幻想郷怪奇談 ~寺子屋で話す怖い話~   作:ごぼう大臣

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三周目・赤蛮奇END-『思い出せない』

 ……赤蛮奇の六話目が終わった。彼女は自分の分が終わると後は知らないという態度で、ため息一つついて気だるそうに壁によりかかってしまった。

 

 ……部屋を退屈そうな沈黙が包む。これで一応全員の話を聞き終えた訳だが、私は解散を告げるのを躊躇していた。というのも、妹紅の言った"来るかどうか分からない七人目"の事が気にかかっていたからだ。

 もしその七人目が遅刻をして来たとして……―とんでもない大遅刻な訳だが―出迎えるのが家主の私だけだったりしたら。

 

 そいつは私とマンツーマンで怖い話をする事になるのだ。これが恐れられる。

 生徒の補習で時々二人きりになる事があるが、私が真剣に教えると決まって相手は退屈そうにしている。

 あまりに長くなると帳面に落書きをしだしたり、私に向けてギャグを飛ばしたりする者もいる。暇な時に思い出すと笑えたりもするのだが……。

 

 仕事の最中だとつい言ってしまうのだ。"ふざけないで真面目にやりなさい"と。良いとこ軽く流して勉強に話を戻すのが私のクセである。これでは石頭と揶揄されるのも仕方ない、そう陰で自嘲したのは一度や二度ではなかった。

 本職である学業が関わってさえこの始末だ。義務でも何でもない遊びの場で二人きりで場を持たせるなど、私には荷が重いように思う。

 

 苦い回想をしてふと我に返ると、視界の隅に燐の顔が入った。つられて顔を上げると彼女は天井を睨み、チラチラと気忙しそうに視線を泳がせている。

 ネズミでもいるのだろうか。掃除は週に一度はしている筈だが、思わぬ見落としでもあったのだろうか。

 どうせ授業は無いのだし、明日辺り気合いを入れて掃除するか……。そんな風に呑気な事を考えて皆の方に向き直ると、そこにはやや顔をしかめる光景があった。

 

 ほぼ全員があらぬ場所を睨んでいる。壁をじっと睨んだままのマミゾウ。首だけを静かに回転させて部屋を見渡し、苦虫を噛み潰したような表情をする赤蛮奇。メディスンも生意気そうだった顔が青ざめ、礼儀正しかった妖夢までが壁に掛けた刀に手を伸ばし、荒い息を吐いている。

 

 何が起こっているのだろう。私の目にはそれこそ彼女らの様子を除いて変わったものは見当たらない。

 不安にかられて隣の妹紅を見る。するとまるで敵対者に向けるような険のある視線を送られた。思わずぎょっとしてしまう。

 悪ふざけでは無いと思うが、これでは私は丸っきり置いてきぼりだ。

 そう戸惑いながら肩を落とした時。

 

 突如つん、と鼻を突く臭いがした。とっさにスンスンと嗅ぎ回れば、疑いようのない気色悪い空気、まるで廃材置き場に死体を放置して腐るに任せたかのような臭気が脳髄まで届く。

 思わず胃液が逆流しかけ、慌てて押し留める。酷い臭いだ。このメンバー以外誰も出入りしていない筈なのに、まるでずっと部屋で籠っていたかのような激臭。

 

「すまない、ちょっと外の空気を……」

 

 言いながらヨタヨタと腰を上げると、立ちくらみと頭痛が一気に襲ってきた。不可解な現象に首をかしげる余裕もなく倒れそうになった。その体を誰かに受け止められる。

 霞む視界には、私を見下ろす妹紅の顔があった。彼女は険しい表情のまま私の肩を担ぐと、耳元で短く囁いた。

 

「出た方が良い」

 

 その意味を聞き返すより早く、いつの間にか帰り支度を終えた面々が私達の横をすり抜けて行く。

 そして妹紅は明かりも消さずに一目散に廊下に飛び出した。ドタドタと音を立てて走り回り、やがて向こうに開け放たれた玄関が見えてくる。

 その戸をくぐり抜けて闇の中に飛び込むと、途端に涼しい空気が身を包む。さっきまで汚水の中に溺れていたかのように、品もなく大量に息を吐いた。

 

