恐る恐るロフトから顔を出した雪ノ下の一言。
「……や、やっはろ」
あちゃ~、こいつ相当動揺してやがる。動揺してるのは涙目になってる由比ヶ浜も同じか。あと俺も。材木座だけは様子が掴めずに、でかい図体でオロオロしてやがる。
「はあ……材木座。明日は一緒に仄暗い湖の底だな、きっと」
「え、なんで。なんで。我、まったく身に覚えないよ!?」
馬鹿野郎、口封じという日本語を知らんのか。依然オロオロする材木座を尻目に、雪ノ下は華奢な手足を重そうに操りながら梯子を降りてくる。
──空気が重く、肌を刺す。
あ、あれ? これって噂に聞いたアレ?
修羅場ってヤツなのん?
「ゆ、ゆきのん……ずっと、見て……たんだよね」
由比ヶ浜さんの目、すっげぇ怖いんですけど。
「え、ええ。その、あの……はい」
俯いているから良く解らないが、答える雪ノ下は非常にばつの悪い顔をしているのだろう。
そう、今の俺の表情と同じく。
「……ヒッキー」
由比ヶ浜の視線がスライドし、俺をロック・オンする。
「もうっ、ゆきのんがいるならそう言ってよっ、バカ、アホ、でかちんっ!」
はっ? この子ったら、なに言っちゃってんの!?
それを云うなら「ばかちん」じゃないの?
どちらかといえば「でかちん」は褒め言葉なんじゃ……なんて場合じゃない。
「お、落ち着け由比ヶ浜っ。つーか雪ノ下、そもそもおまえ何で隠れたんだよ」
そうなのだ。そもそも雪ノ下が隠れたりしなければ。
「そ、それは、咄嗟の判断で……」
友人が来たらロフトに逃げるって、どんな状況判断だよ。
ま、とりあえず建て直しの第一歩は成功。これなら逃げ切れる。あとは由比ヶ浜の方か。
「それに由比ヶ浜。おまえも、いくら俺が動けないからって悪ふざけにも程があるぞ」
ふざけた事にしておけば、妙な勘繰りも波風も最小限で済むだろう。
「ううっ、ご、ごめん」
よし、これで雪ノ下と由比ヶ浜に遺恨が残る事態は回避できたはずだ。
「はあ、まったくおまえらは……」
愚痴をこぼしながら身体を起こし、胡坐をかいてガシガシと頭を掻く──ありゃ?
「あれ?」
「んん?」
「えっ?」
「ほむん?」
材木座、お前はいい。
「比企谷くん……あなた」
「……ヒッキー」
「八幡……さすがに我も引くぞ」
そういえば、いつの間にか起きられる様になってるな。
「お。結構回復してら。経口補水液すげぇな」
だが、今重要な問題はそこではないらしい。雪ノ下と由比ヶ浜の、ふた筋の冷たい視線が俺の股間を貫く。
「……あ」
短パンのど真ん中がちんまりと盛り上がっていた。
──いやん。
「し、しかし、い、意外と立派だな……八幡の
「中二は黙っててっ!」
「は、はひぃ~」
俺は枕で股間を隠し、無駄にでかい材木座は飛び上がって小さく丸まる。
女子が二人、真っ赤な顔で怒気を纏って俺を睨む。
え?
これって俺が怒られる流れなのん?
ただの寝起きの生理現象です……よ?
