「ふむ、私が四話か。もう後半まできたね。
とりあえず自己紹介しとくよ。ろくろ首、もとい飛頭蛮の赤蛮奇だ。この通りホラ、首が外れる。
……なんだ、皆でぎょっとして……目の前でやっちゃ不味いかい? 妖怪ならもう少し胆が据わっていると思ったがね。
まあ、私の勝手な想像なんで、押し付けるのも失礼だな。なんせ私は天邪鬼の異変まで、人間の振りをしていた。里では……いや、人前で滅多に首は外さない。今でも知り合いや巫女達を除けば、私の正体を知らない人がざらにいる。
……だから、最初に断っておく。私をれっきとした妖怪だと思ってくれないと、これからの話はちとキツイかもしれない。
嫌な予感がしたら順番を変えてくれ。別のネタをまとめるまでだ。
……構わないのかい? じゃあ話すよ。今晩限りの、赤蛮奇のヤンチャ自慢だ。耳を塞がずに、最後まで聞いておくれ。そして他には漏らさないこと。良いね?
―
……今となったら大分前だが、人里の中に男の知人が一人いてね。それだけならどうという訳でもないが、そいつは私にとって少し鬱陶しい存在だった。
きっかけは些細な事だった。夕飯時に一人の男が訪ねて来て、私に味噌を分けてくれと言ったんだ。
私は近所の事をよく知らなかったんで戸惑ったが、無駄に波風を立たせたくもなく、壺に少しだけ分けてやった。それが始まり。それから男は何度も私の家の戸を叩くようになった。
その男は私と同じ里の外れの、近所に住んでいたんだが、そいつが酷くモノグサでね。
商店街に買い物に行くのが面倒だからと、いちいち私の家に来ては味噌や醤油にお米を分けてもらいに来るんだ。
しかも貸すときに使った器は、なかなか返してこない。一、二ヶ月でようやっと洗って返しにきたと思えば細かい汚れが残って、ご飯粒がこびりついている。 お返しなんかをくれるのは稀で、大抵私が忘れた頃に、見るからに古くなった乾物を寄越すんだ。カピカピでささくれだって、『お前それ絶対自分で使うの忘れてただろ』ってのをね。
最初は私も近所付き合いだと思って慣れない愛想を振り撒いていたけど、次第に嫌になっていった。
笑えるのが、奴が庭先に七輪を置いてサンマを焼いていた時の事だ。ろくに手入れしていないのか、焦げ臭さが酷い。文句を言いに行ったら、そいつどうしていたと思う? サンマの骨を取りながら、外聞もはばからず面倒臭い面倒臭いとぼやいていたんだ。
子供か、と内心で呆れて何も言えなかった。その時なるべく関わらずにおこうと決心したよ。別の里人に聞くと、とっくに呆れて付き合いを絶ったとさ。
私も見習って距離を置く事にした。足しげく通う妙に嬉しそうな顔にいい加減うんざりしていたし。
……けど、そう上手くはいかなかった。その翌日、よりによって酷いタイミングにまた出くわす事になったんだ。
私が首を取り替える為に、スペアの方の首を抱えて髪を解かしたりなんかしていた時だった。
誰かが戸を叩く音。私は自分の使っているのと持っているのを合わせて首が二つある状況だ。万が一正体を知らない人が見たら即座に妖怪だとバレてしまうだろう。
大慌てで首を隠して、上ずった声で応えながら戸口に走る。今思えば居留守を使えば良かったんだが、思い当たらない位に焦っていたんだな。
『今開けるよ!』
そう言って扉に向けて手を伸ばした時だった。足が玄関の段差に躓いた。
前のめりになり、反射的に掴まろうとして伸ばした腕が扉に触れて、私は倒れる勢いで扉を開けながら土間に全身を打ち付けた。
視界がチカチカと明滅し、万華鏡みたいだった景色がゆっくり、ゆっくりと形を取り戻していく。
数秒後に取り戻した視界に映っていたのは、地面に転がった私を見下ろして目を丸くするあの男だった。
