返信は遅いですが、感想は全て拝読しております。
ようやく男連中の風呂の順番が回ってきて旅の疲れを癒せる頃には、もう時刻は夜十時近かった。つーか、こういうペンションって風呂が男女共用とか多いのかな。
宿の自慢というだけある露天風呂も良いのだが、それよりなにより戸塚だ。戸塚と一緒に入る露天風呂は格別なのだ。
ここは源泉かけ流しの温泉らしいのだが、そこにもうひとつ、戸塚の癒しの効能が加わったことにより身も心もリフレッシュされた。
てってれー!
戸塚風呂サイコーだぜっ!
戸塚エキス、超絶だぜっ!
ふう、のぼせちまうぜ。お湯飲み過ぎたぜ。
断腸の思いで戸塚を残して風呂から上げる。戸塚が先に上がれば俺が戸塚の柔肌を、その裸体を見てしまう。ならば先に上がるのが紳士のさりげない気遣いというものだ。
脱衣所で身体を拭き始めるとすぐに戸塚も上がってきた。戸塚はこちらに背中を向けて素早く身体を拭いて下着を身につける。
俺は背後の衣擦れの音に耳を欹てながら、ちらりと目を向ける。
おうふ。
湯上りの、ほんのり肌を桜色に染めた戸塚というのもなかなか、いや、凄くいいな。
絶景かな、絶景かな。
いや落ち着け。
ここは一句読んで落ち着くべきだ。
エンジェルや ああエンジェルや マイハニー
……うん、去年よりだいぶ病状が悪化してますな。
「じゃあ戸塚、お先な」
その絶景の向こうの腐界の扉を開いてしまいそうな自分を戒めて、本日二度目の断腸の思いを胸にそそくさと浴場を後にする。
エントランスを抜け、割り当てられた部屋の前に立つ。が、扉を開けない。
301号室。
俺に割り当てられたこの部屋には川崎沙希がいる。
毒虫大志なんぞは蚊取り線香でも炊いておけば良いが、川崎沙希はそうはいかないだろう。女子だし。それに俺は多分、女子風呂を覗いた嫌疑を川崎にかけられている。
さあどうしよう。
あれやこれやと自分から言い訳を切り出すのは不自然だろう。大志も居るだろうし。
なら、完全スルー、黙秘を決め込むしか方法は無い。
考えをまとめて、自室である301号室のドアを開ける。うん、誰もいないな。
好都合とばかりに俺はすかさずロフトの梯子をよじ登って、持参した本の栞のページを開く。二ページほど文字を追った頃、川崎姉弟が部屋に戻ってきた。
「お兄さん、いたんすね」
失礼だなこいつ。
しかし旅先だっつーのに、こいつら姉弟はいつも一緒なのな。ブラコンもここまで極めれば立派なものだ。まさか風呂も一緒か? そうなのか?
そんな下卑た妄想を巡らせていると、ふと川崎沙希と目が合う。
風呂場の裏、木塀での短い会話がフラッシュバックする。やばいと思い目を反らそうとするが、その前に川崎がふいっと目を伏せる。
なんだなんだ。今のはどういう反応なんだ。
しばらく気配を探りながら活字に目を滑らせていると、唐突に部屋のドアが叩かれる。
かなり強めのノックだ。もしや敵かっ。
「大志ー、あーしらと一緒にトランプやろーよ」
やっぱり敵……もとい三浦か。
おまえ、やたらと圧が強いんだよ。つーか今日会ったばっかなのにもう呼び捨てかよ。
やっぱ圧強えぇよ三浦さん。
一方大志は、ほぼ初対面の金髪縦ロール美人の先輩からの突然のお誘いに戸惑っている。それもそのはず、三浦はブルーのTシャツに膝丈のパンツ姿。程ほどに豊かな胸部は大きく開かれて、ロフトから見下ろしているとインナーの布地が見えそうだ。
大志でなくたって動揺するってモンですよ、そりゃ。
「あんた、綺麗なおねーさんは嫌い? あーしだけじゃなく、あっちの部屋に沢山いるよ~」
あー、いるな。知性と引き換えに胸を育んだビッチ風女子とか、腐海に
困惑した大志は、姉、俺の順に視線を泳がせて、三浦のTシャツの胸元へ戻る。
おまえも男子だな、大志よ。フヒヒ。
じろり。
三浦を睨む川崎姉の目から確かにそんな音が聞こえた。
「……行ってきな大志。でないとその女王様はあたしの視界から消えそうに無いからね」
「……は?」
「あ?」
川崎と三浦の視線が正面衝突し、激しく火花を散らす。
その一触即発の気配を読み取った大志が素早く部屋を出てドアを閉めることにより紛争回避、事なきを得た。おーこわ。
「……大志一人で行かせて良かったのかよ」
気になって声を掛けたものの、さっき露天風呂の裏で川崎に目撃されたことが脳内のフィールドを埋め尽くす。そういえばこいつ、後で話があるとか言ってたな。恐過ぎる。
よし、逃げるか。
「あ、うん。……あ、べ、別にあんたと二人きりになりたかったとか、そういうのじゃ……その」
聞いてない聞いてない。俺はただ、大志を一人でリア充共の中に放り込んで心配じゃないのかと聞きたかっただけだ。てか早く逃げたい。
「さ、さ、さ、さ、さ……」
ん?
