煤に塗れて見たもの   作:副隊長

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2.英雄の邂逅

「なんとか殲滅できましたね」

 

 装者たちが米軍基地に襲い来たノイズ達を撃ち果たしたところで、友里さんが言った。頷く。何体かは斬り裂いていたが、殆ど出番など無いまま戦いは終わっていた。

 煤が刃に巻き付いている。相手が人であったのならば血であるが、ノイズであった。ある意味で煤と言うのは、自分にとってはノイズの血と言えるものであるのだろうか。軽く振るう。ただの煤である。大体の物はそれで振り払えた。とは言え、戦場である。今すぐとなると、それ位の手入れしかできなかった。

 

「被害状況を確認したのですが、行方不明者の中にはウェル博士の名も挙がっているようです。そしてソロモンの杖もまた所在不明となっていますね」

「……どうやらしてやられたようだ」

「そうですね。装者たちが守る輸送隊を襲った上で奪取に失敗。基地に搬送を終え、任務が完了したと私たちが油断したところで本命と言う訳ですか」

 

 友里さんの言葉に頷く。言葉の通り二段構えだった。全てが終わった。その安堵の瞬間こそ、最も大きな隙が生まれると言う事だった。まさか、二課が搬送を終え目と鼻の先に存在していると言う状態で仕掛けて来るとは、大胆不敵である。そして米軍を巻き込んだ乱戦の中でソロモンの杖を奪還したという事だった。

 装者が向かった時点で、即座にウェル博士の所在を探した。ソロモンの杖を持っていたのは彼だからだ。基地が攻撃されていようと、最優先の目標であると言えた。元より対ノイズ能力では装者には及ぶべくもない。適材適所。気持ちの上での葛藤などは割り切り、動いていた。飛行型ノイズ。十程が緩急を織り交ぜ向かって来ていた。こちらは一度でも触れれば命は無い。可能な限りの殲滅速度を以て相対していたが、それで時間を取られすぎた。自身こそ無事ではあるが、見事に出し抜かれていた。ウェル博士が行方不明になり、ソロモンの杖の所在も知れない。二課と米軍、双方の敗北と言える。

 

「くそッ! やっぱりソロモンの杖は手の届き辛い場所に置いちゃいけなかったんだ」

「クリスちゃん……」

 

 ソロモンの杖に最も執着を持つのはクリスである。イラつきと焦燥、そして不安がない交ぜになったような悪態を零す。響が傍らにより手を掴んだ。だが、それ以上かける言葉は無い。彼女もまた出し抜かれたからだ。二人の活躍で、基地の損耗は大幅に軽減されていると言えるが、それでも犠牲は出ているうえに最も大切な聖遺物も奪われている。いくら響とは言え、今回ばかりは前向きな言葉も出てこない。

 

『ユキ、聞こえているな』

『良好ですよ』

『ソロモンの杖の探索。一度装者たちは帰投させるが、もう少し頼めるか』

『了解』

 

 司令の言葉に頷く。戦闘中に、一度通信を入れていた。奇妙な物を見つけたからである。それは炭化した死体、以外の死体であった。髪の色素は薄く、酷く年老いた軍人。ノイズと交戦している時に三人分見つけていた。機動で攪乱しながらの交戦中であった。ノイズの突撃をいなしていた際、乱戦の中で気付けば煤に変わっていた。暗躍と隠滅。そんな言葉が思い至る。ノイズの人に対する殺害方法も充分に奇妙なのだが、それは別の方向で奇妙だと言える。何よりも、自動人形に襲われた者たちの死に方と酷似していた。当然の疑惑が浮かぶ。所在不明。暗躍。隠蔽。こじつけとも取れるが、手掛かりとも言える。

 司令の判断は索敵と言う事だった。太刀を握る。此処からは、彼女らの援護は期待できない。風鳴のがコンサートで席を外している今、二課にはソロモンの杖奪取による不測の事態が起きた場合に即応できる装者が居ない。帰投命令も順当だろう。上泉之景の代わりは居ても、装者の代わりは居ないという事だ。

 自身の事を軽視をしている訳では無いのだが、対ノイズ兵装を纏えると言うのはそれだけ大きいと言う事だ。

 

「君たちには帰投命令が出た様だ。気持ちを切り替えておけよ」

「君たちってどういう事だよ」

「居残り組が必要だと判断された訳だ」

 

