「今のヒナには、連絡しないであげてください」
佐知子さんと待ち合わせた喫茶店で、俺は事情を説明していた。
悟が言葉を話せるまでに回復したと知らせを受けて、俺と広美は悟の入院する病院で15年ぶりの再会を果たした。悟は予想していたよりずっとしっかりと言葉を話し、とても昏睡する直前まで小学生だったとは思えない程大人びて見えた。それでも、言葉の端々はやはり幼く、今の俺たちから見れば子供であるには違いなかったが、逆にそれがあの時の懐かしい悟の姿とダブッて見えて、嬉しかった。
ただ、悟の病室に入る前に佐知子さんが言っていた通り、悟には記憶の欠落があるようだった。特に事故に逢う直前の事はまったく覚えていないようで、自分が事件に巻き込まれたということには触れないでくれとも言われた。
「それと、加代ちゃんとの事も、忘れているみたいなの」
記憶の欠落がある、といわれたときもショックを受けたが、その後のこの言葉に、俺は自分でも予想が出来ないほどに衝撃を受けていた。
俺が求めて、どうしても持てずにいたものを持っていた悟。
俺が何も行動できないまま、自分に言い訳をしているすぐ横で力強く踏みだし、ヒナの心を救った悟。
俺が初めて素直に自分をさらけ出すことが出来、それでいて変わらず、揺るがず、目標であり続けてくれた悟。
あの輝かしい俺にとっての宝石のような日々の出来事を忘れてしまっているのだろうか。ヒナの手を握り、暗闇から連れ出した、まるで、どころかヒーローそのものだった、俺があこがれた悟が死んでしまったようではないかと。
だけど、そんな自分のショックをどうにかして分析して飲み込もうとしていたせいで、俺は、俺の隣で広美が佐知子さんに、俺が今まで伏せていたことを暴露するのを止められなかった。
「そうなんですか? じゃあ、やっぱり、加代に知らせなかったのは正解でしたね」
え?
一瞬、ぽかんとした顔で、佐知子さんは広美と俺の顔を見て、もう一度俺の方に顔を向けた。
わかるひとにはわかる。
その一言で、佐知子さんは理解した。だけど、理解したくない、そんな表情で俺に事情を説明してほしいと、弱弱しくすがっていた。
「僕、加代と結婚したんです」
その言葉は何事もなく、ただの過去の報告であるかのように平坦に、広美の口から飛び出していた。
何事もなく、雑談程度で終わった悟との久しぶりの再会のあと、広美と別れた俺は、佐知子さんを呼び出した。いや、呼び出されたというべきか。俺と広美を見送る佐知子さんの笑顔が、妙に怖かったのだ。
俺は事情を説明した。ヒナが結婚したのは半年位前だということ。突然のことで、俺にも理由はわからないと答えた。佐知子さんはそう聞いて腕を組み、疑わしげに俺のことを見ていたが、ため息を一つつくと、何も言わなかった。おそらく、俺が隠し事をしていると思ったのだろう。事実、話せないことでもあった。
何より、佐知子さんは知らない。
悟の千葉での入院先も、事後経過も、少なくとも半年ほど前のことは、すべてをヒナが知っていることを。
それにもかかわらず、ヒナが、結婚したことを、佐知子さんに報告していないということを。
「私も、ある程度回復してからと思っていたよ。悟も衰弱している姿を見せたくはないだろうし。でも、報道管制もすぐ解かれるから、その前には連絡しようと思っていたんだけどね」
はあ、とため息をつく。
「悟、ショックを受けないといいけど」
「……ええ。俺としては、佐知子さんが心配で報告出来なかったんですけどね」
札幌から千葉に悟が転院するまでの長い間、佐知子さんとヒナは二人で寝たきりの悟を看病していた。その間、悟のことだけでなく、学校で起きた出来事をヒナが話し、時には佐知子さんが人付き合いが苦手なヒナの為にいろいろなことを助言していたりした。広美と一緒にお見舞いに言ったとき、ヒナに「いらっしゃい」と出迎えてもらったことも多い。
病院の屋上でシーツを一緒に干していた。
