ENDLESS SUMMER NUDE   作:エコー

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07 風乞うて花は揺れ、花揺れて心騒ぐ

 

 

 時計は夜の十時を回っていた。

 川崎沙希と小一時間ほど散歩してペンションに戻ると、エントランスは薄暗い照明になっていた。もう消灯の時間か。

 

 先を行く川崎沙希がそそくさと部屋に戻るのと入れ違いに現れたのは、由比ヶ浜結衣。その顔は明らかに不機嫌で、頬を膨らませている。

 なんだ待ち伏せか。果し合いか。料理への参加を邪魔された恨みによる行動か。

 受けて立つぞ。こちとらいつでも土下座の用意くらいは出来てるんだぜ。

 

「……ヒッキー、沙希と何処行ってたの?」 

 

 まあそうくるよな、おまえなら。どんだけ俺の事好きなの?

 正確には「どんだけ俺の事いじるの好きなの?」だな。

 決して勘違いしてはいけない。

 

「ああ、ちょっと散歩にな」

 

 あくまで素っ気無く、要点のみを答える。

 

「じゃあ、あたしも。あたしとも散歩しよ、ね?」

 

 俺はサブレかよ。そのうち首輪でも付けられそうだな。あ、脱走しやすいようにリードは緩めておいてね。

 まあ首輪が似合うのは飼い主である由比ヶ浜のほうだけど。ソースは去年の由比ヶ浜の誕生日。間違って着けた首輪は実際似合ってたし、それ以外でも雪ノ下にじゃれつく時のこいつの犬っぷりは見事なもんだし。

 スマホをちらりと見る。

 

「……時間遅いから、少しだけな」

「うんっ。じゃあ何処行く?」

 

 見えないしっぽを振って応える由比ヶ浜を尻目にふむ、と考える。

 

「じゃあ、さっき川崎と行った湖」

 

 由比ヶ浜のしっぽがぴたりと止まる。じっと睨むその表情からは唸り声まで聞こえてきそうだ。

 し、失言だったか。由比ヶ浜はこれでもかと云うくらいに睨みつけてくるし。

 

「さ、最後まで聞け。その近くにドッグランがあったんだが、その、ちょっと見に行かないか」

 

 ドッグランという、サブレを想起させる言葉で何とか気を逸らせて、由比ヶ浜の了承を得る。

 再び俺は、同伴者を由比ヶ浜に代えて一碧湖の方へと歩く。その途中の自販機で、その夜三回目の飲料の仕入れを行う。

 当日にリピーターになるなんて、すっかりこの自販機の常連だな俺。

 

 ドッグランに着くと、由比ヶ浜は一目散に駆け出した。フリスビーを持っていたら思わず投げてしまっただろう。

 一頻り駆け回った由比ヶ浜が、フリスビーの軌道の如く弧を描いて俺の前に戻ってくる。

 

「へえー、ここかぁ。広いね~」

 

 元気いいな。本当に犬みたいだ。俺は結構疲れてるんだけどね。

 

「だろ? ここならサブレがリードを振り切っても安心して遊ばせられると思ってな」

 

 こいつとの縁を作ってくれたのは、他でもない由比ヶ浜結衣の愛犬サブレだ。まあ由比ヶ浜にとって”愛犬”なだけで、サブレにとって由比ヶ浜が”愛飼い主”かどうかは知らないが。

 実際何度かリード振り切って逃げてるし。

 

「ヒッキー、沙希と一緒に居るときにそんなこと考えてたんだ?」

 

 い、いやぁ、他の事考えてないと川崎の大きくて柔らかいのとかに負けそうで、などとは言えない。肯くだけに留めておく。

 

「それって、すっごく失礼だよ。ま、まあ、あたしは嬉しいんだけど、さ」

 

 ふーん。あっそ。ヨカッタデスネー。

 

「誰が由比ヶ浜のことを考えてたと言った? 俺が考えていたのはサブレのことだ」

 

 そうですよ。決して由比ヶ浜のほうが大きいかな、とか考えてないですよ。

 