 米軍には直ぐに協力を要請すると言う事だった。既に通達は行っている様で、直ぐに兵士たちがやって来る。

 

「あんたが補習なら、あたしも付き合うが。戻るのはコイツだけでも大丈夫だろうし」

「問題ないさ。基地をぐるりと案内してもらうだけだ。深追いはできないだろう」

「でも……」

「ソロモンの杖が奪取された。となれば、更なる不測の事態が起きる可能性もある。君はそれに備えろ。此方は俺が担当する」

「確かに。今頃翼さんもライブの準備をしている筈ですしね。そんな時に何かあったら。あわわ……」

 

 自分も残ると言いだしたクリスに言い聞かせる。少なくとも、現時点で装者が必要になる可能性は高くない。二段構えのソロモンの杖奪取作戦から考えて、これ以上の大規模攻撃は考え辛い。米軍基地制圧が目的ならば、それこそ装者が完全に居なくなってからでも良い筈だ。態々目と鼻の先にいる状態で行う理由も解らないが、何らかの急ぐ理由があったのかもしれない。拙速。事を起こすならば速ければ速いほど良い。そんな思惑が浮かぶ。奪取を優先したと言うのならば、既に離脱を始めているだろう。これ以上の大きな攻勢は無いとみるのが妥当では無いだろうか。あえて攻勢に移ると言う手も無いでは無いが、それなりに周到な奪取作戦後に行う理由も思い浮かばない。

 

「仕方ねぇってわけかよ。あたし達が居ないからって勝手に死ぬんじゃねーぞ」

「そう簡単には死なんよ」

 

 自分の意見を退けられた事で若干むくれる白猫に、心配させてすまないなと告げる。無言でそっぽを向いた。相変わらず、他人を心配しているなどと思われるのが恥ずかしい様だ。態度こそそんな感じではあるが、耳が赤くなっている。照れているのが解った。

 

「響。むくれている様なので、この子を頼むよ」

「だ、誰がむくれてるってんだよ」

「そりゃぁ、クリスちゃんですよねー!」

「うひゃぁ!? ちょ、てめぇ、ふざけてんじゃねーぞ!!」

「あはは。隙だらけのクリスちゃんが悪いんだよ。って痛い、ちょ、ホントに痛いって。グーはダメだよ!」

 

 そっぽを向いている間にクリスに忍び寄った響が、耳に吐息をかけた。背筋に何とも言えない感覚が走ったのか、うひゃぁと滅多に聞けない悲鳴を上げた。直後に噴火。両手を握りしめ、割と本気で逆襲に出ていた。痛い痛いと響が逃げる。こんな所だろう。二人のやり取りで、随分と気が抜けたようである。何かあるかもしれない。そんな状態であるからこそ、ある程度気を緩める必要もあるのだ。張り詰めてばかりでは刃は折れかねない。

 この子らは大丈夫だろう。問題があるとすれば、むしろ自分の方か。対ノイズ戦力を欠いた状態での調査だ。気は抜けない。数体であれば対処できるが、群れとなるとどうなるかは解らないからだ。

 

「では、行ってきます」

「はい。二人は任せてください」

 

 まだ鬼ごっこを二人が行っているうちに離れた。手持ちを確かめながら、米軍の案内を受け持つ事になった兵士の下へ行く。太刀が一振り。他には伸縮式の警棒と防具である小手だった。後は簡単な応急処置の薬が幾つかと、携帯食が少量だった。別に、山岳地に行き遭遇戦をやるような状況では無いので、それで充分だった。

 基地の中を案内されながら進む。幾つかの施設を回り、おかしなところが無いか確かめる。既にノイズ被害で発生する煤の除去作業もある程度進んでいた。それなりに綺麗にされ始めた施設を見て回っているが、特段目立つものは無かった。ぐるりと回る。

 

『特段変わったものはありませんね』

『となれば、勘は外れたと言う所か』

 

 司令に報告しながら最後の場所に進む。施設ではなく、路地の一角だった。幾らか進んだ先に、少し開けた空間がある。その場で、飛行ノイズに襲われていた。先には小さな建物がある。聞いてみたところ、ウェル博士が個人で使っていた倉庫であるとか。扉を開こうとしようにも、鍵はウェル博士が持っているだけであるらしい。その時点で違和感が強くなる。

