意識が朦朧としていた。
出産の痛みはもう記憶にない。後で聞いたところ、陣痛の時点で既にかなりきつめで、いわゆる”産みの痛み”というものも味わうこともなく、切開にも気が付いた様子はなかったと言われた。それはそれで運がよかったのだろう。あんな痛みが22時間も続いていたなんて、終わってみれば信じられず、また、それほど長い時間の痛みに耐えたことを自分自身で褒めたいと思った。
産後の容体がかなり重く、意識もはっきりしていなかったらしい私は、いわゆるカンガルーケアは無理と判断されたらしく、分娩台に寝たままで予後の診察が行われたらしい。
未来と名付けたその子に出会ったのは出産3時間後。駆けつけてくれた夫がほっとした顔で迎え入れてくれ、その傍らで看護師の方が抱いてくれていた未来を、私にそっと手渡してくれた。
初めて見た自分の子は、思っていた通り、特に可愛いわけでもない。しわくちゃで、髪の毛も生えていないし、言われなかったらきっと自分の生んだ子なんでわからない。
でも、その子は私の子供だった。今もなお、お腹に鈍く残る鈍痛が、確かな実感を感じさせてくれる。
気が付けば、涙が出ていた。私と未来を丸ごと抱きしめる夫の肩に顔を埋めながら、私は、ありがとう、と呟いていた。
その時、目の合った夫が本当にびっくりしたように目を見開いて、そして肩を抱く腕に力がこもった。
「僕こそ、ありがとう、加代。未来を産んでくれて、本当にありがとう」
夫が私の名前を一年ぶりに呼んだ。
この時の私は初めて”加代”と名前を呼ぶヒロミ君のことを、嫌悪感を感じることなく受け入れることが出来ていた。
私とヒロミ君と未来は、この瞬間に、本当の家族になった。
出産後、一週間ほどで退院できたけど、それから子育ての生活に追われた私は、行き着く間もない忙しい生活だった。幸い私自身は食欲もすぐに戻り、体調は出産前と変わらない位に元気になったけど、未来はとにかく泣き、眠り、お漏らしをし、指を口に入れては離さなかった。
育児は大変だということ実感して、それでも充実した毎日だった。母乳を探してお腹の上で動き回っている未来を見るたびに、日々愛情が増していった。
悟の介護をしていたこともあって、色々と慣れていたこともあった。でもそれ以上に日々苦労の連続で、大変だけど楽しかった。
こんな私が人並みに子供を授かり、これから育てていくことに、私が感じていた明るい未来はきっと、あの日、母からの虐待から解放された日に、悟と共に歩く未来を思った時以来の希望になっていた。
その新聞記事を見るまで、私は間違いなく、幸せなお母さんでいられたのだろう。
”15年の眠りから、殺人事件の被害者、意識を取り戻す”
新聞の一面に踊った黒枠の見出しを見た、ただそれだけで、頭の中が、真っ白になった。
気が付くと、私は走り出していた。
病院の場所。知っている。
タクシーで行けば、30分で着ける。
お金、ある。道路に出て手を挙げると、すぐに滑り込むような滑らかさで目の前に黒塗りのタクシーが止まった。
行先の病院名を告げ、乗り込んだ、その時、ようやく私は赤ん坊を抱いていることに気が付いたが、もう戻る暇も無かった。仕方なく連れていくことにする。幸い産後2か月が経っていて、何度か外出していた為、特に邪魔にはならなかった。
タクシーに乗っている間に、賢也くんに電話をかけた。
「どういうこと?」
自分でもびっくりするような低い声が出た。何かを感じたのか、未来がぐずりだしたけど、もうそんな雑音はどうでも良かった。
「ヒナ、黙っていたのは悪かった。だけど、お前は今は体を大事にして」
賢也くんが何か言っていた。彼はいつもそうだった。私の前でいつも大人のふりをしてかっこつけて、だけど結局決定的なことは何もしない。
私に対して決定的なことをしたのは二人だけ。いつも賢也くんは私の邪魔ばかりするんだ。
「いいから、佐知子さんに連絡を取って! 私が悟に会いたいって言っているって!」
賢也君からの返事を受けて、私は一旦トイレに入り、軽く身だしなみを整えた。賢也くんには思わずキレてしまったけれど、佐知子さんにこんな対応をしたら、きっと悟に会わせてくれない。
「ヒナ、もう止めない。でも、悟は軽い記憶障害みたいなんだ。だから、あいつを混乱させるようなことはくれぐれもしないでくれ」
言われるまでもない。私が悟に負担をかけるなんてことするわけない。今の私が、そう思って、ふと、未来の寝顔が目に留まる。
「あ……」
そういえば、私は、お母さんだった。
「あはは……」
私は、悟に再会出来たらと、何度も夢に見ていた。ひどいときは毎日、悟の病室に内緒で泊まり込んだ時なんかは、実際に目を開かない悟の前で練習していたことさえある。
「おはよう、悟」
「ずっと待っていたんだよ」
「これからはずっと一緒にいてね」
「悟、大好き」
何、コレ?
