夏合宿二日目の夜半過ぎ。
思考を巡らせながら歩く私は、木々に熱を奪われた夜風を浴びていた。
「──ここは、どこかしら」
私、雪ノ下雪乃は……道に迷っていた。
ペンションの前の一本道を左に歩いていって、今はそれを引き返してきた筈だ。
迷う要素はどこにも無い。
「なのに、どうしてペンションが見えてこないのかしら」
こんな風に、もうかれこれ一時間以上は異郷の山道を彷徨っている。
携帯電話、スマートフォンは置いてきてしまった。
つまり私は、千葉から遠く離れた異郷の地で孤立無援の状態にある。
でも大丈夫。私はずっと一人だったのだから。
それに彼も今頃は──
ふと夜空を見上げる。
木々の影に縁取られた夜空には幾千もの星が瞬いている。あの一際輝く星はデネヴかしら。
星が瞬いているということは、上空の大気が不安定なのか、薄雲が懸かっているのか。天気が崩れなければ良いけれど。
きっと……傘を持ってはいないだろうから。
時に人は、無意味と思える行動をとる。
私が今、星空を見上げている行為も、現状の解決という意味では無意味だ。
つまり無駄。
しかし最近、ふと考える。
その無駄こそが心、気持ちの余裕なのでは、と。
私は無駄の無いように生きてきた。しかしそれは、裏を返せば余裕の無い生き方だったのではないだろうか。
彼と出逢って、私は変わった。変わらざるを得なかった。
彼に出会う以前の私の世界は、自分とその他、だった。そこには明確な線引きがあり、その境界線を侵されることを私はひどく嫌っていた。
自分の目の前に置かれた事柄を完遂することを目的とし、与えられた事象を一人で解決することを旨としていた。
けれど今は違う。明らかに以前よりも、自分の思考に他者を組み入れることが多くなっている。
それは奉仕部の面々や近しい人たちに限ってのことなのだけれど。
彼の言動は歪んではいたけれど、その存在は私を肯定してくれた。寄る辺の無かった私に、自分の姿を見せてくれた。
彼女と出会って私は変わった。
最初は警戒していた。いいえ、警戒というよりも他人行儀だったのかも知れない。彼女はひどく不器用で、稚拙で、周囲を気にしてばかりいて。
でも優しくて、友達思いで、純粋で、少しだけずるくて。
何時からか彼女は唯一無二、掛け替えのない存在になっていた。
思考を彼に戻す。あくまで現在の最優先で解決すべき問題は彼の件である。
「やっぱり、私は彼に──」
その言葉の続きは口にしない。正しくは、口に出来ない。
今の私にはその資格が無い様に思える。
彼が怒る原因の一翼を担ってしまった今の私には。
少なくとも彼が赦してくれるまでは。
「……無様なものね」
現在の私を一言で表現するならば、無様という言葉しか無いだろう。
常日頃から挨拶代わりに彼を罵っていたくせに、いざ彼が居なくなると寂しさに凍えそうになる。
自業自得というより他に無い。
冷たい夜風が無様な私の肩を、背中を、胸中をすり抜けていく。
「北極星でも探そうかしら」
身震いしながら再び夜空を見上げる。
無様な私には、ひとり知らない夜道を、肩を震わせながらとぼとぼと歩くのがお似合いなのかも知れない。このまま知らない土地に身を埋めてしまうのも。
そうはいっても、私まで脱落したら平塚先生に更なる迷惑をかけてしまう。
思い直して歩き出した瞬間、星が散りばめられた天に柔らかな声が響いた。
『銀河ステーション、銀河ステーション』
有名な物語、いいえ童話の一節。
幻聴だ。幻聴に決まっている。
そう決めつけながらも、恐る恐る声の方向に振り向いて目を凝らす。
すると不意に何かが光った。明らかに人工的な光だ。
駆け寄りたい気持ちと警戒心が交錯する。
そんな私の思考など意に介さない光源は次第に近づいてきて、やがて私を照らした。
眩しさで一瞬視界が白くなる。
「……あれ? 雪ノ下さん、かな?」
柔らかい、聞き覚えのある女性の声音に少しの安堵を覚えて、返事をしてみる。
「どーしたの、こんな時間にこんなところで。もうすぐ夜中の二時だよ?」
声の主は城廻先輩だった。
「私は……その、散歩です。城廻先輩こそこんな夜中に何処へいらしてたんですか?」
「あ、あはは……あたしも散歩。奇遇だね~」
そこからは城廻先輩と並んで歩きつつ、道連れが出来たことに安堵して息を洩らす。
だがその安堵は束の間だった。
「比企谷くん、帰っちゃったんだって?」
「はあ、まあ、その……はい」
突然の問いに私らしくない歯切れの悪い返事をすると、城廻先輩はにこ~っと柔らかく笑う。
「青春だね~いいなぁ」
何も良いことは無い。
私は部員を怒らせてしまい、尚且つ合宿の途中で帰られてしまったのだ。要するに、部長としては失態であり、近しい者としては最低なのだ。
城廻先輩には私の表情はどう映ったのだろう。少し私の顔をじっと見つめた城廻先輩は、尚も重ねる。
「互いに衝突して、和解して、また衝突して。立派な青春だよ」
「そういうもの、でしょうか」
青春の意味は、勿論知っている。古代中国の五行思想の四季を表す言葉の一つだ。その四季を人生に当てはめて、若く未熟な年代に引用された言葉。
「そうだよ~青春はね、未熟なうちにしか体験できない貴重なものだよ」
言葉として、知識として知っていても、私はその青春が指す内容を知らない。
「では城廻先輩は、もう青春とはいえませんね」
「どうして?」
私の目に映る城廻先輩は、周囲と衝突することなく確実に物事を進められる人物だ。即ちそれは、私自身よりもずっと人間的に成熟している人物といえる。
「わたしもまだまだ、充分過ぎるくらい未熟だよ」
思わず城廻先輩の顔を凝視してしまう。
果たしてそうだろうか。それは単に城廻先輩が自身に満足していないだけであって、更なる向上心を持っているに過ぎないのではないだろうか。
「でもさ、雪ノ下さんや由比ヶ浜さんの気持ち、わかるんだよね~」
心臓をきゅっと掴まれた気がした。
「比企谷くんって、なんか可愛いんだもん。ついつい構いたくなっちゃうんだよね~」
可愛い? あれが?
