鎮守府のイージスⅡ~Marine Mission~ 作:R提督(旧SYSTEM-R)
「おはようございます、黒部課長」
「あぁ、桜木くんか。おはよう」
5日ぶりに顔を合わせた自分の新たな上司に対して、大和はいつも通りの礼儀正しさで挨拶した。今、彼女は「桜木大和」の名を名乗り、都内の大手商社である帝国商事で新入社員として働いている。配属された部署は、自分の前職場である国防海軍担当。軍籍停止を受け入れるにあたって、海軍が自ら実施した転職支援の賜物だった。
これは海軍を離れる際の取り決めで全ての艦娘に対し提案された取り組みだが、大和をはじめとしてこれをうまく利用した者もいれば、ゆきなみ型3姉妹や金剛型4姉妹のように独自に新天地を探した者たちもいる。大和の場合、海軍を離れても商社の社員として引き続き彼らと繋がりを持ち続けることで、もしかしたら自分たちの復帰にもプラスに働くような情報を手にできるかもしれない、という見込みが根底にはあった。
そうした経緯で転職を果たすや否や、彼女はあっという間に社内の関係各所で話題を呼ぶ存在となった。元々誰もが羨む美麗なルックスの持ち主であるうえに、女性としては結構な長身なので普通に歩くだけでもかなり目立つのだ。「最近入社してきたあの物凄い美人は一体何者だ」と人々の口の端に上るまでに、時間はかからなかった。
そんな話題の渦中にあっても、大和はあっという間に新たな環境に溶け込んだ。見た目こそいかにも大和撫子で高嶺の花と見られがちだが、いざ口を開いてみると実際には癖や裏表がなく素直な性格で、無邪気で愛くるしい人柄やなんとなくポケポケしたところが愛されるのは海軍にいた頃と何ら変わらない。しかも、前職場が職場だけに上下関係もしっかりと心得ており先輩を立てるのも上手で、同性からも嫌われずに済んだのは幸運と言えた。自分の前評判を鼻にかけることもせず、まだ新しい環境に慣れない中でも真面目に仕事に取り組む彼女は、すぐに社内で自分の居場所を見つけることに成功したのだった。
「…、何だか今日はずいぶんご機嫌ですね?」
「あぁ、実は有給中に久しぶりに台湾まで遊びに行っててね。あぁ、これお土産ね」
そう言って、黒部は現地で買ってきたというパイナップルケーキを大和に手渡す。この世界においても台湾を代表するお菓子として著名な存在だ。
「わぁ、美味しそう。ありがとうございます」
それを受け取った大和は嬉しそうに声を弾ませると、黒部に向かって「いかがでしたか、向こうの様子は」と尋ねた。
「凄く楽しかったよ。景色も綺麗だし、向こうの人たちは皆優しいし、飯もうまい。やっぱり何度行ってもいいところだよ。君もあと3か月ほど頑張れば有給が取れるようになるから、機会を見つけたら是非行ってくるといい」
黒部はそう答えると、ふと何かを思い出したように「そうそう」と呟いた。
「飯と言えば、高雄で凄くいい店を見つけてね。風来食堂っていう飲茶の専門店なんだけど、そこの料理は本当に絶品だったんだ。特に小籠包、あれは素晴らしかったね。おまけに、それを運んできたお姉さんも凄い美人でさ。思わず話し込んじゃったのに文句ひとつ言わず付き合ってくれて、本当にいい子だったなぁ」
「…、もう、課長ったら。鼻の下が伸びてますよ」
大和は少し顔を赤らめると、そっぽを向きながら口を尖らせた。まだ出会って数か月の間柄ではあるが、自分の上司の人となりは彼女にも何となく見え始めている。どこかに出かけて行ってそこで女性スタッフに接客してもらったりすると、ついついそれを人に話したくなってしまうのがこの男の性分らしかった。その話を聞かされている自分も、一応女であるはずなんですけどね。相手はサービス業に従事している以上、悪い印象を与える振る舞い自体そもそもしないはずだし。なんだかなぁ。
