この状況は何事だ。
時刻は夜11時過ぎ。場所は伊豆。しかも他人の家。
しかも年上女子と二人きり、なのである。
一緒にいるのは、今年の総武高校の卒業生で元生徒会長の城廻めぐり先輩。しかも城廻先輩ったら、白いTシャツの下に薄っすらとピンクのラインが透けてるし。
こんな状況で城廻先輩と二人きりなんて、俺じゃなかったら確実に間違いを起こすだろう。それくらい白いTシャツは危険だ。危険ですぞ。
「そうなんだぁ、比企谷くんは宮沢賢治が好きなんだね」
そんな俺の卑猥なざわつきを知ってか知らずか、城廻先輩は俺の持っていた文庫本をペラペラと捲りながら、ほんわかと笑顔を浮かべている。
「別に、特別好きなわけじゃないですよ」
言葉の通りである。
確かに宮沢賢治は好きだ。子供の頃に読んだ「よだかの星」や、今も読み返している「銀河鉄道の夜」は特に好きだ。
だが、世に文豪と呼ばれる他の作家は勿論のこと、そうでない作家も、琴線に触れた作品を綴った作家は等しく好きなのだ。
作家で云えば、太宰治は勿論のこと、川端康成、直木三十五、夏目漱石、森鴎外などなど、好きな作家は枚挙に暇がない。
川端康成は「伊豆の踊子」「雪国」は当然読んでいるし、直木三十五だと「関ヶ原」や「楠木正成」は当時の俺を空前の戦国ブームへと導いた。
夏目漱石の「こゝろ」は三回も読書感想文で提出させて貰った。あと「夢十夜」という短編集なんかは就寝前の読書に最適だ。
強いて云えば、一応読んではいるが芥川龍之介は避けているのかもしれない。だって「地獄変」とか超怖いじゃん。燃え盛る牛車とか夢に出てきそうじゃん。「羅生門」も然りである。
最近では、お気に入りは伊坂幸太郎だ。
千葉県出身の作家という贔屓目も若干あるのだが、映画化された「ゴールデンスランバー」を始め、ハラハラドキドキをテンポ良く楽しめる作品が多いのである。
特に俺が好きな作品は「チルドレン」だ。
この伊坂幸太郎を好きな理由として、音楽との関連性が強いという点がある。「ゴールデンスランバー」なんて世界一有名なイギリス出身のバンドの曲名だし、「フィッシュストーリー」という短編は壮大なプロモーション映像を鑑賞したような、不思議なトリップ感に誘ってくれる作品だ。
惜しむらくは、伊坂幸太郎が松戸出身ということだな。実に惜しい。もうちょっと西に産まれて欲しかった。
あと付け加えるなら、前述の直木三十五の作品もそうだが戦国時代や三国志を題材にした小説は好きだな。つーか厨二病患者はかなりの確率で戦国時代か三国志が好きなのだ。ソースは材木座と俺。
まあ、材木座は足利の将軍と自分の名前を重ね合わせてるだけかもしれないが。
どうだ、俺はラノベだけじゃないんだぞ。今読んでる作品の大半がラノベなだけだいっ。
と、思いっ切り思考が脱線したな。
「うんうん、そうなんだぁ。わたしはね、結構ミーハーなんだ」
ミーハーというと、何だろ。ちょっと興味あるな。
まさかのラノベか? ラノベなのか?