さささささ?
「なんだ、新しいギャグか?」
川崎は頬を膨らませ、潤んだ目で睨んでくる。怖いけどなんか可愛い。こわ可愛い。こわいい。
「ば、馬鹿っ。そんなんじゃなくて……さ、散歩、一緒に行かない? 話もあるし」
可愛いと思ったのも束の間、とうとう川崎の口から「話」の話を切り出された。きっと風呂の覗きの糾弾をするつもりに違いない。
やっぱこいつ怖い。いや怖いと可愛いで、こわいい。
重い気持ちを抱えつつ川崎沙希と連れ立ってペンションを抜け出して、一碧湖という小さな湖に向かう。スマホのナビによれば一碧湖までは歩いて20分ほどの距離だ。
山間の道を歩いていると、夜九時を過ぎているせいか木々の間を抜けてきた伊豆高原の夜風は少しだけ肌にひんやりと感じた。
さすがは別荘地。八月だというのに夜風が心地良い。
湖の入口の自販機で飲み物を二本仕入れ、湖畔に歩を進める。
湖が見えるあたりまで行くと、寒いとまではいかないが尚一層気温が低く感じる。心なしか空の星も綺麗に見える。
本当に気分的な問題だ。きっと草叢から聞こえる、気の早い虫たちの控えめな合奏も影響しているのだろう。
突然の風に、川崎はTシャツの袖から伸びた腕を擦る。
もしかしたら寒いのか。
さっき自販機で仕入れた飲物を渡すついでに現在の体感気温を聞いておこう。
「川崎、寒くないか?」
ぼっちにとって健康管理は日常の最重要課題。学校を欠席でもしようものなら確実に授業に取り残される。
川崎もタイプこそ違えど同じくぼっちだ。そういう意味を含めた一言だった。
あとご機嫌取りね。こいつ普段と雰囲気違うし。寒いといってくれればペンションに戻ることも提案できるし。
「あ、ありがと、大丈夫……その、優しいよね、あんたって」
予期せぬ返答に、飲み込む寸前のコーラを噴出し咳き込んでしまう。
ちなみにコーラを選んだのは夏の開放感のせいだ。決して横に近づく川崎に動揺して商品のボタンを押し間違えた訳じゃない。隣にあった動物のサイが描かれたサイダーに未練なんて無い。
「だ、大丈夫!?」
慌てた川崎が俺の背中を擦る。
「あ、ああ……大丈夫だ」
まだ気管にコーラのしゅわしゅわ感が残る咽声のまま答えるが、未だ川崎の手は俺の背中に触れている。その触れられた部分が緊張とその他の何か得体の知れない感情で熱を持つ。
「背中……熱いよ」
熱を帯びたような川崎の言葉には、果たしてどう答えるのが正解なのだろう。きっと正解なんて無いのだろうが、それでも正解に近いベターな答えを考える。
ダメ、何も浮かばない。神経が背中の一点、川崎の手のひらの面積に集中してしまいまともな思考ができない。素数を数える余裕も無い。
結果、無言。沈黙。
普段の俺ならそれが常なのだが、ことこの状況下に於いてはそれは間違いだと思える。
だが、その沈黙を破ったのは俺ではなく川崎だった。
「最近……どうなの?」
漠然。質問の意図が掴めない、とは言い切れない。察しがついてしまうのが少し悔しい。
「ゆ、雪ノ下とか、由比ヶ浜とか……仲いいじゃん」
ますます意図が解らない、という顔をしておく。だが、さすがにこのまま無言という訳にはいかず。
「それをいったら、川崎と俺も仲良しってことになるぞ」
少しだけ質問の矛先をずらす。
俺が校内で話す人物は限られている。その中の二人である由比ヶ浜と雪ノ下を仲良しと称するのなら、校内に加えて予備校でも話す川崎は更に仲良しということになる。
「そ、そうか……うん、そう、か」
川崎の緊張が緩むのが手に取るようにわかる。なんだ、急に甘ったるくなってきた。コーラってこんなに甘かったっけ。
あー、なんか胸の中がしゅわしゅわムズムズする。
ところで、ジュース類の原材料に書いてある「ブドウ糖果糖液糖」って何なんだろうね。”糖”って漢字が三つも入ってる割にはMAXコーヒーよりも甘くないし。
