時は、俺が家に帰ると宣言した少し後に遡る。
ペンションを出て木々の間を滑る様に、いや実際横に滑ったりしていたんだが──車が長い下り坂を走破する頃には、俺のスマホには着信とメールが数件届いていた。
読まずに送り主の名前だけ確認するとほとんどが由比ヶ浜で、あとは小町と戸塚だった。
戸塚にだけは後で返信しとこうかな。由比ヶ浜と小町のメールは……今は読む気にはなれない。
さっきまで車体を横滑りさせてストレス発散していた平塚先生がちらっと俺の手元を見る。
「きっとあの子たちからのメールだろう。今無理して読むことは無いが、読まずに消すことだけはするなよ?」
おっと、何でもお見通しですか。その調子で男心も……ケフン。
「はあ、善処します」
「ふっ……まあいい。さあ、そろそろコンビニだ。たんまり食料を買い込むぞ。いざ籠城戦だ」
籠城戦って何だ。まさか車内に立て籠もるのか。
頭の中に「?」が大量に浮かぶ。このまま脳内に選択肢が浮かんで来るようになったらどうしよう。
平塚先生はといえば、店内に駆け込むなり買物カゴを掴み、楽しそうにパンやおにぎり、カップラーメン、お菓子を次々に放り込んでいく。その光景はまさに大人買い。
いや”独身アラサー女買い”か。
てかいつの間に食玩なんて入れたんだこの人。
「あとは……うむ、エロ本は必要だな。ネタが無ければ今夜困るだろう」
「いりません。必要ないですって」
「ほほう、比企谷は想像力だけでイケるクチか」
ははは。この人、何考えてんだろ。
正直パンやおにぎりは有り難い。どうせ今日は野宿決定なのだから食料は欲しいところだ。
でもエロ本は……男子高校生の下半身事情に理解あり過ぎでしょ、先生。
「ま、私はこんなもんでいいか。比企谷、弁当を選べ」
こんな調子で買い込んだ物資はカゴに山盛り、食料なんか余裕で二日分はありそうだ。
乱雑な買い物の末に大量に詰まった大きなコンビニ袋を二列目のシートに積み込む。そのまま俺を二列目のシートに座らせると、平塚先生の操る車は今さっき下ってきた坂道を戻り始めた。
「あの……これからどうするんです?」
先生はちらとミラー越しに俺を見て、ふと笑みを溢す。
「もう忘れたのかね。キミは昼間倒れたばかりなんだぞ。そんな生徒を一人で帰らせる訳はないだろうが」
まあ、そうか。じゃあまたあのペンションへ逆戻り、なのか。
はあ。戻りづらいな。
「実はな、比企谷」
夜の坂道を駆け上がっていく車に揺られながら先生の顔を見ると、にやりと笑っていた。
「泊まっていたペンションの近くにオーナー夫婦の自宅があるんだ。これからそこに行く。あそこならみんな場所は知らないからな」
どこから出したのか、左手の指で鍵をチャリチャリ鳴らしながら先生は言う。キーチェーンが左手の薬指に通されているのは何故ですか、とは聞かない。いや聞けない。偶然だと思いたい。
しかし先生が籠城戦と云った主旨がやっと解ってきた。でもそれって意味あるの?