異世界転生ものやチーレムものだったら、どうしよう。どうもしないか。
「んーとね……笑わない?」
俯きながらこちらに視線を送る城廻先輩の表情ってやばい。俺がエリートぼっちじゃなかったら瞬殺されてるレベルの破壊力だ。
「笑いませんよ。好みは人それぞれですし」
さあ、どんな作家の名前が城廻先輩の口から出てくるのか。ちょっと楽しみ。
「そうだよね。んーと、わたしはね、司馬遼太郎とか好きなんだ」
おお、いいじゃないですか、めぐりん先輩っ☆
この人が「燃えよ剣」とかワクワクしながら読んでる姿を想像しただけで超可愛い。超萌える。まさに「萌えよ剣」だ。
「もしかして、先輩って幕末好きですか?」
最近言わなくなった言葉だけど、もしかしたらめぐりん先輩はレキジョなのかなと見当をつけて聞いてみる。するとみるみる顔が朱に染まっていくではないか。
「う、うん。そうなの」
ついには耳まで真っ赤に染まった城廻先輩が俯く。
か、かわええ。
幕末好きの生徒会長なんて、ここに材木座がいたらさぞ気持ち悪く盛り上がることだろう。絶対呼びはしないけど。キモいからね。これ以上城廻先輩に負荷はかけられない。キモいマンは俺一人で充分だ。
「薩摩ですか、長州ですか。それともやっぱり王道の新撰組とか?」
「んー」
「誰が好きなんです?」
またしても言い淀んでるぞ。今度は何が飛び出すやら。
「……笑わない?」
うんうん、桂小五郎だろうと高杉晋作だろうと笑いませんよ、めぐりん先輩。
「あのね、伊藤……博文」
……。
……。
……余りにも意外すぎてまったく反応できなかった。司馬遼太郎あんま関係ないし。
「しょ、初代の内閣総理大臣ですよね、むかし千円札になった……」
やっと搾り出せた情報は、その二点だけだった。
「うんうん、そうなの。すごい人なんだよ~」
いやすごい人物なのは解るんですけどね。幕末や明治維新っていったら普通の女子は沖田総司とか土方歳三とか斉藤一とか緋村抜刀斎とか比古清十郎あたりが好きじゃないんですか。
よりによって何度も総理大臣に返り咲いてる時の権力者っすか。意外と腹黒いのかな。
まあ、陽乃さんとも交流があるみたいだから別に不思議じゃない……のか。
でもでも、ほんわかふわふわ柔らか仕上げなめぐりん先輩が権力欲に塗れてるんて、あんまり想像出来ない。つーか、したくない。
「だって伊藤さん、松下村塾の外で立ち聞きしながら勉強したんだよ。すごいでしょ~」
あ、そこですか。
つーか伊藤さんって。お隣さんのお宅じゃないんですから。
まあ、何となく納得は出来た。城廻先輩は、頑張る人が好きなんだな、うん。
そんなこと云ったら、文字通り命がけで頑張った他の幕末志士たちが泣きそうだけどね。
「いや~こんなこと人に話すの初めてで、なんか照れるね~」
顔を赤らめてぽりぽりと柔らかそうなほっぺを掻く。そんな照れためぐりん先輩も可愛いなーなんて思っていると、その笑顔から刃が飛んできた。
「でね、質問。雪ノ下さんや由比ヶ浜さんと何かあったのかなぁ?」
ぶはっ!
この人ったら、なに藪からスティックに言っちゃってんのさ。急展開にも程がありますって。
「よかったら話してみようよ。相談に乗るよ?」
恐る恐る城廻先輩の顔を見ると、相変わらずほわほわにこにこめぐめぐしている。
「……はあ」
この後、何度か話の脱線を試みるも即座に修正されて、いきさつを説明させられてしまった。
城廻先輩って、本当は怖いのかも。ほら、綺麗なバラには棘があるって言うし。
棘だらけのヤマアラシみたいな女子もいるけどね、我が部に。
「うんうん、そうか~そんなことがあったんだね」
はあ、もうダメだ。超恥ずかしい。さっきまで好きな作家や幕末の話でワクワクしていたのもひっくるめて超恥ずかしい。
何をへらへら笑っていたんだ俺。
こんな時に。こんな事態を引き起こした張本人のくせに。
「比企谷くん、今まで頑張り過ぎちゃってたのかなぁ?」
あれ? 城廻先輩も俺を責めないの?
「去年の文化祭の時もだけど、比企谷くんって一人で背負い込んじゃうよね。今回もそんな感じでストレスが溜まっちゃってたんじゃないのかなぁ」
一人で背負い込むのは仕方がない。俺は一人、いや独りなのだから。
そんな俺を見ながら、湯飲みを傾けて喉を潤しためぐり先輩はにこーっと笑っている。
「例えばね、誰かが10を要求してきた時に、きっと比企谷くんは優しいから10で応えようとするでしょ。それを複数人に何回も繰り返したら、いつか潰れちゃうんだよ」
いや、それは違う。労力はそんなにかけていない筈だ。それに断るべきところは断っている筈。
「もちろんそれが出来る人もいるけど、比企谷くんてそんなに器用には見えないよ」
「でも、俺は手を抜くし楽をしようとしてますよ」
「それって、あくまで実際の作業だったり仕事の場合でしょ。わたしが言ってるのは”心”だよ」
心。
平塚先生も使った言葉。
確かに俺は心は狭いと思う。ついでに器も小さいが。
「だから雪ノ下さんも由比ヶ浜さんも、比企谷くんに甘え過ぎちゃったのかもね」
そういう、ことなのか?
