雪音クリスは潜水艦にある医務室の前で時間を潰していた。ユキが自分の腕を斬り裂いた事で、処置が必要となった為医師に退出を命じられたからである。母の形見でもあるネフシュタンの腕輪を預けられ、病室の前でぼんやりと座り込んでいる。やる事も無いので、小さく歌を口遊む。不意に、自分の内側で声が聞こえた。
『聞こえるかしら?』
『フィーネ!? でも、どうして?』
唐突に聞こえたフィーネの言葉に思わず驚く。その様子に、言葉だけではあるが母親代わりが笑ったのが、何となく解った。頬が赤くなるのを自覚する。何が、と言う訳では無いが、自分の内で羞恥心が沸き上がる。誰かの為に歌っている歌を聞かれていた。それが気恥ずかしくて仕方が無かった。
『いや、あの場では話せなかった事が一つだけあったから、ね。何時か機会があれば話そうと少しだけ力を残しておいたのだけど、思ったより早く機会が訪れたわけよ』
『話せなかった事?』
それに、少しだけどフォニックゲインも高められたからと意地悪く告げられる言葉に俯く。歌は想いである。誰かの為に歌われた歌は、より高レベルなフォニックゲインを生むと言う事であった。眠っているネフシュタンの欠片が起動しても問題ないとフィーネが判断するようなフォニックゲインが雪音クリスの歌からは生成されているという事だった。そんな事を言われてしまうと、クリスは何も言えなくなる。ただただ顔が赤くなり、涙が浮かんでくるだけだ。その様子に、ネフシュタンから見ているフィーネをして、何だこの可愛い生き物はと言った感想を抱かせる。何とか白猫はもう一人の母を促す。
『まぁ、余計なお世話かも知れないけど、言っておかなきゃいけない気がしてね。胸の内にある想いとは、きちんと向き合っておきなさいよ?』
『……ッ!? い、いきなりなんだよ』
母の言葉に、思わず心臓が鷲掴みにされたようにびくりと震える。そんなクリスの様子に、始まりの巫女はおかしそうに続ける。
『まぁ、皆まで言わないわ。だけど、大切な人と言うのは何時までも傍に居てくれるものではないわ。ふとした瞬間に失う事もある。離れて行く事もある』
『それは……今回の件で実感した……』
『なればこそ、自分の中の想いに正直になるのが大事なのよ。傍に居たいと思える存在になるしかない。随分と強いライバルもいるようだしね』
『ライバル?』
白猫は母の言葉に小首を傾げる。
『まぁ……、あれだけの男はそうはいないわよ。数千年生きた私が断言するのだから間違いないわ』
『……何の話をしてんだよッ!?』
『あなたの為に二度も死ぬ思いをしてくれる人間なんて、そうそう居ないって事よ』
『だからッ!? ん……二度?』
母の口から語られる言葉に赤くなりながらも反論しようとして、ふとした違和感に気付く。二度とはどういう事だと疑問が浮かんだ。
『完全聖遺物を纏った私に正面から挑んできたのは、あなたの為よ』
『え……?』
『あの時あなたの事を踏み躙ってしまった私に本気で怒りをぶつけて来たわ。ソロモンの杖と、ネフシュタンを手にした私によ? シンフォギアも無しに、平然と死線を越えて来ていた。私は、愛を知っているならばなぜ愛されていた事を理解しなかったと一喝されてしまったのだから』
最も、英雄と言えども恋する乙女には勝てなかったけどねと、始まりの巫女は続ける。
『でも、あの人はおっさんに頼まれて来たはずだ』
『そりゃ、弦十郎君の頼みはあっただろうけど、実際に刃を交えた私が感じたのはあなたへの対応に関する怒りだったわ。先ずはそれ。その後に他の想いは付いてきていた。滅多にいないわよ。それだけ大切にしてくれて、実際に世界の脅威に立ち向かい血を流す人なんて』
『あたしの……為?』
『勿論。もう一度断言してもいいわ。あれだけの男は早々居ない。繋ぎ止めておかないと、後悔するかもしれないわよ? 何せ男と言うのは、良い女に惹かれるものだと本人が言っていたのだから』