「……体調が悪くて伏せっているのに、一体何を考えているのかしら」
「ほーんと、エッチ」
おい、雪ノ下はまだいい。由比ヶ浜は言う権利ないだろ。散々肘でぐりぐりぐりぐり、まだ新品な俺のハチマンを無意識に刺激しやがって。
だが、こうなったら俺が何を言ったところで彼女達の怒りの炎に油を注ぐようなものである。
「それだけ元気になったのなら看病は必要ないわねっ。行きましょう由比ヶ浜さんっ」
「うん、ゆきのん。ヒッキー、さいならっ」
怒り心頭の女子二人が去り、残されたのはぼっちふたり。
「……モフンゲフン。して八幡よ、おまえは雪ノ下ルートと由比ヶ浜ルート、どちらを所望なのじゃ?」
馬鹿か。この期に及んで何ルートもあるかよ。
ゲームだったらバッドエンド確定ルートじゃねえか。
「うるせぇバカブタ将軍っ! おまえも出てけっ!」
「え~~~?」
終わった。俺の最後の夏が、俺の人生が。
千葉に帰ろう。
思い出に伊豆の土でも袋に詰めて。
ふらつきながらも歩けるまで回復した俺は、今夜の自室でもある平塚先生の部屋を訪ねる。
「どうぞ」
ノックとほぼ同時に返事が返ってくるって、なんか怖いッス。
「おう比企谷か、まあ座れ。どうだ体調は」
平塚先生は俺をベッドに腰掛けさせる。言葉とは裏腹の、ニヤけた顔。
だが、ここはまずお詫びをするのが人としての礼儀である。
「ご迷惑をおかけしました。もう元気になりました、大丈夫です」
横で俺を見つめる平塚先生の顔は相変わらずにやけている。何ならちょっとエロい顔も混じっている。
「んー、そーかそーか、大丈夫か。もう元気か。そーかそーか」
この人……知ってるな。何をどこまで知ってるんだろ。
「元気になったなら良かったな。だが、不純異性交遊はいかんぞ。ん?」
ああ、もう全部知ってるんだな……女の情報網ってこわい。てかついさっきの出来事だぞ。速さといい伝播性といい、ネットの怖さの比じゃないな。
「というわけでだ、やはり今晩は私が付きっ切りでキミの看病をしてやる」
正式名称キャットバック。通称、女豹のポーズ。
今まさに平塚先生の姿勢がそれだ。四つん這いのその姿勢で、腰をしならせながらにじり寄ってくる。
ちらちほらりとタンクトップの胸元が弛んで、その度にたわわなナニカが「おいっす!」と挨拶をしてくる。
「わ、悪い冗談はやめてくださいよ平塚先生」
超色気。俺困惑。不可避。超迷惑。
やっぱ三文字熟語って締まらないな。
三文字でしっくり来る熟語って、総武線だろ、京葉線だろ、あと落花生だろ、あとは──あ、平塚静。
……うげぇ。
「ちがうぞ比企谷、”しずか”と呼んでくれ」
その三文字は是が非でも回避したいです先生。
ふう。
そろそろ制止しておくか。これ以上この人、正確にはこの人たちの悪ふざけには付き合えない。
「まだ冗談をエスカレートさせる気ですか、平塚先生に……雪ノ下さん」
「あらら、バレてたか〜」
ぼっちの洞察力を侮ったらダメですよ陽乃さん。部屋に入った瞬間にロフトから頭が見切れてましたから。
まったく、魔王らしからぬミスですよ。
「せっかくさっきの再現をしようと思ったのに」
さ、再現だって?
「な、何の再現……」
「そうよ、わたしが雪乃ちゃん役で、静ちゃんがガハマちゃん役」
ぎゃああああああああ~!
「そうだ比企谷、私は優しく比企谷の股間をすりすりすりすり……」
いやああああああああ~!
「やめてくださいって!」
たじろぐ俺を見て、いい大人二人が大爆笑する。
「あはははー、キミはホンット面白いね~」
全然面白くないです。甚だ遺憾です。割とマジで。
「ああ、こいつは常々やる男だとは思っていたが、そっちの意味の”やる”オトコだったとはな」
やってませんてば。されそうになっただけです。あくまで受け身、受動態です。つーかそれも違うし。
「それにしても、ガハマちゃん頑張ったねー。これで少しは状況が動くかな?」
そんなことより情報源を教えて貰えませんかね、速やかに。
「あ、何で知ってるかは、ナイショだぞっ」
可愛くない。むしろ怖い。女怖い。はちまん逃げたい。今すぐルーラを唱えておうちへ帰りたい。
「茶化さないでくださいよ。こっちは雪ノ下に殺されかねない眼で睨まれたんですから」
本当にこの雪ノ下姉妹は、どうして俺を苦しめるのかね。
「大丈夫、そんな心配は要らないわ。それに──雪乃ちゃんがどんな行動に出るか、大体予想はつくからね」
「どんな……行動なんです?」
怖っ。あの睨んだ目から怪光線とか出たらどうしよう。
「それは、あとの……お、た、の、し、みっ♪」
笑顔が怖いです陽乃さん。何なら存在自体が超怖いです。でもまあ、雪ノ下がどんな報復をしてくるにせよ心構えはしとくべきだな。
「とにかく、首を洗って待ってなさい♪」
だからそんなに楽しそうに残酷な言葉を浴びせないでください陽乃さん。
「とにかく俺は空き部屋を使わせていただきますよ。引率の大人たちがアレなんで」
まったく性質が悪い。大人も、姉も、妹も、同級生も。
自分の性質の悪さを棚に上げた俺は、空いている二人部屋に今夜の居を構える旨を伝え、当然のように即却下される。
ほんと俺の人権って無いんかいな、ちょっとだけ泣きたくなるぞ。あと胸の中を覆う灰色の靄みたいなものは何なんだよ。衝撃的なことが起き過ぎて解らん。
その灰色の靄を抱えたまま、一人思考に耽るために誰もいないであろうエントランスへ向かった。