車内の時刻表示は夕方の五時。
奉仕部とゆかいな仲間たち一行を乗せた二台の車は小田原厚木道路を走っていた。
「──随分と後ろの座席が静かだな」
咥え煙草の平塚先生がハンドル、もといステアリングを遊ばせながら呟く。
「はあ、みんな寝てますからね」
後部座席から寝息しか聞こえなくなってから、既に三十分ほど経過していた。それほどに先生の運転がスムーズで快適だともいえるのだが、助手席に座る俺はおいそれと睡魔に負ける訳にはいかない。
それが助手席を預かる者の矜持だ。
「キミは眠くないのかね、比企谷」
車窓を流れるオレンジの灯りが平塚先生の横顔をリズミカルに照らし出している。
「まあ眠いですけど、まだ大丈夫っす」
うん。平塚先生の横顔にドキッとして目が覚めた。などと言わないほうがいいな、うん。言えば俺の何かが終わる。最悪、戸籍や苗字が変わる。
「ほほう、そうかそうか。うむ」
理由は知らんが上機嫌になった平塚先生は、ハンドル、もといステアリングをとんとんととんと人差し指で叩きながら鼻歌を歌い始めた。機嫌がいいのは善い事だ。
言い換えると、触らぬ神に祟りなし。違うか。
「──時に比企谷。今回の合宿はどうだったかね」
おわ。急に話を振られて、気を抜いていた俺は少しだけ焦る。
「な、なんか合宿って感じしなかったですね。そもそもあの狭い畑の手入れしかしてないですしおすし」
「……なんだ最後の”おすし”っていうのは」
いっけね、平塚先生にこの手のアニメの話はわかんないよな。世代じゃないし。
車窓を眺めながらあらためて合宿を思い返す。午前中勉強して、夕方畑に行って、夜は誰かに連れ出されて。
あ、あと戸塚に『銀河鉄道の夜』の話をしたな。熱い、もとい暑い夜に。
それ以外は……悶絶バタ足の燃料しかないな。
「ああ。今回頼まれていたのは、畑の手入れだけだからな」
最初からそういってくれればいいのに。ホント大人って……ずっちぃなぁ。
「それも、奉仕部ではなく平塚先生個人への頼み、ですよね」
そろそろ素直にゲロっちゃいましょうよ先生。
「……そうだ。ひとりでは寂しかったから奉仕部の合宿ということにしたのだが、まさかこんな大所帯になるとは思わなかったよ。陽乃を呼んでおいて正解だったな」
本当にゲロったよこの人。しかも聞いてないトコまで。つーかやっぱ陽乃さんに別の車で来させた時点で定員オーバーを知ってたんじゃねぇか。
しかし、まだ疑問は残る。
「そもそも葉山たちはどうして合宿に参加したんですかね。夏期講習もあるし、去年の千葉村みたいに内申点とかの特典もないのに」
一瞬呆気にとられた先生は、すぐに表情を崩して少女のようにあどけなく笑う。その表情を見て、またしてもパチクリと目が覚める。
俺の睡魔って意外と弱えな。普段その根性無しの睡魔に負けっぱなしの俺って、やはり残念すぎる。
「なんだ、由比ヶ浜から聞いていないのかね」
由比ヶ浜が俺の誕生会を企画してくれたのは聞いている。だが、それ以外の事は知らない。
ちらと運転席の後ろ、二列目のシートを見ると、綺麗に夢の世界が広がっていた。由比ヶ浜は雪ノ下の肩に頭を乗せて、くかぁーと熟睡している。その重みで少しだけ寝苦しそうに唸る雪ノ下に苦笑する。
「はあ。由比ヶ浜がどうかしたんですか」
眠ってる連中を刺激、もとい起こさない様に普段から低い声のトーンを更に二段階ほど下げて問い直す。先生も意図を察したのか、さっきよりも控え目な声を発する。
「由比ヶ浜はな、比企谷の誕生日を祝いたかったと言っていたよ。出来るだけ大勢でな。葉山たちや川崎姉弟を誘ったのもそういう理由からだろう。もっとも、城廻や陽乃まで来るとは思わなかったようだが」