よっぽど酷く転んだのか、木偶みたいに固まって口をポカンと開けたまま動かない。
それがあんまり続くものだから、いい加減私は起きようとしたんだ。
けど、妙に体が軽い。
体を持ち上げようとしたら、ひょいと視線が高くなる。全く重みがない。手をついて胴体を引き上げる当たり前の感覚がないんだ。
なんかおかしいなあ、と思って視線だけをぐるぐると巡らせる。すると視界の隅に私がついさっき出た家が見える。
しかしどうにも家が遠い。扉を開けて転がったりでもしないとあり得ない小ささ。嫌な予感がして、開けっ放しの玄関から家の中を凝視する。
すると首なしの胴体があるんだ。肩口からは真っ暗でよく分からない断面が覗いている。ああ、勿論私の胴体、首から下だ。
まずい! そう思って男に振り返ると、彼は顔を真っ青にしながら、そろそろと後退りを始める。正体を知られてそのまま帰られちゃたまったもんじゃない。すぐさま元の体にくっついて、とって返す勢いでへたり込みそうな男の腕を横から掴んだ。
『こっちに来てくれ!』
返答も聞かずに家の中に引っ張りこんで戸を閉める。おろおろする男に向けて、私も動転しながら言い聞かせた。私がろくろ首で、普段は人間の振りをして暮らしている事、人里には万が一も敵意が無い事を、よくよくね。
男は聞き終えた後、しばらく呆然としていた。私はその顔を凝視しながら、正直不安で一杯だったよ。男が妖怪にどんな印象を抱いているか知らなかったし、秘密にしてくれる義理堅い人間にはとても思えなかった。
ともすれば、交換条件で不埒な要求をしてくるかも……。そんな風に悪い方にばかり行く思考を悟られないよう、口をきつく結んでいた。やがて男が口を開く。
その瞬間、思わず肩が跳ねた。けど、男が言った言葉は予想外のものだった。
『羨ましい』
へ、と間抜けな声が口から出た。眉をしかめる私に向け、男は両手を広げてかったるそうに言う。
『だってよー、手足を使わずに動けるんだろ。右に行きたきゃ右に浮かび、左に行きたきゃ左に浮かび、随分楽じゃないか』
言われた事を呑み込めずに首を傾げると、男はじれったそうに言った。
『毎日面倒だと思ってたんだよなあ。起きるにしても手で布団を除けて、体を起こして、足で歩いて、服を取って着替えて……。
起きたいとか歩きたいとか、思うだけじゃ何も出来やしねぇ』
『当たり前だろう、私だって普段は五体満足で生活しとるわ』
呆れて溜め息をついたら、男はムッと口を尖らせたかと思うと一瞬天を仰ぎ、またペラペラと愚痴を溢す。
『チクショー……。こうやって喋るのにも口を動かさなきゃならんし、伝えるまで手間がかかるし……。
何もしないで、何でも出来たりしねーかなー、かったりぃ』
散々文句を抜かしといてよう言うわ。『生きてりゃ仕方ないだろ』と吐き捨てて、手で彼を追っ払った。それでやっと背を向けてくれたんだが、去り際にポツリとこう言ったんだ。
『そうか……。死ななければ、不死身になれば良いんだ』
こいつは真性のアホだと思ったよ。確かに死ななきゃ飲まず食わずで寝ていられるかも知れないが、そんなアホな理由で不死になろうだなんて、下らないにも程がある。
男が出ていってから、他人事ながら虚無感に襲われた。素性を知られた不安も忘れて、関わるだけ時間を無駄にした後悔で一杯だった。
だから思いもよらなかったんだ。あんな事になるなんて。
―
後日に、里以外で初めて男と会った。霧の湖を知っているだろ? あの吸血鬼の館の傍にある、いつも霧がかかった大きな湖。
そこに一人知り合いが居てね。わかさぎ姫っていう、下半身がわかさぎの尾になっている人魚。そいつに会いに行ったんだ。
