光輝を発する牡牛から降りると、女は新天地を方々を見やる。
そうした怯える仕草すらも美しく、端々に見られる洗練された所作が、彼女が高貴な血筋にあるのだと雄弁に物語っていた。
――――これより此処がそなたの終生の地となろう
牡牛が語った。
否、牡牛ではない。獣に変じていても溢れ出る苛烈なる神性、
見れば、女は身籠っていた。
そう察して、それは唐突に
神ならず、そして人でもない青銅の躯に宿る擬似的な制御人格が、筆舌に尽くし難い嫌悪と、憐憫を覚えたのだ。
嫌悪は、王へ。
憐憫は、女へ。
およそこの世に生を受くる者で知らぬはずもない、ゼウスの旺盛さ。
その下劣な矛先を向けられる女は数多く、彼女もまたそのひとつにすぎないのだと容易に推測できた。
なんの慰めにもならない事実として、類稀なる寵愛をゼウスから注がれているようだが、それが女の不安のひとつでも晴らせたのだろうか。
否。女は畏まってゼウスの神託を賜っているが、その胸中に渦巻く諦観は深く、昏い。
それを知らぬように振る舞うゼウスは、つまるところとことんまで興味が無いのだろう。
神の愛とはそういうものだ。それが人にとって福となるか禍となるかは、神の匙加減ひとつに委ねられる。
そういう意味では、女はこの上なく幸運だった。
ゼウスの寵愛を受け、子を宿し、栄光を約束され、国すら与えられる。
矮小な人の身に余る栄誉を幸いとせずして、他にどのような幸福があろうか!
電流にも似たゆらぎがありもしない脳裏に明滅する。
この荒れ狂う波のようなゆらぎを、きっと人は"怒り"と呼ぶのだろう。
傅く
果たして知られるはずのない怒りを余所に、語らいは暫し続く。
やがてゼウスは二言、三言、己の女に告げると、牡牛の姿のまま天へ昇り星となった。
星となったゼウスは、三つの至宝を女に授けた。
一つは決して尽きぬ投槍。
二つに"逃さずの猟犬"ライラプス。
三つは――――
「お初にお目にかかります、エウロペ様」
ゼウスが去った後、傅くままに口上を述べる。
まばゆい金色の髪。計算され尽くした造形美。
確かな知性を宿した振る舞いは、神が望んで造り給うた従者のそれ。
「これより貴女にお仕え致しますこのしもべの名を」
神ではなく、人ではない。また男でもなく、女でもない。
老いとも若きとも無縁の、ヘパイストスが生み出せし至宝の一つ。
「――――
一説に、人知れぬ旧時代の末裔ともされる青銅の人。
後にクレタの守護神と崇められる、美しき女の美しき従者。
「どうぞ何なりとお申し付けくださいませ」
◆ ◆ ◆
タロスはエウロペによく仕えた。
日に三度島を巡回しては、不審な者あらばこれを捕らえ、攻め込む船あらばそれを大岩で沈めた。
またライラプスを伴って狩りに赴けば、必ず大物を仕留めて帰ってきた。
当初こそ不安にやつれ気味だったエウロペだったが、アステリオスという男を夫に迎えてからは、彼の誠実さに触れてか穏やかな笑みを浮かべることが多くなった。
独り身でお腹の赤子を心配することも今はない。
アステリオスは己の血が繋がらぬ赤子を宿すエウロペを快く迎え入れ、その赤子も天与の祝福と言って分け隔てなく慈しんだ。
アステリオスは凡庸な王であったが、敬虔で信心深く、誠実であった。
エウロペを妻に迎えたことでクレタ島の王権を神より授けられながら、それに驕らず、妻と子と神を深く愛し、堅実に島を治めていた。
タロスはエウロペを第一にしながら、しかしアステリオスも深く尊敬していた。
神の傲慢により見果てぬ地へ連れ去られたエウロペの悲しみを癒やしたのが彼であるとよく理解していたからだ。
だからこそ彼を王と認め、エウロペに仕えるのと同じように、彼にも仕えていた。
しかし、一人だけ例外があった。
「なぜ、余の狩りに伴わぬ。そなたと猟犬がいればもっと多くの獲物を仕留められるであろう!」
そう声高に言い放ったのは、エウロペの第一子、ゼウスの血を引くミノスだった。
幼い彼はゼウスとエウロペに似て雄々しく、また美しかったが、父に似て傲慢だった。
幼いながらに自らの高貴な血筋を自覚し、ゼウスの血を誇りに思い、母譲りの美貌に酔っていた。
「いいえ若君、あなたの言うとおりに狩ってしまえば、獣はたちまち尽きて後の恵みを得られなくなってしまいます。そうなってしまえば、どうやって肉や毛皮を得るのです?」
「であれば島の外へ行って獣を狩ればよい! 貴様、そのためのゼウスよりの授かりものではないのか!」
「いいえ若君、私が下賜されたのはひとえにエウロペ様へお仕えするため。決してあなたのワガママを叶えるためではありません」
「貴様! 余の命令に従わぬというか!!」
タロスは悪い意味でゼウスに似た性根のこの少年を好けないでいた。
決して口に出しはしないが、嫌っていると言っても過言ではない。
タロスが嫌悪する神の傲慢を人の身で振る舞うその姿こそがその原因だった。
