「あたいが六話目? ずいぶんと待たされたねぇ。まあいいけどさ。
あたいの名は火焔猫燐だよ。地霊殿で怨霊の世話をしていて、趣味は死体集め。気味悪いってよく言われるけど、まあ性分でね。こんな時くらいは、どうかよろしく頼むよ。
そいで、地底であった話を……と皆は期待するかもしれない。しかしね、今回はちょっと別の話をしようかと思う。
『学校の七不思議』ってやつだ。
学校ってのは、外の世界でいう寺子屋みたいなもので、子供たちが勉強する場所なんだけど。向こうじゃ知っての通り妖怪や幽霊が嘘っぱちだと思われている。
子供らはそれが退屈なんだろう。自分達が日々過ごす学校に、オカルトチックなものがあればいいなーって、色んな噂を広めるんだ。それも怖~い噂をね。
しかもそういう性質は時代が移っても変わらないようで、上の子から下の子へと噂はどんどん受け継がれていく。
トイレに花子さんが出るとか、夜中に楽器が勝手に鳴り出すとか……。実際に信じる奴なんかいないと思うけど、それでも一種の楽しみなんだろう。
寺子屋にも似たようなのありそうなものだけどなあ。夜になれば沢山いた子供たちが一人もいなくなって、教室も廊下もみーんな静まり返っちゃう。先生だって授業がなければ大体の部屋は施錠しちゃうでしょ? ましてや生徒にとっては未知の世界。その気になれば想像はどんどん膨らんでいくと思うんだよ。
え? 寺子屋に七不思議なんてない? 本当に? もったいないなぁ、身近な場所に恐怖がある"かも"ってのは、盛り上がる秘訣の一つなのに。
なんたって、今でこそ寺子屋は子供が元気に遊んでいるけど、昔なんてどうだったか。
改まって言う事でもないだろうが、比べるべくもないほど過酷なものだった。それこそ、今までの幻想郷の発展を全部ひっくり返したみたいに、厳しくむごたらしい世界だったよ。
鬼や天狗は遠慮なく人をさらい、河童は尻子玉を抜き、狐は容赦なくとりついて狂い死にさせる。雪女は冬の度に人を骨の髄まで凍らせたし、天邪鬼だってちんけな悪戯じゃなくて人殺しや盗みを平気で行っていたんだ。
そんな中にあって、人間の生活も決して楽じゃなかった。妖怪にやられてばかりじゃ滅んでしまうからと、陰陽師やらが仕返しとばかりに妖怪を討った。今みたいに安全の保障なんかないから、少しでも甘さを見せたら返り討ちだと思って滅多うちにするんだ。お互い何度も何度も、血みどろの報復をしあっていた。
脅威は妖怪ばかりじゃないよ。作物が実らなきゃ飢えが襲ってくる。今みたいに頼りになる薬屋さんもいないから、病にも気をつけなきゃいけない。子供なんて七五三を迎えずに死んでいく子が大勢いた。
しかも、その死ぬ時まで育てるのだって、貧しい家には一苦労。何人も子供がいればその分苦難は増えていく。
そんな時はどうするか……。想像はつくかい? 口減らしだよ。幻想郷にも子捨てで有名だった場所があるが、捨てるだけならまだいい。場合によっちゃ生まれてすぐに殺したり、災害を沈める人身御供にしたりした。洪水や地震だって、一度だけで沢山の命をあっけなく奪っていったんだ。
……ん、なんだい先生。それが寺子屋とどう関係あるかって?
