青銅の従者   作:ててこと

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別れ

 年月が幾つか過ぎて、エウロペは第三子までをゼウスとの間にもうけた。

 ミノス、ラダマンテュス、サルペドン。皆父母の血を思わせる美丈夫で、民は王国の安泰と栄光を口々に語る。

 クレタ島はにわかに活気づき、王を戴いて以来一番の忙しさに追われていた。

 

 一方でタロスの務めは何ら変わることはない。

 日に三度島を巡り、必要なだけの獲物を仕留め、それらを王家に捧げる日々。

 変わったところと言えば、その道中にちょこちょこと付き纏う影が見られるようになったことだろう。

 ミノスとタロスは、初めて狩りを共にして以来、表立って親しくする様子は見せなかったが、なにかと同道することが多くなっていた。

 

「ぬぅ……のうタロスよ。その猪はちと小さすぎはしないか? それでは弟たちの鎧を作るには足りぬだろう」

「いいえ、ミノス様。これは貴方様の分でございます。そろそろ初陣を飾るのもよいだろうとアステリオス様が仰せです」

「なんと! それはまことか!?」

 

 数年を経て、ミノスは背丈も伸び見るからに強く逞しくなっていた。

 なにかと癇癪を見せていた激情家の面も、弟たちが生まれてからはとんと鳴りを潜め、長子らしい落ち着きを得ようとしている。

 兄というのはそういうものだ、少しでも良いところを見せたがるのだ。そう笑って言ったのはアステリオスだった。

 

 タロスは、そうしたミノスを、いつしか若君とは呼ばなくなった。代わりに彼の父母へそうするように態度を改めていた。

 タロスもまた、ミノスと同様に成長したのだとエウロペは笑っていた。

 タロスは「そのような機能は無い」と否定したが、しかし満更でもない心地を確かに覚えている。

 いつしか彼らは、まるで姉弟のようだと噂されすらしていた。

 それを聞いたミノスが兄は余であると主張したのも記憶に新しい。タロスが言及することはなかったが。

 

「立派な戦装束をこしらえようと、職人たちが沸いておりましたよ。そう遠くないうちに軍勢を率いることもございましょう。今まで以上に勉学に励まねばなりませんね」

「おおぉ……!」

 

 ミノスはタロスが仕留めた猪を輝く瞳で見ると、分厚い毛皮のあちこちを撫でて回る。

 この丈夫な獣のそれが己を飾る様を夢想し、思わずにやけてしまっている。

 

「勿論お前も伴をするのだろう? 余の智略にお前の怪力が加わればまさに無敵であるからな!」

「そのように仰せつかっておりますが、今から浮ついているようではまだまだ……と、アステリオス様なら仰るかと」

「ううむ、義父上の説教は長いからのう……それは勘弁じゃ」

「今のミノス様なら、そうそう叱責を受けることもないでしょう」

「そうかの? うむ、そうじゃな! 若かりし頃とは違うのだ、今の余に慢心は無いぞ、うむ! ふはははは!!」

 

 幼くはないが未だ充分に若い……と口を挟むほど、今のタロスは無思慮ではなかった。

 人の身であるミノスと違い、タロスに成長という概念は存在しなかったが、人世に揉まれるうち少なからず変容をきたしていた。人間的に言えば、親愛すら覚えはじめていたのだ。

 いずれも神の道具にすぎぬ身には本来不要のものである。しかしエウロペはそうしたタロスの変わりようを喜び、穏やかな笑みを深くしていた。

 

 それが何故か、例えようのない切なさをタロスに刻む。

 同じくミノスがタロスの手を取るたびに、例えようのないもどかしさが染み渡る。

 タロスはそうした己の変容を自覚していたが、未だそれに結論付けられずにいた。

 ただ、満更でもないとどこかで考えていた。

 

 

 ◆ ◆ ◆

 

 

 エウロペとアステリオスより興ったクレタ島の営みは、ミノスが長じると共に隆盛を極めていった。

 周辺諸島やギリシャ本土との交易によって富を築き発展していった文明は、まさにミノスの成長と意味を同じくしていたとすら言える。

 そうして絶頂の最中にあるクレタの人々だが、今このときばかりは皆一様に暗く沈んでいた。

 ――――初代王アステリオスが、遂に冥府へ旅立ったのだ。

 

