中学卒業後、俺は地元を離れ、かつての仲間たちと会う機会は少なくなった。
悟の件もあり、将来の目標をこれまで以上に明確にした俺は、まずは北大の法学部を目指すことにしていた。そのために受けた高校は札幌でも一番の進学校であり、入学を果たした俺は、そのレベルの高さに最初は授業についていくのが精一杯だった。
バス通学するには少し遠かったので、一人暮らしを始めていた事もあり、勉強以外にも慣れない家事に最初は悪戦苦闘していたこともある。
そんな暮らしにもひと段落し、ようやく自分のペースで生活できるようになってきた頃だった。
札幌の駅前のコンビニで、普段の仏頂面はどこに行ったのか、見たこともないような笑顔全開で働くヒナを見つけたのは。
悟の病室から出てきたヒナは、一見、普通に見えた。
子供を抱きかかえた若い綺麗な女性。
子供を生んだばかりの女性はみな綺麗に見えるというが、身内びいきか俺にもヒナは綺麗に見えた。
ただ、その上っ面に貼り付けたような笑顔がまったく変わらないまま歩き出す姿にはぞっとしたが。
笑顔のまま前を向くヒナと、その前に立ちふさがった俺の目が会った。
「ヒナ……大丈夫か?」
朝早くにヒナから電話でたたき起こされた。報道規制が解除されることは知っていたが、さすがに日にちまではわかるはずもなく、まさしく寝耳に水だった。
電話口で早口にまくし立てるヒナをなだめて落ち着かせようとしたが、聞けばすでにタクシーに乗り、病院に向かっているという。何で産婦がこんなにフットワーク軽いんだよ、と思いつつ、俺の中では、まあヒナだしな……と諦めがついてしまった。
佐知子さんに連絡を取り、ヒナの様子を説明した上で、危ないと感じたら会わせないように頼んだ。ヒナが悟に何かするとは思えないが、感情が高ぶれば人間何をするかわからない。
「悟は軽い記憶障害みたいなんだ。だから、あいつを混乱させるようなことはくれぐれもしないでくれ」
白々しいと感じつつ、俺は軽く釘をさしておく。
悟がヒナのことを覚えていないのは会話をした俺が一番よくわかっている。あの日、”雛月を誘拐した日”のことを、それとなく会話に乗せたが、悟はまったく反応しなかった。
俺が覚悟を決めた夜のこと。悟が忘れていても俺は絶対に忘れない。
だからこそ、俺と同じ、あの日を特別な夜だとヒナが思っていることを俺は知っていた。
「必ず加代を守るから」
そんな台詞を言ってもらえた女の子が、世界にどれくらいいるんだろうか。あのときの光漏れの為につるしたシーツの向こう側に見えたヒナの嬉しそうな照れくさそうな表情とその後にふと漏れた笑顔を俺は忘れない。
俺に向けられたものじゃない、だけど、俺が悟を目標にするには十分すぎる、俺がいつか取り戻してやりたい、”雛月の笑顔”だ。
そして今、悟と再会して、たった今、部屋を出てきたヒナの笑顔は、俺が取り戻したかったヒナの笑顔ではなかった。
「……嘘つき」
「え?」
てっきり、糾弾の言葉が出てくると思っていた。だけど、ヒナの言葉は違っていた。
「加代って呼んでくれたよ、悟。忘れてなんかいない。忘れてくれてなんていない」
ぽろぽろと、加代の瞳から涙が溢れ出す。母親の涙に触発されたのか、腕に抱いた赤ん坊がぐずり出していた。
うつむいたヒナの肩を抱いて、場所を移動する。丁度人気のない休憩室があったのでそこに連れ込み、飲み物を買った。妊婦にコーヒーはまずいかな、と少し悩んでヒナにはホットミルクを買い、席に着く。
「ねえ、賢也くん。悟、記憶がないんだね。無い筈なんだよね」
話を聞くと、悟は会って早々に口を開いた言葉が、「おめでとう、加代」だったらしい。一瞬、途方もない怒りを覚えた。無神経にそんな言葉を放った悟に。今のヒナにそんな言葉は、悟に悪気があるわけもないが、これほど酷な言葉は無いだろう。
「心から喜んでくれていたよ。私が幸せになったんだって、心の底から思っていてくれるんだってわかったよ。この子を抱いた私は、あの頃の悟が、私に望んでくれていた結果なのかもしれないって」
加代の向かう未来が。明るい場所であることを俺は信じる。
ヒナを虐待から救った後で、悟が俺に言ってくれた言葉だ。
純粋にヒナを救おうとしていた悟なら子供を産み、その手に抱いた母親のヒナを見て、そう感じたとしてもおかしくない。
きっと、悟は、今のヒナを見て、報われた。
それじゃあ、ヒナは?