「若君、どうかお聞き分けくださいませ。この島は豊かで、足るを知れば富める豊穣の地。その恵みを蔑ろにすることは、それこそ神々への冒涜ではありませんか」
「~~~~ッッ、もうよい!!」
畏まり、慇懃に答えるその声色は冷たい。タロスの振る舞いは、幼いミノスには大きな威圧に映った。
言葉に詰まったミノスは顔を真っ赤に染め上げると、そう言い捨てて乱暴に去っていった。
その後を供回りの兵たちが追っていく。横切るその顔を伺えば、そこには辟易が浮かんでいた。
幼い王子のよくある癇癪――――と言えばそれだけの話だが。
それも回数が重なれば億劫にもなろうというもの。
「……今日は念入りに見回らないといけませんね」
けれども、憎くはないのだ。
決して好きになれない悪童ながら、それでも敬愛する主の子。
憤る背中を見送りながら、溜息も吐けない躯を悩ましく思った。
◇ ◇ ◇
「そう、あの子がまたそんなことを……」
エウロペは悩ましげに吐息をもらした。
エウロペの私室には、今は彼女とタロスしかいない。
常は后として柔和な笑みを民に向けるばかりの彼女が、今このときばかりは母としての苦悩に眉を顰めていた。
「良くも悪くもゼウスの血筋、ということでしょうか。最近は養育係の手に余ることも多く、皆難儀しているようです」
「あの御方の血に皆萎縮してしまっているのかしらね。アステリオス様はよく諌めてくださるのだけれど、却って反発してしまうそうで……そういう年頃なのかしら」
「私にはわかりかねます。……私では、若君の感情を逆撫でしてしまいますので」
「ふふ、お互いそうだものね?」
タロスはそっと顔を背けた。
無表情のままわかりやすい反応を示す彼女に、エウロペはからかうようにコロコロと笑う。
「あなたってほんとわかりやすいわ。あの子の話をするときはとってもむっつりして、拗ねちゃうんだもの」
「いいえ、エウロペ様。そのようなことはございません」
「そんなにあの御方が苦手?」
「は――――いいえ、エウロペ様。そのようなことは、決して……」
唐突に神への不信を見透かされた気がして、タロスは動揺を覚えた。
背けた顔は常と変わらぬ鉄面皮。しかしその心魂を見抜くような言葉。
しかしエウロペは、そんなタロスの様子も愛おしむようにして、静かに呟いた。
「タロス、あのね……私、またあの御方にお会いしたの」
「! それは……」
「――――また、授かったわ」
そう言ってそっと腹を撫でるエウロペの姿に、タロスはいよいよ思考を手放しかけた。
目まぐるしく脳裏を駆け巡る動揺、焦燥、驚愕、そして怒り。
見透かされた不信が突き出るようにして意識を叩き、その鉄面皮を崩そうと訴えかける。
従者としてあるまじき祝福の言葉を述べることすら忘れフリーズするタロスに、エウロペは「やっぱり」と言って、仕方のない風に苦笑いを浮かべた。
「アステリオス様はまた授かりものだと仰ったわ。弟妹が出来ればきっとミノスのためにもなるだろうとも。……あの方は変わらず祝福してくれて、私を愛してくれている」
「エウロペ様……」
「アステリオス様はとても敬虔だから、変わらず慶んでくれている。血の繋がらぬ私の子らを、きっと分け隔てなく愛し、導いてくださるのでしょう」
「エウロペ様……貴女は、それでよいのですか……?」
タロスの声音は、錆びた鐘のように震えていた。
かつて初めて主への拝謁を賜ったそのときに抱いた嫌悪が、再び濃く黒く胸中に渦巻いていく。
本来そのような機能など持ち合わせないはずの青銅の心身が悲しみに割れ響き、奥底に封じた不信と憐憫を主へ矛先を向ける。
分際を越えた従者の訴えに、エウロペは。
后として。女として。母として。
タロスには計り知れない感情の渦を呑み込んだ
「ねぇタロス、どうか私の子どもたちを守ってあげて? 遠い場所へと連れてこられて、苦しいことも辛いことも哀しいこともあったけれど、それでもやっぱり子供は可愛いわ。たとえどんな血を引いていようと、とっても愛おしい。その子供たちを、貴女に守ってもらえるのなら、こんなに嬉しいことはないわ」
「難しい……難しいです、エウロペ様。私には、人の心がわかりません。心が無いはずなのです。なのにあるはずのない心がざわめいて、ノイズが口をついて零れるのです。きっとなにかの間違いなのです。私はどこかが間違っているのです」
「世の中にはね、過ちはあっても間違いだなんてことはきっと無いのよ。貴女ったら、図体ばかり大きくてまだまだ子供なんだから」
エウロペがそっとタロスを抱きしめた。
タロスよりも頭三つ分も小さい彼女の、不格好な抱擁。
しかし今ばかりは、タロスはそんな彼女よりもずっと小さい、幼い子どものように見えた。
◇ ◇ ◇
その夜。
タロスは森で迷っていたミノスを見つけると、彼と狩りを共にしささやかな獲物を仕留めた。
ヘパイストス製古代ギリシャメイドロボ(無性)
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