にぶいなぁ。寺子屋に今どんな子が集まっているか、考えてもみなよ。昔みたいに命の危険もなく、皆で集まったり勉強したりなんかできる。時には妖怪とも触れ合ったり、昔には考えられなかったくらいのびのびと生活できるんだ。卒業してからも子供時代の思い出を残しながら、酒の味を知るまで生きていける。
死んでいった子供たちが見たら羨ましがるだろうねぇ。勉強どころか文字すら書けない奴もいたんだよ。その程度すら生きていく為に犠牲にしたんだ。
分かるかい。羨む気持ちがいきすぎて、憎悪すら抱くかもしれないって事さ。先生や生徒は何も知らずにのほほんとしているけど。……いや、あたいが死んだ奴らの立場だったら、そんな気持ちになるって話。
……んでね。まだ話は続くんだ。幻想郷が仕組みを整えて、段々と人も妖怪も平和になりはじめた頃。それまでの恨みや憎しみの痕跡は残さずお祓いされていった。これからやっと皆が穏やかに生きていこうって時に、好きこのんで汚らわしいものを大事にする輩なんていない。
この寺子屋だってそうさ。外の世界なら定番の怖い話が、ただの一個も出てこないだろ? 背景の内容が内容だけに、そんなのが表に出るようじゃシャレにならないんだよ。
……ふふ、それでどうにか上手くいってた、というのが今までの話。だが、どうも絶対安心とはいかないみたいなんだよ。何故かって?
……怨霊ってのは、たまにしつこい。あたいも地底で何人も死んだ奴を相手にしたけど、あいつら恨みさえ抜きにすれば意外と人懐こいんだよ。心を見透かすような相手ならともかく、普通に話をしてやれば自分の事をペラペラ喋り出す。
その裏にあるのは恐らく淋しさだ。いくら普通に生まれ変われない魂だといっても、たった一人でいきがって悪さなんかしたら、虚しいのはあいつらだって分かっている。
でも、仲間が出来れば話は別だ。互いに励まし合って正当化し、どこまでも害を及ぼす可能性がある。地底でも上手くコントロールしてやらなきゃ、なまじ人間じゃないだけに何をしでかすか分かりゃしない。二人でも、三人でも。数が増える毎に。
こっちではお祓いをして消えたんじゃないかって? それだよ。もしお祓いを一緒に乗り越えたら、さぞかし強い結束が生まれただろうねぇ。二、三人なんかじゃなく、もっと大人数でも。
例えば、七人集まれば七不思議に……。
まあ結局は七不思議自体がないから、こんな仮定の話しか出来ないんだけど」
……燐が一旦言葉を切り、たははと笑った。その時だった。
ガタンッ! という大きな音が、部屋の外から響いた。燐が口を閉じ静まり返っていた部屋の中で、私が肩を跳ね上がらせた拍子に漏れた悲鳴だけが、やけに目立ってしまう。
「な、なんだ?」
「さあねぇ、何か落ちたんじゃない?」
燐はやけに落ち着いて顔に笑みさえ浮かべている。周りをよく見れば慌てふためいていたのはほぼ私一人だった。妹紅は私の隣であの音に眉をしかめているだけ。怯えた色を見せているのは妖夢くらいだ。
「いや、わりと大きな音じゃなかったか?」
「なんだい、怖いのか?」
「そういや、最初に誰か言うたかいのう。悪霊が寄ってくるかも、とか……」
赤蛮奇がつまらなそうに、マミゾウが愉快そうに茶々を入れてくる。確かに、音一つで大げさかもしれない。もしかしたら、さっきまでの怪談の雰囲気のせいで神経が過敏になっているのかも……。
しかし、なんだか胸騒ぎがする。見えない襖の奥から、底冷えするような怖気を感じる。さっきまではなんともなかったが、あの音がした瞬間から、首筋を冷たい針で無数に刺されているような寒気がする。
「……ちょっと見に行ってくるよ。不審者かもしれない」
「なんじゃなんじゃ? 情けないぞ先生や」
「じゃあ皆でついて行ってあげようよー」
