拙い文章でありますが、よろしくお願いします。
男は、全力で逃げていた。
馬を全力で走らせ、必死に逃げていた。
(くそっ……)
男の顔は恐怖で凍りつき、ただ「奴」から逃げるためだけに頭が働いていた。
撤退なんて生易しいものではない。北も南も、右か左かさえ分からぬまま出鱈目に走る、闇雲な逃走だ。
天候は雨。雨は森にいるおかげで当たる事はないが、如何せん森の中。元々暗いものがさらに暗く、見通しは決して良くない。
今、男は一人だった。
「奴」等が蔓延るここでは、決してあってはならない異常事態である。
だが、これを招いたのは全て男の非であった。
初めての壁外調査。「奴」と出くわした途端縄で縛られたかのように体が動かなくなり、ようやく動いた自分の体は、情けない事に上官命令を無視して敵前逃亡を選択していた。
その結果がこれだ。きっとこれは己への罰だ。
とにかく、ここから離脱を――――。
男が真っ白な頭の中で考えていた、その時である。
ずずん、と地響きがした。
少し間を置き、再び振動。
「――――!」
ただでさえ青かった男の顔が、すっかり血の気を失い病的なまでに白くなった。手綱を握る手に痛いほど力がこもる。
振動が、近づいてくる。
男は躍起になって、何度も馬に鞭を打った。男の頭の中を完全な恐怖が支配し、
先ほどまで思考を巡らせていた策も、
己の腕への自身も、
一兵士としての誇りも、
何もかもが粉々に砕け散る。
だが馬も、そろそろ限界であった。遠征で長時間走らされている上に、「奴」の襲撃である。休む間もなかった馬にこれ以上速度を上げろというのは無理というもの。
男とて、それを知っている。だが、鞭を振るわない訳にはいかないのだ。
――――もっと速く。――――もっと速く!
そうしなければ。
(奴に、殺され)
すぐ背後で、地響きがした。
震源は真後ろ。
馬が驚いて嘶き、前脚を高々と掲げて主人を振り落とした。
「あ、おい――――」
身軽になった馬は、男の命令を聞かぬまま何処かへと逃げてしまう。
ずん、と地響き。そのあまりの重さに巨木が震え、動物は逃げ、男の足が勝手に踊る。
背中に、熱を感じた。「奴」等の特性。体温は高温、歩けば重い地響きが鳴るがその実、巨大な割に物質の密度が小さくそれにより素早い動きを可能としている。
それはつまり。
背後に、「奴」がいる。
目の前が絶望に塗りつぶされながら実にゆっくりと、機械的な動きで男は背後を振り返る。
最初に見えたのは、二本の巨大な人間の足。
視線をそろそろと上にたどれば、人間と全く同じ腹、胸、首――――。
男の息遣いが荒くなり、唇がわなわなと震える。
脳は既に考える事を放棄していた。
そして――――赤子のように純粋な笑顔を浮かべながらも、口が耳元まで大きく裂けた大きな女性の顔。
「う、ぅあ、」
「奴」が、その大きな口をこれ見よがしに開ける。
まさに、移動する災い。
人類を捕食する、巨大な謎の生物。
人類の敵。
「うわああぁぁぁあああっ!!」
その生物の名を――――人々は「巨人」と呼ぶ。
そのいきものの生態はおろか、何処で生まれ、何処から来たのかさえ判明していない未知な生物である。
判明している事はごく僅か、巨人はおよそ百年前に突然姿を現し、次々と人類を捕食していったという事のみ。
生物の生態を調べるためには、まずサンプルとしてその生物を捕獲しなければいけない。
結論から言おう。
出来なかったのである。
巨大とは力だ。
人類の捕獲用具では全く歯が立たず、巨人はあっさりそれを安い布のように破いてしまったのだった。
結果、成す術もなく人類は絶滅の危機に追いやられ――――解決策を見出した。
高さ五十メートル、厚さ十メートルの堅牢な壁を築き、その内部に閉じこもる――――。