「はぁっ……はぁっ……」

 

 里の通りまで引きずられる間、肺一杯に酸素を交換する。さっきまでの体の不調が嘘のように消え失せ、額にびっしょりかいた汗が清々しく感じた。私は一体どうなっていたのだろう。息を一つついて周囲に視線を巡らせると、待っていた皆それぞれが曇った表情で顔を見合わせていた。

 その中から、燐が私に振り向く。

 

「怨霊だよ。あたい達に惹かれて寄って来ちまったんだ。ありゃ厄介だよ」

 

 燐は頭を掻きながら寺子屋の方角を睨んだ。そういえば最初にメディスンがふざけて言ってたっけ。これだけ妖怪が集まれば悪霊とか寄ってくるかも、と。まさか本当になるとは。

 

「本当に来る事ないじゃない。気味悪いったら」

 

「嘘から出た真、か……。一気に酔いが覚めたわい」

 

「やっぱり里に集まるなんて不味かったな」

 

「わ、私達、どうなっちゃうんですかぁ?」

 

 口々に不安げな声が飛び出す。妖怪がそこまで怖がるのか、と訝しむ者がいるかも知れない。しかし精神的な存在である妖怪は怨霊のような気質に作用する存在に対し、意外に脆い。燐が言うように悪質な霊だった場合、手を出さないのはむしろ正解だ。仮に魂への対抗手段を持つ妖夢が勇敢でベソなぞかいていなかったとしても、向かって行くかは別問題だ。

 

「とりあえず霊夢を呼ぶしかないか……」

 

「夜中に押し掛けて大丈夫か?」

 

「仕方ない、緊急事態だ」

 

 言うが早いか妹紅は飛び出し、その後に続いて一斉に空を一直線に飛ぶ。全員が博麗神社の境内に着くや否や、私は神社の戸を叩いた。

 

「霊夢、居るか!? 出て来てくれ!」

 

 大声で呼び掛ける。二、三度繰り返すと扉の向こうからドタバタという煩い音が響き、やがて寝巻き姿の霊夢が顔を出した。無理に起こしてしまったようで髪は乱れ、目はしょぼくれて不機嫌そうに吊り上がっている。

 

「何の用よ?」

 

 舌打ち混じりに低い声で訊ねてくる。一瞬たじろいでしまったが背に腹は代えられず、先程の出来事を説明する。寺子屋で怪談をしていた事、集まったメンバーのせいか不穏な気配がした事、それがどうやら怨霊らしい事……。合間合間で妹紅や燐が補足してくれ、妖夢が涙声で危機を訴えた。

 しかし、それを聞いている間も、聞き終えた後も。

 霊夢は私達を睨みつけたまま口を横一文字に結び、一言も喋らなかった。

 最初は起こしたのを根に持っているのかと思ったが、窮状を全て聞かされても黙り込み、動き出さないのは不自然に思われた。いざという時は必ず出張ってきたのが霊夢だ。

 

 彼女が何故そうしているのか、段々と皆も不思議に思えてきたのか、隣と不安そうに視線を交換する。すると霊夢はゆっくりと口を開いた。

 

「……それ、本当? あんたら、霊の気配が全くしないわよ」

 

 え、と訝しむと、霊夢は困ったような表情で肩をすくめた。その仕草は本当に原因が見当たらず戸惑っているようだ。

 

「う、嘘だって言うんですか!? 私なんて寒気が止まらなくて気持ち悪くて泣きそうだったのに!」

 

「そうだよお姉さん。怨霊をあたいが間違う訳ないって」

 

「肩が外れそうなぐらい重かったのよ。あんなの鈴蘭畑でもそうそう無いわ」

 

 口々に反論する面々を霊夢は半信半疑といった表情で眺めていた。やがて額に手を当てひとしきり唸ると、「着替えるから待ってて」と言ってくるりと背を向けた。

 