「城廻先輩。お言葉を返すようですが、あれはまったく可愛くありませんよ」
正しく言い直せば、数千億分の一ほどの確率で、可愛く見えないことも無い。でもどちらかといえば比企谷くんは頼れる存……けほんけほん。
「じゃあ雪ノ下さんの目には、彼はどう映っているのかな?」
捻くれ者。目が腐っている。人嫌い。社会生活不適合者。でも。
解りづらいけれど優しくて、他人の為に傷つくことを厭わない人。
──けほん。
「あたしにはね、はぐれメタルみたいに見えるんだ」
は、はぐれ……メタル?
「あ、ごめん。解り難かったかな。ドラクエとかやったこと無い?」
「ドラクエって……たしかテレビゲームですよね」
私の言葉に城廻先輩は噴き出して笑う。
「あはは、今どきテレビゲームなんていわないよ~」
こういうことを年上に言われるのは少しだけショックだわ。でもあの類のゲームを「ピコピコ」と呼んでいた父さんよりはマシだと思うのだけれど。
「あまりそういう方面の知識は無いものですから……」
幾ら私でも、知らないことは語れない。彼ならこんな私に、ユキペディアさんも知らないことがあるんだな、とか憎まれ口を叩きそうだわ。
「はぐれメタルってね、可愛いんだよ~思わずつんつんしたくなっちゃう」
へ、へえー、それはパンさんみたいなものなのかしら。
「でもね、中々姿を現さないし、すばしっこいから、すぐ逃げちゃうの。ね、比企谷くんに似てるでしょ」
よし。ペンションへ帰ったらスマートフォンで調べてみよう。
「まあ、さ。きっと比企谷くんも後悔してるよ。怒りすぎちゃったな~って」
不意に顔を覗き込まれて、戸惑う。
「……そうでしょうか」
「うん。だって、雪ノ下さんは後悔してるでしょ?」
その通りなのだけれど、他人に心の内を言い当てられるのは少々癪だわ。
「ほら、すっごく後悔してるって顔してる」
でもその柔らかい笑顔で言われると、反論する気を削がれてしまう。
「だから、早く仲直りしてね。わたしも奉仕部、大好きだから」
私もそうしたいのだけれど、でも。
「それから、先輩としてひとつ忠告ね」
びしっと人差し指を立てて、城廻先輩は私を見据える。
「優しくしてもらいたいなら、それより多く優しくしてあげなきゃ、ね」
因果応報。
情けは人のためならず。
目には目を、歯には歯を。
……最後のは少し違うかしら。
こんなことを考えていたら、また彼に類語辞典とかユキペディアとか言われてしまうわね。
「あ、比企谷くんのこと考えてたな~」
言い当てられて、自分でもわかる位に顔が紅潮してしまう。
月の無い闇夜で助かった。今の私の顔は見られたくない。
でも城廻先輩って、こんなに強引に踏み込んでくる人だったのかしら。ほんわかしてて強引って、なんかずるいわ。飴と鞭の使い方が上手すぎる。こんな人には誰も逆らえないじゃない。
「大丈夫、きっとすぐ仲直りできるよ。で、仲直りの後は……もっと仲良くなれちゃう」
この先輩にいわれると、あながち嘘ではないのだろうなと思えてしまうから不思議である。
「……善処します」
何とか言葉を搾り出してみたものの、こんな形式ばった言葉しか返せない私って、やっぱり可愛くないのかしら。
城廻先輩みたいな人のほうが、彼は幸せになれるのかも知れない。
詮無いことを考えているうちに、ペンションに着いてしまった。私が迷っていた一時間は一体何だったのだろう……いや、忘れよう。私は気ままに散歩をしていただけ。
そんな愚考を知ってか知らずか、城廻先輩は再び私の顔を覗き込んで微笑む。
「じゃあね、明日ちゃんと仲直りするんだよ~」
そう残して城廻先輩は部屋に戻っていった。
「……あの、私も同室なのですが」
城廻先輩の後を追って閉まりかけたドアを開けると、忘れていた懸案を思い出してしまった。
「そういえば……姉さんも同室だったわね」
ベッドで胡坐をかいた懸案が笑顔で手を振ってくる。
「ひゃっはろー雪乃ちゃん、夜遊びはダメだぞ~」
「はあ……もう寝るわ」
逃げるようにベッドに潜り込んでシーツを被ると、先程の城廻先輩の言葉が気にかかった。
明日彼と仲直りって、どういうことかしら。
前回の八幡の間違い。
「左手は添えるだけ」は、赤木キャプテン(ゴリ)の台詞でした。
てか、実は私も勘違いしてましたw