「あ、置いていかないでくたさいよぉ!」
腰を上げた私の背後で、頼んでもいないのに他の五人がドヤドヤと畳を踏み鳴らしてついてくる。子供の引率なら慣れているが、まさか寺子屋の中でプチ百鬼夜行を率いる羽目になるとは思わなかった。生徒が走り回る度に注意していた廊下が、普段なら役目を終えた時刻にギシギシと盛大に鳴り出す。後ろでまた大きな音がしたら、と思うと違う恐怖が芽生えてくる。
列をなして暗闇の廊下をそろそろと歩く。壁についていた手が、小さな木の格子に触れた。
「……この辺からだったな」
最初にいた大部屋から最寄りの障子戸を開ける。そこは、普段使わない着物などを仕舞っていた部屋。飾りどころに困っていた置物や人形などもあったが……
「……!」
戸を半分ほど開け、首だけ伸ばして覗き込むと、床に転がった人形と目が合った。大きめの、目を閉じた日本人形の女の子。近くのタンスの上には、他にも一松人形やコケシなどが所狭しと並んでいる。
「なんだ、この人形が落ちたのか?」
「それにしては大きな音がしましたね」
覗き込む私の後ろであれこれと不思議がる声が聞こえる。しかし、見た限り人形たちは数は多いにしろきちんと場所をとって整頓されている。現に今まで長い間落っこちたりはしなかった。
かといって、何かがぶつかったにしては落ちた一つ以外が整然としすぎている……。
しばらく半開きの戸の前で考え込んでいたが、とにかく落ちたままでは可哀想だと部屋に踏み込む。そして人形へ手を伸ばした、その瞬間。
「うっ!?」
カッ、と人形の目が開いた。さっきまで閉じていたはずの目がひとりでに開き、私を睨んだのだ。作りもののそれらは、白くぼんやりと光っている。
思わず飛び退いてしまった。後ろの障子戸に派手な音を立ててぶつかった私を、誰かの腕が受け止める。
「落ち着け。どうしたんだよ」
「目、目が開いたんだ! あの人形の目!」
いぶかしげな顔をする妹紅につい大声でまくし立てる。妹紅は私の慌てふためく顔を一瞥し、私が必死で指さす先を見る。
「……なんともなってないぞ」
「……あ、あれ?」
妹紅の静かな声に我にかえり、人形に向き直ると、確かに人形の目は元通りピッタリと閉じられていた。さっき確かに、無機質な目が見開かれてじっと私を睨んでいたのに……。
「なんだい、おどかして。ちっとも動きやしないじゃないか」
「たちの悪い冗談よしてくださいよ~」
燐が人形を拾い上げて振り回してみせる。眠っているような人形と明るく笑う燐を見て妖夢は胸を撫で下ろしていた。
……見間違い、だったのだろうか。この暗さの中でなら勘違いも……いや、暗い中で目だけ光って見えたのだがな……。
一人で考え込んでいると、燐が人形をどさりと乱暴に置く。その音と共に周囲の白けた視線に気づく。どうやら本当に目が開いて見えたのは私だけのようだ。
気を取り直し、振り返る。しかし。
今度はべぇん、べん、という何かを弾くような音がしはじめた。おそらく楽器、琵琶のようなもの。それもただ鳴るだけじゃなく、荒々しいながらも曲を奏でている。
「おい……これは」
「確かに、音がする」
「行ってみよう!」
今度は皆も異様さに気づいてくれたようだ。廊下を走り出すとすぐに音は近くに迫った。大股で二、三歩駆け出し、右手の扉を開け放つ。
「誰だ!」
開けるのとほとんど同時に怒鳴っていた。誰だか知らないがさっきまで楽器を弾いていたのだ。すぐに隠れられるはずが……
「な……」
開け放たれた部屋を見て呆然とした。扉に触れる瞬間まで流れていた曲が嘘のように消え失せていたのだ。
そこは音楽の授業に使う教室だった。太鼓や琵琶、三味線などを生徒用に保管し、授業の時以外はきちんと数を確かめて片付けている。出しっぱなしにした事は記憶の限りないし、生徒が勝手に入ったりもしなかったはずだ。
