その八幡を見舞うのは──
あまり好ましくない描写が含まれますが、物語の進行上で必要と判断し、掲載させていただきます。
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どれくらい眠っていたのだろう。
カーテンが閉じられた薄暗い部屋の外からは蝉の鳴き声が聞こえる。まだ日中のようだ。
「ここ、どこだ」
動きの鈍い脳細胞を無理くり動かし、仰向けのまま天の辺りをねめ回す。知らない天井だ。
ぼんやりと天井を眺める。ペンションの……どこか、なのか。
「……あ、気がついた?」
声のほうに視線を向ける。額に乗っていたタオルがずり落ちる。
「びっくりしたよ。ヒッキーが道端に倒れてるんだもん。で、戸部っちに連絡して来てもらったの」
由比ヶ浜結衣が側に座っていた。手にはペットボトルとタオル、それと保冷剤のパックみたいなのを持っている。
「……悪かったな、面倒かけて」
「ううん」
道に倒れてたと由比ヶ浜は言っていたが、俺的にはちょっと違うんだよなぁ。
実際は、テニスコートを出て歩いている内に眠気に負けて、道端に座った途端に寝ちゃった感じなんだけどね。
「え、えーと、お水、飲める?」
ああ、飲みたい。と、声に出そうとしても掠れてしまう。
噛んだのではない、掠れただけだ。と脳内で言い訳を呟いていると、由比ヶ浜が笑顔を向けてくる。
「はい、あーんして」
「いや、自分で飲めるから」
ストローを差してあるペットボトルを受け取り、半分ほどを一息に吸い、喉を通す。ちなみに中味は水ではなくポカリだった。
「隼人くんがいうには、軽い熱中症だってさ。涼しい所で休めば良くなるって」
へえ、そうだったのか。全然気づかなかったわ。
元々寝不足で朝から怠かったし。でも戸塚の前で無様な姿は見せたくないし。なんだそれ、乙女かよ。
しっかし医者でもないのに葉山の権威絶大だな。あ、あいつの母親って医者だっけ。違ったか。どうでもいいけど。
「それで、その……ごめんね」
「あん、何がだ?」
珍しく神妙な面持ちを向ける由比ヶ浜は目を潤ませる。
「だって、あたし達がヒッキーに無理させ過ぎちゃったから。寝不足にさせたのもあたしだし、それなのにずっとテニスの相手させたりして……」
「いい。お前のせいじゃない。体調管理は自己責任だ」
自分で吐いたその言葉に強烈な違和感を覚える。
「ねえ、ヒッキー……ゆきのんと何かあったの?」
やはり気づいていたか。まあ、テニスコートの中で試合もせずに口論していれば、誰だって気づくか。
「ああ、あいつとはもう話さない。雪ノ下がそれを望んだんだ」
別に由比ヶ浜には隠す必要も無い。そう判断した俺はぼんやりする頭で雪ノ下との会話を由比ヶ浜に説明した。
「あー、ゆきのんってばそんな事言ったんだ……それはちょっと言い過ぎかも」
やばい、喋るのもしんどい。熱中症ってこんなにきついのかよ。だが、誤解の無いように説明だけはしとかなきゃならないな。
「ああ、それで、あんまり訳の解らないことばかり言うから冷静になれと言ったら……こうなった」
「うーん、そっか。ごめん。ヒッキーが怒る気持ちはわかるかも」
苦笑する由比ヶ浜は、何故か頭を下げて謝罪の言葉を口にする。きっと、雪ノ下の代わりに謝ったのだろうなと思うと、可笑しくなった。
こいつら、思ったよりちゃんと友達をやってるんだな。
「けどさ、陽乃さんと同室にされて虫の居所が悪かったんだと思う、きっと。だからさ、ちゃんとゆきのんが謝ったらさ、許してあげてほしい……かな」
その言葉の裏には、自分が雪ノ下に謝らせる、という決意が見て取れる。奉仕部を誰よりも大切に思っているのは由比ヶ浜である。だからこそ余計に腹が立つ。
何かしらの理由があることくらいは俺も解っている。雪ノ下が理由も無しに人を傷つけることは無いだろうとも思う。コミュニケーションみたいな罵りは別にして、だ。
しかし言い換えれば、それは個人的な理由を元にした完全なる八つ当たりだ。何よりその八つ当たりに奉仕部を持ち出したことが許せない。
従って、落ち度が無い俺は自分から頭を下げるつもりは毛頭無いし、そうする義務も無い。
「雪ノ下をフォローする気持ちは解るが……今回は俺は悪くない。故に俺が謝る必要性も無い。これで終わりだ」
もうこの話はしたくない。終わりたい。引き摺りたくない。もう疲れた。
それが本音だった。少なくとも今は。
「……終わりって、何」
由比ヶ浜の声が低くなる。
「終わりって、どういうこと?」
「どういう……って、そのままの意味だが」
言葉が足りないのは自分でも解っていた。が、もう喋るのがしんどい。呂律も怪しくなってきたし。
「そう、ゆきのんとの、奉仕部との関係はこれで終わりにしたいんだね、よーくわかった」
いや、そういう意味じゃない。そういう意味じゃないんだけど。