そういえば以前こいつに話したな。誕生日が夏休みにあるせいで誕生会なんてしたことがないって。雪ノ下も同じような思い出があったようだし。
実際はそんなもん、ただの言い訳で、祝ってくれる友達がいなかっただけなんだけど。
「そうだったんですか……」
由比ヶ浜はそんな詮無い会話を覚えてたのか。こいつ意外と俺の言った事覚えてるのな。
以後発言には気をつけないと、うっかり由比ヶ浜に気を揉まれてしまいかねないな。
「余計なお節介だと思っているかね?」
過去、高校一年生までの俺なら間違いなくそう思っただろうし、そう口に出すだろう。
だが今はそう言い切る気にはなれない。その理由は、由比ヶ浜結衣という人物を否定する材料よりも、肯定する材料のほうが多いからに他ならない。
「いいえ、感謝はしてますよ。ただ……慣れていないもので」
「そうか、それならいい」
次の煙草のフィルターをぱくっと咥える平塚先生の横顔に、またしても目を奪われる。
「由比ヶ浜はキミの為に心を砕いた。雪ノ下や一色はそれに賛同し、葉山たちや他の連中はキミの為に集った。それをキミが解ってくれれば今回の合宿は成功だ」
「それって、まるで俺の更生の為の合宿みたいな言い方ですね」
そう言った直後、平塚先生に小突かれる。
「どうして最後の最後で捻くれるんだキミは。理由はどうあれ、彼ら彼女らは自分の意思で参加し、共にキミを祝った。それでいいじゃないか」
無理やり結論付けられたところで料金所に差し掛かる。このレンタカーにはETCは搭載されていないので現金での清算だ。
小銭の代わりに渡された、平塚先生の手の中にある紙切れ。
何気なく、その運転には邪魔そうな紙切れに手を伸ばす。先生は一瞬怪訝そうな顔をしたが、俺の意図を読み取って差し出してくるその紙切れ、領収書を渡された。
「あ、ありがとう……で、改めて聞こう。今回の合宿はどうだった?」
ほんのりと頬を桜色に染めた先生はごにょごにょと何か呟いた後、再び今回の総括っぽい話を振ってくる。
じゃあ、お望みどおり総括してやろう。
「まあ楽しかったですよ。色々ありましたけど、よかったんじゃないですかね」
はい、総括終了。
本当に色々あった。
川崎に迫られたり由比ヶ浜にぐりぐりされたり、雪ノ下と口論、戸塚の笑顔、俺氏倒れる、戸塚の笑顔、俺氏キレて帰る宣言、お誕生会、戸部と材木座のノゾキ未遂、戸塚の笑顔、めぐりん先輩のほんわか幕末☆トーク、狭い畑の細いナス、等々。
こうして羅列していくとホント何の合宿だったんだよ。つーか、あらためて振り返ると今回の俺ってかなりのトラブルメーカーだったな。反省。
今後は他人様に迷惑を掛けない様に、より一層ひっそりと生きていこう。
戸塚の笑顔を胸に抱いて。
「またキミは人ごとのようにいう……」
「実際、どう言って良いか解らないんですよ。初めての経験ばかりで」
「そうか。まぁ、そうだろうなぁ」
平塚先生は愉快そうに笑う。
「ええ、所詮俺はぼっちですから」
「そういう意味ではないよ。誰だって全てが初めての経験なんだ」
お、この顔は。平塚先生が良さ気なことを云いたい時の顔だ。
「いいか比企谷。人生において同じ経験は二度と無いんだ。たとえ同じに見えても場所が違ったり、気持ちが違ったり、タイミングが違ったり……丸々の同じ状況は無いのだよ」
「それなら、過去の経験を活かす機会は無い、ということになりますね」
ただの屁理屈である。いや、揚げ足取りに近いか。だが運転席の見目麗しい独身アラサー教師は、ふっと息を洩らして再び語り始める。
