オレはベッドの上に横たわっていた。
天井にはかつて眺め続けたシミが、同じような形で目に映っている。
グランニアとの決戦を終えたあの日。
ダラダラできないと騒いでいた頃に見たものと、同じシミだ。
あの時と比べて自分は随分と変わってしまったんだな。
体自体は動くと言えば動くが、末端の感覚が無く、力が入らない。
気がついた時は手足の指先だけがおかしかったが、今は手首から先、膝から先が動かなかった。
まるで体の外側から腐り落ちていくかのようだ。
異常は身体だけではない。
自分の中の精神というか、心のようなものが刻一刻と薄まっていく感覚がある。
割れた桶から水が溢れていくように、なだらかに、ゆっくりと。
オレの身体にも穴が空いてんのかな。
確かめたくとも自由には動けない。
医者にも診せたし、回復魔法も十分にかけてもらったが、復調しなかった。
だから怪我でも病気でもない。
そうすると残ったのはただ一つ。
ーー死ぬんだろうな。
自分の死期を直感で感じた。
生命力というものがあるとしたら、オレは確実にそれを失い続けているだろう。
自分という存在が徐々に消えていく。
死を迎えるとはこんな気分なのか。
祭りの後のような、恋人を家に送り返した後のような、複雑な寂しさがあった。
「アルフ、寝てなくて平気? 起きている方が辛いんじゃない?」
部屋の入り口でリタが声をかけてきた。
後ろの窓から差す光のせいで、表情がよく見えない。
もしかすると視力まで怪しくなっているのかもしれない。
「大丈夫だ。天井だけ眺めてるよりは、外の景色も見ていた方が気も晴れる」
「そう……よね。辛かったらすぐに言ってね」
「子供たちは呼んでくれたか? このまま死ぬかもしれないから最期の……」
「やめて!」
叫び声をあげたリタが、オレに覆いかぶさるようにして飛びついた。
頬が濡れている。
顔を見ていると、目が酷く充血していた。
もしかするとずっと泣いていたのかもしれない。
「そんな、恐ろしい事言わないで! まだそんな歳じゃないじゃない!」
「ああ、悪かったよ。うかつだった。気弱になってるから子供たちの顔が見たくてな」
「……ごめんなさい。グレンとミレイアなら今晩にくるわ。シルヴィアはゴルディナに居るから、明日の晩ですって」
「そうか、ありがとう。そんな泣くなって」
オレは動かない手を伸ばして涙を拭おうとした。
ダランと垂れていて、何とも痛々しい。
その手を両手でリタが握りしめて呟いた。
「人族は短命だって聞いてるから覚悟してた。でも怖いの。あなたが手に届かない程、遠くに行ってしまいそうで……」
「リタやアシュリーに比べたら一瞬の命だろうが、まだまだだって。孫の顔見る前に死ねるかって」
「そう、そうよね。心配しすぎ……よね?」
「当たり前だ。オレにはまだシルヴィアの彼氏をぶん殴る仕事が残ってるんだ。簡単に死ねるかよ」
「もう、アルフってば。シルヴィアに怒られるわよ」
「……ありがとう。そこまで心配してくれて」
「こんな時にしか労ってくれないんだから、ズルい男よね」
吐息だけで少し笑ってくれた。
それを見てオレは胸をなでおろした。
あんなに泣かれちゃこっちだって辛いからな。
リタは『少し外す』と言い、去っていく背中を無言で見送った。
明日の晩か。
何としてもそれまでは持ちこたえないとな。
それにしても、回復魔法をかけたリタならわかっているだろうに。
オレがもう助からないことを。
頭では分かっていても、感情は別って事なのかね。
「そうは思わねえか、鳥さんよ?」
オレが窓の外へ声をかけると、壁の向こうがガタガタッと騒がしくなった。
全く……隠れるならさ、もうちっと上手く隠れろよな。
「オレはな、そこの木に止まってる鳥さん。アンタに話しかけてんだ。話し相手になってくれ」