何せ、その背を見ていたのは一人では無いのだからと母は楽し気に笑う。本人の言葉を、意図とはまるで違う方向に良いように引用しているが、そこは気にしては負けである。そしてその言葉が効いたのか、自分の内側を見透かされている様で白猫は恥ずかしさが更に募っていく。
『別に、あたしの気持ちは恋とかそんなんじゃねーし!』
『あら? 別に私はあなたの気持ちが恋だなんて思ってないわよ?』
『~~ッッ!?』
母の、私はそんな事一言も言ってないわよと続けた言葉に、白猫は涙目でネフシュタンを睨みつける。思わず投げそうになるが、それは流石にできなかった。大切な人の命を繋ぎ止めてくれたのは、その母であるからだ。複雑な感情は勿論ある。だけど、感謝もしていた。何よりも、本当に失いたくなかったあたしの居場所を守ってくれたと言う想いが強い。そう言う気持ちも相まって、白猫はうぅ……っとうなる事しかできない。乙女心は複雑なものなのである。
『まぁ、良いわ。そんなあなたは私から見ても可愛すぎるのだから』
『だから、なんか勘違いしてるだろ!?』
『ムキになるのもまた良きかな』
久々に出会ったもう一人の母は、性格が変わったのではないかと思う程奔放としている。クリスは完全に翻弄されていた。実際にフィーネとしては楽しくて仕方が無い。その為櫻井了子としての一面が強く出てしまっていた。女としては、他人の恋模様と言うのは何歳になっても興味が惹かれるのである。自身が初恋の為に世界を壊そうとした程の人間だからこそ、他人の恋を見るのも楽しくて仕方が無いと言った訳である。恋する乙女は最強なのだ。その力は英雄すらも打ち倒す。
『あははは。まぁ、今はそれでいいわ。とは言え、あんまり悩んでいたら足元を掬われるかもしれないわよ?』
『……どう言う事だよ?』
ムキになって母の言葉を否定しようとするが、思わせぶりな事を言われれば、白猫はつい言葉に耳を傾けてしまう。そう言う擦れているようで素直なところまで、母にとっては可愛くて仕方が無い。
『最高の仲間は、最高の敵かも知れないって事よ』
『……仲間が、敵?』
『まぁ、恋する乙女って言うのは英雄すらも打ち倒す。それは、あなただけの特権では無いという事よ。頑張りなさいな。色々な意味でね』
『あ、おい!?』
そこまで言うと、ネフシュタンは一度だけ淡い光を発した。白猫は自分の内から気配が消えた事を感じる。思わず声を荒げるが既に遅い。自分の声は、自分の内側に響いただけである。
「まったく、なんなんだよ」
真っ赤になったままで白猫は吐き捨てる。なんだか恥ずかしくて仕方が無く、悪態でも付かないとやってられなかった。だけど、不思議と嫌な気分では無かった。その口元には、小さな笑みが浮かんでいる。
「どうぞ」
扉が叩かれた事で、上泉之景は入室を促した。左腕。既に処置は完了しており、包帯が巻かれている。思えば、この人はずっと怪我をしているなとクリスは何となく思いながら、入ってきた人物を視界に納める。
「怪我をしたと聞いたのだけど、大丈夫、かしら?」
「マリア・カデンツァヴナ・イヴか」
控えめなノックと共に入ってきたのはマリアである。クリスとしてはさわりだけ聞いたが、マリアとはユキも出会っていた。既に拘束される事は確定しているが、共に戦っていた。一度ぐらいは挨拶がしたいと言う事なのだろうと納得する。自分がマリアの立場であったとしてもそうだろう。何せ、この戦いの中で一番の深手を負ったのがユキである。傷自体はネフシュタンが治してくれてはいるが、そう言う問題でもない。
「マリアだけじゃないよ」
「調とあたしも一緒に居るデース」
「月読調と、暁切歌だったかな」
マリアの後を追うように、調と切歌も入って来る。名は合っていたかなと問うユキの言葉に、二人は頷く。F.I.S.の中で生き残った者達が一堂に会していた。流石にあれだけの事を為したウェル博士は完全に拘束されており、この場にはいない為、彼を除いた全員という事であった。
「あたしは、席を外した方が良いか?」
「そうね……。少しだけ私達だけで話させて貰ってもいいかしら?」
「解った」