こういう時、大和は決まって心の中で「またか…」といった風に肩をすくめる。だが、この時ばかりは少し状況が違った。その称賛の言葉に続いて黒部が何気なく口にしたのが、大和にとっては実に意外なワードだった為だ。
「長浦未来。確かそんな名前だったな、あの子。不思議と印象に残ってるんだよね」
「…、えっ…?」
大和は思わず目を見開いた。驚きのあまり半開きになった口からは、言葉が何も出てこない。同姓同名の類でないとするならば、その名前を名乗る女性の正体が一体何者であるかを彼女は知っているのだ。その相手とは、それぞれの海軍からの離脱手続きのドサクサでそういえばきちんと顔合わせが出来ていない。かけがえのない親友同士として、いつかもう一度面と向かって言葉を交わせる機会が持てれば。そう願いつつも連絡が取れないまま、今日まで来てしまっていたのだ。
仕事が休みの日には、地元にいるのかと思い横須賀中を歩き回ったこともあったが、彼女には訪ね当たらない。一体自分の親友は今どこで何をしているのか、それを知りたくても知るための手がかりもないという歯がゆさが、ずっと大和の心の中にはあった。だが、今この瞬間それは綺麗さっぱり消え失せたらしい。そうか、彼女は横須賀にいるのではなく、遠く台湾の地に移り住んでいたのか。思わず、大和の口からは笑みが漏れていた。
「すいません課長、やっぱり今のセリフは撤回させてください」
「ん?急にどうしたの、桜木くん」
怪訝そうな表情を浮かべる上司に向かって、その顔を上げた大和は何やら吹っ切れたような笑みを浮かべた。
「やっぱり、思い直したんです。そうですよね、確かにあの子は可愛いですもんね。多分、よっぽどひねくれてない方なら同性でも皆あの子のことは『可愛い』って言うと思いますよ。課長がそうやって褒めるの、分かる気がします」
「へっ!?何、もしかして桜木くん、あの子のこと知ってたの?」
「えへへっ、長浦未来という女の子ならもちろん知ってますよ。彼女は私の大切な親友であり、前の職場でのかけがえのない仲間でしたから。…、日本国防海軍ゆきなみ型ヘリコプター搭載イージス護衛艦『みらい』、課長もご存じじゃありませんか?」
その言葉の意味を理解したと同時に、驚きのあまり眼球が飛び出さんばかりに目を見開いた黒部に対して、大和は恭しく頭を下げた。
「課長。差し支えなければ、その風来食堂の連絡先を教えていただけませんか。是非一度どうしても連絡が取りたいんです、みらいと。もちろん休憩時間中で構いませんから」
「お電話ありがとうございます。風来食堂、担当・榛名が承ります」
その日の昼休み、黒部から教えてもらった電話番号に大和が連絡すると、程なくして受話器の向こうから明るい声が聞こえてきた。海軍時代はお互いに別々の鎮守府に所属していたため、横須賀の同僚たちと比べればやり取りの頻度はそこまで多かったわけではないが、それでもこの国にとって重要な存在であるとお互いを認めていた、電話口に出たのはそういう相手だった。
「もしもし、榛名さんですか?ご無沙汰してます。以前、国防海軍でお世話になっていた大和ですが」
「えっ…、あっ、大和さん!?わっ、びっくりした。こちらこそお久しぶりです」
予想外の電話の相手に相当驚いたのだろう、榛名の声は上ずっていた。
「まさか、大和さんから電話が来るなんて思わなかったですよ。今は、そちらはどうされてるんですか?」
「今は、東京の帝国商事っていう商社でお世話になってるんです。海軍に転職支援でご紹介いただいて…。本当にありがたい事です」
大和はそう答えると、そこで不意に話題を変えた。
「実は、この間うちの上司がそちらにお邪魔したらしくて、そこでゆきなみ型と金剛型の皆さんに会ったと。本人は最初、皆さんが艦娘だって気づいてなかったみたいなんですけど。皆さんとは海軍を離れる時のドサクサで挨拶もちゃんとできてなかったですし、久々に声が聞きたいなと思って」