もしかしてそれって、由比ヶ浜に言ってしまった捨て台詞の裏返しじゃないのか。
確かに俺は言った。
お前のやってることは、練習もしてないヤツに2時間でフルマラソンを完走しろって云ってるようなものだと。
それが意味するのは、単に俺自身が未熟だってことじゃないか。己の未熟さを棚に上げて、何を声高に怒っていたんだろう。
「あとは、一色さんに……川崎さんだっけ。比企谷くんて、すっごく甘えられ上手なのかな」
そんなことはない、と否定しつつ思考を巡らせる。
俺自身が未熟であると同じく、由比ヶ浜も雪ノ下も未熟なのだ。きっと一色も、川崎も。
未熟な者どうしが心をぶつけ合ったら、どちらかが、或いは双方が傷つくのは至極当然のことだ。
まずそこに考えが及ばなかった。
俺が限界を迎えてしまったのは、卑屈で捻くれていて”ぼっち”だった分、心への負荷が大きかったのだろう。知らぬ間に自分自身の”容量”を超えてしまうほどに。
故に、由比ヶ浜と雪ノ下に対して、その超過分を言葉に変えてぶつけてしまったのだ。
めぐり先輩はすごい人だ。今の俺にとってはまさに慧眼。それ以外の何者でもない。
「……やっといつもの顔になったね。比企谷くん」
にこっと笑う城廻先輩の笑顔は眩しく、つい俺の顔も綻んでしまう。
「ううん、やっぱりいつもとは違う。ちょっと大人の顔をしてる、かな」
ずいと、城廻先輩の顔が近くなる。
そしてテーブルをぐるりと半周し、とんっと俺の隣に移動する。城廻先輩の重みで少しだけソファーが余分に沈んだ。
「やっぱり比企谷くんは不思議だね。ついつい甘えたくなっちゃうんだよ」
そう云いながら、城廻先輩は俺の肩を軽く抱き、頭を、髪を撫でる。
な、なんだこの攻撃は。まさに不可避、防御不可能。でも、嫌ではない。
「だから、今日は比企谷くんの番。さあ、甘えていいよ~」
巫座戯たように笑う城廻先輩に髪をわしゃわしゃされる。
ええいっ、鬱陶しい。
でも心地良い。
久しく感じることのなかった感触。温度。それらが脳内でフラッシュバックを起こす。脳裏に浮かぶのは幼い頃に撫でられた母親の手の感触。
加速していた心臓の鼓動は緩やかになり、それに反比例するように拍動は力強くなっていく。
俺の変化を察してなのか、めぐり先輩の手は次第にゆっくりになり、俺の髪に手櫛を通している。
はあ、すっげぇ気持ち良い。
「……ありがとうございます、めぐり先輩」
あ、あら。やばい。つい下の名前で呼んでしまった。
恐々城廻先輩の顔を覗き込むと、そこには真っ赤な顔があった。
ふと目が合う。お互いすぐに視線を逸らす。
「だめだよ、そういうの。私、すぐ勘違いしちゃうんだからね」
「……すみません」
「うんうん、素直でよろしい」
それから暫くの間、城廻先輩は俺を腕の中に抱いて癒しを与えてくれた。
柔らかい感触と石鹸の匂いが感覚をくすぐる。
その安らぎは、時計のアラームによって終わりを告げられた。
もう夜中の0時。
そっと身体を離した時の、めぐりん先輩の言葉が頭の中で反響する。
「余裕が出来たら、わたしも甘えさせてね。大学の愚痴とか聞いてくれたら、嬉しいな」
気づけば、俺の心中の黒い靄は晴れかかっていた。