里からの道を抜け、やがて白い景色の中に光の揺らめく水面が見えてくる。
相変わらず神秘的な雰囲気だなあ、とか思いながら歩み寄ると、その水面の淵に一瞬暗い影たちが動いた。
誰かがいるみたいだけど、一人じゃない。それも互いに争っているようで、水に落ちるかと思う程荒っぽく掴み合っている。
それらを注視しようとした瞬間、耳をつんざくような悲鳴があがった。
『きゃああぁーーっ!』
その悲鳴は、紛れもなくわかさぎ姫の声だった。慌てて駆け出すと、誰かが姫の腕を掴んで詰め寄っている。近づくにつれてあの男だと分かった。
走る勢いのままに男を蹴飛ばすと、彼は予想外の衝撃に呆気なく湖畔に転がった。
放って振り返ると、顔を真っ青にした姫が息を荒げている。私は不安が先立って肩を掴むや捲し立てた。
『おい、大丈夫か!? 何をされた!』
『な、何も……』
姫は首を横に振った。けどその口調は上ずって呆然としたもので、とても言葉通り受け取れるものじゃない。気掛かりが絶えず姫の全身に視線を巡らせると、尻尾の鱗が一部剥がれて、小さく開いた窪みから血が出ている。まだ赤い色の、真新しい傷。
『……怪我してるじゃないか』
思わず声が低くなった。自然と怒気が伝わったのか、姫がワタワタと目の前で両手を振る。
『ちっ、違うのよ! あの人は釣りをしていただけ!』
『は? 釣り?』
顔をしかめて彼を見ると、頭に血が上って気付かなかったが、成る程目を回した男の周りには、釣竿や網篭が転がっている。モノグサに限って、趣味や気晴らしだけは妙に精を出すものだ。
でも、暴行じゃ無いとすれば彼女の傷は何なのか。尋ねてみると姫は困った顔で『それは……』とか呟き、戸惑いながら話し出した。
彼は最初、普通に釣りをしていたらしい。けど、釣り針が偶然姫の尻尾に引っ掛かった。暴れまわって針は取れたらしいんだが、針のギザギザのせいで周りの肉ごと取れてしまった。
けど、そこからが問題だ。姫は顔を出して釣り糸を垂らした男を見つけた。何も仕返しをしようってんじゃない。偶然なら一言声をかけて遠くに避難したろう。
けどすぐ後に、彼女は目を丸くした。
姫が見た時、男は釣り針にくっついた肉をじっと見つめていたんだ。妖怪の肉が珍しいんだろうか。自分の血が垂れる切れ端なんて、見つめられて気持ちいいものじゃない。いつまでも黙ってそうしているんで、見かねて口を出そうとした。
その時だ。男が肉をパクリと口に放り込んだ。呆気に取られる間に目の色を変えて、今度は姫にかじりつこうとしたって言うんだ。その様はまるで獣のようで、思わず悲鳴をあげたらしい。
『そんな美味しそうに見えるのかい?』
にわかに信じられずに口に出すと、姫はしばし視線を落とし、遠慮がちに答える。
『人魚の肉って、食べたら不死になるとかいうでしょ? そのせいじゃないかな……』
確かに、人魚の肉を食べて不死や不老長寿になった伝説はある。以前男が言った戯言を思い出した。
でも、見知った仲で俗なお喋りも好きな姫に、そんな魔性染みた逸話なんて似つかわしくない。
……そう思っていた。けど、姫が俯いて沈黙し、その間に所在なく視線を泳がせた、その瞬間。
どうだろう。いつも微かに生臭い程度に思っていた尻尾が、血の臭いが混じったせいかなんとも芳しい香りを放っているように感じる。酒に酔って全身に心地よさが回り、鼻から抜けていくみたい。
頭の痺れをこらえてふと前を見ると、その芳香の主がいる。きらびやかに鱗を纏った下半身に見劣りせず、白く透き通るような肌、そして一本ずつ丁寧に染めたような藍色の髪が、水に濡れて鮮やかに照らされている。ビックリして此方を見る瑠璃色の瞳は、見ているだけで吸い込まれそうで、一点の汚れもない水に包み込まれたかのよう。