「思えばアステリオス様も私も、歳を重ねたものね」

「エウロペ様、薬湯をお持ちしました。島一番の薬師が煎じたのです、きっと楽に……」

「ありがとう、タロス。だけどもういいの、自分の死期くらい、自分でわかるわ」

 

 悲報はそれだけに留まらなかった。

 アステリオスが逝去したのと時期を同じくして、王妃エウロペが病に伏せたのだ。

 老衰であった。神の血を引かぬ常人にすぎないエウロペは、僅か数十年の時を生き足掻く人間でしかないと、タロスは改めて思い知る。

 

 島を駆け巡って集めた薬草も、滋養に良いとされる獣の肝も、タナトスの誘いを退けるには足りない。

 タロスは日に日に細くなっていくエウロペの手を取って、失われていく温もりを必死に止めようとしていた。その冷たい青銅の手で。

 

「不思議な気持ちよ、タロス。冥府へ旅立つというのに、なんの恐れもないの。まるでお散歩にでも出かけるような気持ちで、すっと穏やかでいられるのよ……きっと、幸せな人生だった証拠なのでしょうね」

「わかりません……わかりません、エウロペ様。私にはわかりません、とても重い気持ちが……あるはずのない心が割れ響くのです! ミノス様も、ラダマンテュス様も、サルペドン様も、民の皆も泣いております。だけど私にはそれがないのです! ()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()、エウロペ様!」

 

 タロスの声は、傍にはなんの悲痛も、哀切も宿していなかった。

 ただあるべき機巧があるべき音を発するように、単なる言葉を発するに過ぎなかった。

 その鉄面皮も崩れる様子もなく、澄ました表情だけを浮かべて、ただ手を取る仕草を真似るだけのようだった。

 

 それがなんとも、タロスには憎らしかった。

 己の躯そのものが檻であるようにさえ思え、それがエウロペの血族と触れ合い培ってきた()()()を封じるのを嫌悪すらしていた。

 人々が当たり前のように流す涙を流せないその事実が、タロスの心を千々に引き裂くように。

 

「いいえ、あなたは泣いてくれているわ。人はね、本当に悲しみ、喜ぶときは、心からそうするの。私にはあなたの涙が見えて、それがとても温かい……」

 

 そっとタロスの手を握り返すエウロペの指先は、今や細く枯れ木のようで、しかしその美しさは変わらない。

 老いてこそ芽吹く末期の美を、タロスは――――。

 

「どうか憐れまないで、タロス。いろんなことがあったけれど、今だからこそもう一度言えるわ。()()()()()()()()()()。よき夫、よき子たちに恵まれ、栄えた国の中で、一番の従者に惜しまれながら旅立つ……こんなに幸福な女が他にいるでしょうか。タロス、私はね、今とっても幸せ」

「エウロペ様……エウロペ様……ッ」

()()()()だなんて悲しいことはもう言わないで」

 

 先逝くエウロペの達観は、そんなタロスの憐憫を見透かした。

 その上でどこまでも、遺され生きる者たちの幸福を願った。

 

「あなたは神々が造り給うた青銅の従者。だけど私には、とても寂しがりな子供に見えたわ。子供たちが皆息子ばかりだったからかしら、娘のようにさえ思えた……」

「そのような、そのような……エウロペ様、おやめください。私、私は……ッ」

「だからこそ、子供たちを託すわ。これをどうか母の遺言と思って、よくよく弟たちを助けてあげて。それだけが私の末期の願いです」

「――――あぁッ!」

 

 およそこの躯に滾る神血(イーコール)よりも熱いものがあるなどと、タロスはこのときまで思いもよらなかった。

 人が人として涙がこれほど熱く沸き立つものだったなどと、知る由もなかったのだ。

 タロスは、塞き止められているはずの神血が瞼から零れ落ちる様を幻視した。

 あるはずのない機能が、起こり得るはずのない情動に突き動かされ、封を破って僅かに流れ出る。

 おそらくは最初で最後の、タロスの涙。それをエウロペは何よりの贈り物だというように、愛おしげに認めた。

 

