エントランスの片隅で静かに過ごせたせいか、午後十時を回る頃には体調は快復した。これなら充分に氷の女王や魔王とも渡り合える。いや戦わないけどね負けるから。
「けぷこんけぷこん、待ちかねたぞ八幡っ」
ポカリのボトルを持ったまま右腕を持ち上げて肩を中心に回してみる。上下左右に首を振ってみる。膝を高く上げてみる。
おお、なんか身体が軽いぜ。気分はまるで十倍の重力室を出たばかりの超戦士だ。
エントランスを出て、外の空気を吸い込む。
余計な力が抜けているせいか、身体はさらに軽く感じる。これは完全体になる日も近いか。完全体ってなんだよ、孤立無援状態かよ。なら普段どおりだな。
「ゲブン、は、八幡よ……」
ペットボトルのポカリを流し込むのと同時に、ひとり夜空を見上げる。木々が形作る歪な額縁に切り取られた星空は遠く、高い。
そういえばオリオン座を見るのなんか久しぶりだ。いつも下ばっかり向いて生きてるからね。
夏の大三角はというと、枝葉に隠れてアルタイルだけが見えない。その隙を狙って、25光年の彼方、ベガの冷たく寂しい光をデネブが虎視眈々と狙っているようにも見えてしまう。
七夕伝説でいえばベガとアルタイルは両想い、つまりリア充である。しかし、ぼっちのデネブはどうなのだろう。天の川を隔てても尚強く結ばれた二人を見て微笑ましく思うのか、それとも疎ましく思うのか。
はくちょう座の先っぽ、嘴にあたるアルビレオという三等星は、現在絶賛ハマり中の宮沢賢治の物語にも登場する美しい二重星だ。肉眼では確認できないが、この二重星はそれぞれ違った色を放ち、作中ではその輝きをトパーズとサファイヤに喩えている。
「ゲ、ゲフフォフォン……あの」
そういえば『銀河鉄道の夜』では、あのアルビレオの近くの検札で自分の持つ切符が特別だと知るんだったな、ジョバンニは。
だが同じ「ぼっち」でも、ジョバンニと俺は違う。俺には天上へ行ける特別な切符なんざ有りはしない。きっと俺は石炭袋に収まる側の人間なのだろう。
カムパネルラ──葉山は、きっとこれからも優等生として生きていくのだろう。そして最後まで自分を演じ切って、銀河鉄道の旅の終わりに人知れず消えてゆくのかも知れない。
「ねえ、はちまん」
そんな益体も無いことに思考を割いていると、いつから居たのか、ぴょこんっと戸塚が俺の顔を覗き込む。
くっ、かわええ。
「ん? どうした、戸塚」
空いたままのペットボトルにキャップを捩じ込んで、出来る限りの笑顔で戸塚に向き直る。
「もう、さっきから呼んでるのに。材木座くんがっ」
うん、知ってた。でもさ、敢えて触れたくないときってあるよね。それが今。なんならずっと。
「そうだったのか。俺には戸塚しか目に入らなかった」
当然だ。天使の放つ輝きの前ではベガやアルタイルですら霞んでしまうのだ。八等星以下のクズ星同然の材木座なんか目に入る訳がない。何なら自分自身さえも見失うくらいだ。
「あのね」
はにかんだ上目遣いで俺を見る戸塚の可憐さに、さっそく自分を見失いそうになった。
「材木座くんがね、はちまんに謝りたい、ってさ」
ほう、何を謝る気でいるのか。奴には特に怒ってはいないのだが。むしろ貞操の危機を助けて貰った側である。
存在の鬱陶しさこそ極上だが、基本的にこいつはいい奴。同時にどうでもいい奴なのだけど。
まさか、今さら恥の多い人生を詫びるのだろうか。
生まれてすみません、とか云うのだろうか。
それとも千葉に帰るのだろうか。
俺としては最後のを推奨したい。
「す、すまぬ。昨日の川崎何某のときといい、由比ヶ浜氏のときといい……我は八幡の逢瀬の邪魔ばかりしてしまった。本当に申し訳ない」
なんだこいつ。そんなことを気にしてたのかよ。
全部俺の八つ当たりなのに。
つーか逢瀬ってなんだよ。殴るぞ。
でもこいつに悪気は無い。それだけは解る。悔しいけど解ってしまう。
「あれは雪ノ下の姉さんや一色の差し金だったんだろ? お前が悪いわけじゃない」
「そうなのであるが……やはり心苦しいのだ。親友の恋路の邪魔というのは」
「おい待て。親友でもなければ恋路でもない。むしろ今日なんか助けられたくらいだ。知り合い以下のおまえにな」
しょぼぼぼぼーん、と擬音を口に出して肩を落とす材木座に、天使が微笑みを投げかける。
「あはは、口ではこう言ってるけど、はちまんはちゃんと材木座くんを友達だと思ってるよ。大丈夫」