ま、比べること自体が間違ってるのかもな。MAXコーヒーの甘さはまさに甘露、神の領域だ。なんならゴッドMAXコーヒーとかに改名しても遜色ない。
もしくは甘露か超神水な。
「……あ、あの」
急な呟きに思わず体が硬直した。ギギギと音を鳴らしながら首を向けると、俯いた川崎がペットボトルで手遊びをしていた。
「あたしはさ、こういう団体行動とか苦手だけど……あ、あんたと居るのは……楽しい、かも」
またしても川崎が呟いた言葉の意図──今度は本当に把握できないのだが、その言葉に悪意が無いことだけは理解できる。
ともかく、怒っていない様子を見ると、女子の入浴を覗いた嫌疑は掛けられていないようだ。
「その、あんたはどう思ってくれてるか解んないけど、ね」
そうとなればここから仕切り直しだ。
どれ、ちょいとだけ本音を喋ってやるか。礼には礼を、だ。
「ふむ。俺も楽しい、いや……ラク、快適、どれだろうな。俺にもわからん」
結局上手く伝えられない俺の耳を、くすっと笑う川崎の息がくすぐる。
「まったく、呆れるくらいにあんたらしい答えだね」
俺らしい、か。
「この際理由はどうでもいからさ、もう少しあたしにあんたの時間、ちょうだい。負担にならない程度で良いからさ」
こいつまさか、俺に友達が居ないことを気にしているのか。見かけによらず優しいヤツだな。
「おう、そうだな。予備校の帰りとか、暇なときならな」
気を遣ってくれているのに、こんな答えしか返せない自分が不甲斐無い。
「あんた、いっつも暇じゃないか……あ、そ、そうでもないのか。雪ノ下や由比ヶ浜、それに生徒会長ともデ、デートしてるみたいだし」
ちょっと待て。そこだけは否定させて欲しい。
「デートじゃねえよ。買い物の荷物持ちや用事に借り出されてるだけだ」
はあ、と溜息を吐くと川崎の体温が遠くなる。
「じゃあさ。今、ここであたしと一緒にいるのは、何?」
たしか話があるとか言われてきたのだが。
しかしそれを口にしたらノゾキの話になりそうだな。
「さ、散歩、じゃねえか?」
「あたしは……勝手にデートだと思ってる。あ、あんたのこと嫌いじゃないし、むしろ……」
……。
なあ小町。俺はこんなときどうすればいいんだろう。こんな時にまで心中で妹に頼るなんて、本当にダメな兄貴だ。
その時、ポケットの中のスマホが鳴った。
狙い済ましたかのような小町からのメール。
『ちゃっちゃと肩くらい抱いてあげなよ、ごみいちゃん。しなかったら合宿中の朝ごはんはトマト尽くしだよ』
ひくんと肩を竦めて、思わず後ろを振り向く。左右を見る。うん、人の気配はない。
小町の奴、どっかに隠れて見てるんじゃないだろうな。いや絶対見てるだろ。
とりあえずもう一度辺りを見回して、人の気配が無いのを確認する。
うん、人の気配も暗闇に光る妹の眼も無いな。
「あー、おまえが嫌じゃなければ、その、あの」
俺は川崎沙希の肩に軽く手を乗せる。手が乗せられた瞬間、ぴくんと跳ねた川崎の肩はみるみる熱を帯びてくる。きっとサーモグラフィで見たら真っ赤だろう。俺の顔も。
「あ、あんたの手……熱い」
「……おまえの肩だって熱い、だろ」
小町の指示通り、思い切って抱いた川崎の肩は柔らかく、熱い。つーかこいつ、こんなに華奢だったっけ。
「馬鹿、あんたに触られれば……こうなっちゃうんだよ」
とん、と俺の肩に川崎の頭が当たる。肩に触れる髪がくすぐったい。
少しだけ俺に向けられた川崎の目はとろんとしている。とろんと、といってもオンタリオ湖に面したカナダの都市名ではない。
超余談だった。
てか何これめちゃめちゃいい匂いするし可愛いし。
「比企谷……迷惑かもしれないけど、あたしはあんたを……」
──その時、背後から落ちた木の枝が弾けた音がした。
俺と川崎、二人の視線が同時に音源の方へ向く。木の陰で必死に隠れようとして、隠し切れない肉がはみ出している。
