一色いろはと入れ替わりで、今度は雪ノ下雪乃がキッチンへ入ってきた。すれ違いざまに二人は何かを交わしていたが、俺には聞こえない。
キッチンの入口。そこに立つ雪ノ下雪乃には、いつもの凜とした佇まいは感じられない。どことなく萎れているまである。
要するに、目の前にいるのはただの十七歳。年齢相応の黒髪美少女だ。
よし、ここしかない。俺は謝ると決めたのだ。
「すまなかっ──」
「──こんにちは」
おうふ。カウンター気味に放たれた挨拶に掻き消された俺の謝罪。しかし、雪ノ下の様子は明らかに普段と違う。
そりゃそうか。
目の前にいる男は、自分に暴言を浴びせた相手なのだから。だから普段通りの挨拶がいつもより弱く、重く聞こえでも仕方ないことだ。
「……少し、時間をいただけるかしら」
警戒、いや遠慮とも取れる言い回しに、自分が気を遣わせてしまってるという現状が把握できてしまい、申し訳ない気持ちになる。
「なんだ。言いたい事があるなら早く言ってくれ」
昨日の今日だ。多少ぶっきら棒になるのはご容赦いただきたい。それよりも俺は、早く謝ってしまいたいのだ。
つーか、それも相手に期待してるってことになるのかも知れないな。
「その、ごめんなさい」
謝罪の言葉は、先に雪ノ下から発せられた。
雪ノ下は俺の眼前、立ったまま頭を下げている。その両手は膝の下まで届くほどに深く、髪の旋毛が見えている。
その謝罪が意図する内容は、間違いなく昨日の件だろう。
「今まですっと、あなたに甘えて、罵詈雑言を言って、その、ごめんなさい」
違った。雪ノ下の謝罪の意図は、表層的なものではなく、もっと根深いものだ。
まあ、昨日に関しちゃ、普段どおりに返せなかった俺も悪い。それに、おまえとの暴言の投げ付け合いは、少々楽しくもあるし、な。
「……おまえに謝られると調子狂うな」
本来なら先に謝るべきは昨夜の俺の言動だ。自分への苛立ちを雪ノ下たちにぶつけてしまった俺の愚かな行為こそ、謝罪しなければならない。
少し居た堪れなくなって、直立不動の雪ノ下に着席を促すと、失礼、と呟いて俺の対面に腰を下ろす。
それと入れ替わりに俺は席を立ち、急須の茶葉を入れ替えて再び少量の水を注いで茶葉を戻す。この工程の有無で、淹れたお茶の味は格段に違ってくるのだ。
雪ノ下はというと、不思議そうな顔でその様子を眺めている。
つーかこの家の茶葉、使いすぎかな。季節からみて二番茶だろうけど。雪ノ下が好きな紅茶でいえばセカンドフラッシュか。
二分ほどして急須に湯を追加して、少し置いて湯呑みに注ぐ。
「……ありがとう」
香りは二番茶にしては立っているはず。温度もちょうど飲み頃のはずだ。
湯呑みに口をつけた雪ノ下が少しだけ目を見開く。
そしてもう一口。
「このお茶の淹れ方、お母様から?」
さっきまでの緊張が嘘のように雪ノ下の表情が緩む。
「いいや、自己流。ただ何となくだ。この方が美味い気がしてな」
そう。この淹れ方は我流である。
いきなり熱湯を急須一杯に入れてしまうと、温度が高過ぎるせいで茶葉の甘みが出にくいのだ。だから一度少量の水で茶葉を戻す。で、茶葉がふやけて来たかなと思ったら、そこに熱湯を追加すれば必然的に70度くらいのお茶が淹れられる。
そうして淹れたお茶が自分好みの甘さと渋さになるというだけだが。
「……そうね。無作法だけれど、とても美味しいわ」
どうやら紅茶好きの雪ノ下にも受け入れてもらえたようだ。まあ、いつも美味い紅茶を淹れて貰ってるからな。それ相応のお茶くらい淹れないと、こっちが恥ずかしい。
湯飲みのお茶が半分になっても雪ノ下は黙って俯いている。
埒が開かない。
仕方なく俺から水を向ける。
「あの、その……俺も悪かった。すまない」
「あなたが謝る理由は無いわ」
「いや、聞いてくれ。俺は、ずっと苛立っていた。その原因がおまえ達にあると決め付けて」
「……」
「しかし違った。苛立ちの原因は、俺がはっきりと自分の時間が欲しいと云えなかった弱さだった。昨晩それに気がついた」
「……」
「あれだけの啖呵を切ってしまった俺に云う資格が無いのは重々承知だが、謝らせてほしい」
俺は立ち上がって、深々と頭を下げる。