でもどう説明したら由比ヶ浜にわかってもらえるんだろう。
「何か言ってよ……」
ちょっと待ってくれ。今それを考えてるから。
今は頭が正常に働かないんだ。
「……何も反論しないってことは、それでいいんだね」
俺の言葉を待ちきれなくなった由比ヶ浜は立ち上がるり、目に涙を溜めて俺を見下ろしている。
「あ」
俺が言葉を継ごうとするのを由比ヶ浜に遮られる。
「じゃあいい。もう何にも言わないし、聞かない。でも、早く良くなって……ね」
そのまま由比ヶ浜は出て行ってしまった。
独り残された見慣れない天井の下。回らない頭で考える。
また俺はとんでもないミスを犯してしまったのだろうか。
しかし今回に関しては俺が悪いとは思えない。
合宿はあと三日、か……先は長いな。
とりあえず対応策を独りで考えたいな。
しかし考える間も無く、俺は再び眠りの闇に落ちた。
人生に於いて不幸の影は常に付き纏い、それは何の前触れも無く唐突に姿を現す。それは旅先でも同様だ。
つーか何度目だよ。
「ひゃっはろー比企谷くん。お加減はいかが?」
泰平の、眠りを覚ます大魔王。
雪ノ下陽乃のお出ましだ。
「昨日はどうしちゃったの。材木座くんだっけ、すっごく寂しがってたわよ」
やっぱり昨日の材木座の動きは陽乃さんの仕業か。まったく悪趣味だ。
「あいつは別にいいんですよ。俺と同じく”ぼっち”ですから。それより人を使って遊ぶのは悪趣味ですよ」
俺の吐く言葉なぞ歯牙にもかけず、陽乃さんは薄い笑いを浮かべながらベッドの上の俺の顔を覗き込んでくる。少しだけ陽乃さんの髪の先が俺の頬に触れてくすぐったい。
即座に離れようとするも、まだ思うように力が入らない。顔を背けるので精一杯である。
「彼と比企谷くんは本質的に違うじゃない。彼は仲間を、理解者を求めているんだし」
くそっ、逃げたい。
無理な話か。魔王からは逃げられないのが昔からの決まりだ。
「でも、貴方は違うでしょ」
出た。陽乃さんのこの笑顔。人を試す時の、或いは値踏みする時の、独特な顔だ。
「キミは人を遠ざけたいと思っている。ぼっちって云いながら、人間関係の中から自分に都合が良い物ばかりピックアップして集めようとする。ほーんと自分勝手」
せめてもの抵抗で、視線を陽乃さんに固定する。要は、にらみ合いの状況。
すまん、訂正しよう。
実際は蛇に睨まれたヒキガエルである。
「自分に仇なす人間を遠ざけるのは、至極当然の防御本能だと思いますが」
僅かな抵抗を試みるも、陽乃さんは笑顔を崩さない。しかしその瞳に光は無く、じっと俺の心の奥底、俺自身も知らないような深淵を覗こうとしているかに感じる。
「そういうこと? そうして消去法で残った都合の良い関係を本物と称して、あとの全部を偽物と断じることが当然なの?」
その笑顔は更に冷たいものに変わっていく。
「そうやって都合の良いものばかり集めた世界の住み心地はどう? 楽しい? 安心する?」
ついに俺は視線を陽乃さんから反らす。負けた。
くっ、殺せっ! さっさと捕食でもなんでもしやがれってんだ。
「世界はね、残念ながらキミが恐れるほど優しくはないし、キミが期待するほど醜悪でも無いのよ」
きっとそれは事実なのだろう。しかし、それを認めるほど俺は素直に生きては来られなかった。事実も真実も俺の心に届く前に、数多の黒歴史に彩られた防御壁によって歪められてしまう。
だから俺は、こんな屁理屈を吐けるのだ。
「それって雪ノ下さんにとっては、でしょう」
クスッ、と耳をくすぐるような声で笑って、陽乃さんは俺に向き直る。
「じゃあ、比企谷くんに問題。世界は変えられません。でも自分は変えられます。貴方は……どうする?」
去年もそんなこと考えたな。その時、どっかのぼっちは確か「新世界の神になる」とかほざいてたっけ。
今なら……どう答えるのだろう。どう答えれば目の前の醜悪な笑顔の主は納得するのだろう。
しかしそれは雪ノ下陽乃の求める答えであって、俺が求める答えではない。
正解は、必ずしも正解ではない。
「正解は……自分で考えなさい。解らなかったら、材木座くんにでも聞いてみたら?」
材木座? 何故今その名前が出てくるんだ。
「じゃあ、あたしたちは花火見物に行ってくるから、大人しく寝てなさい。使用人を一人付けておくから、用事はその子に言いつけてね」
そこで漸く陽乃さんの詰問から解放された。
陽乃さんは、きっと由比ヶ浜あたりから今日の出来事を聞いたのだろう。だから俺にあんな問い掛けをしてきた。
だが。
陽乃さんが正しいと思うものと俺が正しいと思うものは必ずしも一致しない。というか、違う場合の方が多いだろう。
当然だ。
人格も性質も、行動原理も違うのだから。
それでも陽乃さんが自分の正しさを人に押し付けてくるのなら。
抗うしかない。我を通すしかない。
でも、俺の”我”って、なんだ。
しばらく考えてみたが答えは出ず、俺は三度眠りに落ちた。