いいえ知り合いで合ってます。
「そ、そうか。では八幡、これを受け取るがいい。詫びの品だ」
戸塚のフォローに気をよくした材木座が差し出すのはコーヒーの缶だ。まだ冷たいらしく、水滴がついている。マッ缶じゃないのが非常に残念だ。
「お、サンキューな」
しかしもらえるものは病気以外は有り難く頂こう。
思えば、この合宿での材木座の役回りは相当に酷い。
同学年の才女の姉に道化師同然の扱いをされ、年下の生徒会長には鉄砲玉的な役目を背負わされ、とどめに俺に八つ当たりされ、無視される。
どう考えてもこいつの扱いは下の下だ。
「材木座。おまえ、この合宿に来て良かったか?」
下の下の材木座への、心底からの問いだった。
「ゴラムゴラム、愚問だな八幡」
材木座はニカっと笑い、夜空を見上げる。眼鏡がキランと光るのが心底鬱陶しい。それはイケメンのみに許された技だろ。
「良かったに決まっておろう。八幡よ、我は、こんなに楽しい夏は初めてだっ!」
そういって誇らしげに胸を張る材木座を心底凄いヤツだと感じた。単純といってしまえばそれまでだが、こいつの答えには迷いが無い。
「……そうか、ならよかった」
気を良くした材木座は、更に続ける。
「応とも。ぼっちの我らにはこんなに大勢で寝食を共にする機会など早々あるものではあるまい。しかも三次元の美少女たちが作った料理を拝領できるのであるぞ。もう我は幸せすぎて、余は満足じゃ」
我だか余だか知らないが、こいつはこいつでちゃんと合宿を楽しんでいるんだな。
それはつまり、材木座はこの状況を楽しむことに関して前向き、能動的だということだ。それに比べて俺は。
「そういえば、はちまんは何をしてたの?」
危うく心を満たしそうになった灰色を戸塚の戸塚ヴォイスが払拭してくれる。
「星を眺めてただけだよ」
その瞬間、材木座が驚愕のキモい顔に変わる。
「し、死兆星か……?」
縁起でもねぇな。それって、見えたら死ぬっていう星じゃねぇか。
でも大丈夫。ここには拳王も聖帝もいない。氷の女王と獄炎の女王、あと魔王はいるけど。
何それ、超怖いじゃん。
それから少しだけ『銀河鉄道の夜』について語った。その駄話を戸塚だけは目を輝かせて聞いてくれた。というか、戸塚に向けて話していたのだが。
話を終わろうとした頃、背後に気配を感じる。
「あれ~、材木崎くんに戸塚、ヒキタニくんもいるのかよ。そういやヒキタニくん大丈夫?」
いきなり現れた戸部が、こちらの返事を待ちもしないで怒涛の如く喋り立てる。ちなみにここには材木崎くんもヒキタニくんもいませんが。
三人中二人の名前を間違えるって、テストならほぼ赤点だぞ。
「いやさ、びっくりしたよ~結衣が電話でヒッキーが死んじゃう、とかいうんだよ。そいで急いで行ってみたら、ヒキタニくんは倒れてるし、結衣と雪ノ下さん、それにいろはすや川崎さんまで泣いてるんだもん。いやぁマジ焦ったね」
ははは……そ、そんな事があったんですねー。知らぬが仏。つーか俺の感覚では、ただ眠気に耐えられなくなって寝ちゃっただけなんだけど。
どうでも良いけど戸部の口から出る”ヒッキー”ってマジキモいな。
「そんで隼人くんも呼んでさ、とりあえずペンションまで運んだんだけど、これから花火大会って時間になってもヒキタニくん起きないし、女子達はヒキタニくんが行けないなら行かないとか言い出すし。で、結局雪ノ下さんが残ったんだけど、他の女子達も心配だから途中で帰るとか言っちゃってさ」
つーか沢山喋るなー、戸部って。マシンガントークだな。ほとんど中身は無いけど。
「で、結局、平塚先生が結衣と川崎さんといろはす、小町ちゃんを乗せて先に帰ってさ。でも海老名さんと花火見れて超ラッキー、みたいな」
……ふう。聞く方が疲れるな。戸部の話って。
「なんだよ。要約すると海老名さんと花火見れてよかった、ってことかよ」
「そーそー、それ。それっきゃないっしょ」
戸部は、にししっと幸せそうな笑顔を浮かべた。こいつも楽しむことに能動的なんだな。こいつの場合、楽しさ年中無休っぽいが。
まあ何にしても、こいつらと話せてよかった、ような気はする。何より戸塚のおかげで気持ちが軽くなったというか、胸中の灰色の靄が減ったというか、戸塚愛が増幅されたというか。
まあ、これならアレを計画通りに実行しても構わないだろう。
次回は来週月曜日になります。