誰も救おうとしてくれないこの世界で、誰かを救いたいと願うことはできる。
誰も手を差し伸べてくれない世界の中で、誰かの手を取ることはできる。
誰かを愛し、愛されながら生きる未来を夢見て―――僕らは。
八月八日。
『―――適化が完了、メンテナンスモード終了。ヨルハ機体4S、起動』
漸く終了か。重い瞼を開けると、淀んだ空気と埃っぽさに、懐かしさのような感情を抱いた。視界に映るのは数多の背表紙。それらが収まった巨大な木製の棚が、四方から僕を見下ろしていた。
「ポッド。どれぐらい時間が掛かった?」
『報告:メンテナンスモードを終了した時点で、約二百五十七分が経過している』
「……参ったね。ただの最適化に、そんなに」
本当に参った。長らく放置をしていたとはいえ、チップの最適化と簡易メンテナンスという単純な作業に、四時間超か。通常なら数分間で終える工程に、随分と時間が掛かったものだ。
溜め息を付きながら、四肢の制御プログラムを調べる。相変わらず、左腕が言うことを聞かない。指先に至っては微動だにしない。神経伝達系アルゴリズムを調整すれば、幾分マシになるかもしれないけれど、それはH型の領域だ。S型の僕が下手に触れば、逆効果を生みかねない。今のポッドにだって、期待はできない。
「……もう、八月なのか」
機械生命体―――球体連結型による襲撃に遭ったのは、今から二日前のことだ。
宙を自在に駆る機械生命体の群れは、突如として僕らに牙を向いた。数少ない攻撃手段を以って辛くも撃退したものの、独力では修復不能なほどの損傷を負い、一時はブラックボックス反応が消失し掛ける事態に陥ったのが、二日前。
三機セットで運用するのが常のポッドも、今では117cの一機のみ。僕と同様に満身創痍といった有り様で、通信機能の九十パーセント以上に障害が生じている。これでは―――いや。
通信環境がどうあれ、最早何の意味も成さない。
バンカーは陥落し、あれほどいたはずの仲間は、もういないのだから。
『繰り返す。推奨:早急なオーバーホール、又は不具合箇所の重点メンテナンス。レジスタンスキャンプに同型の代替パーツが保存されている可能性が高い』
「いや、いいよ。もういいんだ」
みんな死んだ。死んだんだ。この場で再会を果たした九号S型も、きっと。
地上に残されたのは、ヨルハ四号S型とポッド117cだけ。
「それより、機械生命体の……敵の個体データの、整理を進めたい」
『理解不能。現状況下において、当作業を優先するメリットは皆無だ。理解できない』
「うるさいな」
―――情報収集は、立派な戦闘支援ですから。かつての同胞の声を自身への言い訳にしながら、二日前の襲撃を思い起こす。
あの戦闘の裏で、何かが起きていたのだろう。遠方から爆発音と共に、何かが崩壊するようなけたたましい音が聞こえて、地面が揺れたのをよく覚えている。
どうでもいい、と思った。僕にはもう、関係ないことだ。
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八月十六日。
以前に9Sがデータを提供してくれた甲斐もあって、機械生命体の個体データは大方をリスト化することができた。しかし今となっては達成感すらない。分かり切っていた現実だ。
手持無沙汰となった僕は、膨大な量の書物を読み漁り始めた。特に目的もなく、文字を目で追う作業に没頭した。逃避以外の何物でもなかった。
新たに生じた悩みの種は、ポッドが意味不明な言動を見せ始めた点だ。
『報告:ポッド117は、ヨルハ機体4Sの随行支援を任されている。彼らと同じく、私にも、結末を見届ける義務がある』
「……何だって?」
『解答不能』
これである。まるで訳が分からない。論理思考にまで異常が及んだのだろうか。
それでも僕は、心底どうでもいいと思った。
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八月二十七日。
事態の悪化は連鎖するもので、音声機能に不具合が生じた。予備スピーカーも先の戦闘で損傷してしまっていたらしく、僕は文字通り『声』を失った。
平時なら途方もなく不便なはずだけれど、単身では別段気にならなかった。話し相手がいないのだから当たり前だ。ポッドは声抜きでも僕の意図と指示を察してくれる。
『推奨:早急なオーバーホール、又は―――』
ポッドがあまりに鬱陶しいので、発言には僕の許可を義務付けた。こうしてポッドも、声を失くした。
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九月十七日。
仮にも僕はS型だ。自身を客観視するぐらいは造作もない。
恐らく僕は、精神的に危険な状態に陥りつつあるのだろう。
(……寒い)