 巫女装束に着替えた霊夢と共に、今度は寺子屋へと向かう。怨霊が発生した場所を探せば何かしら手がかりが見つかるだろうとの判断だ。

 月明かりもろくに届かない、厚い雲が立ちこめる夜空。私にはまたあの悪臭と倦怠感が襲ってきそうな、暗くねばついた空気が感じられた。霊夢は、何ともないのだろうか。

 

 寺子屋の戸を開け、霊夢を先頭にズカズカと踏み込む。やがて怪談をしていた広間に踏み込み、霊夢は注意深く部屋中を見渡した。

 一巡、もう一巡。

 そして私達に振り返る。しかし、言った言葉はまたしても期待とは違っていた。

 

「もう何もいないわ。騒ぎすぎじゃない?」

 

 霊夢の白けた表情に、思わず唇を噛んでしまう。あの時の魂をすり減らされるような感覚は生々しく頭に残っている。簡単に片付けられて納得は出来なかった。

 

「もっとよく調べてくれ。どこかに潜んでるかも知れん」

 

「だけどねぇ、モノによっちゃ目より勘の方がアテになるのよ。実際、今って気分悪い?」

 

 霊夢の言葉に自分の体を見回してみる。そういえばあれほど息を苦しくした臭いや、立つのも困難にした重苦しさが今はほとんど感じられない。慣れてしまったのかと神経を集中したが、それは逆に気のせいという可能性を深めただけだった。

 

「…………」

 

「まあ、たまたま寄って来ただけでも、焦るのは分かるけどさ」

 

 霊夢が黙りこんだ私に微笑んでくる。もう心配ない、悪く言えば気にしすぎだと言外に含んでいた。

 

「もう気にしなくていいんですか?」

 

「とりあえずはね。本当に害意があれば、話すだけで影響あるくらいだし」

 

「そ、そう……良かったぁ……」

 

 妖夢が一気に表情を弛緩させる。霊夢はそれを一瞥すると、挨拶も無しに玄関へと歩き出した。

 

「あ、霊夢……悪かったな。呼び出して」

 

「気にして無いわよ。教えてくれてありがと」

 

 手だけをひらひらさせながら、霊夢は神社へと去っていった。後は私含めて拍子抜けした七人が残される。

 さっきまで大騒ぎしていただけに、誰もが間が悪く雰囲気を引きずったままだ。感覚で驚異が去ったと分かっても、すぐには気持ちを切り替えられない。

 端から見たら間抜けであろう無言の空間を打ち破ったのは、マミゾウだった。

 

「じゃ、帰るかの……」

 

 そう言って羽織を翻し、里の出口へのんびり歩いて行く。キセルを吹かしているのか、微かに焦げ臭い香りがした。

 それを見送り、一人、また一人と別れの為の笑みをつくる。

 

「ばいばい、先生」

 

「ま、悪くなかったよ」

 

「あ、あの、誰か一緒に来てもらえませんか?」

 

「ハイハイ、あたいが行きますよっと……。そいじゃあね、先生。せいぜい参考にしなよ」

 

 明かり一つない野山の向こうへ手を振りながら消えていく。その姿も暗闇と静寂の中へ溶けて無くなり、寺子屋の前に私と妹紅だけが残された。

 

「すっかり遅くなっちまったな」

 

「悪かったな、妹紅。色々してもらったのに、こんな幕切れになって」

 

「なんで慧音が謝るんだよ。お前は何もしてねえだろ」

 

 妹紅は呆れた風に言ったが、私は素直に頷けなかった。コトの発端が私のわがままだっただけに、何かしら労いの一言でもかけてやりたかったのだが、性分のせいか気の利いた台詞が出てこない。

 

「お前は気にしすぎなんだっての。大体文句を言うなら来なかった七人目だろ。曖昧な返事しやがってよ」

 

 言い淀む私をよそに、夜空に向けてぼやく妹紅。ふて腐れたように宙を蹴るのを見て、つい笑ってしまった。

 

「そういえば、七人目は結局誰だったんだ? 勝手にサボるような奴なのか?」

 

「んー? ああアイツね。名前は……」

 