今回の件で話しておきたい事があるのだろうと大凡の事を察したクリスは、マリアに聞いていた。彼女等としてはクリスが傍に居ても問題は無いのだが、ユキだけである方が話し易くはあった。クリスにも仲間意識はあるのだが、だからこそF.I.S.の事を話す際に傍に居れば気恥ずかしいという事だった。すまないと一言詫びを入れ、クリスの提案を受け入れる。気にしてねーよと小さく笑う雪音クリスが退出したのを確認した後に、三人はゆっくりと向き直る。眼前には、上泉之景が静かに視線を向けてきている。思わず息を呑む。相手は、今回の事件で命を落として尚、再び立ち上がった人間だった。話を聞いただけだが、改めて対峙するとそんな前情報もあり、少しだけ気圧されてしまう。
「マリア?」
「大丈夫デス。あたしたちも一緒デス」
そんな姉の様子を敏感に察したのか、二人の妹がその手を握り励ます。思わず吹き出しそうになる。マリアとしてはほんの少しぐらい強くなったつもりだったが、どうやらまだまだの様だ。心強い家族の暖かさにに安心している事が、何処か嬉しかった。二人に大丈夫だと答える代わりに、少しだけ強く手を握る。
「先ずは……ごめんなさい」
「迷惑をかけて、ごめんなさい」
「襲い掛かってごめんなさいデス」
三人は最初に頭を下げた。目の前に居るのは、マリア達F.I.S.の暴走を文字通り身を挺して止めてくれた人達の一人だった。響やクリス、翼などとは最後の時に共に戦い心が通じ合っていた。だけど、最も血を流し、一度は命すら潰えた人とはそれ程深い関わりは無かった。だから、三人とも真っ先に頭を下げると決めていた。
「行き成りどうした」
そんな三人の様に、ユキは少しだけ意外そうな顔をする。この男がそんな表情を浮かべる事こそが、三人にとっては意外でしかない。拍子抜けするほど穏やかな響きで零された言葉に三人が思わず頭を上げる。視線が交わる。その瞳には戦場とは違い、ただ穏やかな色が宿るだけである。
「私たちは、あの子達も含めてあなたにも大きな迷惑をかけてしまったわ」
「ただ止めようとしてくれた。それなのにあたしは、あろう事か話も聞こうとせずに刃を振り翳し、問答無用で襲い掛かった。今考えて見ても、謝るだけじゃ済まされないデス」
「他にも、響さんが酷い怪我を負ったり、その友達が博士によって無理やり戦わされたのも、全部私たちの所為です」
「だから、何よりもまず謝らないといけない。許して欲しいなんて言う気はないわ。だけど、そんな私達をあなたには、あなた達には信じられないほど助けてもらった。だから、ごめんなさい」
何度も酷い事を行い、それでも尚命を懸けて助けられていた。その罪は、謝罪の言葉ではすまされないだろう。それを理解して尚、三人は謝っておきたかったのである。共に戦った三人の装者とも、その様子から仲が良好なのは容易に想像できた。クリスなどその死を告げられた時は、調と切歌の前で涙を抑える事が出来なかった。マリアは、響に恋をしたとカミングアウトされている。そんな経緯もあり、ユキが一度は死を迎えた事に強い罪悪感を覚えていたのである。何とか生きてはいたが、そんな事で気持ちが軽くなる筈もない。心底良かったとは思うが、それとこれとは全く別の問題である。だからこそ、三人は誠意を込めて謝ったのだ。
「別に謝らんで良いよ」
そんな三人の言葉に、ユキは静かに首を振る。武門から見れば、彼女等には謝る必要など無いのである。
「しかし」
「必要ない。戦場だ。譲れない想いがあったからこそ、命のやり取りを行ったのだろう。その結果に今がある。やり方は間違いだったかもしれない。だが、その想いに嘘はない筈だ。考え、苦しみ、そして君たちは我らと刃を交わした。違うか?」
それでも食い下がろうとするマリアに、ユキは目を閉じ、戦いを思い出しながら続ける。
月読調は大切な味方から離脱してでも、誤った道を行く仲間を助けて欲しいと願った。暁切歌は自身が消え逝く運命にある為、大切な親友や家族の為に何かを遺したいと想い、刃を振るった。マリア・カデンツァヴナ・イヴは、全てを偽ってでも世界の為に、誰かの為にと悪を為し続けていた。
