「ん、私が次? 随分待たせてくれたわね、退屈だったのよ?
……まあいいか。私はメディスン・メランコリー。鈴蘭の毒で動けるようになった人形よ。付喪神とは違うから、間違えないでよね。
今日はね、ちょっと私が今朝、体験した事を話そうと思うの。朝方に怖い体験なんて珍しい? でも本当なのよ。今でも頭に残ってる。夢なんかでも断じてないわ。
……聞きたい? ふふ、じゃあ話してあげる。今いる中でちょうど最後だから、時間も気にしないで済むしね。
―
あれは、まだ空が白んでいる時間帯だった。寝転んでいた鈴蘭畑の芝が湿って冷たくて、体を起こすとひんやりした風が遠慮なく吹いてくる。
おまけに霧が辺り一面にほんのりかかっていてね。白い鈴蘭は隠れて霞んで見えて、いつもは緑や土色が混じって見える景色も灰色の影の集まりになって、それらを照らす太陽だけが薄ぼんやりと輝いている。
寒い上にまだ眠気は残っていて、朝早いし二度寝しちゃおうかなぁ、とも考えたんだけど、早いうちに目が覚めるってのも久しぶりでね。ちょっと迷ったけど、散歩する事にしたの。
前もろくに見えない鈴蘭畑を、適当に二歩、三歩と進んでいく。地を踏む度に足首を寒気が這い上って、芝の青臭い匂いが鼻をつく。地面を見ると芝に朝露がくっついてキラキラ光っていた。
それらがすごい新鮮でね。いつの間にかスキップを踏んでいた。何処に向かっているかも分からないけど、そんな事も気にならないくらい朝霧の雰囲気が気に入っていたの。
どのくらいそうしていたかしら。相変わらず霧は晴れないままだったんだけど。ふっと目の前に道が現れたの。多分魔法の森に繋がる小さな道。
ああ、鈴蘭畑が終わったんだな。そう思って振り返ってみたら、今まで歩いていた花畑は、ほとんど見えなかった。霧に隠れていたのよ。反対側にある、足元しか見えない景色と同じように。
もちろん見えないだけで、もとの道を戻ればいつも居る鈴蘭畑があるはずなんだけど、その時は霧が珍しかったからか、寝起きでぼうっとしていたせいか、ふと変な考えが浮かんだの。
今この時、霧の先の私が見えない場所は、ちゃんといつも通り存在するんだろうか、って。
例えば、幻想郷だと里があって周りに寺があって、竹林やら山やら湖やらがあるっていうけど、自分の周りと遠くの景色を同時に見れたりしないでしょ? 私が永遠亭に行ってる時、湖のそばの屋敷で吸血鬼がお茶を飲んでいるとか言われても、じかには確かめられない。
私が歩いて近づいた場所だけ、いつもと変わりない景色が現れる。でもその向こうでは、私が聞いていたものとは全く違う、知らないもので溢れていやしないか。違和感がないだけで認識できる場所だけ映画のセットみたいに組み上がっているんじゃないか。白い景色とほの暗い影を見つめていると、そんな考えがどんどん膨らんでいった。
空想に耽っているうちに、いつの間にか道をどんどん進んでいた。周りはちょっとした林が取り囲んでいて、大きな背の高い影が並んでいる。鳥の鳴き声もせず木が風に揺られ、ざわざわとやけにハッキリ音を立てる。それがなんだか耳障りで、遠巻きに陰口を叩かれているような、そんな苛立ちが浮かんだ。
輪郭が分かりづらい巨大な影が、揃ってこっちをじっと見ているみたいで、それがなんだか段々と怖くなって、心細くなった。
もう帰ろうか。周りをキョロキョロしながら、ふっと空を見上げた。その時だった。
空に、木なんかとは比べものにならない大きさの何かがあった。重たいねずみ色の分厚い雲が立ち込める中に、覆い被さってくるような、辺り一面に落ちてきそうな黒い何かがある。
それはよく見ると、幅の広い、手のような形だった。ただの見間違いかと思ったけど、重さのある実体なの。雲の向こうから巨人が腕を伸ばしているような、そんな圧迫感があった。ずっと遠くからでも遥かな天から見下ろす、何者かの手。
誰かいる。とてつもない大きさの誰かがいる。それも森も無縁塚も越えた幻想郷の外側、果てとも言える場所に。