 ブツブツ文句を言うのを窘めてから、それとなく聞いてみる。人物によっては体の調子を崩したとか色々考えられるのだ。事と次第では見舞いに行こうかとも考えていた。

 

「……あれ?」

 

 しかし、今にも名前を言おうとしていた妹紅は、ふと言葉を切った。ポカンと開いた口がそれきり動かなくなり、代わりに夜空に向いた目が、次第に頼り無げに泳ぎ出す。数秒間それが続き、ついにこちらから尋ねてみた。

 

「どうした? 言ったらまずいのか?」

 

「いや、そうじゃねえんだが……。え、とな」

 

 私が尋ねると、妹紅は歯切れ悪く呟くのみ。見ず知らずの人間でも誘ったのだろうか。いや、それにしても名前くらいは聞くだろう。最初だって秘密だとは言ったが知らないとは言ってないのだ。

 しばらく妹紅の答えを待つ。地面に目を落としてから未だ腑に落ちない表情で出された返答はしかし、こちらの予想を裏切るものだった。

 

「……わかんねえ……」

 

「えぇ?」

 

 思わず聞き返すと、妹紅は本当だ、と念を押すように頷いた。どういう事だろう。彼女はわざわざ名前も思い出せないような人物を誘ったのか? 別に七不思議じゃあるまいし、人数合わせなどの必要も無いはずだが……。

 

 戸惑う私を見て、妹紅は慌てたように私と地面に交互に目をやりながら話し出した。

 

「いや、違うんだ。さっきまでハッキリと誘った覚えはあって、顔も名前も知ってたつもりなんだが……。いざ思い出そうとすると……」

 

「……分からない、のか?」

 

 私の問いかけに、釈然としない様子で妹紅は頷いた。

 

「頭の中で出てこないんだ。確かに顔も名前も確かめた筈なのに……」

 

 妹紅が頭を抑えて悩み出すのを見て、私はどうにも奇妙な心地であった。

 顔も名前も思い出せない? どれか一つならまだしも、両方ド忘れするなんてそうそうある事だろうか。それも直前まで覚えたつもりでいて、だ。

 大体、それがあり得たとして、その人物とはどんな関係になるのだろう。一定の付き合いがあれば少し悩んでもピンときそうなものだ。妹紅も幻想郷に来て長い。知らない者ばかりでもないだろう。

 或いは、新入りを誘ったのか。しかし今日集まったメンバーを思い出してみる。あの中に一人だけ新しい顔を飛び込ませるような真似を、新入生の歓迎会でもあるまいに妹紅がするのは考えにくかった。

 

 ふと顔を上げると、妹紅はまだ記憶を辿っていた。このまま悩んでも気の毒だと、私は妹紅の肩を叩く。

 

「ま、結局来なかったんだからいいさ。それより早く帰らないと」

 

「あ、あー……そうだな」

 

 妹紅は生返事をすると一言別れをつげ、駆け足で里の外へと去っていった。ボンヤリ見つめていると背中はすぐに見えなくなる。こういう所はいつもアッサリしていた。

 しかし、何故か今回だけは後を引くようなものを感じた。

 

 妹紅の誘った七人目。単に思い出せなかっただけかもしれないが、彼女は元来つまらない事で悩むような性格ではなかった。あの真剣な様子では、本当に思い出せずに困惑していたように思う。

 その不可解な現象に加え、先程の騒動……怨霊騒ぎが不気味さを深くした。霊夢は心配ないと言ったが、他の疑念と組み合わさると途端に正体の掴めない恐怖に見えてくるのだ。

 

 思い出せない、妹紅の頭の中でそれは一体どういう光景に……。

 

「ひゃっ」

 

 思考に耽っていた所で、ひゅるり、と風が吹き抜けた。夏には場違いな程冷たいその風は、一気に私を現実へと引き戻した。

 

 気づけば私は夜中に里の真ん中で突っ立っている奇特な女であった。こんな事はしていられない。何日もせずに本番が来るのだ。余計な事を気にかけていては楽しみにしている子供たちの興を削いでしまう。

 

「よしっ」

 

