薄闇のまどろみの中で重い腕を伸ばし、枕元のスマホを見る。
時刻は夜の八時ちょい前だ。
今夜の花火大会って、この伊豆高原より北西にある沼津市のほうの狩野川ってとこだっけ。車で三十分くらいって言ってたな。こういうイベント時は道が混むから大体片道一時間か。
じゃあ連中が帰ってくるのは午後十一時くらいか。
なら、あと三時間は静かに寝れる計算だな。
ずれた額のタオルの位置を直して、再び枕に頭を沈めると、枕が冷んやりと気持ち良い。
そういえば、さっき眠ってる間に頭の下の保冷パックを替えてくれたのは誰だったんだ。
まだ上手く働かない頭を動かしながら、ぼんやりとドアを眺める。
聞こえるかどうかの音量でドアを小さくノックする音が聞こえる。
入ってきたのは──雪ノ下雪乃だ。咄嗟に目を閉じる。
陽乃さんも大概意地が悪いな。きっと昼間こいつと口論になったのを知っているのだろう。それを承知で雪ノ下を世話係として置いていくなんて、まさに魔王の名に恥じぬ傍若無人な振る舞いだ。
しかし困った。
昼間こいつに、もう話しかけないって言っちゃったんだよな。
それを踏まえてか雪ノ下も何も声を掛けてこない。
まあ、寝てる奴に話しかけはしないか、さすがの雪ノ下でも。
こうなったら、とっとと眠ってしまおう。
そんなことを内心で思っていると、雪ノ下が近づいてくる。
そして無言のまま、俺が横たわるベッドのすぐ横に椅子を寄せて腰掛ける。
仰向けで目を閉じているが雪ノ下の気配が気になって眠れない。あと気まずい。
よし、こういうときは素数を……って、この対処法って違う場面で使うんだっけ?
薄目を開けて様子を見ると、雪ノ下はポカリを手にしたまま、ただ何をする訳でもなく俯いていた。
まあ、いいや。
とにかく寝よう。今は回復が先だ。
これ以上迷惑をかけるのは……。
いつの間にか眠っていたらしい。
幾分か身体が楽になっているのがわかる。頭の下にはキンキンに冷えた保冷パックが敷かれていた。
冷たくて気持ちいい。火照る頭と同時に心の中に燻る苛立ちも冷ましてくれそうだ。
ふと、二年生のマラソン大会が脳裏を過ぎる。
無茶をして葉山隼人に追い縋った挙句に転んで膝を擦りむいた俺を、手当てをしてくれたのは雪ノ下だった。
包帯のリボン結びが少し恥ずかしかったけど……なんか可愛かったな。
まるで、遥か遠い過去のような、淡くて苦い記憶。
胸の中が柑橘類の果汁で満たされたような――
「──!」
……しまった。
油断した。
雪ノ下と目が合ってしまった。それはもう誤魔化しの利かないほどに、がっちりと。
慌てて視線を雪ノ下がいない中空に泳がすも、まあ誤魔化せはしないわな。
諦めてもう一度、ちらりと視線を戻すと、雪ノ下の表情は暗い影を落としていた。
「──ごめんなさい、気を悪くさせてしまったわね」
深く頭を下げる雪ノ下からは、いつもの凜とした空気は感じられない。
「私と話したくないのなら、あなたは無言でも……それでもいいから話を聞いて欲しいのだけれど」
俺は無言を貫く。別に意地になっている訳じゃない。
そうじゃないんだけど、なんか、ね。
沈黙を了承と解釈した雪ノ下は、それから只管に謝罪を繰り返した。
その謝罪を聞いているうちに、悪いのは未だ頑なに口を閉ざす自分なのではないか、俺は幼稚なのではないか、そう思えてくる。実際その通りなんだろうけど。
面倒だ。もう変な意地を張るのは止そう。
意を固めて上半身を起こし、雪ノ下に向き直ろうとするのだが。
「……あ」
急に起き上がったからだろうか。それとも熱中症の影響だろうか。