今や姫の全身が生きた美しい彫刻だった。隅から隅まで滑らかで、きめ細やかで、瑞々しく……その魅力を自分のものにしたい。そんな欲望が頭を焼く。
見たい、触れたい、抱き締めたい。いや―
食べたい。
脳内に、具体的にその言葉が浮かんだ直後。
『ふひ……ふひひ、へへへ』
背後から気味の悪い笑い声がして、私はふと我に返った。振り返ると、いつの間にか上体を起こした男が口の端からよだれを垂らしながら笑っている。
目が合ってギョッとした。瞳は焦点を結ばず、頬はだらしなく緩み、子供の落書きみたいな笑顔のまま男は体を揺らしている。
『なんだ、ありゃ……』
気味悪く思いながら呟くと、姫がごくりと唾を飲む。
『もしかしたら、酔っちゃったのかも』
『酔う?』
姫の方を見ると、彼女は尻尾の傷を押さえながら言った。
『私は食べさせた事ないけど、人魚を食べると死なない代わりにおかしくなっちゃうって聞いた事があるの。
人には刺激が強すぎて、ちょうどお酒や薬を飲みすぎたみたいに……』
姫の口調が次第に弱々しくなっていく。さっきまで姫に血肉を欲するまでに惹かれていたのを思い出し、背筋に冷たいものが走った。私も一歩間違えば、姫にかぶりついていたかもしれない。
流石に口には出さなかったけど、姫の言う人魚の肉に酔った説を私は信じざるを得なかった。
『あいつ、どうしようか?』
平静を装って男の対処を相談したけど、声は震えていた。私が同じく狂いかけたのを見透かされないかと内心ひやひやしていたが、彼女は素直さからか気づく様子もなく、ハッとなって答えた。
『放っておく訳にいかないわ。どこかで休ませないと……』
言いかけて、『あ』と顔を歪めた。ここに寝かせておけないのは確か。だけども姫は半身が魚で、脚がない。水中が得意な代わりに陸では思うように動けない。ましてや誰かを連れてなんて、ね。
姫はばつが悪そうに私を見た。男の事はそんなに心配じゃ無かったんだけど、姫の顔を見ると知らんぷり出来なくてさ。結局『私が永遠亭に連れていく』って、男をおぶって行ったんだ。
―
……で、永遠亭のある竹林に行った訳だけど。
最初は空から行くつもりだったが、結局歩いて行く羽目になった。なんせ背中でずっと気味の悪い笑い声をブツブツブツブツ発しているから、万が一放り出しちゃえば危ないと思ってね。
幸い何事もなく竹林に入るまでは良かったが、歩くとなるとそこからが大変なんだ。竹林そのものが広いのもあるけど、何よりそこが酷く迷いやすい。どこを見ても竹が高く高く伸びて、同じような景色が続く。おまけに辛うじて獣道がある他には看板も道しるべもない。実際私も何度も同じ場所を彷徨いていた。
……先生や藤原さんを頼れば良かった。
そう考えた時には後の祭り。気づいた時には自分の足跡が幾重にも重なっているのを見つけたりして、出直すのも困難な有り様だった。
そのうちとうとう夜になり、視界が闇一色になる。体は人一人背負い続けたせいで、肩が凝り、足腰が軋み、最早飛ぶに飛べない程疲れきっていた。
背中の男はいつの間にか黙り、ぐったりとのし掛かってくる。忌々しくて投げ捨ててやりたくなったが、すんでの所で理性が止める。眠ったのなら、目覚めた所で正気に戻るだろうと考え直し、また歩き出そうとした。
その時だ。
『あのぉ……』
妙に軽く、呑気な声が耳元で響く。驚いて振り返ると、男が私の肩に顎を乗せているのに気が付いた。
こいつが喋ったんだろうか? 確かに声は男のものだった。けど、こんな時に馴れ馴れしく何の用だろう。
横目に見ながらいぶかしんでいると、今度はこう言った。