「さぁ、太陽(アポロン)が見回りの刻を告げているわ。いつものように民を安心させてあげて、私はここからそれを眺めているから」

「かし、かしこまり、ました……エウロペ様。どうか、お心安らかに……」

 

 タロスは鉄面皮に刻まれた涙の痕を拭い、部屋を出た。

 外には、ミノスが立っていた。

 

 何を言い出すでもなく歩を進めるミノスに、タロスは同道する。

 宮殿を出、島の外周を回りながら、暫しの沈黙を保ったまま歩いて、唐突にミノスは言った。

 

「母上は――――いや、聞くまでもないな」

「ミノス様……」

「ふん、余はもう別れは済ませたぞ。大方我らの面倒を頼むとでも言われたのだろうが、まったく見当違いにも程があろう。母上はいつまで経っても余を子供扱いするのだからな!」

 

 反発するような口振りだが、まったくの強がりであった。

 目尻は細く、唇を強く噛んで堪える彼の悲しみを誰が知ろう。今や立派に大きくなった王子は、父母の死を越えて王たらんとする意気に満ちていた。

 

「タロスよ、余はこれより王権の正統を示す」

「如何なる手段を用いましょう」

「このクレタの営みは、ゼウスの変じた牡牛に母上が伴われたことより興った。であれば今一度神々の牡牛を賜ることこそが、何よりの証となろう」

「如何なる神にそれを望みましょう」

「ポセイドンに乞う。その手筈も既に整えている。ラダマンテュスの差配に抜かりはないぞ」

「サルペドン様は――――」

「言うな。奴との決着をつけるときがきた――――それだけのことだ」

 

 アステリオスが没して後、ミノスとサルペドンの対立は目に見えて深まっていた。

 長子として王位を求めるミノスと、それを不服とするサルペドン。秩序を重んじるラダマンテュスはミノスを支持し、サルペドンの反発はいよいよ極まりつつあった。

 

 エウロペの遺言を聞き届けたタロスは、しかし衝突が不可避であることを悟る。

 故にこそ、今一度分際を越えてミノスへ言った。

 

「ミノス様、至らぬ身を伏してどうか願います。何卒、何卒お命ばかりは奪わぬよう、どうかお聞き届けください」

「――――やはり、母上はそれを案じておられたか」

「それが末期の願いと、仰せでありました」

「であれば、報いぬわけにもいかぬなぁ……まったく、母上め。最期まで子供扱いしおって……」

 

 つぶやくミノスは、しかし苦渋を浮かべてはいなかった。

 それが救いであるように、重苦しい息を吐きつつも誓いを込めて言葉を紡ぐ。

 

「是非もなし。余は王位を脅かすものへ決して容赦はせぬが、その命まで取ることはしないと誓おう。ポセイドンへの誓文にこれを含め、絶対の証とする」

「ありがとうございます……ありがとうございます……!」

「とはいえ、そうなっては奴もこの島に居場所は無いであろうがな……ふんっ、せめてもの餞別くらいは用意してやらんこともない」

 

 

 ◆ ◆ ◆

 

 

 後、エウロペが没して暫くした頃。

 ミノスは手筈通りポセイドンへの誓いを立て、自らの支配が盤石となるまでという約束のもと聖なる牡牛を借り受けた。

 それを以て王権の証とし王位の正統性を示すが、サルペドンは遂に軍を率いてそれに叛逆。対するミノスも軍を以てこれに応じ、クレタ島は未曾有の内戦へと陥る。

 暫く続いたこの戦いは、ミノスの勝利によって終わりを告げ、サルペドンは自らに付き従う民と兵を連れて島を追放された。

 

 しかし一方で、それらを追撃する手は一切無かったと言われる。

 また、島を離れるサルペドンが乗った船には、彼らが新天地へ辿り着くに充分な食糧と財産が予め積み込まれていたとも。

 その後両者が交わることは一切無いがために、ことの真意が明らかになることはないが。

 少なくとも、兄弟が命を奪い合うことは、今生の別れを経てもなお無かったことは確かであった。

 

 

 ――――ここにクレタ島は隆盛を極め、後にミノア文明と呼ばれる営みが花開くことになる。

 

 




タロスのステータスはいつか用意したい
ギリシャ神話編は十話以内には終わると思います
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