海老名さんが見ていたら大量出血モノの男同士の取り留めの無いトークを終えて、ペンションの扉を観音開きにして中に戻る。背後からは何故か戸部と材木座の談笑が聞こえる。
しかしその談笑も、エントランスの闇に光る二つの光によって霧散してしまった。
──なんだこの禍々しい空気は。
目を凝らしてみると非常灯の灯りだけが照らす薄暗いエントランスの中、小町が仁王立ちで待ち構えていた。怖いのだがどこか可愛い。
いや、やっぱ怖いか。材木座はともかく、戸塚や戸部まで逃げてったし。
一人取り残された俺を射抜く我が妹の攻撃的な視線。
「──ごみいちゃん、ちょっと」
薄闇に光る視線に何も云えず、引きずられるように小町の部屋に連行される。きっと、由比ヶ浜や雪ノ下の件について説教されるのだろう。案の定、部屋に入ると小町の先制攻撃がきた。
「とりあえず正座ね、床に」
おお、有無も言わさぬ気だな。
よかろう、受けて立とうじゃないの。怒りを買う謂われは無いが、妹の説教を受けるのも兄の役目だ。人生相談だけでは能がない。
そう内心で呟いてみるけれど、小町の指示通りに正座する時点で兄の負け確定である。
「お兄ちゃんさ、結衣さんや雪乃さんと何があったの?」
あれ?
てっきり小町はもう知ってると思ったけど。何なら小町が平塚先生たちの情報源だと思ってたんだけど、違うの?
「あ、あれはだな、不幸な事故が重なって……」
びしっ!
小町が小さな可愛らしい手のひらを向けて俺を遮る。俺は体の自由を奪われ、身動きが取れなくなる。愛する妹が闘魔傀儡掌の使い手とは知らなかった、なんて云ってる場合じゃないな。
「あのね。小町が聞いてるのは言い訳じゃないんだよ。状況なの」
やばい。愛する妹の冷たい視線。ちょっと萌えるとか考えちゃいけないんでしょうね状況的に。
いや倫理的にもまずいか。
俺は、テニスコートの帰りに道端で寝ちゃったところから、材木座が乱入してくるまでの顛末を説明した。さすがに由比ヶ浜の股間すりすりと俺のハチマンの件だけはモザイク、もといオブラートに包んで話したが。
「……そう。それで、どうすんの」
腕組みをして、指をとんとんしながらも小町は俺を睨んでいる。
「ど、どう……って、何が」
別にどうもするつもりは無いのだが。身を小さく屈めて、怒りという嵐が通り過ぎるのをただじっと待つしかあるまいて。
嵐の前では人は無力なのだよ、小町くん。
「何がじゃないでしょうに。結衣さんも雪乃さんも傷ついてるって言ってんの」
「何で由比ヶ浜と雪ノ下が傷ついてるんだよ。つかそれ、俺のせいなのか?」
「お兄ちゃんのせいしか無いでしょうに。雪乃さんと喧嘩したことが元々の原因なんだから」
小町が云わんとすることは解る。解るが、それって俺のせいなのん?