「あ、そう……なんですね。どうぞどうぞ、いくらでも話しかけてくださいな」
「どうやら悪運もこれまでみたいでな。もって数日の命のようだ」
「でもでも、これからまた元気になるかもしれないじゃないですか!」
「わかるんだよ、自分の身体に起きてる事がさ。生命がゆっくりと死に向かっているのがわかるんだ」
「そんな、そんな事……」
鳥はもう木に止まっていなかった。
それでも会話を続けているコイツは、やっぱり抜けてるんだよな。
まぁそれはどうでもいい事か。
「オレには古い知り合いが居てな。そいつとは散々馬鹿騒ぎをしたんだよ。それこそ毎日のようにな」
「それはそれは、楽しそうですね」
「ああ、楽しかった。賢人なんて名乗っちゃいるが、アホの子でな。いろんなトラブル起こしてくれてよ」
「うぐっ。でもでも、良い所もたくさんあったでしょう?」
「まぁな。賑やかにしてくれたしな。オレの人生を彩ってくれてありがとう、と伝えたい」
「ありがとう……ですか?」
「そうだ。森の賢人に会う事が会ったら伝えて欲しい。ありがとう、楽しかった、お前と会えて本当に良かったってな」
「……ぅぅ。……ヒグッ……」
全く、鳥は泣くんじゃなくて鳴くもんだよ。
つい湿っぽくなっちまったな、オレたちには似合わない涙の別れ。
まぁ最期くらいは真面目でも、いいよな?
はぁ、少し疲れた。
喋っただけでこの有様じゃ、いよいよ覚悟しなきゃいけないな。
ちょっとだけ寝かせてもらおうか。
……どれくらい時間が過ぎたろう。
誰かが部屋に入ってきた。
サイドテーブルに何か独特な臭いのするものを置いて。
この衣擦れとは違う金属音の主は。
「エレナか」
「あぁ、すまない。起こしてしまったか?」
「いや、微睡んでただけだ。半分は起きてたんだ」
「そうか……。街で体力増強に良いと聞いた薬湯だ。飲んでみるか?」
「この明らかに苦そうなヤツだろ。一口だけくれ」
「わかった。じゃあ起こすぞ」
口に含まされたそれは、臭いこそ強烈だったが、苦味はそれほどでも無かった。
それが本来の形なのか、味覚が無くなってしまったのかはわからないが。
「もういいや、十分堪能したよ」
「……まだたくさんあるから、いつでも言ってくれ」
「嗜好品じゃないんだ、自発的にもらう事はないだろうよ」
「次からはハチミツを入れて持ってこよう」
それもどうなんだ、より凶悪な味わいになるんじゃないか?
冗談のつもりでは無いようで、椅子に座りながら見つめてくるエレナの顔は精悍そのものだった。
そういや軽口を叩いている所なんか見た事無かったな。
「エレナ、お前は結婚とか家庭とか考えないのか?」
「どうしたんだ急に。そんな事を聞くなんて」
「ちょっと気になってな。アシュリーたちと違ってお前は人間だろう。寿命だって長くは無い」
「フフフ、そんな事考えもしなかったな。私は家庭を築くのに全く向いていない人間だ」
「すまんな。大して報いてやる事ができなくて」
先ほどとは違い、エレナは整った顔を少し綻ばせている。
陽が傾き始めたのか、夕暮れの光にその頬を少しだけ赤色に染めて。
「ありがとう、の方がしっくりくるな。私は幸福だったのだから、謝られてもいささか困る」
「そうか。こういう時はそっちの方が適切か。エレナにはとても助けられた。戦いの場でも、この森の家でも。ありがとう」
「ありがとう。私こそ、家族の温かみを心から感じる事ができた」
「……悪いが、少し眠らせてくれ。妙に眠気が強くてな」
「あぁ、気が利かなかったな。ゆっくり休んでくれ」
自分の中の何かが急速に萎んでいくのがわかる。
昼間に比べて意思の力がずっと弱々しい。
数日とは言わんが、せめて明日の夜までは持って欲しい。
祈る様な気持ちで自分の娘を待ち続けた。