朝がやってきた。
憂鬱な朝。
空はあんなに青くて高いのに。空気はこんなに澄んで爽やかなのに。
世の中は無情だな。
どんなに良いことがあっても、どんなに悲しいことが起きても、どんなに泣いた後も、当然のように朝は訪れる。
あたしの、あたしたちの気持ちなどお構いなしに。
合宿は三日目に突入した。
これから食堂でみんなで朝ごはん。
相変わらず優美子は葉山君にべったりだし、とべっちは姫菜を目で追ってるし、めぐり先輩はなんか眠そうだけどほんわかだ。
さいちゃんも元気が無いみたいで、中二は──なんかコンビニのおにぎり食べてる。
でも、そこに彼はいない。
比企谷八幡……ヒッキーは夕べ帰ってしまった。
その寂しさを感じているのはあたし、由比ヶ浜結衣だけではない。
「……おはよう、由比ヶ浜さん」
「あ……おはよ、ゆきのん」
エントランスに出ると雪ノ下雪乃、ゆきのんと会った。
ゆきのんも寂しげな顔をしている。朝ごはんの時いなかったし、ちょっと目も赤いし。
「きょ、今日は自由行動だっけ」
当たり障りのないことしか出てこない。本当に話したいことはちゃんと他にあるのに。
「え、ええ。そうなのだけれど、あの、その……」
名前も出さないし、詳しく言いはしないけど、ゆきのんも気にしてるんだ。
「……連絡は無いよ。メールの返信もなし。本格的に嫌われちゃった、かな……」
「そ、そう──」
あたしも名前を出さずに、ゆきのんの知りたいことだけを伝える。名前を出せば、きっとゆきのんは動揺する。もっと悲しくなってしまう。
ヒッキーを怒らせたのはあたし。追い詰めてしまったのもあたし。
夕べ、ヒッキーを駅に送ってきた平塚先生に言われたんだ。
ヒッキーは戸惑ってるんだって。毎日のように誰かと一緒に居ることに慣れてなくて疲れてたんだって。
なのに、あたしは自分の願望ばかりを押し付けようとして。
側に居たいのに、好きになってもらいたいのに。そのために頑張ったのに。結果として困らせていたなんて思いもしなかった。
先生はね、由比ヶ浜だけが悪いわけじゃないっていってたけど。
あたしが悪いのは事実なんだ。困らせていたのも、追い詰めてしまったのも、無理をさせていたのも全部事実なんだ。
……あたしが、ヒッキーを苦しめていたんだ。
午前の自習が終わる頃、平塚先生に昼食に誘われた。
正直気乗りはしないんだけど、顧問の命令という圧力に負けて渋々承諾。車に行ってみると、ゆきのんと小町ちゃんも来ていて。
そのあと沙希と、いろはちゃんもやってきた。
あれ、優美子や姫菜たちは? 男子達は?
そんな疑問を感じながら車に揺られて着いたのは、海沿いに在るカフェレストラン。
観光客はあんまり知らないお店なのか、それとも平日のせいなのか、落ち着いた雰囲気の店内に人は少ない。
「何でも好きなものを頼め」
席に着くなり、平塚先生はそう云ってくれるんだけど、誰もメニューを開こうとしない。もちろんあたしも。
だって、そんな気分になれないもん。ヒッキーを怒らせて、一人で帰らせちゃって。そんなんで楽しくランチなんて……無理だよ。
「……はあ。何なんだ。たかが男一人のことでウジウジと」
きっと正論。でも、それを言ってるのがいつも結婚したいと嘆いている平塚先生だと思うと、少しだけ可笑しかった。
「わかった。では適当に頼むから適当にシェアしろ。すいませーん」
そう云って手を挙げる平塚先生を見て、先生ってなんかヒッキーに似てるのかな、って。何となくだけど、少しだけそう感じた。
少しして料理が目の前に出揃った。
見たことのない大きなカニとか、伊勢えびとか、赤い魚とか。それらが洋風に調理されていた。あと小皿が何枚かあった。
「伊豆といったらタカアシガニは外せまい。あとは勿論、キンメ鯛だな」
箸を、じゃなくってフォークをつけるタイミングを掴めないあたしたちに、先生は率先して料理を取り分けてくれた。きっと合コンでこんなこともしてるんだろうなぁ、先生は。
「さあ食べろ。旅行に来たからには地元の名物くらいは食べておかないとな」
先生は真っ先に貝が乗ったパスタを頬張り始めた。だけどあたしたちは未だ食事に手を着けられない。
「……なんだ、食が進まないのか。なら先に問題を片付けるか」
フォークを置いて口元を拭った先生は、女子一同をキッと睨む。