異常気象としか思えない気温の低下と相まって、孤独という現実が、底なしの肌寒さを思わせた。本棚に背を預けて座り込み、爪を噛むという無意味な行動を丸三日間繰り返して、漸く自分の危うさに気付かされた。
気晴らしに、図書室の一階部分に生えていた大型植物の根を切り取り、摂取するという行為にも及んだ。排泄を迫られるだけで、やはり何も生まれなかった。何も変わらなかった。
「っ……!」
声が聞きたかった。誰かの声を、喉から手が出るほどに欲した。
どうして何も言わない。何故黙っている。あれほどうるさかったはずのポッドが沈黙を決め込む姿に激しい苛立ちを覚え、僕は右拳でポッドの装甲を殴打した。
何度も拳を叩き付けた。何度も何度も、何度も。
暫くして、自分の愚かさに愕然とした。知らぬ間に記憶野が虫食いだらけになっていて、その原因にまるで身に覚えがなく、僕はたった一人で立ち尽くしていた。
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十月某日。
どれぐらい時間が経ったのだろう。
きっと僕は、もっと長時間の孤独を何度も経験している。僕らS型はその特性上、単独での調査活動が主であり、慣れ親しんだ日常だったはずだ。
なら、この感情は何なのだろう。
どうして僕は、自分以外の誰かを恋しいと感じているのだろう。
そもそも僕は、何のために戦ってきたのか。誰のために生きてきたのか。
分からない。僕には、分からない。
『推奨:起床』
突然、何かが頭部に触れた。
何とはなしに瞼を開けると、僕の傍らで浮遊するポッドと―――視界の端に、何者かの姿が映った。
「……?」
銀色の放熱線―――長髪が揺れる度に、足音が聞こえる。否応なしに流れ込んでくるデータの羅列は、何者かがヨルハタイプのアンドロイドであることを告げた。それ以上の事実には、思考が向かなかった。
こつん、こつんと足音が近付いてくる。やがて床に座り込んでいた僕の眼前で足音は止み、何者かが口を開く。
「本を探している。哲学に関する本だ。物忘れの激しい知り合いに贈り―――」
『おねえチャンあそんデー!』
『あそんデー!』
「っ……少し黙っていろ」
特有のノイズ混じりの声で、初めて気付いた。何者かの足元では、小型二足の機械生命体が、腕部を回転させながら飛び跳ねていた。明確な感情を込めた声を発しながら、表情のような何かを浮かべていた。
一体何だ。目の前で何が起きている。反応に窮する僕に構わず、何者かは続けた。
「お前なら探せるだろう。勿論、無償でとは言わない。謝礼はくれてやる。何がいい?」
あまりに一方的な依頼。確かに僕なら、目当ての書物を容易に見付けることができる。
しかし不作法過ぎやしないだろうか。取って付けたような謝礼という言葉も疑わしい。
「い、みを」
「なに?」
だから僕は、音声機能に鞭を打って、言葉を捻り出した。
それは何者かの依頼と同等かそれ以上に、身勝手な願い。
「生きる、意味が。欲し、い」
吐くと同時に、屋外から鳥の鳴き声が聞こえた。集団で飛び立ったであろう鳥達の羽ばたき音が、朽ち果てた建屋の隙間から入り込んできて、吹き抜けになっている室内で反響し、長らく余韻を残した。ちっぽけな生命の営みを示すそれらが、感情を大いに揺さ振った。
僕の声は、届いたのだろうか。届いたけれど、拒絶されたのだろうか。それとも僕は、既に死んでいるのだろうか。
『おにいチャンあそんデー!』
『あそんデー!』
機械生命体の音声が、僕に向いた。思わず顔を上げると、何者か―――彼女の右手には、旧式の斬機刀が握られていた。その刀身は切っ先の部分が折れていて、彼女はやれやれといった様子で、告げた。
「この通り、正宗にも用があってな。修復にどれぐらい掛かるか分からないが、私が戻るまでの間、そいつらの相手をしてやってくれ」
それだけ。たったそれだけの言葉を置いて、彼女は僕に背を向けて、力強く跳躍した。
宙を舞う銀髪が眩しくて。燃えるような猛々しさを感じさせるその姿に、僕はもしかしたら、見惚れていたのかもしれない。
「……う、ぅ」
二時間か、三時間。或いはもっと短時間か。彼女がこの場に戻ってくるまでの、ほんの僅かな一時に過ぎない、僕に与えられた―――生きる意味。
「う、うぅ。う……あぁ」
『おにいチャンどうしたノー?』
『どうしたノー?』
止め処なく溢れ出る大粒が、痛みを思い出させてくれた。動かない左腕に痛みが走り、ポッドを殴った右拳が割れるように痛い。全身を襲う痛みが生きているという実感に等しくて、生きるという言葉の定義を曖昧にしてくれた。僕は―――まだ、生きている。
たった今僕に与えられた時間は、鳥の羽ばたきのように一瞬なのかもしれない。
けれど、生きてみよう。もう少しだけ、生きてみよう。
まずは、哲学書を探そう。未来を、明日を想うのは、それからでも遅くはない。