なのに、どうしてだろう。目の前には琵琶が置かれ、座布団まである。まるでさっきまで誰かが弾いていたかのように。
しかし、出入り口は教室の両端に、見える範囲で二つだけ。誰かがいたなら、そいつは一瞬で消えた事になってしまう。
「出てこい! 隠れても無駄だぞ!」
声を張り上げながら、棚の裏、押し入れの中、机の下などを探し回る。しかし生き物の気配一つ見つけられなかった。
「勝手に座布団と楽器がおあつらえ向きに転がり出る、なんて訳はないよな……」
妹紅が座布団をめくって肩をすくめる。他の皆もぎこちなく笑みを浮かべてはいるが、視線を泳がせたり腕をしきりにさすったりとやはり動揺は隠せていない。
姿を消せる妖怪はいない訳じゃない。そいつが忍び込んだのだろうか。それはそれで早急に見つけ出したいところだが……。
もし……いや、まさか……。
「む?」
部屋を見渡していると、赤蛮奇が不意に小さくうなり、何やらキョロキョロと視線を巡らす。よく見ると眉を寄せ、不不審そうな表情だ。
「どうした。また何か見つけたか?」
「見つけたっていうか……漂ってこないか? この胸が悪くなるような……」
赤蛮奇が話している途中で、突然鉄臭い臭いが鼻をついた。咄嗟に手で鼻を覆い、正体を思い出そうとする。嗅ぎ覚えはあった。しかし、ひどく忌避感のある身近な臭い……!
「血の臭いじゃ、こいつは」
「ひ、ひいっ」
血、と聞いて妖夢が尻込みする。しかし私はなるべく臭いを吸い込まないようにしながら皆のそばをすり抜け、ゆっくり廊下を進んでいく。嫌な連想だが、心当たりがあった。
体が無意識に拒否しているのか、歩く毎に次の一歩まで長く長く廊下の板がきしむ。それでも血の臭いは容赦なく濃くなっていき、頭の中だけが恐怖、焦り、悪寒、様々な感覚に振り回され目まぐるしく回転する。
目当ての場所が見えてきた時、すでに鼻は慣れてしまっていた。家庭科室。主に生徒たちが料理もろもろを学ぶ場所だ。血、肉、そういう生々しいものを扱う場所はここぐらいだ。
木製の引き戸を乱暴に掴み、叩きつけるような勢いで開ける。途端に血の臭いがヌルリとまとわりつくように襲いかかり、こらえる間もなくえづきそうになる。鼻に続き口にまで臭いが充満する中で、せめて目に映るものを見逃すまいと前方を注視する。
すると見開いた目に飛び込んできたのは、どす黒い液体にまみれた、不格好な肉の塊だった。
「あれは……」
家庭科室に四つほど用意された大きな調理台。そのうち丁度扉を開けてすぐの場所にある台の上に、失敗した粘土細工のような何ともつかない赤子ほどの肉塊が無造作に置かれている。その肉塊の周りには調理台を一面染めるほどの血溜まりが広がり、台の端からポタポタと音を立てて滴っている。暗闇の中で辛うじて届く赤い色が一層不気味さを醸し出す。
「なんだい先生、血が怖いの?」
燐が肉塊に怯む様子もなく近づく。彼女はその手のものは見慣れているのだろうか。自ら悪趣味だと自称する人間離れした感性が、今は清々しくさえ思えてくる。
「いや、そもそもそいつからあったのよ、その……変なの」
「あ、赤ちゃんじゃないですよね……?」
「……誰も、いないみたいじゃな」
怖くなってきたのか、私の後ろでメディスンと妖夢が声をひそめて疑問を口にする。一方、マミゾウは肝が太いのか肉塊を無視して家庭科室を見て回っている。しかし、相変わらず怪しい影は見つからない。
一体何が起きているのだろう。
……燐の言った七不思議の話が頭をよぎる。お祓いで怨霊を消しきれていなかったら。そしてもし複数で強い意思を持ち、しぶとく残っていたら。