「やめてちょうだい。悪いのは私。あなたの苦しみを理解できなかった私、なのだから」
「いいや、俺のほうが悪い」
「いいえ、私が──」
ブーン。
冷蔵庫の発したモーター音が俺たちの謝罪合戦を制止した。
「──何だか可笑しいわね。昨日はお互い怒っていたくせに、今日になったらお互い謝罪しているなんて」
肩をすぼめて俯きながら零す雪ノ下の言葉に強張った体が弛緩する。深く息を吸い、吐く。
「そう、だな」
「本当はね、私も──いいえ、なんでもないわ」
なんだよ。言いかけて途中でやめるなんて、雪ノ下らしくない。
「つーかさ、そろそろ普段に戻れよ。そんなおまえは珍し過ぎて変だぞ。もはや珍獣だ」
今目の前にいる雪ノ下雪乃は、俺には違和感の塊にしか見えない。だが、この手の表情を見るのは初めてではない。
今年の二月。小町の総武高校入試の当日。俺はこの怯えとも困惑とも解釈できる表情を見ている。その時は由比ヶ浜に対しての表情だったが。
だが、良くも悪くもあれから時は流れている。それは人の成長を意味する。
「あら、あなたがあんなに怒るのも珍しい現象ではなくて?」
あの時は自らの思考を放棄したような、誰かの判断を待つような、そんな面持ちだった。
だが今回は、明確に俺の判断を待っているのだ。
俺が許すか否かを。
ならば応えるしかあるまい。
「まあ、そうかもな。とにかくおまえの謝罪は受け取った。俺もすまなかった。言い過ぎた」
その言葉で、雪ノ下の肩から力が抜けていくのが見て取れた。
「いいのよ。それに、やはり悪いのは私よ。その、舞い上がってしまって……」
舞い上がった? この雪ノ下が?
気が緩んだせいか、頬を赤らめた雪ノ下から発せられた言葉は、およそ雪ノ下雪乃の言葉ではない。だが、これも雪ノ下雪乃なのだろう。
ただ、俺が知らなかっただけ。それだけのこと。
「まあとにかくだ、おまえはいつものままがいい。それが一番いい」
「そ、そう。あ、りがと」
それきり雪ノ下はお茶を啜るばかりで何も話さない。飲み干して空っぽになった湯呑みにお茶を注ごうとすると、笑顔で首を横に振った。
「私はこれで下がるわ。あとは由比ヶ浜さんとじっくり話して、仲直りをしてあげてね」
そうか、この後は由比ヶ浜が来るのか。
──少し気が重いな。
☆ ☆ ☆
またまたリビングからの実況は小町が担当しますよっ。
さあ、雪乃さんが帰ってきましたよ。
ん?
なんだろ。雪乃さんの顔はそんなに赤くないんだけど、なんかこう、いつもと違うんだよね、小町的に。
平塚先生に目を向けても顔を綻ばせるだけで何も言わないし。
「おんや~? 雪乃さんどうしました?」
普段の雪乃さんにも見えるんだけど、何か考えてるのかな。
しきりに小さく肯いてるんだよね。
「いえ、何でもないわ。ただ……」
しばらく顎先に手を当てて考えて出した答えは。
「お茶がとても美味しかったわ。由比ヶ浜さんもご馳走になってきたら?」
☆ ☆ ☆
予告された由比ヶ浜結衣襲来に備えてお茶の用意をしていると、キッチンの敷居の辺りから細い声が聞こえた。
「……ヒッキー」
由比ヶ浜結衣だ。
「おう」
言葉少なに応える。
お茶を淹れて由比ヶ浜に着席を促すが、雪ノ下と同様に由比ヶ浜も席に着こうとはしない。
仕方なく、俺だけが腰を下ろす。
音の無いキッチンで、重苦しい空気のまま時計の針だけが進んでいく。
このままでは埒が開かない。
「あー、最初に言っておくが……」
俺が声を発すると、由比ヶ浜は肩先をびくんと揺らす。どんだけ怖がられてんだよ俺。こんな状態では、尚更伝えておかなければならない。
「すまん、俺が悪かった。それと、もう怒ってないからな」
その言葉で少しだけ由比ヶ浜結衣の強張りが弛緩すると、幾分か空気も軽くなった気がした。
だが相変わらず由比ヶ浜は直立不動のまま俯いている。
もう少し言葉が必要なのだろうか。
否。
きっと由比ヶ浜結衣に必要なのは思考する時間だ。
待つとしよう。時間の許す限り。
そこからは膠着状態。時折俺の、茶を啜る音だけが静寂を壊すのみ。
湯呑みを干して急須に手にかけた時、均衡は崩れた。
「ヒッキー」
顔を上げて俺を呼び、唇を僅かに動かし、思い留まるようにまた俯く。そんな動作を幾度となく繰り返す。