誰も知らないのなら、誰も攻めて来ないよね。
それよりも今は、確かめたいことがあった。
「はあ……そういえば先生、さっきまで部屋でビール飲んでましたよね?」
そう。確かにあれはビールっぽい缶だった。
銘柄までは判らなかったが、なんとかフリーって書いてある缶だった。
「ははは、あれはノンアルコールだよ。いざというときに運転できないと困るだろう」
本当かな、若干先生の顔が赤いのだが。
「キミは本当によく見ているな」
その言葉には、もっと見るべきものがあるだろう、という意味が込められている気がした。
忘れていた。
ペンションの付近に戻るっていうことは、元の道を引き返す訳で、即ち同じ道を通る訳で──
「──あ、あ、あ、あ、あぁあああああ!」
二列目の座席に座れと云われた理由はこれか。シートや足元のフロアにはコンビニのおにぎりやパンが散乱している。
「まったく。しっかりと押さえておけと言ったじゃないか」
聞いてない、聞いてないです。
そう云いつつも、平塚先生はアクセルを緩めない。緩めた時にはサイドブレーキが引かれ、車体はカーブ、もといコーナーの外側に向かって流れ出し、フォンとエンジンが唸りを上げるのと同時に、ギャギャギャと断続したスキール音が鳴り始める。
「こんの、暴走教師め──」
シートベルトをがっちり締めて、コンビニ袋を両手で抱え、対向車が来ないことを祈りながら恨み言を呟いた。
「……ゴムくせぇ」
元いたペンションからほんの200メートルくらいだろうか。脇道に少し入った民家に着いた車から降りた俺の第一声は、それだった。
「ふむ。やはりこの車ではあれが限界だな」
キンキンと車体から金属音を鳴らすワンボックスカーに手を置いて、平塚先生は溜息を吐いている。
つか何カーだったら、あれ以上の恐怖体験が可能なんだろう。絶対体験したくはないけど。
未だに足ガクブルだし。
民家の玄関の鍵を開けてドアを開くと、昼の間にたっぷり熱せられた、蒸せるような空気が顔面を包む。
そこはもう普通のお宅。良くいえば生活感が溢れている、悪くいえば他人の匂いがする家だ。
玄関内に暖色の灯りが点される。
「リゾートに来ておいてこんな所で申し訳ないが、まあ上がってくれ」
あんた家主じゃないだろ、と、心中でツッコミながらそろそろと靴を脱いで、平塚先生の後に続く。フローリングに吸い付く感触とぺたぺたと鳴る足音で、今更ながら自分が靴下を履いていないことに気づく。
「ここを自由に使うといい。元々この家は私に用意された場所だからな」
通されたのは広いリビング。真ん中に置かれた低いテーブルを挟んで、応接セットのような向かい合わせのソファーが置かれている。
壁際のサイドボード、テレビの横には異国情緒漂いまくる民芸品が雑多に並べてある。きっとペンションのインテリアの小物にでも使うのだろう。
「さて、駅まで往復してきたように時間を調節せねばならんな。よし、ラーメンを食べよう」
さっきから平塚先生がそわそわしてると思ったら、カップラーメンが原因か。どんだけ好きなんだよラーメン。
リビングに落ち着くや否や平塚先生はルンルン気分(死語)で買ったばかりのカップラーメンの包装を慣れた手つきで破って──動きを停止する。
「しまった、先にお湯を沸かすんだったぁあああ~」
頭を抱えた直後、慌ててキッチンに駆け込んだ平塚先生がガコガコと騒がしく音を立てる。すぐに水道の音が聞こえて、ガスの点火音がジジジと響いた。その姿は、とてもさっきまでワンボックスカーを繊細かつ大胆に操って峠を攻めていた人物とは思えない。
その様子をリビングから見つつ苦笑していると、戻ってきた当の本人と目がぶつかった。
「な、なんだよ、私だって未熟な人間だ。湯を沸かす前にラーメンのふたを開けてしまうこともあるんだっ」
何も言っていないのに勝手に言い訳を始める。顔を赤らめてふいっと横を向くその仕草は、まだ女子大生といっても通用するのではないかと思わせた。
いや実際若いのだけど、今はより若く見えるのだ。言い換えれば幼く見えるのだが。
一度意識し始めると、自然と平塚先生の服装に目が誘導されてしまう。