看病疲れで、二人でベッドの下にシーツを敷いて抱き合って眠っていたこともある。
その姿は、息子の友人なんてものじゃない。ヒナは無意識に求めていた母親像を佐知子さんに重ねてしまっていて、それは息子を生きてはいるけれども事実上失ってしまった佐知子さんにしても同じだろう。
共依存の関係。代償行為。だけどそれは確かに美しいと思える、むしろ当然の関係だったのに。
そんな娘を、いかに思いやりからとはいえ、手を放してしまった母親が、知らないうちに誰かと結婚していたとしたらショックだろう。もちろん、悟もショックだとは思うが……
「それでも、報告しないわけにはいかないっしょ。加代ちゃんには不義理を働いた。これ以上、情けないまねはできないわ」
転院の事を話さなかった件。
ヒナに内緒のまま実行したことは、今でも恨まれている自覚はある。何も内緒にすることはなかったんじゃないか。時間を置いて説明すれば、わかってくれたのではないか、と。
「お母さんには感謝しているよ。もちろんケンヤにもね。わかっている。私もね、お母さんの言ってくれた通り、踏み出すよ。明るい未来にね」
ヒナは。
悟がいなくなったことでヒナの事を心配するみんなの前でそう言って、笑った。
「うん、そうだよね」
「ああ、内地の病院なら、すぐに意識を取り戻すって!」
「そうしたら、歓迎のお好み焼き食いにいくべさ。また悟のおごりで」
祝われる人間におごらせる気かよ、と空気を読んで盛り上げてくれたオサムの言葉に突っ込む俺をよそに、美里と彩は目を伏せた。
俺は、そのことに気がつかない振りをした。
その後、俺はしばらく、二人のもの言いたげな視線から逃げ続けることになる。
ヒナは、この日以降、俺をケンヤと呼び捨てにすることはなくなった。
「連絡するのはタイミングが悪いというかそのですね」
「はあ、もう賢也くんは相変わらずだべさ。こんなにかっこよく育って、学校でももてもてだって聞いてたのに、加代ちゃんの事になるとこれだから」
言いよどむ俺に、佐知子さんはあきれたような視線を向けてきた。あの二人の視線を彷彿とさせるものがある。苦い記憶だ。
「広美くんかあ。以外も意外、ダークホースさね。悪くはないけど、10年前のあんたたち見てると想像できないねえ」
明るくからかう佐知子さんに答えようとして、目を合わした瞬間、視線を足元に落としてしまった。
これは、負い目なのだろう。佐知子さんが託してくれや期待に答えられなかった俺の、意図していたわけではないにしろ、共犯者だと信じていた俺への期待に。
「……なして、連絡していかんの? 私もショックだし、悟もショックかも知れないけど、幸い、あの子は加代ちゃんのこと忘れてる。会って話すくらいなら大丈夫だべさ」
そうだ。悟は忘れてる。
だけど、ヒナは違うんだ。結婚したということに佐知子さんはショックを受けているけど、でももう受け入れている。そして、そのことを自分の娘が前に進んでくれたんだと、俺にくれた手紙に書いてあったように、おそらくヒナにも明るい未来に進んでくれるよう願ったはずで、ヒナが明るい未来を掴んだと思っていた。
俺の先ほどからの反応を見るまでは。
でも。たとえ今のヒナの未来が、本当に明るいものでも、また逆に、それが嘘を塗り固めて作った偽者だったとしても。
どちらにしても、今、この時期に、悟が目覚めた事を伝えるのは、一番まずい。
「今、ヒナは……妊娠しています。もう、臨月に入って、いえ、もう正産期に入っています」
冒頭は、悟の近況からリバイバルに至ることで終わり、本編に入るつもりでした。
本編は基本リバイバルを生かし、俺つぇー系、あと八代先生は基本どうでもいいのでほぼ無視、雛月ルート確定、中高生いちゃいちゃを書きたいというのが本音なのですが、過去編、軽く書くと、書きたいことが多いですね。僕だけがいない街、というタイトル自体が結論となっているのですが、そこがそもそもおかしいと思っているので、この作品を書いているのだなあ、と実感しました。