 

『司令。当たりかもしれません』

『そうか。引き続き頼むぞ』

 

 司令に軽い報告を出しながら、案内人に扉を開ける許可を取って貰う。数瞬の問答の末、許可が下りたと言ってくれた。しかし、C4やマスターキーも無いのにどうするのかと尋ねられた。持ってこようとする兵士を止める。随分と時間が経っている。その時間も煩わしかった。太刀を抜く。軽く振るう。上段。構え見据えた。ごくりと兵士が唾を呑み下す音が鳴った。斬撃。扉が崩れ落ちた。瞬間、

 

自動――(オート――)

「なん、だと……?」

 

 扉が落ちる轟音と共に電子音声が響き渡った。何と流れたのかは理解できなかった。と言うよりも、それどころではない。咄嗟に兵士を吹き飛ばし飛び退る。

 

『どうしたユキ!』

 

 司令の声が届く。それどころではない。倒れながら刃を振るった。ノイズ。着地を諦めそのまま仰向けに倒れる。紙一重でかわし、振るった刃にぶつかる。切っ先が削り取られた。反射的に転がり衝撃を流す。地に着いた腕の力だけで跳ね起き、飛んだ。僅差。自身がいた場に飛行型ノイズが突き刺さる。足にかかる負荷を無視し、壁を蹴りながら鞘を抜く。着地。飛来する敵を見据えた。鞘。機動を予測し、打ち抜いた。

 

「……流石に寿命が縮んだ」

 

 思わず零す。まさか部屋の中からノイズが現れるとは思わなかったからだ。それも飛行型が一体だけ。咄嗟に回避に回ったが、ギリギリのところであった。死んでいても不思議ではない。呼吸を整える。紙一重の攻防だった。

 

『ユキ、無事か?』

『何とか。ノイズが一体。それに、地下へと続く経路らしきものが見えます』

 

 部屋に入り、直ぐにそれは目に入った。壁が開いている。そして、隠し部屋になるような形で地下への通路が存在していた。司令に報告を入れる。不意に通路が閉まった。そうすると、完全に只の壁でしかない。触れる。充分に壁だった。目で見ていなければ、壁としか思えない。つまり、この通路は一定時間が経てば封鎖されるという事だった。つまりこれは

 

『逃走経路と言う所か』

 

 報告を行ったところで司令が呟いた。切っ先を失った太刀を振るう。壁を切り崩した。部屋。追撃の指示が下った。流石に司令も渋ったようだが、押し通した。ソロモンの杖が所在不明となっている。でき得る事ならば、何か手掛かりでも欲しかった。そうでなければ無茶をしかねない者がいる。

 ここから先は案内など無い。単独で進めと言う事だった。幸い、光は点けられている。それなりに広い通路。少なくとも、大人一人分ならば充分に移動できる幅員だった。このような経路をどうやって作ったのか。そんな思いが過りつつも、進む。不意に扉が現れた。先ほどの事もあるので警戒しつつ開く。視界が開ける。通路の先。基地外に出た様だった。

 

「おや、あなたは……」

「ウェル博士」

 

 そして、探していた人物を見つけた。博士も幾らか驚いた表情を見せる。ノイズに襲われた時点で想定はしていたが、その予想はどうやら外れる事は無かったようだ。ソロモンの杖。博士の手に持たれているそれを見て取ると、そんな事を思う。

 

「もしかしてとは思ったのですが、まさか本当に来るとは。待ってみた甲斐がある物ですよ」

 

 ウェル博士はにこやかな笑みを浮かべた。分の悪い賭けにを行ってみて勝負に勝利した。そんな嬉しそうだと思えるような笑みである。何がそれ程嬉しいのか。そんな言葉が出かかる。

 

「あなたが、犯人だったのですか」

「はい、そうですよ」

 

 一番聞きたかった事を尋ねる。ソロモンの杖奪取。二課から直接受け渡された人物こそが、その犯人であったと言う訳である。天を仰ぐ。言葉が出ないとはこの事だろう。司令も苦虫を噛んだような表情をしているのでは無いだろうか。

 

「何故、と聞いても?」 

「それは、何故僕がこんな事をしたのかと言う問いですか? それとも、僕がこんな所で悠長にしている理由ですか?」

「両方だな」

「ははは。随分と欲張りですねぇ。この状況、明確な敵である僕が答えるとでも思ってるんですか? ……まぁ良いですよ。隠すような事でも無いので教えてあげます」

 