その方法は決して褒められたものではないだろう。だが、その想いは本物だった。誰かを護りたいと言う尊い想いは本物だったのだと、刃を重ねたからこそ理解していた。戦わなければ示せない想いがあるのを上泉之景は誰よりも知っている。だから、自分の胸の想いに従い戦場でぶつかり合った事に関してユキから何かを言う気は無かった。何よりも、強い親の想いを示されていた。三人は母によって守られていた。自身も父によって、親によって守られたユキからすれば、似た者同士でもある。だからこそ、彼女等を否定しようとは思わなかった。
「それでも私たちがした事は許される事ではないわ。特に、あなたは本当に死ぬところだった」
「戦場だぞ。死ぬ事ぐらい日常茶飯事だろう。大した問題ではあるまいよ。君たちとて、それ位の覚悟はしてきていただろう?」
「それは、そうだけど」
「何より、俺は武門だ。死など古馴染みのようなものだ。すぐ傍に寄り添っているものであり、怖いものでもないよ。刃を振るい何かの為に戦えたのならば、それはそれで良い。その為に刃を磨き上げてきたのだからな」
ユキからすれば、戦場で示された想いはどんな言葉よりも重い。刃を交わす事になったとは言え、その想い自体には否定するべきものが見つからない。気付けば涙すら浮かべている子らに、これ以上追い討ちをかける刃を持っていないのである。そんな物は武門の刃ではない。
「結果的にあなたは生きていた。だけど、死んでいたかもしれない」
「構わんと言った。が、それでは君たちは納得できないのだろうな」
「ええ。それは守ってくれたあなた達だから言える言葉よ。例えあなた達が良くても、私たちが自分を許せない」
それでも、自分たちは許されるべきでは無いと言葉を続けるマリア達を見据え、ユキは苦笑を浮かべる。思い込んだら一直線なところは、うちの三人娘と変わらないでは無いかと少しだけ呆れてしまったからだ。不器用な子らだと思いつつも、その誠実さは好ましく思う。
「君は母の言葉を覚えているか?」
だからこそ、ユキも言葉を続ける。不器用だが、真っ直ぐな子達に伝えたい事があるからだ。
「……生きなさいと。私達を縛るものは何も無いのだと」
「……マム」
「……ッ」
マリアが母であるナスターシャの言葉を思い出しながら呟く。調と切歌の瞳から大粒の涙が零れ落ちる。二人も、通信から母の言葉を聞いていた。だけど、その真意を知っていたのはマリアだけだろう。生きなさい。その言葉の意味に辿り着けたのは、誰かを生かす事を託された人間が傍に居たからこそである。母の真意を悟った二人に涙を抑える事などできる筈がなかった。
「君たちはその言葉を忘れなければ良い。その言葉を胸に、どれだけ辛かろうと母の願いを叶え続ける。それさえ成してくれれば、俺はそれで構わんよ。何も言う事は無い」
二人をあやそうとするマリアも、あの時の母の事を思い出したのか、涙だけを流している。そんな三人に、ユキは彼女等に成して欲しい事を伝えていた。自分が許せないと言うのならば、それを許せるまで拠り所とできるものを与えればいい。罪に対して、罰と言う形でユキはそれを与える。三人が涙が止まらない目でユキを見た。その姿に、これ以上は俺でも斬れはしないぞと笑う。
「……そんな事で、良いんデスか?」
「……もっと難しい事でも受け入れる心算です。それだけの事をしてしまったから」
「罰を与えると言うのなら、甘んじて受け入れる心算よ。あなたになら、何を言われても仕方が無いと思っている」
「それは俺の仕事ではないな。君たちを裁くのは、他の者達が為すだろう」
そんな事で良いのかと言う三人に、ユキは小さく笑う。そして、これは君たちが思う以上に難しい事だとも続ける。武門である。そんな上泉之景が、簡単な事を言う筈はない。
「君たちを責めるのは他の誰かが為すだろう。裁かれる事もあるだろう。例え再び自由を得たとしても、真実を知らぬ者達からは石を投げられ、言葉の悪意に晒される事も少なくはないだろう。背負った物が辛く、投げ出したくなる事もあるだろう。それでも尚、言わせて貰うぞ。母の言葉を忘れるな。最後の最後まで、生きる事を諦めるな。それが生かされた者が、想いを託された者が為すべき事だよ」