これらは、怨霊のイタズラか? だが、こんな風に我々を振り回して何の得があるのだろう。寺子屋の皆に怨みがあるのなら、わざわざ夏休みの、こんな妖怪が集まった日にコトを起こす理由が分からない。
考えていると、燐が肉塊に鼻を近づけているのが見えた。よく臭いなんて嗅げるな、と困惑のせいか聞こえないように呟いた。するとまるでその声に気づいたかのように、燐が素早く私を見る。
その嫌悪感と戸惑いの入り交じった表情に私が身を固くした時、燐が言った。
「このハラワタ、人間の……」
「やめろ!」
思わず怒鳴ってしまった。燐はふて腐れたように肩をすくめる。怨霊が起こすイタズラにしても悪趣味だ。最初に七不思議がどうのと言われたが、まさかまだ四つもこんなおかしな事が起こるというのか。
頭痛がして、胃袋がグルグルと音を立ててうごめき出す。精神的に参りすぎたんだろうか。前屈みになりながら低く、小さな声を絞り出す。
「と、トイレに……」
「そ、そっか。掴まれ!」
妹紅が乱暴に私の肩をかつぐ。すでに胸のあたりまで生暖かいものがこみ上げてきている。その悪寒が全身に広がり、妹紅に寄りかかった部分がやけに熱い気がした。
「じゃ、儂らは一旦戻っているぞい」
マミゾウが背中に声をかけ、六人ぶんの足音が遠のいていく。私もあんな図太さがほしい。
―
「けほ、けほっ……」
「落ち着いたか?」
「あぁ……すまない……」
個室の扉の裏から妹紅の声がする。厠の入り口で待っていてくれと言ったのだが、何が起きるか分からないからとずっと戸を隔てたすぐ隣に立っているのだ。
「悪かったな。流石に平静を保っていられなくて……」
「気にすんな。……しかし、どうも怪談どころじゃなくなったな」
タバコをふかしているのか、大きな吐息が聞こえ、ヤニの臭いが漂ってくる。
それにしても本当に、どうしてこうなってしまったんだろう。今まで毎年怖い話をしたのに、何事も起きなかったじゃないか。
この寺子屋は、どうなってしまったんだ?
「とにかく、他の連中は帰らせよう。慧音も一旦私の家に泊まって、明日霊夢の家に行こうぜ」
「ああ……」
妹紅の理路整然とした提案に、私は気の抜けた返事しかできなかった。気持ちからくる吐き気なので出してしまうのは簡単だったが、肝心のだるさはほとんど改善されなかった。よろよろ立ち上がり、個室の扉に寄りかかるようにして取っ手を握る。
「……む?」
しかし、押した扉はびくともしなかった。再度取っ手を確かめて押してみたが、ガタガタと軋む音がするのみ。
「慧音? 大丈夫か?」
いつまでも出てこないのに気づき、妹紅が声をかけてくる。その声がさほど深刻ではないのが逆に私を焦らせた。
「妹紅! 扉を引いてくれ、戸が開かない!」
「は? カギが閉まってんじゃ……」
「それも確かめた! でも違う!」
怒鳴るように言うと向こうも事態を理解してくれたのか、扉を掴んで力むような声が聞こえてくる。しかし扉は相変わらず動かなかった。とうとう外れても構わんと両手で思いっきり扉を押すが、まるで石壁のごとく重い。
閉鎖空間に閉じ込められたせいか、息が荒くなり、額に汗がにじむ。なりふり構わず体全体を扉に押しつけて踏ん張っていると、完全に意識から抜けていた背後の空間から、不意にひやりとした空気が流れてきた。
冷たく、背筋に水を垂らされたような息を呑む不快感。ぞわりと体が震え、扉を汗ばんだ手のひらが滑る。
気のせいではない。真冬のすきま風のような冷気が、振り向けずにいる私の背中を舐めていく。首筋にピリピリと痺れが走った。
後ろは壁のはずだ。風が吹き込む訳がない。ならば、この冷気の正体は何だ? 私以外誰もいない個室で、いや、誰もいなかったはずの背後で、何が起こっている?
