遅い。
かれこれ二十分近く待っている。十分っつったのに。
かの剣豪、佐々木小次郎も巌流島でこんな心境だったのだろうか。
あれ、つーことは、俺ってば負け確定じゃん?
……ゲフン。
と、とにかく遅いな。
まさか夜だから暗くてこの海の家の位置がわからない、なんてことはないだろうな。昼間あれだけここで色々食っておいて。
雪ノ下ひとりなら迷子も有り得るが、まあ万が一解らなくても夜だから海の家の前の自販機の灯りが目印になるだろうし、由比ヶ浜と一緒なら大丈夫だろう。
熱帯夜の熱い潮風のせいで、すでに俺はその自販機で購入したサイダーを1本空けてしまっている。つーかこの夏、サイダーにハマり過ぎだな。
「ヒッキー、おまたせ!」
「一体何の用かしら、こんな場所におびき出して」
「俺はブービートラップか何かかよ」
待ち人、由比ヶ浜結衣と雪ノ下雪乃の登場だ。
自販機の灯りに照らされた由比ヶ浜結衣は、丈の短い青系のキャミソールとショートパンツに白っぽい半袖のパーカー。雪ノ下は昼間と同じ、膝下くらいの白いワンピース。いずれも夏らしい装いだ。
本当、夏らしくて。夏らし過ぎて、目のやり場に困るんだよなぁ。雪ノ下に関しては、あのワンピースの下を見てしまった訳だし。
あかん。思い出すと思考が働かなくなる。
二人を見つめてしまわないように意識を散らしつつ自販機でサイダーを購入し、二人に1本ずつ手渡す。
「ありがと」
「ありがとう」
自然と差し出された二人の手首に目がいき、気づく。
昼間は無かった、二人の手首を飾る色違いのシュシュ。
思わず気恥ずかしさを覚える。こいつら揃いも揃って、こんなもの持って来てたのか。
このシュシュは去年のクリスマス、合同イベントの後に二人に贈った物だ。
由比ヶ浜にはブルーのシュシュを、雪ノ下にはピンクのシュシュを。色が逆とか言われたけど、俺はぴったりだと思っている。
由比ヶ浜結衣は、いつも周囲を気にして自分の言動を決めている。その空気を読む能力や瞬時の分析力は、俺は勿論、もしかしたら雪ノ下よりもクレバーなのではないかと思わせる時がある。
それ故のブルーのシュシュ。
雪ノ下雪乃は、一見すると完璧超人に見えてしまう程に何でもそつなくこなす。そんな高スペックな能力を持ちながらその実、案外打たれ弱いし、不意に夢見る乙女みたいな目や戸惑った小動物のような目をする。
それ故のピンクのシュシュ。
何より、互いを補完できる友人関係を築けるだろうこの二人を関係性を想って贈った、色違いのシュシュだ。
そして今夜。
由比ヶ浜結衣と雪ノ下雪乃の二人を呼び出した理由は。
「雪ノ下、由比ヶ浜、ちょっといいか」
砂浜から少し上がった場所、コンクリートで出来た防潮堤の上に二人を促す。怪訝そうな二人を尻目に、俺は淡々と持参したリュックから必要なものを取り出す。
「ほれ」
持参した小さな望遠鏡を由比ヶ浜に渡す。
「由比ヶ浜、はくちょう座ってわかるか?」
「……ヒッキー、バカにしすぎ。それくらいわかるもんっ」
頬を膨らませて自信満々で反論した割には、由比ヶ浜はきょろきょろと忙しく望遠鏡を動かしている。
ああ、それはオリオン座の方向だな。
むーと唸りながら望遠鏡を振る、その可愛らしい仕草をもうしばらく見ていたい気もするが、これでは話が進まない。
助けてやってくれという意味で目配せをすると、溜息をひとつ、首肯した雪ノ下は由比ヶ浜の脇に立って顔を近づけ、天に向けて細い指を掲げる。
「もう少し上のほうよ、少し天の北極に近いほう。明るい星があるでしょう?」
こらこら、助け舟の出し方が高度過ぎるぞ。デネヴの位置を教えたのだろうけど、由比ヶ浜のボキャブラリーの中に「天の北極」なんて言葉があると思っているのか。
「……なーんか失礼なこと考えてるし」
こりゃ失敬。