「さて、昨晩の比企谷の行動をどう思う。意見を聞かせてくれ」
その核心を抉る質問に、誰も答えようとはしない。というか、沙希も事情を知ってるのかな。
「黙ってちゃわからん。何でも良い。言ってみろ」
俯いていたゆきのんが顔を上げる。
「彼の行動の原因が私、たちにあるのは解ります。けれど、どうして良いか……」
平塚先生の鋭い視線がゆきのんを射竦める。ゆきのんは、まるでヘビに睨まれたナメクジみたいに、しおしおと項垂れる。
あれ、なんか喩えが違ったかな。
「どうしたら良いかは後で考えればいい。まずは、思い当たる原因の洗い出しからだ」
それから誰も口を開けなくなった。
しばらくは黙って様子を見ていた先生は、業を煮やしたのか強引に水を向けてくる。
「雪ノ下、最近比企谷に強く当たりすぎていないか?」
「由比ヶ浜、キミは比企谷の気持ちや都合を考えているか?」
「一色は、あいつに甘え過ぎてはいないか?」
「比企谷小町。キミは身内なら何を言っても許されると思っていないか?」
「川崎。キミから見て、こいつらの比企谷の扱いはどう映る?」
それぞれの目を見て、それぞれに問われる。
ただひとり、皆と違う質問をされた沙希が口を開く。
「……あたしはさ、こいつらに比べたらあいつとはあんまり縁が深くないっていうか、絆が深くないけど」
そう前置きされて始まった沙希の言葉は辛辣で、的を得ていたと思う。
あれ、またなんか言葉の使い方を間違ったような──ううん、今は話に集中だ。
「──だけど、あいつが悩んで苦しんでることくらいはわかるよ。いくらあいつが空っぽだからって、コップにいきなりバケツの水をひっくり返してもほとんど零れちゃう。あいつにとって今は……そんな状況なんじゃないのかな」
「ほう、さすが川崎だな。普段から比企谷のことを良く見ているだけはあるな」
「そ、そんなんじゃ……」
うわぁ。沙希ってこんな可愛い顔もするんだね。それに何より、あたしよりもヒッキーのことを深く理解してる。
「沙希って……すごいね」
素直に思ったことが口に出てしまった、その途端。
「あ? それって皮肉?」
可愛かった沙希がいきなり怖い顔になった。
「ち、違う違う。あ、あたしはさ、自分に余裕が無くって、そうゆうことには気づけなかったし……」
そうだ。あたしはヒッキーのことを見ているようで、その実何にも見えていなかったのだ。見たい部分だけを都合よく見てただけ。
「でもせんぱいの場合、こっちから行かないと全然振り向いてくれないんですよ」
それはすっごくわかる。だから、あたしから行動してたんだけど。
けれどそれは、ヒッキーにとっては重荷だったんだ。
涙が滲みそうなのを、俯いてごまかす。
「そうなんだよね。でも、ヒッキーに言われた言葉だけど……」
そう、あたしは言われた。
お前のやってることは、練習もしてないヤツに2時間でフルマラソンを完走しろって云ってるようなものだと。
よくわかんなかったけど、ヒッキーに無理させちゃってたことだけはわかった。
「そうね、その理屈には妙に納得してしまったわ。今まで積み重ねてこなかったことを経験者と同じようにやれと言われても無理だもの。それに、私も言われてしまったわ。お前がやっていることは正論の押し付けだ、と」
それも何となく納得できる。でも小町ちゃんは辛辣だ。
「まったく……おにいちゃんにそんなことをいう資格なんてあると思ってるんですかね……あ」
身内の特権ともいえる蔑みを小町ちゃんが口に出した瞬間、静寂がやってきた。失言に気づいたのか小町ちゃんも俯いてしまう。そんな小町ちゃんを、先生はふっと笑って見据える。
「気づいたようだな、比企谷小町。この問題の本質は、そこにあるのだよ」
ほえ? という顔をして、小町ちゃんは先生を見上げる。
「問題はひとつなんだ。現在、比企谷にとってキミたちとの関係は対等ではないのだよ。まあ、川崎だけは対等に近いと感じるが……そう比企谷も言っていたしな」
全員が一斉に沙希を見る。特にゆきのんの目は怖いくらいに沙希を睨んでる。出遅れたあたしも沙希を見る。
「な、なんだよ……あ、あたしは別に、あ……あいつを、その……」
顔を真っ赤にして沙希がごにょごにょと呟く。
「おっ、川崎。キミはそんなに可愛いキャラだったのか?」
「……先生まで何を言ってるんですか。それに先生だって、あいつを」
え?