 一発頬を叩き、そうそうに我が家へ引っ込む。布団を敷いて床に入る頃には、とうに一時を回っていた。

 

 

 

 

「……それから、そのお店では店員が全員知り合いの筈なのに、数えてみると一人だけ増えてるんだって……」

 

「きゃー!」

 

「へへ、怖かったでしょ?」

 

 生徒の一人が得意気に微笑む。結局あれから何事も起こることは無く、無事に怪談大会は開催できた。数十人の子供たちはついこの間ここに妖怪が集まっていた事実など露知らず、例年のように怖がらせあって盛り上がっている。

 今年こそは、この場を盛り下げずにいきたい。私は知らず知らず肩に力が入っていた。今までは一人で考えていたが今回は加えて六人分のアイディアがあるのだ。

 あの時とは違い部屋にあるのはロウソク一本。それぞれの顔がかろうじて見える以外は真っ暗闇で、不気味さも一層高まる。

 もうすぐ私の番だ。今しばらく生徒の張りきりを見守ろう。そう考えて姿勢を正した時だった。

 

「俺の番だな。やっぱり怪談は人がたくさん居なきゃならねぇ」

 

 隣の生徒が言う。その途端、記憶にある臭いが鼻を突いた。

 あの腐ったような異臭。身体中が軋むように鈍い痛みが走り、頭が重く、意識が朦朧としだす。

 痺れる腕を押さえながら、あの六人が集まった夜の事を思い出した。怨霊がいると言って逃げ出した、あの時。

 あの時のように汚水のような空気が瞬く間に部屋中を包み、生徒たちも次第に顔をしかめ、肩を抱き、うめき声をあげ始めた。

 

「実を言うと以前話す機会があったんだがね……。まあこっちの方が話しがいがあるか」

 

 その中で、隣の生徒だけが何ら動じる事なく、むしろ楽しそうに言葉を紡ぐ。その内に生徒たちがバタバタと倒れ、胃の中のモノを吐き出した。室内にも関わらず風に煽られるかのようにロウソクの火が揺れ、生徒たちの苦悶の表情と畳にぶちまけられた内容物を代わる代わる、忙しく照らし出す。

 

 ネジが切れた玩具のように頭を動かし、話している隣の生徒を見た。この子も早く逃げなきゃ危ない。そう思って霞む目を見はる。

 しかし、その顔は。

 

 ロウソクに照らされた彼の顔は、誰なのか全く分からなかった。さっきまで何事もなく全員集まり、寺子屋の皆で怪談をしていた筈なのに、何かがおかしい。

 部外者が紛れ込む暇はなかった筈だ。そんな事があればたちまち他の生徒が気づくだろう。考えられるとすれば、私のド忘れくらいだ。

 しかし、あり得ないのだ。どんなにその場に溶け込んでいても、先程まで誰もが生徒だと信じ込んでいても、あり得ない。だって。

 

 その生徒の顔は、"無"だった。ロウソクの明かりで居る場所はハッキリと分かるのに、首から上だけがまるでくり抜いたかのようにぽっかりと、光の無い黒を晒していた。

 そいつがゆらりと私を見る。表情も何もない顔。そこの穴がひゅうぅ、とひび割れから吹く風のような音を漏らした。

 

 お前は、一体。震える声でそう言おうとした時。

 

 ふっ……とロウソクの火が消えた。微かに白い煙を残し、月明かりすら差さない黒塗りの闇が訪れる。あの苦しむ子供たちの声もぱたりと止み、私はチリ一つ見えない中で一人取り残された。

 

 何が起こった、奴はどこへいった。どこを向いても代り映えしない闇の中を忙しなく見渡す。背中に嫌な汗が滲み、抑えようとしても歯の隙間から情けない息が漏れる。

 畳に手をついて、無音の中を手探りでそろそろと進む。怯えて立ち上がれないのではと自分で疑うほど、ゆっくりと、赤子のように床を這う。

 

 すると、私の耳元、四つん這いの私を横から見下ろすような場所から、声がした。

 誰か分からない、人かも疑うような底冷えする、濁った低い声で。

 

「今度は、逃げるなよ」

 

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