薄手の白いパーカーのファスナーは胸より下、鳩尾あたりで揺れていて、その奥ではカーキ色のタンクトップに包まれた大きく柔らかそうな何かが二つ、たゆんぽよんと揺れている。
目線を下に移すと、ショートパンツから伸びたすらりと長い生足は白く、程よく引き締まっているのが確認できてしまう。
髪は後頭部の高い位置でくるくるっと纏めてあり、そこに食虫植物のモウセンゴケに似たでっかいクリップのようなものが挟んである。
「な、なんだ比企谷、そんなに見るなよぉ」
おっと、いかんいかん。危うく通報されるところだった。
さらに顔を赤らめた平塚先生は、ソファーセットの俺の向かい側にとすっと腰を下ろし、手に持った缶ビールを低いテーブルに置き、プルタブを起こす。ペンションで見たのと同じ、なんとかフリーと書いた缶だ。
ぐびぐびと音を鳴らしながら缶を傾ける平塚先生からは先程までの幼さはもう消えている。あと足は閉じたほうがいいですよ。眼福、もとい目の毒です。
「さて、湯が沸くまで、少しキミの考えを聞こうか」
大人の表情に戻った平塚先生はソファーに深く身を沈めて煙草に火を点ける。ちょっと吸い過ぎじゃないですか。いや格好良いんですけどね。
「俺は──」
平塚先生は缶ビールを一口煽る。なるほど、目を凝らして缶の表示を見るとノンアルコールのようだ。0.00%って書いてあるし。
先生がひと心地ついたのを見計らって、俺は言葉を続ける。
「俺はあいつらに、雪ノ下と由比ヶ浜に期待し過ぎてしまったのかも知れません。その意味では俺も悪かったというか……でも、最近あいつらの行動に着いていけなかったのは事実です。そういう意味では、川崎といる方が自然だし、楽ですね」
ここで何故川崎の名前を出してしまったのか。後悔するがすでに遅い。
ノンアルコールビールで喉を潤した平塚先生は嬉々として茶々を入れにかかる。
「ほほう、川崎沙希か。第三の女が登場したな。すると一色は第四の女、か」
本当、何故ここで俺は川崎の名前を出したのか。てかなんだよ第三の女って。安い推理小説かよ。
しかし本当に楽しそうだな、この人。
卒業したら友達になってくれないかな。割とマジで思ってしまう。
「第二も第三も無いですよ。俺は今回の件で一人で居ることの気楽さを再確認したんです。もうあいつらに放課後や週末の貴重な時間を潰されるのは嫌なんですよ」
「そういう割には奉仕部へは律儀に参加していたようだが……まあいい」
俺の話に耳を傾ける平塚先生の表情は柔らかい。ある程度は俺の言い分が理解されていると見ていいだろう。
「ふむ。では質問を変えよう。キミが雪ノ下と合わないと思う理由を教えてくれ」
そこで少し逡巡する。そして、確かめるように吐露を始めた。
「雪ノ下は、物事を正論で片付けようとします。それはいいんです。ただ、その正論以外を悪と断じるのは頂けない。あとそれを他人に強いるのも。まあ大前提として、挨拶代わりに暴言を吐くくらいですからあいつは俺を嫌ってますけどね」
平塚先生は笑顔で聞いている。
「では、由比ヶ浜については?」
「あいつは、やっぱりリア充側の人間なんですよ。心にどんなものを抱えていようとも、どんな悩みを持っていようとも、あいつの行動原理はリア充のそれなんです。そしてその行動速度は、俺には対応しきれない。普通のザクじゃシャアザクには追いつけないんですよ。旧ザクの俺には尚更無理です」
先生は相変わらずの笑顔、いや、若干笑い声が漏れ聞こえる。やっぱガン○ム好きなんだな。MS-14とか言っても「ゲルググ!」と即答されそうでちょっと怖い。
「では一色はどうだ?」
一色には悪いが、ここは語らせてもらおう。
「あいつは元々、葉山が好きな筈なんですよ。だったら葉山にだけあざとく可愛く振舞っていればいい。そういう意味で俺はあいつの意図が読めないし、読めないものは完全には信用できません」
それにしても、何故そんなに笑うのだろう。笑うほど面白い話でも無いだろうに。
「最後に、川崎か」
「川崎は、小町に勉強を教えてくれたり、見た目は怖いけど良い奴です。それに俺のぼっちを少なからず理解してくれる。ま、川崎自身もぼっちみたいな感じだからでしょうけど。そういう意味で貴重なと……クラスメイトです」