「はいはい、そーだね。ね、ヒッキー」

 

 返事は一回でいいのっ。このばかちんがっ。

 

「バレンタインのとき……あたしが言ったこと、覚えてる?」

 

 由比ヶ浜の口から続けて発せられた不意を衝く問いに、思わず固唾を呑み込む。

 

「あ、ああ」

 

 忘れる訳はない。

 ──総武高校入学試験当日、小町が答案用紙に向かって唸っていただろう、その時間。俺たち三人は雪のそぼ降る葛西臨海水族園にいた。

 あの時の由比ヶ浜結衣の宣言は、雪ノ下雪乃の嗚咽は、その光景は、ずっと脳の真ん中で熾き火の如く燻っている。

 

「あの時言ったことは、あたしの本心。でもね、言い方が悪かったかなーって、ずっと思ってる」

 

 そういえば、あの時由比ヶ浜が言ってた雪ノ下の抱える問題って、その答えって、なんだったんだろ。まあ状況やタイミングから考えて雪ノ下家の問題だろうけど。

 

「ゆきのんを追い詰めるみたいなことしちゃったし、ね」

 

 まあ、確かに、な。あの雪ノ下雪乃を涙を浮かべるまで追い詰めた人物を他に知らない。

 

「あーあ、何で思い通りにいかないんだろ」

 

 ぽすん、とベンチに身を放り出した由比ヶ浜にさっき自販機で仕入れた飲み物を手渡すと、「ありがと」と微笑を返される。

 

「全部思い通りに上手くいくなんて、無理だろ」

 

 自分だけの事ですら上手くいかないこともあるのだ。そこに、複数の意思が絡み合ったら、きっと万事思い通りに上手く事が運ぶなんて、それこそ奇跡に近い確率なのだろう。

 

「そう、だね。全部なんて無理。わかってる。でも」

 

 ぐっと両手でペットボトルを握り込んで、下唇を噛み締める。そして大きく息を吸い込んで、由比ヶ浜結衣は再度宣言する。

 

「でも、ね。あたしはそれでも全部欲しいんだ」

 

 自身をずるいと、卑怯だと断じた由比ヶ浜結衣。しかし今、目の前にいる少女は清々しいまでに正直な顔をしていた。

 多くを望む事自体は決して罪ではない。誰だって本当はそうしたいのだ。だが、変な常識や道徳観、倫理観がそれを許さない。

 いかにも慎ましやかに生きることこそが正義であるように。

 本当は皆等し並みに抱いている筈の、人の根底にある筈の本能的な欲求なのだろうに。

 

「贅沢だな、おまえは」

 

 かくいう俺も、慎ましさを美徳とする輩と同じ言葉を吐いてしまう。

 

「うん、贅沢で、欲張りで。そのくせ何も捨てられない。捨てる勇気なんて……ないんだよ」

 

 捨てる勇気、か。

 俺にも無いな。捨てられる覚悟なら存分にあるけどな。だが目の前にいる少女は間違いなく勇者だ。少なくとも俺なんかよりも数倍の勇気を振り絞ることが出来るのだろう。

 たとえそれが誰かの”傷”を伴う行為であっても。

 

「無理に捨てる必要なんてないだろ。そのうち捨てられるかも知れないんだからな」

 

 由比ヶ浜結衣が捨てられるという意味で云ったつもりはない。捨てることが出来る、という意味で云ったつもり。

 もし捨てられるとしたら、それは俺だ。

 理解し難かったのか一瞬ぽかんと口を開けて、うーんと唸って、はっと顔を上げる。

 

「ひっどいヒッキー、まじキモいからっ」

 

 おー、久しぶりに見たな。由比ヶ浜の本気の引き顔。

 

「仕方ねえだろ。俺なんか、何か望む前に周囲に見捨てられたようなもんだからな」

 

 ふっ、と少々気障に決めてみると、案の定由比ヶ浜は呆れた笑いを浮かべる。

 

「やっぱヒッキーはネガティブだ。でも──」

 