『バンキさん、お付き合いしている方っていらっしゃいますかぁ?』
『は?』
突然何を。まだ寝ぼけているのかと疑うのも目に入らないようで、男は同じ調子でペラペラと口を動かし続ける。
『え!? いない! そりゃ良かった。所でその、本題なんですがぁ……』
いや、本当に言ったんだよ。耳元で私の名前を叫びながらの一人芝居。まだ狂ってやがる、そう吐き捨ててから努めて無視して、私は歩を進めた。男の口は止まるどころかますます勢いを増す。
『その、私と付き合っちゃもらえませんかね』
『いえ、友達からで構わないんです』
『人間だ妖怪だ、この際何だって良いじゃありませんか』
最初は噴き出しそうになった。そんな風に私を見ていたのかと、男を滑稽と思う余裕があった。
けど、次第にその余裕は消えていく。想像してご覧よ。肩越しに自分の名前を含めて、延々とうわ言を……いや、他人の妄想を垂れ流される様を。
あれは決してうわ言、寝言の類いじゃない。奴の口調はますますもって快活になり、受け答えが容易に想像できる程に明瞭なストーリーを紡いでいく。
私と冗談を言い合い、
一緒に里を歩き、
例のモノグサに小言を言われ…………
私は返事の一つもしなかった。代わりに背中がさあっと寒くなる。
奴は、確かに私と話しているんだ。ただし、奴の頭の中の、私と。
知らず知らず早足になっていた。もはや今どこを走っているのか、そんな考えは頭から抜けている。
男を背負っているという事すら忘れ、ただただ右も左も分からない、真っ暗な竹林の中を駆ける。
その時ふと、首筋にチラリと冷たい感触がし、びくりと足が止まる。今まで感じていた寒気じゃない。それはするりと線を描くように背に落ち、どこか生暖かく、肌に嫌な滑りを残していく。
雨粒か何かかと思ったけど、宙に手をかざしても寒々しい風が掠めるだけ。ならば……。
嫌な想像が働いたがぐっと堪え、男がのし掛かる背中を振り返ってみる。段々と、視界の端に男の横顔が映る。心なしか上を見上げているようだった。頬に生ぬるい息がかかり、肩が強ばった。出来るだけ顔を近づけず、眼球だけ寄せて目を凝らす。
一瞬、息をするのを忘れた。
男は白目を向き、口をぼんやりと開けて、その端からヨダレを垂らしていた。顔は相変わらず宙を向いたまま、釘付けの私に気づく様子もない。
それでも独り言は止まなかった。私が一言も発せず立ち尽くすのを、『バンキさん』と呼ぶ声が現実に引き戻す。それでも彼に呼び掛ける勇気は湧かなかった。
ただ、背中から彼を引き剥がし、離れようと体が動く。目の前の相手に、自分とは別のものが見える。その事実が無性に怖かった。
目だけは男から離せず、それでも足だけはバタバタと忙しなく地を踏む。男がずり落ちる最中、本当に一瞬で酷く取り乱した。
するとその途端、たたらを踏んだ足が、急に捻れ、引っ張られたような気がした。
『うわっ!』
叫んだ瞬間体が重さを失い、尻に衝撃が走った。投げ捨てた男がもんどりうって私のすぐ横に転がる。
くらくら目眩がするのを抑え、座り込んだ状態のまま辺りを見渡す。白黒する視界が元に戻ると、最初に映ったのは土の壁だった。さっきまで前方には竹しか無かったぞ、と思って上を見上げると、竹林の葉が夜空を覆う光景が丸く切り取られ、随分と遠くに見える。鼻には青臭い草の根の匂い。
ああ落とし穴か、とやっと理解できた。ホラ、ウサギが竹林のあちこちに作っているやつさ。こんなのに引っ掛かっている場合じゃない、苛立つのを抑えて、落ちた男が気になって振り返った。
ところが、どうも落ち方が悪かったらしくてね。首が変な方向に捻れていた。疲れていた所で出し抜けに目撃して、最初はギョッとしたが、何故か脱力感の方が大きかった。あの奇怪な独り言から解放されたと、そう思ったからだろう。