「くそっ!」
やぶれかぶれに扉へ体当たりした。バキリ、と金具がねじ切れるような音がして扉が吹っ飛ぶ。さっきまで微動だにしなかったものが急に呆気なく倒れ、扉もろとも床に体を打ちつけてしまった。
体の下で扉がへし折れ、古くなった木っ端ともうもうと立ち込めるホコリ、そして扉が無くなり一気になだれ込んできた便器からの臭いが混ざりあって辺りに充満する。
体の節々の痛みをこらえ、上半身を起こす。目の前には間一髪飛び退いていた妹紅が、目を丸くして私を見下ろしていた。
「すまん、どうにか出られた」
ホコリを払って微笑んでみせたが、相変わらず妹紅は表情を変えない。まるでとんでもないモノでも見たようだ。
「なんだよ、変な顔して」
痺れを切らして尋ねてみる。確かに多少荒っぽい真似はしたが、私なりに緊急事態だったのだ。さっきまで不可解な出来事の連続だっただけに、取り乱すくらい許してほしいものだ。
しかし、妹紅は一言も発さずに目を逸らし、私がさっきまでいた個室の奥をジロジロと見つめている。
そして、私の顔を見ないまま、口だけがふと小さく動いた。
「慧音……さっきの、誰だ?」
「え?」
誰、といわれても私には何の事やら分からない。しかし妹紅はますます同じ場所を凝視し、とても冗談を言っている風ではない。
「……なんの話だ? 別に誰も……」
「違うんだよ! さっき、お前の後ろに、確かにいたんだ! 青白い顔した、女の子が……」
妹紅が怒ったような表情で声を張り上げる。けれどもその声はかすれ、怯えが混じっていた。
「まさか……」
振り返って自分がいた場所を睨む。おかしなものはなく、便器と紙が備えつけられているだけ。だが、先程までの悪寒を思い出す。
私が扉から出ようと必死になっていた背後で襲ってきた異質な感覚。もしもう少し早く振り返っていたら……。
「待て」
呆然としかけた意識を、妹紅の声が引き戻す。自分から妙な事を言っておいて、こんどはトイレの突き当たりの、小さな窓を気にしていた。口を不自然なほどに固く閉じながら、チラチラと視線を窓と私へ交互に巡らせる。
「どうしたんだよ」
「聞こえないか? あれ……」
雰囲気に呑まれてか自然と声が小さくなる。妹紅はそれを訂正せずに、窓の向こうを顎でしゃくった。首をかしげながら耳を澄ませると、ほんの少し、一定のリズムで音が聞こえてくる。
パタパタと、地を蹴るような音。軽い、子供が走る時のような音だ。
「こんな夜中に……」
「妖怪が走ってるんじゃ……ないか……?」
「外にあるの、運動場だろ? なんだってそんな場所を通るんだよ」
妹紅の苛立った声に口をつぐむ。このトイレの窓に面しているのは、体育に使うだだっ広い運動場だった。わざわざそんな場所を夜中に走るなど、奇行としかいいようがない。
「それに……」
妹紅が窓を睨む。足音は相変わらず続いている。しかし、ある変化に私も気づいてハッとなる。
「近づいてきてる……?」
足音が一歩一歩、こちらに向けて大きくなってきている。もう壁を挟んだすぐそこ、という辺りまで来た時には、反射的に自らの口を塞いでいた。
時間にして数秒の静寂。息まで止めて、立ちすくんだまま足音に神経を尖らせる。パタ、パタ、と間延びしたように聞こえる音がついに窓の外を通り過ぎ。
そのままの方向に、またパタパタと遠くなっていった。
「はぁ……」
溜めていた息を一気に吐き出す。しかし、安堵はできなかった。同じく窓を見ていた妹紅が、険しい顔で見つめてくる。
「慧音……」
「分かっている。……さっきの、"窓に何も映らなかった"な」
足音は確かに窓の間近を通った。にも関わらず、通り過ぎていく何者かの姿が、欠片も映らなかったのだ。子供たちも使う低い位置にある窓、頭から下の体の一部は必ず映るはずなのに……。