「でも、その後、どれだけ話しても、加代って呼んでくれなくなった。雛月って、すごく自然に呼ぶんだよ」
記憶の蓋は、開かれていない。佐知子さんに聞いた話では、目覚めた時の第一声が、「僕の笛はどこ?」だった。悟がヒナの虐待にかかわりだすだいぶ前のことらしい。一ヶ月かそこらの記憶の喪失。エピソード記憶と呼ばれるもの。
記憶喪失は直前の記憶を失う傾向が多いらしいが、悟の場合は一つの事件にかかわった雛月加代という存在そのものを忘れてしまっているようだった。
実際、事件前の悟とヒナの関連なんて無いようなものだった。ヒナはクラスで浮いていたし、悟は俺たちと同じグループでいつもつるんでいた。ヒナだけは覚えているのに悟にとっては大して話しもしないクラスメートが、目が覚めたら急になれなれしく振舞ってきたように感じてしまうのだろう。終始、ヒナとの会話に戸惑いを覚えているようだったらしい。
隣に座るヒナの手が、俺の肘の部分を握った。目を向ければ見上げるヒナの目と目が合った。
懐かしい既視感。この目をしたヒナの言いたいことをわかっている。手を握ることができなくて、でも助けてほしいと思ったとき、ヒナはこの仕草をしてくる。それはきっとあの札幌の高校時代。俺とヒナが再会して以来何度も繰り返したことで。
「ヒナ……」
あの時は手を握ることができなかった。俺の前を歩く悟とヒナ。俺の中では二人が手を繋いで歩くことが当然で、俺はヒナの手を握るなんてしてはいけないと思えていて。
だけどきっと、ヒナは俺と手を繋ぐことを望んでいたと、後になってからはっきりとわかったのに。
「ヒナちゃん!」
無意識にヒナと触れ合っていた手が止まる。
振り返ると、そこには広美がいた。よほどあせって飛び出してきたのだろう、息を切らし、汗をかいていた。院内は走るの禁止だろう、そんな関係の無いことを一瞬考えてしまったほどに、普段温厚な広美とは思えない姿だった。
「ヒロミくん……何で」
手を口に当てて、驚きの声を上げるヒナ。その顔色は真っ青だった。
「何でって、ヒナちゃんがいなくなったって、母さんから電話をもらったんだよ」
一つ息を付いて、ヒナに顔を向けた広美は、優しい笑顔を浮かべていた。
それはさすがにすでに研修医として患者の診察を行う医者の卵らしい、人を落ち着かせる柔和なものだった。
俺の肩に食い込む、広美の右手が無ければ、誰もがそう思っただろう。
「ありがとう、賢也くん。加代のことはもう大丈夫だから、もういいよ」
笑顔の裏に隠されていた絶対的な拒絶の気配。
「さあ、加代。家に帰ろう。加代も久しぶりに悟くんに会えて疲れただろう?未来も休ませてあげないと。気持ちはわかるけど、赤ん坊を連れまわしたらいけないし、加代もまだ体が回復していないんだからね」
違う。広美の言葉には嘘は無いが、暗に俺とヒナを責めている。やさしさに隠れた糾弾。だが、
「うん、わかった。賢也くん、私たち、帰るね」
ヒナが俺の裾から手を離す。
広美がそれを見て俺の肩に食い込んでいた右手をどける。
そして、俺もまた、ヒナの肩に置いていた手を引き離した。
昔も、こんなことがあった。
そして、俺はやっぱり成長していなくて。
「……それじゃあ、ありがとう、賢也くん」
ありがとうの感謝の言葉で押し隠した失望の気配。
おれはまた、ヒナの期待を裏切ってしまった。
「賢也くん、私、内地の学校へ生きたいべさ」
「勉強教えてくれないかな。も、もちろん、時間のあるときでいいし」
「一人暮らしなんだよね。今度、バイト先の廃棄のお弁当とか、持って言ってあげるべさ」
3年間。