はくちょう座は、夏の大三角の頂点を担うデネヴを擁する星座で、北十字の別名を持つ星座だ。つっても、夏のこの時間だとそんなに北には見えないが。
「んーと、あれかな」
お、何となく方角は合ってる……気がする。
「じゃあ、はくちょう座の先端ってわかるか、三等星だからあまり明るくは無いが」
あっ、と小さな声を上げた雪ノ下はこちらを見る。どうやら雪ノ下は俺の意図を理解したようだ。
「んー、良くわかんないよー」
俺は由比ヶ浜の手から望遠鏡を抜き取ると、取り出した小さな三脚の足を伸ばしてセットし、防潮堤の上に据える。中腰になって、上を向いた望遠鏡を覗き込みながら角度を合わせて由比ヶ浜に引き継ぐ。
「ほれ、どう見える?」
「あ。なんかね、色が違う星が二つ見えるよ。普通に見たときには暗い星が一つだったのに」
どうだい、この新鮮な反応。小学生の理科の教師の醍醐味が少しだけ解る気がする。
「雪ノ下も覗いてみてくれ」
こちらは非常に優秀な生徒なので既知の筈だ。しかも雪ノ下も読んでいるようだし。
「……実際に見るのは初めてだけれど、黄色、いいえ白い星と、青……というより緑に近いかしら、綺麗な連星ね」
雪ノ下は、だからどうしたのと云わんばかりに俺を見遣る。優秀すぎるのも困りものだ。
「あれが……おまえ達二人に見せたかったものだ」
由比ヶ浜は見事な「きょとん顔」を見せてくれる。そこにユキペディアさんの解説が入る。
「はくちょう座の嘴の星、アルビレオよ。便宜上連星と云ったけれど、実際に連星かどうかはまだ解明されてはいないわ」
「ほえー」
由比ヶ浜のきょとん顔は、今や雪ノ下に対しての尊敬の眼差しに変わっている。
「それで、何故あの星を私達に?」
今度は雪ノ下が可愛らしいきょとん顔をこちらに向ける。うむ、なかなかの反応だ。
さて、ここからは世にも恥ずかしい種明かしの始まりである。
「そんなに深い意味はないんだ。ただ、俺が好きなものを見て欲しかった。それと、種明かしだな」
「種明かし?」
二人は首を傾げ、説明を求めている。
「去年のクリスマス、覚えてるか?」
偶然にも二人の手首にはその時のシュシュがある。
ご都合主義? ただの偶然だろ。
「え、ええ。このピンクのシュシュを貰ったわ」
「うん、あたしはヒッキーにこれ……青いシュシュをもらったよね」
二人は手首のシュシュで手遊びしながら答える。
「そうだ。そしてその色の理由は、アルビレオの比喩に由来する」
「──銀河鉄道の夜、ね」
さすがユキペディアさん、ご明察である。
宮沢賢治が書いた童話「銀河鉄道の夜」の作中で、アルビレオの連星はサファイアとトパーズに喩えられている。だが俺は、アルビレオの連星を目の前の二人に喩えた。俺の鬱屈とした人生の中で突如として現れた、宝石のような二人に。
究極に恥ずかしいが、そう思ってしまう程に二人は大事な存在になってしまっていた。それを認めたくは無かったが、もう認めざるを得ないまでに二人の存在は大きい。
だが感情だけで動けない俺には、何らかの理由付けが必要だった。何か言い訳が欲しかった。
その時ふと思い出したのが「銀河鉄道の夜」だ。
子供の頃に読んだ宮沢賢治著の童話「銀河鉄道の夜」、その中で印象に残っているのがアルビレオという言葉だった。
図鑑で調べてみると、その連星はとても神秘的に輝いていたのを未だに覚えている。
そして今、およそ俺の人生では到底ありえないことに、目の前の二人の女子を、自分を含めたこの関係性を、大事にしたいと思っている。
それは、今までの俺の人生から考えれば奇跡。
だからこそ俺は目の前の二人を、こじ付けではあるが幼い頃から気に入っているこの星に喩えたのだ。
遥か彼方で光る、決して手の届かない二つの輝きに。