人々は自由を手放し、代わりに仮初めの安寧を得た。自らすすんで箱庭の住人になる事で、巨人の脅威からは逃れたのである。
――――そう、五年前のあの日までは。
壁は全部で三つ、外側から順に「ウォール・マリア」「ウォール・ローゼ」「ウォール・シーナ」と立ち並んでいる。
そして五年前の某日――――「ウォール・マリア」が、突如現れた超大型巨人及び鎧の巨人によって陥落した。
後に当然ながら領土奪還作戦が決行されたが、あれはとても作戦などと呼べるものではなかった。
作戦のために徴兵されたのは、命からがら地獄から逃げてきた「ウォール・マリア」の住人達。満足な訓練も行われず迎えた当日は、当然ながら作戦失敗。兵士の殆どは巨人に食い殺された。
領土奪還作戦の真の目的は、食糧難から住民を助けるための口減らしであった。
その事実に憤った男は、ならば俺が巨人を倒してみせると調査兵団へ志望・入団した。
物好きだ、と人々は言った。
ただ死に急いでいるだけだ、死亡率が最も高いあんな兵団へ入るなんて、正気の沙汰ではない――――。
実際そうだ、と巨人の手が迫るのをどこか客観的に見ながら男は思った。
領土奪還作戦に失敗し、あっさりと巨人に食われてしまった兵士たちへの嘲りの念もあったかもしれない。
それがどうだ。
自分は巨人に挑まず逃げ、ただここで死ぬというのか――――。
あまりの滑稽さにはは、と乾いた笑いが口から零れた。
巨人に摘みあげられ、まさに口の中に放り込まれようとしたその時、
男は一迅の、風を見た。
刹那、男を摘んでいた巨人の指が切り飛ばされた。
「――――!」
状況もつかめぬまま、唐突に巨人から解放された男の体は、重力に従って真下へと落下していく。目算で高さ十メートル弱。この高さから落ちれば、怪我だけでは済まないだろう。
だが男は、反応できなかった。
「――ッ、遅い!」
男のものではない、落ち着いたソプラノの声。
男の体が地面に触れようかという寸前、何者かが男の体を掬い上げた。
先のソプラノの声と今の衝撃で、男ははっと我に返る。
(誰だ?)
顔こそ見えないが、先の高い声で女性だと判断。
(援軍、か?)
女性兵士は彼は気がついたと分かったのか、突然何の前触れもなく男を空中で手放した。
「は?!」
体が再び落下する。
だが今回、男は冷静だった。一瞬驚いたものの。すぐさま近くの巨木に立体機動装置のアンカーを発射。
男は訓練兵時代、立体機動装置の扱いにおいて右に出るものはいなかった。なので、初めて実戦でこれを使ったにも関わらず、難なく木の上に飛び移れた。
体勢を整え、余裕ができると男は女性兵士の先ほどの行動を糾弾しようと口を開く。
「おい、いきなりぶん投げるのは危な――――」
言葉は不自然に途切れ、男は目を剥いた。
巨人が、膝をついている。
「……な……!」
慌てて巨人の首に目をやれば、奴等の弱点であるうなじが綺麗に削ぎ落とされていた。
速い。
十メートルをゆうに超えているであろう奴を、的確に一瞬で。とても人間業のものではない。
水蒸気を体中から噴出しながら倒れる巨体。
その背に、音も無く一つの人影が着地する。
「あ……」
何か、言わなければ。
礼でも謝罪でも糾弾でも何でもいいから。
だが男の口はいたずらに開閉するだけだ。
「無事か、新米兵士」
先ほどの、大人びた女性の声。
その声を聞き、今度こそ男の体は硬直した。
さっきは必死で気付かなかったが、男はこの声を知っていた。いや、知らないわけがない。
女性兵士がこちらを向いた。
流れる髪は黒紫。
此方に向けられた瞳は、紅。
「ロ、ロザリア補佐官……」
ロザリア特別団長補佐官。
実力は屈指の折り紙つき。調査兵団の数少ない精鋭、人類の貴重な戦力である。