「経験なんて所詮、自己の予測機能の強化でしかないのだよ。だがな、経験が有ると無いとでは物事の見え方が違ってくる。備えが違ってくる。不測の事態に陥りにくくなる。経験とは学習だ。勉学と同じく、己の引き出しを充実させる作業だ。そういう意味で、今回キミは良い経験が出来たかな?」
ハンドル、もといステアリングを握りながら手探りで灰皿を探り当てて、器用に煙草の火を消した平塚先生はあらためて問うて来る。
「良し悪しは別にして、貴重な経験だったと思いますよ」
「そうだな。その子らに怒って帰ろうとしたのも、それもまた貴重な経験だな」
「蒸し返さないでください。恥ずかしいです」
うわ、この人。俺の新たなトラウマ候補を的確に抉りにきたぞ。
「そんなことは無い。あれは彼女らの前でキミが見せた”感情”だ。それで彼女らも経験できた。キミの感情の表れをな」
あれを感情の表れなんて云わないで欲しい。あんなの感情でも何でもない。
自分が未熟ゆえの暴走。八つ当たりだ。
「本当にやめてください」
「いいや、やめない。私に帰ると宣言した時のキミの顔……あれは本当に怖かったんだからな」
そう零す平塚先生の目許は僅かに湿り気を帯びているようにも見えた。
「先生にも怖がられてたんですか」
「ああ、怖かったさ。でもそれはキミへの恐怖じゃない。失う怖さ。失敗した怖さ、だろうな」
ひとり納得して首肯する平塚先生は、少し寂しそうにも見えた。
海老名サービスエリアで夕食を摂り、千葉市内に入ったのは午後八時過ぎ。
赤信号で止まったタイミングで、平塚先生が声をかける。
「さて、みんな総武高でいいのか? 希望があれば自宅まで送って行くが」
平塚先生タフだな、ずっと運転しっぱなしなのに。もしかしたらこの人って、昔からこういう損な役回りが多いのかもな。
助手席から後方の車内を見ると、疲れなのか晩飯を食べた満腹感が原因なのか、またしても全員すやすやと眠っている。
「みんな寝てますよ。きっと向こうの車も同じでしょう。とりあえず高校でいいんじゃないっすか」
俺が促すと、笑みを漏らした先生は首肯する。
「そう、だな。そうするか」
信号が青になり、車はゆっくりと前に滑り出す。
そこから三回ほど右左折し、さらに数分ほど走ると懐かしの我が総武高校が見えてきた。
正門の前で二台の車が止まる。
「さあ、着いたぞ」
真っ先に助手席から降りた俺は、後ろのスライドドアを開けて車内に熱帯夜の空気を流し込む。
ほらおまえたち、待望の千葉の空気だぞ。
「由比ヶ浜、一色、起きろ」
二列目、スライドドア側の二人を起こしにかかると、それより早く一番奥の雪ノ下が目を覚ました。
「……あ、着いたの?」
くしくしと目をこすりながら俺の顔を見るや、雪ノ下は無防備な声を発する。寝起きの顔ってなんかエロいよね。
「ああ、目が覚めたら隣のヤツも起こしてくれ」
愚考を読まれないように慎重に答える。
「うん……由比ヶ浜さん起きなさい、着いたわよ」
なんだ今の”うん”って。今まで雪ノ下の口から聞いた事ないぞ。
まあいいや。可愛かったし。
俺はワンボックスカーの後ろのハッチを跳ね上げ、自分と小町の荷物を下ろす。もう一台の車でも葉山と戸部で同じような作業を始めている。
とにかく千葉に帰ってきた。となると、まず最初にやることはあれだな。
荷物を降ろし終えた俺は、近くの赤い自販機の前に颯爽と立ち、コインを投入しボタンを押す。
転がり出てきたその毒々しい缶を取り出すや否や、すかさずプルタブを引いて液体を喉に流し込む。
パンチの効いた、懐かしい練乳の甘さが喉奥に絡む。
まさに今、俺は帰ってきたのだ。
ソロモンよ、私は帰ってき──ゲフンゲフン。
次回、本編最終話です。