こんなものを抱いて、私は悟に何て声をかければいいの?
何を言う資格があるの?
私は……
「加代ちゃん、ひさしぶりだべさ」
立ち尽くしていた私に、10年ぶりの懐かしい声が掛けられる。
どうする? どうする?
なにも浮かばない。今の私はどんな私? どうすれば悟と会える?
悟に何を……
「悟は、ヒナに恋愛感情を持っていたんじゃないかもしれない」
賢也くんから以前聞いた言葉が、ふと頭によぎった。
「雛月を助けたいっていう使命感が強かったんだと思う」
賢也君らしい、持って回った言い方。当時の私は、その言葉が他の多くの人から投げかけられた、つまり、悟を待つのはやめろ、という言葉でしかないと受け止めていた。
そうだ。あの時、私は何て答えたんだっけ?
「だから、何? 私は悟のことが好き。この気持ちは私は悟に伝えたし、わかってくれていると思っている。もし仮に、悟が私のことが好きでなくても」
ああ、そうか……
「悟を救うのは私でありたい」
「お久しぶりです、佐知子さん。杉田加代です」
ヒーローだった悟がせめて、私を助けたことを知ることで、喜んでくれるように。救うことは共に歩む、ということではないことに。
もう、それは無理だと理解して。
きっと悟が助けた私自身が”今の幸せ”を伝えることが、悟にとって一番喜んでくれることだと思うから。
未来を抱きしめる。
悟はリハビリ室にいた。
入念に足の関節を解し、平行棒を手すりを掴んで何往復も繰り返す悟には、理学療法士らしき先生と看護師が二人、付き添っていた。それだけで、今の悟がまだ一人で立ち上がる事すらできないとわかる。
でも、あの頃の、ただ眠っているだけだった悟が、何度呼び掛けても瞬き一つ返してくれなかった悟が、そこにいる。汗をかき、歯を食いしばり辛そうに、だけど懸命に生きている。
ただそれだけがうれしい。その光景はあまりにも私にとって神々しい。
だけど、私は違う。私はそうではいけない。
私は悟に寄り添う資格はない。もう、戻れない。
だから、ただ私は”幸せ”を掴んだことにただ感謝を述べるために。
この、幸せの象徴を、悟に見せることで、喜んでもらえれば。
「悟」
私の呼びかけに振り返った悟と目が合う。
「おめでとう。加代」
ああ。、やっぱり、悟は変わっていない。その涙は、瞳に浮かぶ喜びは、昔と同じ、私を優しさで包んでくれていた。
「悟と過ごした時間があったから、私は”幸せ”になれた」
そういって、私は心からの笑顔で笑った。
6巻154ページ。
誰にとっても衝撃しか与えなかったあの見開きシーン。私、杉田加代です!の舞台裏。
初めて読んだ時からどうみてもこの加代の表情が仮面の笑顔にしか見えなかったんですよね。仮に本当に幸せだったとしても、このシチュエーションで満面の笑顔は人格を疑いますけど。
恋愛ものとして悟と雛月が順調に築き上げてきたフラグのすべてをぶち壊してくれましたからね。アニメなら雛月、帰ってこなかったので少し説得力あるかもですけど。
出産直前、直後でかつての初恋の人が目覚めたら、精神的に無茶苦茶追い詰められたんじゃないだろうか、との発想が前回、今回に繋がりました。