身体を起こした瞬間に頭の中と眼前が白に染まり、同時に三半規管は機能を放棄する。身体は慣性を保ったまま重力の垂直地点を泳ぎ超えて、俺の上半身は反対側に倒れ込んでベッドからはみ出す。
中途半端に残った下半身も上半身の重みに引きずられて、ベッドの下、床の上に滑り落ちる。
簡単にいうと、俺はベッドから落ちた。
「比企谷くんっ!」
段階を経て落ちたおかげか、痛くはない。
寝そべっている床がひんやりと冷たくて気持ち良いくらいだ。
身体に力が入らないこともあり、諦めてそのまま冷たい床を味わっていると、腕を強く引っ張られた。
「ひ、き……がや、くん……」
雪ノ下は懸命に俺の腕を引っ張り、ベッドの上に戻そうとする。
しかし幾ら俺の体躯が細身でも、非力な雪ノ下の腕力では起こせないだろう。俺自身の力が入らないままでは尚更だ。弛緩し切った人間の身体は想像以上に重く感じるのだ。
ソースは勿論、俺。
受験勉強に疲れてリビングで眠ってしまった小町を部屋まで運んだ時も、その重さに驚いたものだ。
半分以上は幸せの重みだったけど。
「……もういい。そのうち自分で起き上がれる様になる」
「え、ええ……」
床にうつ伏せの状態で自分の力の回復を試みる。が、だめだ。まだ力が入らない。諦めて力を抜くと、すぐ横、床の上に気配が近づく。
「……何してんだ、お前」
俺の目の前に、床に横たわる雪ノ下雪乃の顔。近い。
「まだ起きられないのでしょう? あなたが起きられるまで私も付き合わせてもらうわ」
いやいやいや、起こせないから自分も床に寝るって絶対違うぞ。
「おかしいだろ。他人に付き合って床に寝転ぶ奴なんて聞いたこと無いぞ」
「あら心外だわ、私にも床に寝転ぶ権利くらいはあるのではなくて?」
それって権利なのか?
屁理屈も此処までくれば立派なものだ。
この状況も含めて、何だか怒っているのが馬鹿馬鹿しくなってきた。
「……悪かった」
自然とその言葉が口を突いて出る。
「私の方こそ、本当にごめんなさい。ひき……部員の体調が悪いことに気づけなかったことは私のミスだったわ」
互いに這いつくばり、床にほっぺたを押し付けた状態で謝り合う。全く締まらない、間抜けな謝罪だ。
「喉、渇いたな」
何となく吐いた呟きを雪ノ下は聞き漏らさなかった。そりゃそうか、現在雪ノ下と俺の距離は僅か十数センチ。互いの息がかかる距離である。
「これ……飲む?」
上半身を起こした雪ノ下は手にしたポカリを差し出すが、ずっと握り締めていたためか中身はすっかり温くなっていた。
「あ、新しい、冷たい物に取り替えてくるわ」
立ち上がろうとする雪ノ下を言葉で制止する。
「いや、それでいい。温いほうが胃に優しいからな」
うん、常温のほうが吸収率も良さそうだし。
見ると、雪ノ下は笑っていた。
「──あなたって、他人を擁護する時も屁理屈を言うのね」
くすくすと笑う雪ノ下は、自身の身体を起こし床に座る。いわゆる女の子座りというヤツだ。幸い雪ノ下はジャージっぽい黒のハーフパンツを穿いていたので事なきを得たが、スカートで同じことをされた日には俺の心は奥底に出現した魔の三角地帯に釘付けだろう。
思わず風呂場の会話の真意も確かめたくなりそうで、非常にやばい。
「んしょ」
ぐいっと上半身が引っ張られて、柔らかいクッションの上にとすんと乗せられる。
これは……何ということでしょう。
俺は雪ノ下に膝枕、いや「ふとももまくら」をされている。その状態で更に俺の頭を少し持ち上げて、ペットボトルを近づけてくる。
その数十センチ先には、俺の顔を覗き込む雪ノ下の顔がある。
なんだこれ、何の罰ゲームだ。
超接近戦、究極のインファイトである。