そう思った瞬間、急に目の前の景色が白黒に点滅した。驚いてかぶりを振ると、頭がズキズキ痛んで鉛みたいに重くなり、その場に倒れそうになった。慌てて踏ん張ってまた宙を睨むと、あの大きな手は相変わらずある。でも、私の視界は歪んで砂みたいな幻が瞬き、耳に錆びたベッドが軋むようなノイズがひっきりなしに響いてくる。
思わずへたりこみそうになったけど、歯を食い縛って空の手を見たまま歩いた。何故か分からないけど、その時引き返したら、二度とあれを見られないような気がしたの。
一歩一歩、地面を踏みしめて歩く。空にある手はずっと、近づけている気配もなしに雲の隙間から覗いている。まるで虹を追っかけてるみたいに。
それでも進んでいって、やがて濃霧に隠れていた木々の影がだんだんと増えてくる。いつの間にか魔法の森まで来てたみたいだった。
湿った空気のせいか、キノコの胞子がいつもよりもっとしつこく鼻を刺激する。ちょっと前からの気持ち悪さと合わせて、吐き気までしてきた。ついにふらっ、と崩れ落ちそうになって、その時、確かに見えたの。
追いかけていた手が、さっきとは打って変わってくねくねと忙しなく指を動かしている。それに釣られるように、みるみる霧が晴れていった。だけど尋常じゃない晴れかた。さーっと波が引くみたいに白いのが無くなっていって、走っても追いつけないくらいに素早く、見慣れた景色が戻っていく。それは、なんだか舞台の幕が開かれていくような、非現実的な光景だった。
しばらくして霧なんて欠片もなくなっていた。緑が遠慮なく生い茂って、日もしっかりと昇っている。
信じられなくてポカンと突っ立っていたら、体の疲労を遅れて思い出した。ネジが切れたみたいにぶっ倒れて、何も考えられないうちに、意識を失っていた。
……しばらくして、誰かに肩を揺すられて目が覚めた。目を開けたら、あの魔法使いの魔理沙が上から私を覗きこんでいた。
「何してんだよ」
魔理沙は怪訝な顔で聞いてきた。日は既に高く昇っていた。相当長く寝ていたみたい。
「それは……」
答えようとしたけど、いざとなると言葉が出てこない。さっきまで謎の巨大な手を追っかけていたとか、霧がものすごい勢いで晴れたとか、言っても信じちゃもらえないと思って。
だから、霧で道に迷って、疲れて寝た。そんな下手な言い訳をしたわ。さあ魔理沙のバカにした笑いが聞けるぞ。なんて思ってげんなりしてたら、予想に反して魔理沙は何も言わず、眉のシワを深めただけだった。
どうしたんだろうと思って見返したら、魔理沙はこんな事を言った。
『何言ってんだ? 今朝は霧なんて出てないぜ』
『は?』
思わず聞き返したけど、魔理沙は至って真面目な顔。まさか一日中寝ていた訳はないでしょうし、私は不可解な思いでいい募った。
『アンタが何言ってんのよ。この辺全体までまんべんなく白かったじゃない』
『いやんな訳ねえよ。私はこの辺に住んでるんだぜ』
『朝早くの話よ。アンタ寝てたんじゃないの?』
『ないない、私昨日は徹夜で研究で、窓から夜明けを見てたんだぜ』
色々言ったけど、最後まで話は噛み合わないまま。果ては夢でも見たんじゃないかと心配される始末だった。でもあの倒れる時のだるさは体にハッキリ残っていたし、第一夢なら森の入り口なんかで倒れているはずないじゃない。
そのうち訳が分からなくなってきて、魔理沙のいる方角を見たまま、呆然としていた。
その時、あの手は見えなかったけど、ほんの一瞬、妙なものが見えたの。
魔理沙の後ろ側、背中辺りから空に向けて、キラキラした細いものが伸びている。魔理沙は何も気にしていないように見えたけど、目を凝らすとその糸のようなものは、ずっとずっと、あの手があった辺りまで高くから繋がっていた。
……まるで、糸で操る人形みたいに。思い返してみたら、倒れる寸前のあの手の動き、アリスなんかが人形劇でやる時の動きにそっくりだった。
―
それから、何人かにその日の霧の事を聞いてみたけど、誰一人知らないらしいわ。今では本当に夢だったのか、ともうっすら疑ってる。
でも、もしあの出来事が本当にあった事だとしたら……。
私は何か、見てはいけないものを見たような、そんな気がするのよね。
私の話も終わっちゃったわね。もうお開きかしら」