俺の意志とかじゃないんですけど。
「あのね、この合宿は雪乃さんや結衣さんにとってチャンスだったんだよ」
「はぁ? そりゃどういう……」
「それって、お兄ちゃんにも言えることなんだよ」
どういうことだ。益々わからん。
まさかあれか。俺を葬り去るチャンスってことか。超こえぇよ、それ。
と、ぶるると震えるも、どうやら違ったらしい。
「結衣さんも雪乃さんもさ、頑張ってお兄ちゃんに近づこうとしてくれてたんだよ。いくらバカでアホで八幡でどーしようもないごみぃちゃんでも、そのくらいわかるでしょーに。なんでその気持ちに応えてあげないのさ」
なるほど、そういうことか。
確かにここ最近のあの二人、いや、一色も含めると三人か。その三人との距離は近かったように思う。
それはきっと、悪意や害意ではない。むしろ好意とも思えたことは数多ある。
小町はそれを「頑張り」と言った。要するに、人間関係を構築し維持するには、多大な努力が必要なのだ。その為に、俺との関係の為に雪ノ下や由比ヶ浜、一色は努力をしていた、と。
そして俺はそれに応えるべきなのだと。
きっとそれは正論なんだろう。一般的な尺度では。
だが単独行動を常としていた俺の中には、その正論は存在しなかった。
それどころか逆に思ってしまう。
近づかれるのを拒否する権利は無いのか。来る者拒まずで無ければいけないのか。自分に合った距離感を求めてはいけないのか。
あいつらの言動を全部甘受し、俺は己を消してただ許容しなければならないのか。
俺自身の意思も意向も、感情も押し殺して。
──
ここでようやく胸の中の灰色の靄の正体に気づく。それは、自分の素直な気持ちに基づいた、負の感情。
苛立ち、怒り。そんな、負の感情。
「……わからないな。そんな身勝手な論理は」
負の思考スパイラルの果てに、気づいたら俺は小町に怒りの目を向けていた。これ程までに明確に小町に対して自分の怒りを向けるのは数年ぶりだ。
一瞬小町はたじろいだが、一度ついた勢いはそんなことでは止まらない。
「はあ? 身勝手なのはお兄ちゃんでしょ? 女の子の気持ち考えたことあんの?」
では俺本人の気持ちや意見、意向はどうでも良いのか。黙殺されてはい終了、か。
いつでも相手のことだけを考えろというのか。
すげぇご都合主義だな。
「いいから聞けよ、小町」
構わず小町は責め立ててくるが、もう俺も自分の怒りに収拾がつかなくなっていた。
「俺はな、俺がどうしていいか解らない事まで俺の罪と断定されるのなら、それを理由に俺を責めるのなら、もうそんな奴等と人付き合いなんて出来ない。そんなものは拒否する。目の前から排除するしか……」
明確な怒りを目の当たりにした小町は少々呆気に取られていたが、俺は間違ったことを吐いた覚えは微塵も無い。
大体、俺に普通の人付き合いを望むこと自体に無理があるんだ。毎日毎日誰かと一緒に行動するなんて晩度出来る訳がない。
俺には経験値が無いのだ。正解を出せといわれても出せるわけは無いのだ。
その上で俺に正解を出せと迫るのなら。
満点を取れというのなら。
そんな問題への解答などこっちから拒否してやる。
「はぁ? 排除? おにいちゃん何様のつもりなの?」
小町も激おこモードに突入しているようだ。
ふう。ならば退くか。やっぱこれ以上小町に嫌われたくないし。
「あーわかった。俺が悪い。もういいだろ。おやすみ」
最早行き着く先は水掛け論。これ以上の口論を続けたとて何も良い結果は出ない。謝るなら翌朝以降だ。一晩経てば、少なくとも今よりはお互い冷静だろう。
そう断じて立ち上がって踵を返した俺の背に、言葉が降りかかる。
「……ヒッキー!」
声のする方、ロフトの上を見遣ると由比ヶ浜と雪ノ下が睨んでいた。
「なんでおまえらが……?」
おまえらロフト好きだな。どうでもいいけど。
「ご、ごめん……ヒッキーの考えてることをもっと知りたかったの」
耳障りの良い言葉を並べてはいるが、要するに罠を仕掛けた上での盗み聞きか。
「そこにきてあんな台詞を吐くとはね。あなた、私たちを排除すると、そう言ったわね。私たちが怒る理由に足り得るわ」
怒っている? 誰が? 何に対して?