煤になった父の姿を思い出しながら、ユキは三人に伝える。彼女等は、母であるナスターシャに、救われた世界で生きる事を託されたのである。これから彼女等には辛い未来が待ち受けているだろうと容易に想像がつく。それは、上泉之景ではどうしてやる事もできない問題だった。彼女らが立ち向かわねばならない現実だった。だからこそ、今此処でユキが何かを言う必要はないのである。今言わずとも、直ぐに嫌と言う程思い知らされるはずなのだから。
だからこそ、ユキは伝えておきたかった。それでも尚、生きて欲しいと願った親が居た事を。子を想う親の願いは、何よりも尊いものであるのだと言う事を忘れて欲しくは無かったのである。自身も父に生かされ、託されたものがあったからこそ、同じような生かされ方をした三人にはその想いを決して忘れて欲しくは無かったのである。それを罪に対する罰と言う、彼女らが受け入れやすい形で伝えていた。どれだけ辛くとも生きる事を諦めない。そう約束させる。
「解ったわ。私たちは、マムの言葉を忘れない。どれだけ辛くとも、生きる事を諦めない」
「そう言って貰えると安心できる。尤も、俺の言葉は後進の受け売りなのだがね」
泣く妹の代わりに何とかユキを見据え言い切ったマリアに、傷だらけの英雄は只笑みを向ける。これ以上、上泉之景には何か言わなければいけないことは無かった。目を閉じ、彼女らが泣き止むまで待つ心算であった。
「あなたは強いわね。身体も心も」
「君らよりは幾らか先に生まれ、歩いているからな。後を行く者に無様な姿は晒せんよ」
歌姫が呟いた言葉に当たり前だと頷く。勝てない訳だ。そんな事をマリアは思う。すぐ傍に居る英雄と呼ばれた男にとっては、マリアや調と切歌も後を行く者に過ぎないからだ。人間としての在り方に、圧倒されていた。自分もこんな風に強い人間になれるだろうかと、妹を宥めながら思う。三人にとって、それだけ出会った事の無い種類の人間が、上泉之景と言う男だった。
「あの子にも伝えたけど……、私達はあなたに出会えて良かった」
だからこそ、マリアは泣いている二人の分も代表してそんな言葉を贈る。立花響にも送った言葉。それとはほんの少しだけ、異なる響を持つその言葉を伝えていた。
「ああ。俺もあなた方に出会えて良かった。大切な想いを、もう一度見せて貰えた」
そんなマリアに、ユキは目を閉じ軽く笑う。誰かを護りたいと想い戦う者が居た。大切な親友に何かを遺したいと戦う者がいた。誤った道を行く家族を止める為に戦った者がいた。娘を守る為に命を懸けた母が居た。そんな文字通り命懸けの決意を示されていた。それは、ユキ自身の内にある想いと同種のものなのである。ユキと彼女らの差はあるが、大切な想いである事は間違いなかった。その想いを、違えずに抱いて行きたいと思う。
「そうだ。あなたの事を名前で呼んでもいいかしら?」
「構わんよ。好きに呼んでくれて問題ない」
「そう。之景。あなたもマリアと呼んでくれて良いから」
「ではそうさせて貰うよ、マリア」
言葉が途切れる。ほんの僅かに浮かんだ空白にマリアが名前で呼んでも良いかと聞いた。特に問題がない為ユキは了承する。名で呼ぶ。ただそれだけの事だった。呼び合った事で、少しだけ満足したように頷く。
「私たちは行くわ」
「ありがとうございました」
「絶対に忘れないデス!」
「そうか」
そして、漸く泣き止んだ二人と手を繋ぎマリアはユキに向け小さく笑う。大切な想いを再確認させて貰えていた。マリアは、調は、切歌は、母の想いを受け継いだ少女たちは、これからも悩み苦しむ事はあるだろう。だけど、諦める事は無い。母の想いと言う強い拠り所を得たのだから。その姿を見たユキには心配する事も無くなっていた。ただ見送るだけである。それ以上の言葉はいらなかった。
「また、逢ってくれるかしら?」