その間俺は、出来るだけ平静を顔に表すことに費やす。
「……その」
顔を上げては、また俯み、また顔を上げる。
「ごめんね」
空気が緩む。
この一言を搾り出す為に、由比ヶ浜結衣はどれだけ悩み苦しんだのだろうか。
その悩みも苦しみも、俺の未熟さや思慮の浅さ、自制心の無さが招いたことだ。
故に、やはり本来謝るべきは俺の方なのだ。
「いいや、むしろ俺のほうこそ……すまなかった」
昨日一晩考えた。
雪ノ下のことを、そして由比ヶ浜のことを。
去年の職場見学の帰り、俺は由比ヶ浜を拒絶した。
夏の花火大会の帰りは、何を言わんとするか察していながらも由比ヶ浜の言葉を遮った。
そして、今回で由比ヶ浜を拒絶してしまったのは三度目。
それなのに由比ヶ浜は。
目の前の優しい女の子は、三度も拒絶した相手に対して頭を下げてくれたのだ。
その行為で、俺なんかより由比ヶ浜の方がずっと大人で、俺はただの甘ったれたガキだったと思い知らされた。
思えば由比ヶ浜との関係、そして奉仕部の関係が崩れなかったのは、
俺が求めた関係を繋ぎ止めてくれた、優しくて強い女の子。
それが由比ヶ浜結衣だ。
そして俺は、果たしてその恩に報いることが出来るのだろうか。
「本当、色々とすまなかった。ごめん」
「……ヒッキー」
ようやく由比ヶ浜の顔から緊張の色が消え、冷めたお茶を淹れ直そうとすると首を横に振って、席に座した。
「……あたしさ、甘えてたんだよ。ヒッキーなら何でも受け入れてくれるような気がして」
違う。逆だ。
俺の方が、由比ヶ浜に甘えていた。
奉仕部の長机、少し離れた席。いつもそこに居てくれるのが当たり前になっていた。
それは、何も当たり前では無かった。由比ヶ浜は「居てくれる」ための努力をしていたのだ。
そんなことにも気付かなかった自分を恥じる。
由比ヶ浜の肩が震え出す。
「ヒッキー、怒んないから。怒ってくれないから、ああ、いいんだ……って」
冷め切った湯呑み茶碗の横に、ひとつ雫が落ちる。
「でもさ、平塚先生に叱られて、やっと気がついた。遅いかもしれないけど……」
膝頭に揃えられた由比ヶ浜の両の手に力が籠るのがわかる。
「あたしのしてたことは、ヒッキーの時間を、ヒッキー自身を、無くしちゃうことだったって」
言葉が適切かどうか、表現が合っているかは今は問題ではない。由比ヶ浜は自分の言葉で俺に伝えてくれている。それが何より重要に思えた。
「だ、だから、これからはヒッキーの都合もちゃんと聞く。ヒッキーの気持ちも考える。だから」
鼻をすする音に続いて雫が連続して落ちる。
「せめて卒業するまでは……このまま居させてくれないかな……」
言い切ったところで由比ヶ浜の肩が落ちた。どうやら心にある言葉を吐き出せたようだ。
しかしこいつ、トップカーストの癖にどんだけ自分の気持ちを話すの下手なんだよ。
……つーか、まあ元々こういう奴だったな。
強いんだか弱いんだか解らん、不思議なヤツだ。
でも、だからこそ。
「卒業まで……か?」
はっと顔を上げた由比ヶ浜は、ぶんぶんと首を横に振る。
「じゃあ、いつまでなんて決めなくていいだろ」
人生が長い旅路だとしたら、そして俺たちが「総武高校」という列車に偶々同じ時間に乗り合わせたのなら。
もしかしたら由比ヶ浜結衣と、或いは雪ノ下雪乃と、或いは三人で、或いは他の誰かたちと、また他の列車で乗り合わせることもあり得るのだ。
それはつまり、決して誰かと一緒でなければいけない訳ではないのと同時に、必ずしも独りである必要はない、ということである。
「……俺も、努力する。由比ヶ浜がしてきた努力には及ばないとは思う、が」
「努力……って?」
「おまえは、こんなどうしようもない阿呆な奴と一緒に居て……くれようとしただろ?」
「──ほえ?」
ああ、もう、焦ったい。
「だから、俺もおまえと……おまえらと一緒にいられるようにちょっとだけ努力するってことだよ。言わせんな恥ずかしい」
「……ヒッキー」
照れ隠しでがしがしと頭を掻いてそっぽを向くと、目の前の女の子から二筋の雫が──零れ落ちた。
「ありがと、ヒッキー。すごく真剣に考えてくれたんだね」