「あ、そうだったんですね。確かに今はあのカチューシャもしてないですし、もしかしたら気づかれないかもしれないですね」
あのカチューシャとは、金剛型4姉妹のトレードマークでもあるアンテナをかたどった、お揃いの金色のアクセサリーだ。と言ってもただの飾りではなく、戦闘時には対空・対水上電探としての役割も果たした立派な兵装である。海軍を離れた今は着けておく必要もないので外しているが、確かにその状態では元艦娘とは気づかれにくいかもしれない。
「皆さんはそちらでも元気にされてますか?」
何の気なしに聞いた質問のつもりだった。しかし、それに対して帰ってきた榛名の返事はどうも歯切れが悪い。大和と同様、榛名もいたって素直で裏表のない性格の持ち主だ。そして、自分が抱えている困難についてはたとえそれが深刻なものであったとしても、「榛名は大丈夫です」の一言で済ませてしまう、そんな健気な人物でもある。ただ少々素直すぎるせいか、他人が抱える「あまり人に聞かれたくない困難」については、上手くオブラートに包んだりごまかしたりするのは苦手なようだった。
「はい、榛名は大丈夫です。他の皆さんもまぁ、おかげさまで何とか。ア、アハハ…」
「…、大丈夫じゃない方もいる、と?」
「うー、後生ですからはっきり言わないでくださいよぉ…」
そこで電話越しに泣きついてくる姿に、大和の口元には思わず笑みが浮かんだ。海軍時代には同じ横須賀での先輩だった金剛とは大の仲良しだったが、その妹である榛名も姉とはまた違うベクトルで可愛らしい人だ。
「実は、今このお店にいる元艦娘7名中6名は大丈夫なんですけど、1人だけちょっと問題が起きてしまってまして…」
そこで、不意に榛名が声量を落とした。思わずこちらも釣られて声を潜める。
「問題?どういうことですか?」
「みらいさんが、メンタル的にダウンしてしまってるんです」
その一言を聞いた瞬間、大和の顔から一気に血の気が引いた。
「えっ…!?どういうことですか、それ…!?」
「ずっと私や比叡お姉さま、ゆきなみさんと一緒にホールを担当していたんですけど、今はもう働きにも出てこれないような状態で。住み込みで働いてるんですけど、もうかれこれ1週間近くも自室に閉じこもったままなんです。病院にも連れて行けてませんが…、恐らく鬱の状態ではないかと」
「そんな…、あの子が?」
大和には、その言葉がすぐには信じられなかった。彼女の記憶の中にあるみらいは、とても鬱病になるような人物とは思えない存在だったからだ。圧倒的なスペックを誇る現代兵装に裏打ちされた自信満々な態度を見せつつ、その実内面では冷静に目の前の状況を見定めて相手を文字通りねじ伏せていく姿が、みらいという艦娘のトレードマークでもあった。その彼女が精神的にやられたなんて信じられないし、本当だとすれば大事だろう。
「思えば台湾に来た頃から、どうも金剛お姉さまの評価とは違ってどこか暗い印象だったんです。仕事中はそれでもお客様に笑顔を振りまいたりして頑張っていたんですけど。多分、海軍から離れざるを得なかったことが本当は凄くショックで、それでも何とか耐えようとして内面的には相当無理をされてたんじゃないかと。今は、仕事の合間に皆で交代しながら面倒を見ているような状態なんです」
「そう、だったんですか…」
大和は一瞬言葉を失った。どうやら、思っていたよりも状況はかなり深刻らしい。
「実は、今日電話したのはみらいと久々に連絡が取りたかったからなんです。あの子とはしばらくコンタクトがなかったし、もう一度声が聞きたいと思っていたんですけど…。そういう状況では、今は諦めるしかないですね…」
「ごめんなさい、大和さん。せっかくお電話いただいたのに」