 博士に問う。すると、小馬鹿にするように肩を震わせ口角を歪めた。

 

「あなたには話したでしょう? 英雄、ですよ。僕はね、英雄になりたいんですよ」 

「それが何だと言うのだ」

「人類の天敵となるノイズを自由に使役する完全聖遺物。ソロモンの杖。その力があれば、大きな事が出来ると思いませんか? そう、お伽話で語られる英雄のように」

 

 杖を大きく掲げ、天に向かって力を解き放った。ノイズ。飛行型のソレが数体現れる。更には地に蛭型が数体。右手の太刀を低く構えた。ノイズ達は博士に制御されているのか、大きく動くそぶりは見せない。

 

「だから、ソロモンの杖を奪取したと」

「まぁ、そんなところですよ。邪魔するものを蹂躙する為の力。尤も、目的がそれだけの訳がありませんがね。そこまであなたに教えてあげる義理はありませんが」

 

 彼の目の前で、何度かノイズを斬り裂いていた。あの時の驚きは、思っていたものと幾らか違ったようである。殺せる確信があって尚殺せなかった。予測を超えていた。つまりはそう言う事なのだろう。その所為もあり、博士の呼び出したノイズの数は人一人を殺すにはあまりに多い数だと言える。周りは木々が多い。戦場としてはむしろ、やり易かった。多対一だ。起伏の無い平地と比べれば遥かに良い。

 

「ならば、なぜこんな所で待っていた?」

「英雄には、乗り越えるべき壁が必要でしょう?」

 

 二つ目の問い。何故目的を達成しながらこのような場所で態々待ち構えていたのか。博士が捕捉されている事も無かった。どう考えても離脱する方が正しいのにも拘らず、あえて危険を承知でその場に留まっている。此方の思いもよらない何か別の目的があるのか。

 そんな疑問に、博士は楽しくて仕方が無いと言った様子で言葉を続ける。えも知れぬ異質な間隔。何なのだこの男は。個体として強い訳では無い。それは見ただけでも解るが、底知れぬ不気味さを持つ。妄執とでも言えば良いのか。ある種の狂気を感じる。

 

「壁、だと……?」

「そうですよ。壁ですよ、壁。試練と言い換えても良い。英雄。人々に飽くなき夢を与える存在。語られる彼らの伝説には、必ず超えるべき壁と言う物があるんですよ。親しきものの死を乗り越える。国を追放される。体の一部を失う。築き上げてきたものを失う。化け物と雌雄を決する。形の差こそあれ、英雄には壁となる物が付き物だと言う訳ですよ!」

「馬鹿な。ならばあなたは、乗り越えるべき壁を見極めるために待っていたとでも言うのか?」

 

 思わず目を見開く。揺さぶる為に言っているのではないのか。そんな疑いを持ってしまう程、ウェル博士の言葉は常識の外にあったと言える。英雄が乗り越えるべき壁を見定める。言ってしまえば、そう言う事だった。何を馬鹿な事をと言わざる得ない。そんな事の為に、優位を捨て去ったと言うのか。そして何よりその言葉から

 

「あなたは、自分が英雄だとでも言うのか」

 

 見極めると語っていた。その姿は自分が英雄である事を疑っていない。さも当然の如く、こちらの問いに大きく頷いた。

 

「そうですよ。あんたの言う通り未成熟なルナアタックの英雄たちとは違い、僕は真の英雄となるべき男ですからね。その為の力として、ソロモンの杖を手に入れた。そんな折、シンフォギアすら纏わずノイズを斬る人間が現れた。びびっと来たよ。人類の天敵を操るソロモンの杖を持つ僕の前に現れた、生身でノイズを斬れる男! 英雄と成るべき者に訪れると言う試練。それがあんただってな!!」

「本気で……言っているのか?」

「いやですねぇ、本気も本気ですよ? そうでなければこんなにも語りませんよ。何せ長年の夢でしたからね。それを叶えられると言うのならば、多少は危険な賭けにも出ると言う訳ですよ。まぁ、何にせよ……」

 