──そうか。こいつら、怒っているのは自分たちだけだと思ってるのか。
「そうか、だから小町まで巻き込んで……俺を騙したのか」
「え?」
「べ、別に騙した訳じゃ……」
「そうだな。お前らは騙したつもりは無いんだろう。だが、俺は騙されたと思ってるんだよ」
厳密に言えば、騙した騙されたということではない。もっと言えば、これくらいのことは過去にあった気がする。
だけど、もう限界だ。
こいつらの思考や機嫌に左右されるのは真っ平だ。
怒りではない。小町を見る俺の目に浮かぶ感情は、きっと哀しさと諦めだ。
即ち、肉親である小町に対しても心を閉ざす目。
「あ、あのね、お兄ち……」
この類の目を小町に向けるのはこれまで数回しかなかった。さすがに俺の目の意味を察知した小町は慌て出す。
だけどね小町。もう遅いよ。お兄ちゃん、限界を超えちゃったんだよ。胸の中に溜まった負の堆積物が押し寄せてきて、もう決壊しちゃったんだよ。
おい妹、お前は俺の味方じゃなかったのかよ。家族じゃなかったのかよ。
「お、お兄……ちゃん、小町の話を……」
「黙れ」
一声で小町を黙らせた後、視線の矛先はロフトの上、由比ヶ浜と雪ノ下にスライドする。
「何なんだよ、お前ら」
今度は完全に怒りの感情。もうどうなろうと知らん。
「それはどういう──」
その誰の声とも解らぬ言葉を遮って、俺は捲くし立てる。
「お前らいい加減にしろよ。俺は元々ぼっちなんだよ。一人で成立してたんだ。それを訳の解らない部活に入れられてからというもの、勝手に人の領域に入ってきやがって、やれ目が腐ってるだのキモいだの散々蔑まれた挙句に、自分等の思う様にいかなくなったら全部俺が悪いだと?」
「……主旨が変わってしまっていると思うのだけれど」
「うるせぇ、黙って聞け」
やばい、もう止まらない。
「雪ノ下、お前のご立派な理論はお前だけに当てはめろよ。俺に押し付けるな。勝手に押し付けて罵ってまた押し付けて、それがお前の正論かよ。無闇に他人を貶めて傷つけることがおまえの正義なのかよ。そんなもん他所でやれ」
雪ノ下は唇を噛んでいるが、反論は返ってこない。
だめだ。これ以上言ったら。
「由比ヶ浜、俺はお前みたいに対人スキルが高くないんだよ。お前のペースで振り回すな。お前のやってることはな、何の練習もしてないヤツに2時間でフルマラソンを完走しろって云ってるようなものなんだよ。俺におまえのペースを強要するな。おまえとは住む次元が違うんだよ」
由比ヶ浜は目に涙を浮かべている。
もう戻れない。すべて……壊れる。
「お、お兄ちゃ──」
いや。壊すのは──俺だ。
「小町。過去の俺を知ってるお前なら、俺がこういう騙し討ちみたいなやり方が嫌いなのは解ってるよな? それを敢えて実行するってことは、それ相応の覚悟があるってことだよな? そういうことだよな?」
小町も俯いて押し黙る。
女子三人が立ち尽くしているが、すでに俺の着地点はひとつしか見えない。
「最後に。お前らは俺が傷つかないとでも思ってるのか。何をされても痛みを感じないとでも思ってるのか。俺には悩む権利どころか、傷つく権利すら無いのかよ。まあ、そう言ったところで、もう」
そこで言葉に詰まる。
躊躇ではない。覚悟を決める為の数秒だ。
腹を決め息を吸い込み、俺は虚空に向かって告げた。
「もう……どうでもいいか。これで最後だし」
言い放った後、張り詰めた静寂が生まれる。その冷めた空気の中に立ち上がった俺は、誰に視線を送ることなく三人に背中を向ける。
「さ、最後って……ヒッキー」
誰かが何かを言ったが無視する。
「もう俺に関わるな──以上」
矢継ぎ早に言い終えると、そのまま俺は部屋を出て平塚先生の部屋に向かった。
ノックとほぼ同時にドアを開けると、平塚先生はタンクトップに短パン姿でビール片手にテレビを見ていた。
「おう比企谷か、やっぱこの辺は首都圏と違ってチャンネルが少ないな……ん? ど、どうした」
俺の顔を見るなり、目を見開いて飲みかけのビールを落とす。
「平塚先生、俺はもう帰ります。奉仕部も退部します。ありがとうございました」
それだけ告げると、俺は荷物をまとめ始めた。
無闇に過負荷をかけられるのは正直うんざりだ。
もういやだ。たくさんだ。
答えの出ない問題に頭を悩ませるのも今日で終わりだ。
畜生、あんな計画なんか立てるんじゃなかった。
二週間も頭を悩ませるんじゃなかった。
金も無駄になった。
やはり俺には独りが相応しい。
誰の影響も受けず、誰にも影響せず。
外界に関わらずに生きてりゃ良かったんだ。
何を俺は期待してたんだ。俺のクセに。
もう光は見ない。闇だけを見続けて生きていく。
いつしか心を覆う灰色の靄は真っ黒に染まり、全身を隈なくコーティングしていく。
黒い闇に閉ざされた今の俺の耳には、もう何も届かない。
この作品は決して、断じて、アンチ作品ではありません。
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