榛名の心から申し訳なさそうな声が、大和には何故か壁の向こう側から聞こえているように感じられた。一見薄いようだが、それでも不思議と破ることのできない壁。まるで、自分がその前に取り残され立ち尽くしているような、そんな感覚が彼女を襲う。だが、そこですごすごと引き返さないのが戦艦大和の秘める心の強さとも言えるかもしれない。
「あの、榛名さん。声が聞けないならせめて、伝言だけでもお願いできませんか?」
「伝言、ですか。榛名でよければお聞きしますよ」
「ありがとうございます。ええっと…」
大和はその気遣いに礼を言うと、しばし頭を巡らせて慎重に言葉を選んだ。その心の中には、次から次へと数えきれないほどのキーワードが浮かんでくる。本当は、彼女に伝えたい思いはたくさんあるのだ。だが、その巨大な山の中から最終的に拾い上げた言葉のピースは、実にシンプルなフレーズだった。
「それでは、みらいにはこう伝えてもらえますか。『力になってあげられなくてごめんなさい。今は無理せず、ゆっくり休んでね』と」
みらいは、ベッドの上で膝を抱えたまま何をするでもなく、視線の先にある部屋のドアをただボーっと見つめていた。今は何もする気にならないし、何も考えたくなかった。どこか重苦しい自分の頭の中は、ただ延々と空白地帯が広がったままだ。室内に広がるカモミールティーの香りと、隣に腰かけてくれている姉の優しい雰囲気だけが彼女にとっての救いだった。
「あすか姉さん…、大丈夫なの…、行かなくて」
メンタルをやられてもなお、今のあすかにとっての本来業務である厨房の仕事を放っておいて大丈夫なのかと、思わず心配してしまうみらい。何も考えたくないとは思っていても、無意識にそういう言葉が口をつくのは彼女の性なのだろうか。だがそれに対して、あすかはいつもとは違う柔和な笑みを浮かべながら首を振った。
「大丈夫、心配しないで。お店は皆がちゃんと回してるよ。今のあたしにとっては、あんたの面倒を見る方が大事なんだから」
そう言うと、あすかは優しく妹の頭を撫でた。
「ごめんね、みらい。この間はあんなこと言ったりして。本当はずっと辛かったんだよね。もうあんたは無理なんかしなくていいから。何かあればあたしたちがちゃんと力になるから。ゆっくり休みな?」
「あ、あり…、ありが…」
ありがとう。その単純な一言すらも、今のみらいにはうまく言えなかった。口を開こうとしてもそのたびに胸が一杯になってしまい、言葉の代わりに溢れてくるのはただ涙のみ。自分の身体を優しく抱きしめる姉の腕の中で、みらいはただひたすら嗚咽を漏らすことしかできなかった。
今の彼女にとって、自分の姉たちや金剛型4姉妹、あるいは里見が自分に対して見せてくれる優しさは何よりもありがたいものだった。自分が仕事に出られないせいで忙しいはずであるにもかかわらず、毎日欠かさず日替わりで顔を出しに来てくれて、ずっと横で穏やかに見守ってくれて、拙いにも程がある自分の言葉だってちゃんと聞いてくれる。そんな細やかな気遣いが嬉しくて、そしてそうやって向き合ってくれる彼女たちの力になれないのが悲しくて、みらいはいつも最後には泣き出してしまうのだった。そうして、やがて泣き疲れてそのまま眠ってしまう。そんな毎日を彼女は繰り返していた。
みらいの体調には、日によって好不調の波がある。ある日、彼女の調子が久しぶりにいい時があった。その日は店がたまたま休業日で、彼女の部屋には金剛とゆきなみの2人がやってきていた。
「美味しいね…、金剛が淹れてくれる紅茶」
「えへへ、Thank you. 気に入ってくれた?」
金剛が問い返すと、みらいは一度頷いた。そこにはまだかつてのような力強さはないが、こうやって周りの問いかけにきちんと反応して会話が成立するだけでも、比較的体調がいい証拠と言える。本当にどん底の時は、思考力そのものが奪われてしまうせいでまともに返事すらできないのだから。