 由比ヶ浜は夜空を見上げて頬を緩める。その横顔は、遥か昔から男たちが追い求めてきた原風景。何故かそんな気がした。

 

「──自分から捨てる必要がないって考えると、少し楽かな」

 

 しばし星空を眺めていた由比ヶ浜が、ごく自然に問う。

 

「ヒッキーはさ、どうしたい?」

 

 俺は、果たしてどうしたいのだろう。

 勿論平和に暮らしたい。吉良吉影の云った台詞を引用すると、ただ静かに暮らしたい。

 もしもその平穏な暮らしが叶うとして、その暮らしの中で俺は何を求めるのだろうか。

 自分の時間。幸福。安らぎ。雪ノ下。由比ヶ浜。それとも。

 ……って、あれ?

 もしかしたら、結局俺も全部欲しいのか? こいつと同じなのか?

 

「俺も、由比ヶ浜と同じなのかもな」

「そ、そっかぁ……ヒッキーも、かぁ」

 

 お団子に纏めた髪を弄りながら、にへらと顔を綻ばせる。

 あかん。多分これ勘違いされるヤツだ。

 

「べ、別にアレだぞ。その、どっちとも、なんて考えてないからな?」

「え? ……ええっ!?」

 

 あら。余計なこと言っちゃったのかしら。これじゃまるで「どっちとも一緒にいたい」とか思ってると余計に勘違いされちゃうじゃんかよ、これ。

 

「どっちとも、って……ヒッキーのスケベ」

 

 どういう意味だ!?

 いかん、思わず思考が由比ヶ浜レベルになってしまった。

 しかし己の意思とは無関係に、思わずあっち方面に邪推してしまう。

 あっち方面とは、えっち方面だ。一文字違いで大違いだな。

 

「ヒッキー、あたしと……その、したい?」

 

 邪推じゃなかった。正推(せいすい)だった。

 「せいすい」って、なんかエロいな、もといドラクエっぽいな。あれは漢字で書くと「聖水」か。やっぱなんかエロいな、うん。

 よし、愚考終了。まじめに考えよう。

 丸っきりしたくないとかいえば違うんだが、その、したいと言い切ってしまうと色々と語弊が出るよな、やっぱ。

 つーかやばいやばい。考えてる間に由比ヶ浜との距離が……やばいって。

 

 その時、背後で木の枝が弾ける音がした。

 って、何これデジャヴなのん?

 デジャヴ。既視感。初めての体験なのに既知の体験と錯覚してしまう現象。

 これって一種の記憶障害って説もあるんだよね。

 まったくの余談だったしデジャヴでもなかった。いたのはデブだった。

 

「ゲ、ゲフン」

 

 またしてもこいつ、剣豪将軍材木座・B・義輝だ。ちなみに間に入れた「B」は、バカ、ブサイク、ブタ、ボッチのトリプルミーニングな……あ、1コ多かったかな。

 

「い、いやぁ、我はもう嫌だと言ったんだがな。生徒会長の命には逆らえないというか……」

 

 ついに一色まで加担しだしたか。あと一人加わったら四面楚歌の完成じゃねぇか。

 つーか、お前のいう将軍職って何なんだろうな。高校の生徒会長よりも位が下なのな。

 そういえば伊豆って、平氏に負けた源氏が北条氏の助力を得て再起を図った地、だよな。だから材木座が……あ、すまん。お前は足利だったな。てか足利ですらないけど。武士ですらないし。

 すっかり材木座に場を壊された由比ヶ浜と俺は、そのまますごすごと退散した。

 まあ、何事も無く済んで助かったような、残念なような。

 

 材木座が来なかったら、果たしてどうなっていたのだろう。もしもの場合を考えても仕方がないなのだけれど。

 そういえば、来年のことをいうと鬼が笑うとか云うけど、もしもの場合を考えたら……一体誰が笑うんだろ。

 俺の場合、周囲全員に苦笑いされた挙句に引かれそうだけど。

 このあと平塚先生に約一時間以上も失恋話で絡まれることを、その時の俺は知る由もない。

 

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