「はい、上手く飲めるかしら」
口に当てられたペットボトルの底が持ち上がって、口内には少しずつ温いポカリが流れ込んでくる。こくこくと喉を二回ほど鳴らしたところでペットボトルの口が離された。
「……ふう、美味いな」
実際美味かった。今の俺なら不味いと評判の経口補水液ですら美味しく頂けそうな気がするけど。
そう、とだけ呟いた後、雪ノ下はハンカチを出して俺の口を拭う。
「わ、おま……」
「少し零れてしまったから」
何これ超恥ずかしいんですけど。赤面したままベッドにうつ伏せで足バタバタコース決定である。残念なことに今は叶わないけど。
「あら、体温が上がってしまったのかしら。ちょっと失礼」
雪ノ下の手が俺のおでこに当てられる。手の感触が柔らかくて冷たくて気持ちいいけど、はずいってば。
「……よく解らないわね。んしょっと」
まだ力が入らない俺の頭を持ち上げると同時に、雪ノ下も背を丸める。
「ちょ、おい、待て……」
雪ノ下と俺のおでこが、ほぼ直角に密着する。グランドクルスの完成である、じゃねぇ。あーもう、何言ってんだかわかんなくなってきたよボク。
耳元に雪ノ下の呼吸音が響く。
「熱い……どんどん熱が上がってるわ」
これは違うんだ。おまえが密着なんかするから。などとチキンな俺に言える訳も無く、ひたすらドキドキしつつ嵐が過ぎ去るのを待つことしか出来ない。
あーもう、身体に悪い。本当に熱が上がりそうだ。
ベッドから枕を引っ張った雪ノ下は、それを俺の頭の下に滑り込ませる。と同時に雪ノ下の柔らかい太腿の感触は消え、ぱたぱたと部屋を出て行ってしまった。
すぐに戻って来た雪ノ下の手には、新しい保冷パックが握られている。
「すぐ楽になるから」
そう云いながら手早く保冷パックにタオルを巻いて、俺の後頭部から首筋に当たるように枕にセットする。そしてまた足早に部屋を出ていく。遠くでがたん、がたた、と音がする。
「あいつ……もしかして慌ててる、のか?」
今度は5分程空けて戻ってきた。手にはペットボトル。
「はい、これを飲んでみて」
再び雪ノ下の「ふとももまくら」のお世話になりながら、そのペットボトルを口にする。
その液体は、ほんのりと白濁している。味のほうは……塩気があるけど、まあ飲めなくないな。
「……これ、経口補水液か?」
「ええ、ミネラルウォーターに食塩と砂糖を加えただけの間に合わせだけど」
ほう、やはりそうか。
経口補水液には色々作り方があるが、一番簡単な作り方は水1リットルに塩3グラム、砂糖40グラムを混ぜる方法である。今回雪ノ下が作ったのもそれだろう。
それにしても、マジで経口補水液のお世話になるとは思わなかった。
「そのうち不味くて飲めなくなると思うから、それまでは少しずつ飲ませるわ」
「……なんか俺、介護されてるみたいだな」
そのうち入浴介助とかされそうな勢いまである。恥いな、それは。
「あら。みたい、では無くて介護そのものよ。今のあなたは病人だもの」
少しずつ丁寧に、幾度にも分けて口内に経口補水液が流し込まれる。
数分をかけてペットボトルを半分ほど飲んだ辺りで、その液が少し不味く感じた。
「ああ、随分と楽になった」
「それなら良かったわ」
飲み物はポカリに戻った。今度は冷えていた。
「それより雪ノ下、悪かったな。おまえまで花火見に行けなくなっちまって」
「いいのよ。部員の不始末? 失態? 醜態をフォローするのは部長として当然のことだし、それに」
どうしても暴言は混じるのな。声音は優しいのに。
「それに、こうしているほうが私……」
ドアを叩く音が雪ノ下の言葉を断ち切った。