そこまで語ったところで、キッチンから薬缶が騒ぐ音が聞こえてくる。
「ほう……ん? さて湯も沸いたし、ラーメンの時間だな」
スキップしそうな勢いで薬缶を取ってきた平塚先生は、さっきコンビニで買ったゴシップ雑誌を一冊引っ張り出してテーブルに敷き、その上に薬缶を置く。
その残念っぷりに溜息を漏らしながら、俺は家系ラーメンの醤油とんこつ、先生は博多とんこつのカップにそれぞれお湯を注ぐ。案の定、鍋敷き代わりにされた雑誌には円い跡が残っていた。
湯を注いで待つこと5分。やっぱカップラーメンって便利だよな。
ラーメンの出来上がりを待つ間、平塚先生はずっと笑顔だ。割り箸は既に真っ二つに割られ、目の前にはちゃっかりコショウも用意されている。
どんだけ楽しみなんだよラーメン。
さてさて、いただきますか。
平塚先生のラーメンの食べ方は素晴らしい。よく女子がするような、蓮華の中にミニラーメンを作って髪をかき上げながら、なんてことは一切しない。
気取らない。ただ黙々と。一心不乱に食している。
まあ今は蓮華など無いのだが、こっちのほうが見ていて気持ちが良い。
「んー、美味い。比企谷、そっちも一口くれ。ほらこっちもやるから」
テーブル越しに手を伸ばして強引に器を交換してくる際、パーカーの中にちらりと見えた白い脇に少しだけ脈が踊る。白い脇の主は、そんなこと歯牙にもかけずに目の前の器に集中し一心不乱に麺とスープを交互に啜る。
「おほっ、こっちも美味いな。比企谷はどっちが気に入った? 私はこっちかな~」
一口啜っては幸せそうに笑みを浮かべる。そしてまた一口。
やばい。どんどん先生が可愛く見えてきたぞ。だがこれは勘違い。
そう、夏のせいだ。
「ん、そうだ」
麺をむぐむぐする口元に手を当てて、平塚先生は封筒を差し出す。
「比企谷、これを預けておこう。ここに留まるのが本当に嫌になったら、それで家まで帰るといい」
封筒の中には、お札と小銭、合わせて二万円ほどの現金が入っていた。
「それだけあれば家まで辿り着けるだろう。ま、あくまで保険だ」
良い人だ。俺に退路まで用意してくれている。つーかこの金、帰りのガソリンと高速道路の費用なんじゃないの?
「なあ、比企谷」
酒盛りする山賊の如く、片手で持ったラーメンのカップを傾けて最後のスープを飲み干した平塚先生は、真剣な顔で俺を見つめる。ほっぺにスープやネギが飛んでいたりするが、それはそれで可愛らしいのであえて言わないでおこう。
「今回の事を含めて……キミがあの子たちを心から拒絶したいのなら、それでも仕方ないと思う。その行為に対して逃げだとは誰にも言わせない。文句も言わせない。キミは戦って悩んで傷ついたのだから、回復するまで少し休むのも良いだろう」
この人、何をラーメンのカップを持ったまま真剣な話をしてるんだ。本当に酒盛りしてる山賊の頭領に見えてきたぞ。
ただ、云わんとしていることは解る。それはもう、痛いほどに。
心の回復。
トラウマが心の傷ならば、ストレスは心の筋肉痛といえるだろう。ただ、心の筋肉痛は超回復などはせず、経験という判断材料を増やす役目をするのだ。
ならば今の俺の心は、全身筋肉痛でへろへろの状態なのだろう。
「ただ、もう少しだけ私の話を聞いて欲しい。その上で、もう一度キミの中にある”心”を確かめてみてはくれないか」
偶然か否か、平塚先生も心という言葉を発した。そしてそれは、去年の末にも聞いた言葉。
改めてその言葉を聞いて、なんだか自分の愚考が全て見透かされているような、そんな面映い気分になる。
「人間は残酷な生き物でな。まあ、それは比企谷も重々承知だと思うが」
激しく同意します。俺はその残酷な部分だけは数えられない程見てきましたから。
「以前にも云ったかも知れないが、人は他人を傷つけながら生きている。でもそれが、悪意や害意と結びつかないケースも存在するんだよ」
えーと、そろそろ訳が解らなくなってきましたけど。人を傷つけるのは明確な悪意があっての話でしょうに。
とりあえず続きを……どうぞ。
「非常に面倒なことだが、時には”好意”すら人を傷つける刃となってしまうのだよ」
先生が言った言葉の意味が全く解らない。というか、好意なんて向けられた記憶が……あれ?