けど、一息吐いて腰が抜けそうになった、その時だった。
『バンキさん、髪切りました?』
『わっ!?』
また声がして、壁に背を打ちつけた。体はだらりと横たわり、捻れた首に繋がった顔はあらぬ方向を向いているのに、男はまだ確かに自分の口から喋っていた。
そこで思い出す。男の異様さにつられて忘れかけていた、人魚の肉の効能。
『不死身になる』。
正に男は変わらず生きたまま、例の呟きを続けていた。腑抜けた、楽しそうな表情で。
だが、顔は鬱陶しい程に台詞を吐くくせに、体はいつまでも立ち上がらない。やがてだらしなく地に伏した尻と股間から汚ならしい半固形物が流れ出て、異臭が立ち上る。
首以外はまるで屍。死なない、というのはそういう意味だったらしい。
長いこと立ち尽くして動けなかった。一人ぶん位の広さの中で、慣れてきたらしい男の軽快なお喋りが響く。靴が顔に触れても舌は回り、さん付けはもうやめていいですかなんて言いやがる。
ほんの気紛れで、軽く足で小突いてみた。あの呆けた顔が上を向く。一度は助けようとした男だったが、今はもう手遅れだと思った。首から下は木偶の坊、首から上はまるで笑い袋だ。
今度は強めに蹴飛ばしてみた。すると顔はサッカーボールのように飛び、穴の中を跳ね返って転がり糞まみれにまった。
目鼻に排せつ物がべっとり張り付き、真っ茶色に染まった首は、もう人間には見えなかった。まるであんころ餅―いや、泥団子。
違う、もっと違うものが頭に引っ掛かる。この男がいつか言っていた。
そうだ。以前彼が私を羨ましいと言ってたっけ。
手足一つ、指一本動かさずに色んな事が出来るのが。
思い出してから彼を見ると、一つ気づいて目を見張った。頭の中でだけだが、こいつは夢を叶えた。一歩も歩かず、私と付き合い、恋愛を謳歌している。糞尿にまみれて土気色も甚だしい死に損ないだけど、望みを叶えたんだ。
そう思うと急に、腹の底から笑いが込み上げてきた。むせ返っても止まってくれず、とうとうぶっ倒れてゲラゲラ笑いながら、糞尿の中を転がり回った。吐きそうな悪臭も気にならない。腹を押さえて手足をばたつかせ、茶色いものを飛び散らせながら笑った。涙が出て、喉がヒィヒィとひきつるまで笑った。
いつしか大の字になって空を見ると、もう竹の隙間から白い光が射し込んでいた。思えば何があんなに可笑しかったのか分からない。隣の死体を見て一応夢じゃないのを確かめてから、臭いが染み付いた体を起こした。
明るくなり、自分が酷く汚れているのが分かり、急激に虚しさが襲ってきた。さっさと帰ろう、とフラフラと穴を飛び出す。
男は今から眠るのか何なのか、ピロートークまがいの恥ずかしい会話を繰り広げている……。いや、詳しい内容は覚えていない。すぐ埋めちゃったんだもの。臭いも酷かったし。
足でバサバサと土をかけると、男の顔が隠れていく。夢の中の私とお幸せに、と一応言ったけど、何の感慨も無かった。
すっかり夜が明けて、竹林が竹の緑でいっぱいになる頃、やっと穴を誤魔化せる程度には戻った。あとは風呂に入りたい一心で、自分の家まで飛んで帰った。
それから彼がどうなったかはしらない。竹林に行く用事も少ないし。姫には残念だけど手遅れだった、と伝えてある。
けどねぇ……もし正気に返ったら、どんな気分なんだろう。土に埋もれて、もがく事も動く事さえ叶わずに、誰もいない一人きりで、死なないまま…………。
想像するのも恐ろしくないか? まあ私は知ったこっちゃ無いがねぇ。
私の話は終わりだ。次は誰だい?
口を利くのも面倒くさけりゃもう死んでしまえ! (byドラえもん)