だからこそ、最後に聞かれたマリアの言葉に幾らか意外そうな表情を浮かべた。歌姫はただ笑う。最早会う事は無いだろう。だからこそ、そんな言葉を言っておきたかったのだ。
「ああ。いつかまた、な」
「ええ。いつかまた、ね」
自分に会うのに大した障害など無いぞと言いかけて、言葉を呑み込む。そんな野暮な言葉は必要なかったからだ。いつかまた会う日まで。そんな言葉だけを告げ、ただ笑った。それだけで良いのだ。
そして三人が扉へと向かう。長い話になる為かけられていたロックが外れた医務室の扉が、静かに開かれた。
「おわぁ!?」
「ちょ、クリスちゃん!?」
「え……?」
そして、二人の少女が部屋に雪崩れ込む。雪音クリスと立花響。聞き耳を立てていた二人は、開かれた扉の所為で思いっきり中に流れ込んでいた。マリアの瞳が見開かれる。完全に予想していなかった事態である。
「……聞き耳を立てるのは褒められた事では無いと止めたのだがな。聞き入れて貰えなかった為、監視していた」
「……翼、あなたもッ!?」
そして、一人涼しい顔をして立っている風鳴翼にマリアは頭を抱える。全て聞かれていたようである。そう考えると、一気に顔が熱くなる。そう言えば自分は何を話していた。そんな事を考えると、恥ずかしくて目も当てられない。
「あ、あなた達は!!」
「い、いや、ちちち、違うんですよマリアさん!! ユキさん、女の子だけだけど大丈夫かなって思って!!」
「そ、そうだ。あたしたちは、あの人が変な気を持たないかと心配してッ!!」
余りの恥ずかしさと幾らかの怒りでマリアは声を荒げる。そんな様子を見た響とクリスは、その剣幕に押される。思いっきり聞き耳を立てていたのだから、言い返せないのも仕方が無かった。恋する乙女だから仕方が無いのである。
「俺は随分と信用されてない様だな」
そんな少女らの様子にユキは苦笑を浮かべる。
「いや、先生が過ちを起こすなどとは万が一にも思っていませんよ」
そんなユキの呟きに翼はさらりと答えた。その様子がおかしくてユキは噴き出す。
「どうやら、俺を信じてくれる人間は翼しか居ない様だな」
「はい。漸く名で呼んで貰えるようになりました。その信頼には応えたいと思っております」
「全く良い
「先生に一晩
防人と武門は軽口を交わす。確かに翼はユキと一晩斬り合い、自分の中の葛藤を完膚なきまでに斬られていた。今の風鳴翼があるのは、ユキのお陰と言えない事も無かった。
「ええ!? ちょっとその話詳しく教えてください!!」
「おま、おま、おま、先輩相手に何してんだよ!!」
「翼が一晩相手をして貰った……?」
とは言え、そんな事実を知らない響とクリスはマリアの事などお構いなしと言わんばかりに詰め寄る。マリアは行き成り明かされた衝撃の事実に顔を赤く染めパクパクと言葉にならない言葉を零す。
「意外と進んでた?」
「デデデ、デース!! これはまさかの事実が発覚したデス!!」
調と切歌も驚きを示す。特に、ませている切歌は露骨な反応を示す。とは言え、先の二人ほどではない。
「どうしたんだ皆して? 私が先生を慕う事がそんなにおかしい事だろうか?」
そんな皆の様子に、風鳴翼は不思議そうに尋ねた。当たり前である。翼からすればただ刃を重ねただけであり、漸く名前を呼んで貰えるまで認められただけであるのだから。防人と武門の在り方に、恥ずべきところなど何もなかった。
「これが……防人ッ!?」
そんな翼の様子に更に勘違いが増したマリアに戦慄が走る。
「先生。皆はどうしたのでしょうか?」
「いや。君はそのままが良いと皆が思っているだけだな」
「そうでしょうか。とてもそうは思えないのですが」
そして、一人だけ意図が理解できない防人は武門に尋ねた。笑う。些か心配ではあるが、風鳴翼は今のままで良いとユキは笑ったのだった。
クリスちゃん、母に色々吹き込まれる
マリアさん、白猫が三十話かけた事を数話で達成
調&切歌、武門と対峙。泣かされる
響、盛大な勘違いをする
防人、天然であの切れ味
武門、残された者の在り方の一つを語る
シリアスさんは二部本編が終わった為奇跡への礎となりました