 ウェル博士の言葉の端々から、執念の様な物を感じ取った。本気で言っている。根拠は無いが、確信していた。英雄になる為にソロモンの杖を用いる。本気でそんな事を考えているのだ。蹂躙する力。人の天敵たるノイズを使役できるその力は、確かに圧倒的だと言える。だからこそ、奪われてはならない物だった。だからこそあの子は簡単に扱ってはいけないと言い、博士を信じ預けた。そして、その気持ちを踏み躙った。深く息を吐く。太刀を握る。それは許して良い事なのか。

 

「此処で死んでくださいよ!!」

「それが、答えか……」

 

 答えなど考えるまでも無い。ソロモンの杖の起動。ノイズによる被害。その二つに大きな負い目を感じていた子供を知っていた。そして今、再び杖が悪用されようとしている。そのような事、許容できるわけがない。ノイズが飛来する。後退。地が陥没する。樹木、飛来するノイズへの簡易な盾として利用しながら駆け回る。弧を描いた。ノイズの群れが僅かに軌跡を開いた。踏み込む。

 

「斬らせてもらうぞ」

「っ!? ひぃぃ!!」

 

 一足飛びで間合いを詰めた。太刀の距離。切っ先こそ無くなっているが、十分な距離だと言えた。振り抜く。目を見開いた博士は杖を盾に悲鳴を上げる。獲った。

 

「かはっ……。なん、だと……?」

 

 その直前、あり得ない物を見た。何もない空間。腕だけが突き出されている。黒き腕。巨大な爪を持つ右腕らしきものが、めり込む。骨が軋んだ。可能な限り力に逆らわずに吹き飛ぶ。

 

自動錬金(オートアルケミー)

「……まったく、遅いですよ」

 

 電子音声が鳴り響く。姿を現したソレが行ったのは、完全に予想の外にある一撃だった。唐突に表れた事もそうだが、何の気配も感じられなかった。それも現れた姿を見て納得する。人ではない。それ以前に生物では無かった。生き物の気配などある訳がない。

 

「ガラクタか……」

「おや、僕の協力者を知っているんですか」

「ふん、以前に少しな」

 

 衝突の瞬間、反射的に体が動いていた。左腕が熱を持つ。無意識に盾としていた。小手、かつてと同じように砕け腕に突き刺さっている。軽症とは言い難いが、重症でも無かった。傷を把握する時間など無い。

 

「まぁ良いですよ。僕は此処等で撤収させてもらいます。先ほどの強襲の様に、この場に居ては万が一があり兼ねませんからね。命は大切に、と言う作戦です。後の事は頼みますよ」

「逃げるのか?」

「逃げる? 大局を見てから行ってくださいよ。僕は優雅に撤収するだけですよ。目的を達成していますからね。惨めに逃げるとしたら、それは貴方の方ですからね」

 

 ウェル博士は背を向けにやりとした笑みを浮かべた。此処で逃がすのか。ソロモンの杖を前にしながら、みすみす取り逃すしかないのか。邪魔者を見据える。黒金。かつて戦った人形。無機質な金眼で見据えている。

 

『ユキ、ここは退け』

『了解』

 

 戦いの目的を見失うな。此度の成果はソロモンの杖を誰が保持しているか特定できた。それで充分なのだ。歯を食いしばる。口から血が零れた。

 

「やってくれる。勝負は預ける」

「ええ、そうやって惨めに生き恥を晒してください。よくよく考えてみると簡単に死んでもらっては試練とすら言えませんからね。それでは僕に箔がつかないじゃないですか。あなたには色々頑張ってもらってから退場して貰わないと。そう言う事で精々頑張って逃げてくださいよ。日ノ本の剣士さん」

 

 傷は深い訳では無い。だが、浅くも無かった。それでも充分に動ける。ならばまだやれる。飛来するノイズを往なした。斬り抜ける。煤が舞う。黒金。着地の隙を狙っていた。無理に飛ぶ。爪撃。浅い。僅かに斬られたが。すれ違い様に幾らか斬った。

 

『脱出経路を割り出す。それまでは、何とか距離を取る事に専念するんだ』

 

 博士の姿は既に視界から消えている。残るのは数体のノイズと黒金だった。太刀を強く握る。血が滴り落ちる。手にしているのは、童子切では無い。戦いはまだ続いている。離脱。それを第一に考える。煤が風に流れている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 




ウェル博士、英雄を目指す!
武門との戦いは試練の例の『化け物と雌雄を決する』に該当します。

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