「ああ、私は比企谷を好きだな。大好きだ。あんなに面白い生徒は滅多にいないからな」
せ、先生って、やっぱ大人だなぁ。ずっとあたしが言い淀んでたことをさらっと言っちゃうんだもん。先生がヒッキーに本気になったら絶対勝てないよ。
というか、もう、本気……なのかな。
「まあ、万が一私が手を出すとしてもだ、比企谷が卒業した後だな。現状では色々問題があるし。条例とか」
言い切った!?
手を出すって、そんな。
ところで条例ってなに!?
「せ、先生っ、まさか本気でせんぱいを!?」
「ちょ、ちょっと。あんた教師だろ!?」
いろはちゃんと沙希がすごい顔で迫るのを笑いながら聞いてるって、先生すごすぎる。オトナのカンロクっていうのかな。
「とにかく。先生の痛い発言の真意はともかくとして、対応策を立てるのが先決なのでは?」
ゆきのんもすごい……先生の言葉を痛い発言って。合ってる気はするけどさ。
「ははは、そう焦るな雪ノ下。高校生の本分は学業。しかも雪ノ下、由比ヶ浜、川崎は受験生だ。まずはそちらを優先してほしい。生徒の将来を預かる学校側としてはな。だが」
咳払いをひとつ挟んで、先生は続ける。
「だが、今でなければ出来ないこともある。両立は難しいだろうが、上手くバランスを取ってやってくれ」
大人ってずるい。こんなときに大学受験の話をするなんて。でも、恋愛をするなと言わないのは先生の優しさなんだろうなぁ。
「それに、対応策はもう出ているだろう。キミたちが比企谷を対等に扱えばいい。気持ちや行動を押し付けるのではなく、まず相手のことを考えればいい。そうだろ?」
やっぱりそうだ。平塚先生とヒッキーってどこか考え方が似てる。
「そうですね。私も彼に対する気遣いが足りなかったことを反省しています」
うん。気遣い。言葉にするのは簡単だけど、難しいな。だって、ヒッキーって何考えてるかわかんないんだもん。
でも、それでも考えよう。
今までヒッキーがしてきたように、いっぱい考えよう。
それは──それが、ヒッキーの心に近づくということだから。
泣いてる場合じゃない。落ち込んでる場合じゃないんだ。
「さて、少し冷めてしまったが早く食べてしまえ。この後キミたちには仕事が待っているからな」
そんなの聞いてない。寝耳にミミズだよ。
「ええ~、そんなこと聞いてないですよぉ」
いろはちゃんが甘えた口調で反論するけど、先生は涼しい顔でカニの足にかぶりついている。
「一色さん、これは当然の報いなのかも知れないわ。私達のせいで合宿から脱落者を出してしまったのだから」
「……あたしも関係あるの?」
沙希が鋭い目をゆきのんに向ける。
「勿論よ川崎さん。あなた、夜更けに比企谷くんを誘って一碧湖でその、デート、をしていたんでしょう。彼の体調不良の原因の一端はあなたにもあると云えるわ」
沙希が、何で知ってるのって顔でゆきのんを見てる。
「あ、あたしはただ……うう~っ、いいじゃないかよっ、あたしだってあいつと一緒にいたかったんだよぉっ!」
言っちゃった。沙希、言っちゃった。
「そうね、それは私も同じだもの。だから同罪よ」
ゆきのん、なんか笑顔がこわいよ。
「ははは……もう、こうなったらお兄ちゃんのハーレムでも作っちゃいます~?」
な、なに言ってんの小町ちゃん。
「ふむ、面白いかもしれないな。勿論年長である私が第一夫人ということで」
先生も乗り気だ!?
「何言ってんですか先生、せんぱいは年下好きなんですよっ、ねえ小町ちゃん」
いいの? いろはちゃんいいの? 前提がハーレムだよ?
「それは年下好きというより、ただのシスコンではないかしら。やはり部長である私が」
なんかゆきのんもちょっと乗り気なのが怖いよ。
「えへへ、お兄ちゃんは小町を愛してくれてますから~」
そ、それは兄妹だからでしょ!
でも悔しい~っ。
「うう~、小町ちゃんにも負けないもんっ」
そうだよ、だって小町ちゃんにもすっごく怒ってたもん。でも、兄妹って……ちょっとのきっかけで仲直りできるんだろうなぁ。
「大丈夫ですよ結衣さん、今のところお兄ちゃんの片思いですからっ」
今のところってどういう意味だ!?
「はいはい、もう誰が第一夫人でもいいから。早く食べてとっとと奉仕活動を終わらせようよ」
おお、なんか沙希のお姉さんスキルが眩しいっ!
その後、あたしたちは黙々と目の前の料理を食べ続けた。
赤いお魚が、すっごく美味しかった。
次回からは日曜と木曜の週2回の投稿とさせて頂く予定なのですが……
やっぱり週に3話くらいのペースが良いのかなぁ。
ご意見あったらお聞かせください。