音源の正体は材木座だった。つまりだ、このブタが小町の目だった訳だ。じっと見ていると、諦めたかのように咳払いをひとつ、木の陰から肥えた全身を現した。
「……ゲ、ゲフン。邪魔、したなハチマン」
その瞬間、二つの相反する気持ちが沸き起こる。
助かったという思いと、水を差されたような思い。
「何か用かよ」
平静を装った俺がいつものように材木座に冷たい視線を投げると、俺の肩に寄り添っていた川崎は身体を離し、更に強力な殺傷能力を持つであろう視線を奴に浴びせていた。
瞬く間に川崎の無言の圧力に屈した材木座は、あれよあれよとキョドりだす。
「ちゃ、い、いや、こっちにハチマンがいると雪ノ下女史の姉上が助言くださったので、な」
小町だけじゃなく、あの魔王も絡んでるのかよ。あの人は──また人を使って遊ぶ気なのかよ。つーか最初の”ちゃ”ってなんだよ。
「そうか。おまえは好きなだけ湖を見ていくといい。何なら入水してもいいぞ。行くぞ川崎」
そう言い残して、俺は川崎の手を引いてその場を離れた。勝手に奉仕部の合宿に押しかけてきてまで玩具にされるのは癪だし。
「ちょ、痛い、痛いってば……あんっ」
思ったより強く握っていたのか、少し歩いたあたりで川崎は情けない声を上げる。
「あ、ああ、悪い」
すかさず手を離して謝ると、川崎はぷぷっと笑い出す。
「……あんたらしくない行動だね。でも、悪くなかったよ。あんたが思いの外強引だって事もわかったし」
「ちげーよ、ばか」
未だ笑いが尾を引く川崎と、しばし並んで歩を進める。数少ない通りすがりの自販機で空き容器を捨て、代わりの飲み物を二本仕入れる。その片方を川崎に渡すと、笑顔で応えてくる。
今度こそちゃんとサイダーを買えた。その待望のサイダーを口に含んだ瞬間である。
「さっき、露天風呂のとこにいたじゃん? やっぱあんたも、その、興味あるんだね」
またしても咽こんでしまう。
やばい、その話を忘れてた。
「けほ……べ、別に覗いちゃいない。会話は少し聞こえた……けど」
嘘は言っていない。はずだ。
「それで……興奮しちゃったんだ?」
今や川崎は俺の腕に絡みつくようにべったりとくっ付いている。
「やめろって、何か当たるから……」
当たってるというか、挟まれているというべきか。
幸せそうだな俺の左上腕。
「あ、当ててるんだけど……いや?」
どっかで聞いたような台詞だな。ちなみに全然嫌じゃない。むしろ嫌じゃないから困ってるんだが。
「あのな、一応俺も男なんだけど」
「そんなの知ってるよ。だから、あたしが女っていうのも確認してもらうんだよ」
この行動こそ、およそ川崎沙希らしくない。こいつはいつもクールで、厭世的な雰囲気を醸し出している奴だ。何よりこんなに積極的に人と関わろうとしないはずだ。
数秒の沈黙の後、俺の思考を読んだように川崎は呟く。
「……小町がさ、あんたは鈍感だから行動で示して、疑う余地を与えちゃダメだって教えてくれたんだよ」
小町め。
だがその分析は概ね正しい。そこはさすが身内というべきか。
俺は常に人の言動の裏を考える。考えて疑って、勘違いだと結論付けるのが常だ。
「だからさ、あたしにとってこの旅行はチャンスだったんだよ。あんたに女として見て貰う為のね」
いやもう充分女として見てるから。なんなら初対面は黒のレースだったし。
そんな愚にもつかない脳内の言い訳を余所に、更に川崎は語り続ける。その言葉に淀みは無い。
「あたしはさ、雪ノ下みたいに綺麗じゃないし、由比ヶ浜みたいに可愛くないからさ」
ちくしょう。こいつ可愛いな、本当。
「だから、直接攻撃しか無いって……結論を出したの」
ふむ、小町にきつく言っておく必要があるな。無闇に俺の攻略法を教えるなと。
つーか俺の攻略ってなんなの?
上上下下左右左右BAとかなの?
「まあ、理屈はわかったが……自重してくれ。精神が持たない」
こんなの晩度されたら堪ったもんじゃない。
ぼっちには「こうかはばつぐん」過ぎるんだよ。