「雪ノ下や由比ヶ浜がキミに向ける感情について考えてみろ。その感情は、本当に悪意だったか?」
悪意……そう云い切れないのは何故だ。
確かに俺は雪ノ下や由比ヶ浜に激高した。彼女等の言葉に傷つきもした。
ならば、結果だけ見れば向けられたのは悪意であるはずだ。そうでなければ辻褄が合わない。
ただ、普段の彼女等の言動を振り返り、そこから心理を鑑みると、そこには悪意は無い気はするが。
「例が悪かったか……ならば小町くんはどうだ。長年寝食を共にした肉親ならば解るだろう」
いやその表現だと、俺が毎晩小町を抱き枕にしてると誤解されちゃうので勘弁してください。
あくまで兄妹愛ですから。
しかし、確かに解りやすい例だ。軽口を言い合っていても、そこには明確な悪意や害意は存在しない。
少なくとも、俺はそんなものは抱いていない。
「どうだ、ぼんやりとでも理解は出来たか?」
これまでの俺にとっての学校の教師という存在は、ただ授業をして試験問題を出し、成績をつける人だった。こんなに学校の外で親しく話したり、あまつさえ一緒にラーメンを啜るような存在ではなかった。
先生も今や、きっと俺の内側に居座る人間の一人なのだ。
「……ほんと、先生が同い年だったら、と思いますよ」
その言葉の裏に心からの感謝を込める。
「ほほう、同年代だったら私を愛してくれたかね」
ほっぺにネギをくっ付けたまま、ふっと笑みを零す先生に、お世辞ではなく本心で応える。
「たぶん、いやきっと夢中になってますよ。ベタ惚れです」
嘘は無い。その状況は自分でも驚くほど容易に想像できてしまう。
俺が笑みを洩らすと平塚先生は途端に顔を赤くして、すぐに笑顔の花を咲かせる。
やばい。目が少女に、いや乙女になってる。キラキラしてる。決してギラギラではないと思いたい。
「嬉しいことを言ってくれるじゃないか……実はな、私は本当は17歳なのだよっ」
軽口を叩きながらけらけらと笑う先生は、本当に可愛くて綺麗だ。いつもこの顔を見せていれば男なんか選び放題だろうに。非常に残念だ。悔やまれる。
「……はいはい、酒飲んで煙草吸ってワンボックスカーでドリフトして教師やってる17歳がどこにいるんですか」
ついでにほっぺにはネギがついている。
ずいと身を乗り出して自身の顔を指差す平塚先生。ちょうどネギのあたりだ。
「ここにいるじゃないか、比企谷」
まったく、この人には勝てない。ふっと気が緩んでしまい、ついうっかりお兄ちゃんスキルがオートで発動してしまう。
「な、な、な、なんだ比企谷……」
自分の顔に手を伸ばす教え子に動揺する仕草がなんともいえなく可愛い。ちょっと、動かないで。モジモジとかぷにぷにとか要らないんで、じっとしててください。あ、ぷにぷにしてるのは平塚先生のほっぺでした。柔らけぇなぁ。
「っと、取れた。ほっぺにネギがついてましたよ、ほら」
「……へ、はひ?」
思ったよりも数段柔らかい、プニっとしたほっぺから指先を離す。その指先に付着したネギを見せると、先生は顔を真っ赤にして何かぼそぼそと呟きながら俯いてしまう。
「すいません、つい」
恥ずかしい思いをさせてしまったようで、しきりに何かを呟きながらネギがついていたあたりの頬を撫でている。その呟きの中に”けっこん”という響きが微かに混じっていたのは、断じて気づかない振りをしておこう。
「そ、そうだ。もう一人くらい味方が欲しいな、うん。古来、籠城戦は援軍を待つ策だからな」
ネギショックから立ち直った平塚先生は、一人肯きを繰り返しながら携帯電話を取り出す。その間に俺はキッチンへ向かい、食べ終えたカップラーメンの器を捨て、お茶を淹れるべく最小限の家捜しをする。
