。
「下らない質問する暇があるなら、俺がまた明日、彼女と会えるように頑張って下さいよ」
何も答えない青年に厳しい言葉を浴びせかけ。
裴晴は歩みを再開し、病院の廊下を進みだした。
(恐らく……もう、奴は摩理の"夢"を喰いやがったな)
階段を下り、病院の正面玄関に向かいながら推測する。
彼女から生まれる筈の銀色のモルフォチョウは見ていないので、確証はないが、青年が現れだした時期を考えるに、もう摩理は虫憑きになっているのではないかと裴晴は考えていた。
(もう……始まるか)
摩理と出会った時から定められていた。
来るべき時が来たのだ。来てほしくはないと望んでいたその時が。
厳密にはもう既に物語の序章は此処とは違う場所でひっそりと幕を上げているが、裴晴の関わる物語は今、幕を開けた。
止まらないし、止められない。
"力"のない無力な自分には何も出来ることはない。
あるとすれば、摩理の終わりの時まで側に居る事くらいだ。
それは誰にも命ぜられた訳ではない。
花城 摩理という少女と関わった千堂 裴晴が己自身に架けた責務であった。
始まるのは存在しえない
生きたい、と願った少女とその側で救いを願い続ける少年の。
最悪で、最低な、ボーイミーツガールストーリーである。