「そ、そう、私達を空の宝石に見立てた、ということなのね。キザ谷くん」
さすが自分で可愛いとか云ってしまう雪ノ下だな。あっさり認めて述べやがった。
「ヒッキー、一年越しの種明かしなんて……ポイント高過ぎだよ」
由比ヶ浜は由比ヶ浜で訳の解らんことを口にする。それに一年越しじゃない、まだ八ヶ月だ。
まあ、キザだのポイントだのと、女子二人は好き勝手なことをのたまわっているが、実は俺としてはそれどころではなかった。
たまには能動的に行動しようと思い立って、初めてサプライズというものを計画してはみたものの、いざ自分の考えたプランを遂行しようとしてみると、自分で書いたシナリオに沿って計画通りに進行するので精一杯なのだ。
まあ、それに関しては助かっている面もある。今ふと我に返ってしまい、客観的かつ冷静に自分がしている行為を見てしまったら、恥ずかしさで悶死するだろう。
「べ、別に……特別な意味はないからなっ」
思わずツンデレっぽくなってしまったが、実際ここまでは特別な意味は無い。むしろ、これからがそれに該当し得るのだ。
即ち、悶死するのはこれからだ。
だがここまで漕ぎ付けた以上、ただでは死なぬ。せめて前のめりに倒れて砂に顔を埋めて、激しく足をバタバタさせて砂浜を泳いでやるっ。
覚悟を決めるために深く息を吐いて、恥ずかしそうに微笑む二人に語りかける。
「来年、俺たちは大学受験が控えているだろ。クリスマスの時期はセンター試験の直前だ。きっとそれぞれ、特に由比ヶ浜は勉強に追われてクリスマスどころではないだろう。だから」
「ヒッキー、今は受験の事はいいじゃん……自分でもわかってるし」
現実を突きつけられて頬を膨らます由比ヶ浜と、それを苦笑しつつも微笑ましく見る雪ノ下。
その二人を横目に持参したリュックを探って、それぞれに包装された小箱を一つずつ渡す。
「だから──今のうちに渡しておく。言っておくが、安物だぞ」
水色と桃色、色違いのリボンがついた同じ大きさの小箱を受け取った二人は互いに顔を見合わせ、やがて機を合わせたかのように俺に視線を向ける。
「あ、ありがと……開けて、いい?」
俺が首肯すると、二人は再び顔を見合わせた後、それぞれ手の中の小箱のリボンを解く。
「うわぁ、綺麗……」
二人の掌にあるのは、一対の天使の羽根。
羽根の付け根の部分に小さな石があしらわれた、天使の両翼をモチーフとしたデザインの銀製のペンダント。
淡いブルーのサファイアがはめ込まれたペンダントは由比ヶ浜に、雪ノ下にはピンクトパーズがはめ込まれたペンダントを渡した。
本来のアルビレオの色とは多少異なるが、色はそれぞれに贈ったシュシュに合わせた。
「へへ……」
「……本当に綺麗、ね」
二人はその小さなペンダントトップを、角度を変えたり明かりに反射させたりしながら見つめている。ともあれ嫌がってはいないようで安堵する。
──よし。初サプライズ終了っ!
あー、緊張した。
やっぱ慣れない事はやるもんじゃないな。
喉の渇きに気がついて、気の抜けたサイダーを一気に煽る。安堵とともに、胸の中にある種の達成感がじんわりと広がる。
しかし。
その安堵も長くは続かなかった。平和な時間ってどうしてこう短いのだろう。
さっきまで笑みを浮かべてくれていた二人は、手の中のペンダントを俯くように見つめている。
そして、時折俺に視線を送ってくる。
『失敗』
その二文字が頭の中で踊る。
気に入らなかったのか。やはりペンダントは高校生の贈り物としては重過ぎたのか。
それともデザインの選択が間違っていたのか。
焦りと不安が俺の胸中を満たし、それは瞬く間に全身に伝播する。
もう帰りたい。逃げ出したい。
はい、八幡のサプライズ回でした。
普段なら絶対やらないサプライズをやらかしたのは、八幡も夏という熱病に冒されているせい、かな。