「あー、あれだ。材木座の……おかげだ」
「へ? なんで中二が出てくるの?」
由比ヶ浜は目を腫らしたままで首を傾げる。
「いや、あいつもたまには役に立つ、ってことだ」
「言い方がひどいよ、ヒッキー。でも」
未だ涙を溜めた目のままで、由比ヶ浜は笑顔を向けてきた。
「ヒッキーらしいね」
「なんだよそれ」
「いいの、あたしが分かってれば」
おかしな奴だ。
泣きながら笑ってやがる。思わずこっちも顔が緩むだろうが。
まったく、ありがとよ。
あと、今までの贖罪はきっちりさせて貰うぞ。
「あっ、お茶もらうね。ゆきのんがすっごく美味しいって云ってたよ」
過去の自分が毛嫌いしていた筈の、面倒くさい関係。
その、一度ならず綻びかけた関係を繋ぎ止められて、俺は確実に安堵していた。
しかし、俺は俺でしかない。今までの経験、性格、罪科もそのままだ。
そんな俺が、目の前で泣き笑いしながらお茶を飲む、優しく強い女の子との絆を求め続けても良いのだろうか。
その答えは、冷めたお茶を飲み干した少女が持っている気がする。
☆ ☆ ☆
さてさて小町のじかんですよっ。
「おお、結衣さんが帰ってきましたよ~って、あれ?」
んー、結衣さんだけ他の三人と違う顔をしてますね。上手く謝れなかったのかな。
「結衣さん、何かありました……?」
「あ、ううん。大丈夫、ちゃんとヒッキーには謝ってきたから」
ま、それならいいのか、な。
「さて、比企谷小町、最後はキミだ」
あ……、こ、小町もなんですね。やっぱり。
恐いなぁ。
☆ ☆ ☆
由比ヶ浜が去った。もうこれでこの恥ずかしい面談プレイも終わりだろう。
急須と湯飲みの片付けをしていると、一番よく見知った顔が陰からキッチンを覗き込んでいた。
「どうした、小町」
俺はその見知った、今にも泣き出しそうな顔へ、出来る限りの笑顔を向ける。キモいと思われても構わない。身内だから。
俺の言葉に怒気が含まれていないことを確認して、ようやく小町は流し台に立つ俺の斜め後ろに立つ。
Tシャツの裾が引っ張られる。肩甲骨の下あたりにとん、と小町の頭が触れた途端、ふと記憶が蘇る。
数年前、俺が小町に本気で怒った時とまったく同じだ。
あの時は、
本気で怒った俺の背中に頭を当てて、ごめんなさいと泣き続ける幼い小町の姿がフラッシュバックする。
だから、小町がこれからするであろう事も分かる。
「お兄ちゃん、ごめ「小町」……ほぇ?」
小町の謝罪を遮って名前を呼ぶ。
「悪かったな、不出来な兄で」
「え……なんで、なんで小町を怒んないの?」
小町の声は鼻声を通り越して、既に涙声になっている。
「馬鹿か。怒ることが無えよ」
「でも……」
「良いんだよ、小町は俺の為に色々考えてくれたんだろ?」
「──そうだけど、でも」
「じゃあ、言うべき言葉は決まったな」
「……なに?」
さあて、千葉の兄の度量を我が
「ありがとうな、小町」
妹は、小町は弾かれたように背中に抱き付く。手の水気を払って振り返り、抱きついた小町の髪をくしゃっと握るように撫でる。
まかりなりにも十五年間の付き合いがあり、内心互いを思い遣っているだろう兄妹が和解するには、それだけで良かった。
などと云うと自惚れているみたいで恥ずかしいので、絶対に云わないが。
☆ ☆ ☆
平塚先生の声がキッチン内に響く。
未だ俺の脇腹に顔を埋める小町を覗き見て、先生は柔らかい息を漏らす。
「比企谷、リビングへ来い」
平塚先生に呼ばれた俺、比企谷八幡は、再びリビングへと戻された。まだ背後には小町が張り付いている。
「つーか、一体何の儀式ですか。この個人面談は」
しかも俺がホスト役って、荷が重過ぎるんですけど。
「まあ良いじゃないか。ひとつの通過儀礼みたいなものだよ。で、勿論全員の謝罪を受け入れたんだろうな」
すでに平塚先生の顔には先ほどの柔らかい笑みは無く、今は教師の顔を俺に向けている。
「まあ、今回に関しては俺の未熟さというか、至らなさが遠因でしたから」
「ふむ。では今後この件は引きずらないように。以上だ」
ぱんっ、と手をひとつ。
まるで一本締めである。
はあ。
めでたくもあり、めでたくもなし。である。
謝罪回は今回で終わり。
あとは青春を満喫するのみ──かな?