目的の物を探し出し、お茶を淹れ終えたタイミングで玄関のチャイムが鳴った。
「お、来たか」
平塚先生が玄関から連れてきたのは、城廻めぐり先輩だった。
「昼間の件もあるし、保護者兼話し相手として城廻を置いていく。私はこれでペンションに戻るぞ、一応監督責任があるのでな」
ども、と手を挙げて軽く挨拶をする城廻先輩からは既にほんわかした雰囲気が漂っている。
「比企谷」
リビングのドアの前に立つ平塚先生は、少しだけ笑みを零す。
「他人に期待することは悪いことではないよ。期待に応えて貰う事こそが人間関係における喜びとも云えるからな。だがそれは本来、相互作用が必須なのだよ」
その言葉は、リビングのドアが閉まった後も俺の頭を駆け巡る。
平塚先生の残滓を胸にを残しつつソファーへと戻ると、城廻先輩はすでにさっきまで平塚先生が座っていた位置、即ち俺の座っていた向かい側に腰を下ろして微笑んでいる。
「聞いたよー、比企谷くん。大変だったね~」
何をどこまで聞いているか解らないこの状況では、曖昧な言葉を返しておくのが妥当か。
「はあ、まあ」
平塚先生は既にこの部屋を退出したので、その分のお茶をそのまま城廻先輩に出す。
「ありがとう、ん~、やっぱりお茶の名産地だけあって美味しいね。それとも比企谷くんの淹れ方が上手なのかな~」
笑顔でお茶を飲む城廻先輩を見ていると、きっと可愛いお婆ちゃんになるんだろうな、とか少々妄想してしまう。
お茶請けにと、さっきコンビニで買ったポテチを開けて勧めると、それを一枚ぱくっと食べてはお茶を啜って幸せそうに笑みを零す。
「こんな時間にポテチなんて食べたら太っちゃうかなぁ。んー、でも美味しっ」
時刻は夜の10時過ぎ。ペンションでの怒りは既にめぐりんパワーにかき消されていた。
オトコってつくづく単純な生き物なのね、などと誰かに呆れられそうだな。
「ははは、モテるのもつらいね~」
ほんわかにこにこめぐめぐしているめぐりん先輩が視線をこちらに向ける。
「はあ、別にモテてませんよ。便利にこき使われてるだけです」
「うんうん、それって頼りたくなるってことだよね。文化祭の時は誤解しちゃったけど、比企谷くんって優しいし頼り甲斐があるもんね~」
なんだそのポジティブな曲解は。めぐりん先輩が言うと強ち嘘では無いように思えてしまうじゃないか。
ほんわかめぐりん☆めぐりっしゅパワーに浸っていると、さっき閉まったドアが再び開く。
「ほう、キミはそうやってハーレムを築いたのか。私もハーレムに入れてくれよ。第一夫人として」
あれ?
「先生、帰ったんじゃなかったんですか」
「ちょっと花摘みにな」
「ああ、トイレっすね。時間的に小さい方……ぐはぁっ!」
鳩尾に細くも力強い拳が突き刺さる。
「比企谷……デリカシーって、知ってるか?」
真っ赤な顔から発せられた鋭い言葉が、視線と共に突き刺さる。
「た、体罰って……知ってます、か」
ふんっ、と鼻を鳴らして、平塚先生は城廻先輩へと視線をずらす。
「では城廻、あとは任せたぞ。煮るなり焼くなり、好きにしたまえ」
なんだそりゃ。城廻先輩みたいな女性に煮るなり焼くなりされたら。
されたら──
タケノコのやわらか煮とか、ふかふかの厚焼き玉子とか、家庭的で美味しそうな言葉しか出てこないな。
あと焼魚と味噌汁があれば立派な旅館の朝食だ。そこに千葉名物みそピーが添えてあれば、もう最高だ。
そんな和食テイストたっぷりの城廻先輩は、ほんわかにこにこして俺を見ていた。
ラ、ラーメン大好き小泉さんに影響された訳じゃないんだからねっ!?