札幌で久しぶりに再会した接客で笑顔を振り舞くヒナに向かって、「誰だ、お前」とつい言ってしまった俺は、その場でコーヒー缶を投げつけられた。
「ごめん、つい投げちゃったべさ」
「ついじゃねーよ。下手すりゃ死ぬぞ!」
それは、札幌で一人、気がつかぬうちにホームシックに近い状態だった俺の心に光が差した瞬間だったのだろう。
ヒナの通う高校が札幌市内にあることは知っていたし、ヒナのおばあちゃんの家は札幌にある。会おうと思えばいつでも会えたし、悟のこと、進学のこと、慣れない一人暮らしに進学校故の気の休まらない順位競争と、俺もいい加減煮詰まっていたのだろう。
ヒナと会うと、心が楽になった。自分のしていることが無意味じゃないと実感できたし、目的が共有できる仲間というのがこれほど励みになるとは思わなかった。仲間たちの有り難味はとっくにわかっていたはずなのに、ヒロミやカズ、オサムたちと別れてからは仲のよい友人に恵まれなかった俺にとって、同じ目標に向かっているヒナの存在は嬉しいものだった。
ヒナの目標は内地の大学、少なくとも関東の医学部のある大学に入ることだった。
それを聞いて、俺も前々から考えていた関東の大学への進学を本格的に目指すことにした。
再会してから3年間。図書館やファミレス、時には俺の家でと、ヒナとはたくさんの時間を共に過ごした。別に恋愛関係にあったわけじゃない。勉強が主な目的だったし、進路のことについて語り合ったこともある。
ただ、悟のことについては段々と話さなくなっていた。二人きりの時にどうしてか俺はヒナに悟のことを口に出してほしくなかった。今になって思えば、ヒナも同じことを想ってくれていたのだろう。
クリスマスにはバイト帰りのヒナを迎えに行って、余りもののケーキを店長さんに安く売ってもらって、俺の家で食べた。
正月はヒナが差し入れといって、おせち料理を持ってきてくれた。高校3年の正月、合格祈願もかねてと、初詣に一緒に行った時のヒナの晴れ着姿は綺麗だった。
1月。
受験シーズンに入り、二人で札幌の書店にそれぞれの志望校の願書を買いに行った時だった。
ヒナはそっと俺の服の肘のところを握って、珍しくおどおどと声をかけてきた。
「北大は、受けないの?」
北大は二人とも志望校の一つとして入れていた。センター試験も受けていたし、国公立の大学を受けるのなら当然選択肢の一つだった。
「……ああ。俺は慶応か中央の法学部を受ける。国公立は受けるにしても関東のどこかだな」
今になって悟がいるだろう関東の大学に行かず、北大を受験するのは、今まで必死に頑張っていたことへの裏切りだ。俺にも、ヒナにも。そう思った。
「そっか。ケンヤと一緒に北大に行けたらって、思ったんだけどな」
何気なく、久しぶりにケンヤと呼んでくれたヒナに、俺は何も答えることができなかった。
”俺は……悟のスペアじゃない……”何時しか浮かんでいた感情を、必死になって否定する。背中を追うべき目標は、形を変えて俺の心を戸惑わせていた。
あの時、俺にヒナの手を握る勇気があれば、未来は変わったのだろうか。俺がヒナを笑顔にすることが出来ていたのだろうか?
お互いに志望校に合格した俺とヒナは、大学の場所が県を跨いでしまったことで、しばらく疎遠になってしまう。もし、二人で北大に行っていれば、引っ越すことにはならなかった。お互いの時間をお互いに共有して。きっと未来はまったく別のものになったかもしれないのに。
そして、久しぶりに再会したヒナの隣には、同じ大学に通う広美の姿があった。
このとき開いた距離は、今でも縮まっていない。
今はもう、俺にヒナの手を握る資格は、無い。