「確かめてみる……か?」
「お、おいよせって……」
私が止める声も聞かず、妹紅は乱暴に窓を開け放った。バタン、と木がぶつかる音がして夜闇があらわになり、ヌルリと湿った夏の空気が吹き込んでくる。妹紅は意に介さず窓から首を出し、忙しなく辺りを見渡す。
しばらくそうした後、あの足音が走り去っていた方向に向き直り、妹紅はピタリとそのまま固まる。
「何か見えたか?」
「…………」
背中に声をかけてみたが、返事はない。自分も窓の外を見てみようと一歩近づいた。そこで、妹紅が不意にぼそりと口を開く。
「慧音」
「な、なに」
「ちょっと、そのまま真正面向いててくれるか?」
自身は脇の方を見たままでそんな事を言う。意図が分からずにぼんやりと言われた方角を見ると、遠ざかったと思った足音が、また大きくなってきた。
しかし近づいてきた、という訳ではない。大きく迂回しているような……ちょうど運動場の外周をぐるっと回っている、というのがしっくりくる。
真夜中にランニングなどする訳はなし。ターンしてきた足音が窓から正面の向こうにやっと現れるという所で、運動場へと目を見張る。
するとそこには、人ではなく地面を跳ねて進む、二つの小さな何かがあった。
最初は小動物かもと思ったが、違う。妙に平べったく、その二つは必ず横に並び、左右互い違いに前に進んでいく。まるで人間の脚の動き。
目を凝らすと、草履があった。手足も、胴体も顔もないが、草履だけが生きているかのように、運動場を駆け回っている。
妹紅が急いで窓を閉めようとする。その時、窓の向こうの草履が、ピタリと止まった。
「う」
嫌な予感がして、小さく唸る。その直後、草履が勢いよくこちらを向き、飛ぶように跳ねて私たちの方に向かってきた。土を蹴る音があっという間に大きくなり、迫りくる姿が見えるかのごとくまっすぐにこちらへ駆けてくる。
「うわわわ!」
途端に背を向けて走りだし、便所を転がり出る。妹紅も出てきたのを確認してから、一目散に廊下を駆ける。
「どこ行くんだ!?」
「とりあえず、皆の所に戻る!」
連中を放ってはおけない。とりあえず寺子屋の外に出てもらい、カギをかけたら明日霊夢を呼ぼう。こんなたて続けに怪現象が起きるなんて、ただ事ではない。早く逃げる事だけ考えて……。
「……まだか、まだ着かないのか!?」
「……何故……」
寄り道はしていない。まっすぐ皆のいる大部屋を目指したはずだ。寺子屋の構造はもう充分知っている。
だのに、いつまでも目的の部屋に着かない。廊下がいつまでも続き、脇に関係のない部屋が見える。どこまで走っても、何度曲がっても、灯りのついたあの部屋がない。暗く出口もなく、見知った場所のはずなのに、その中で同じような光景を何度も、延々と見せられる。
「くそっ! どうなっているんだ!」
怒鳴り散らした瞬間、視界の隅にほんの少し、久しく見なかった灯りが映った気がした。そこからは深く考えず、その灯りへ一足飛びに飛び込む。
襖を押し退け、やかましい音を立てて畳に転がる。目の前には皆が座る座ぶとんが映った。すぐにでも今起こっている事を知らせなくては。一歩遅れたら、この中の一人がまた被害に遭いかねない。
しかし、口に出すのさえもどかしいと焦る私とは裏腹に。降ってきたのは何とも呑気な声だった。
「おやおや、ちょっとお遊びが過ぎたかなぁ?」
その声は六人の中の誰でもなかった。妹紅の言った七人目だろうか。いや、しかしおかしいのだ。その声……。
聞き覚えはある。しかしあり得ない。
恐る恐る、その謎の声の主を見上げる。自分の勘違いだと自身に言い聞かせて。
しかし、その人物を目の当たりにした瞬間、勘違いではないのだと悟った。
何故なら、そこにいたのは……"私"。上白沢 慧音が、私を見下ろし笑っていたのだ。