ティーカップを置いたその先に、顔を出しに来てくれた2人の長女の顔が見える。こうやって、自分の面倒を嫌な顔1つ見せずにみてくれる他の6人は、1人の例外もなく根っからの善人ばかりだ。中でも金剛とゆきなみは、いつも長女として妹たちを引っ張る立場にいる為か、色々と気を回すのに長けているようだった。金剛にしても、何か嬉しい事があれば人一倍はしゃぎまわることからハイテンションなだけのキャラと思われがちだが、実は決してそうではない。彼女たちの優しさが、みらいにとっては何より嬉しかった。
「ありがとうね…。わざわざ、私の為にいつも気を使ってくれて…」
「いいのよ、そんなことは気にしないで。可愛い妹の為だもの、当然でしょ。それに、苦しい時にはお互い様よ」
ゆきなみはそう答えながら微笑んだ。
「フフッ、今日はなんだか調子がいいみたいね。いつもよりも、ちゃんとお互いにこうしてお話が出来てるもの。よかったわ」
その言葉には、みらいはただ無言のままだった。だが、彼女の表情に浮かぶどこか暗く物悲しい雰囲気は、今日はかつてと比べれば確実に和らいでいる。今の金剛やゆきなみからすれば、それは何よりも安心すべきことと言えるかもしれない。
「そういえば、他の皆は…?」
「今、お昼ご飯の買い出しの為に手分けして市場に行ってるわ。今日は、雅恵さんが五目チャーハンと大根餅を作ってくれるんですって。完成したら、みらいの分もちゃんと持ってきてくれるからね」
ゆきなみの言葉に、みらいは「そっか…」とだけ呟いた。ふと、その視線が通りに面した窓の方に向く。建物の外からは、今日も賑やかな街の喧騒が伝わってきていた。その音に包まれながらの高雄の街での生活を始めてから、もうしばらく経っている。この街での暮らしは決して居心地が悪いわけではないが、そうは言ってもやはりつい1年前までのそれとは全く異質なものであることに変わりはなかった。
「皆は…、強いんだね。私には真似できそうにないや…」
ふと口をついたその言葉に、金剛とゆきなみが同時に振り向く。
「強い…?私たちが…?」
「うん…」
みらいは、まだ思考力が低下したままの頭脳を必死に動かしながら、言葉をつないだ。
「海に出なくなっても…、海軍を辞めてもちゃんと切り替えて、毎日ちゃんと前向きに生きて、私の面倒まで見てくれて…。凄いよ…、皆凄いよ」
「そうカナ?えへへっ、そう言ってもらえて嬉しいヨ、みらい」
金剛は温和な笑みを浮かべながらそう応じると、ふと表情は崩さないままで何やら意を決したように口を開いた。
「ねっ、みらい。せっかくだから、今日はみらいともっとお話ししたいナ。もちろんゆっくりでいいし、無理はしなくていいカラ。もし何か話したくなったら、何でもいいから話してみてネ。ちゃんと、隣で聞いててあげるカラ」
その言葉に、みらいはまたしばし黙り込んだ。その目は、穏やかなままの金剛の顔を捉えようとはしない。メンタル的に傷ついてしまっている今、彼女は他人の顔を正視することに恐怖感すら覚えていたのだ。普段なら意識せずとも何の問題もなくこなせていたことが出来なくなってしまう、それは鬱病という病気の主要な症状でもある。
だが、今日のみらいは普段とは少し違っていた。ごくシンプルなフレーズさえも満足に出てこないここ最近の自分とは違い、今日は気持ち的にも落ち着いているせいかある程度きちんと会話が成り立っている。不器用であっても、言葉のキャッチボールが一応出来ているのだ。やがて、彼女は口を開いた。絞り出したのは、海軍を去ってからずっと胸に秘め続けてきた彼女の辛さや悔しさ、そして悲しみだった。
「私は船だった時も…、艦娘になってからも…、ずっと日本の為に頑張ってきたの。皆、私のことを必要としてくれてた。角松二佐も…、菊池少佐や尾栗少佐も…。だから頑張ってこれたの。皆認めてくれてたから…、『イージス艦みらい』としての私を」
黙ったまま真剣な表情で耳を傾ける2人に向かって、みらいは言葉をつなぎ続ける。頭は上手く回らないし、話し方もかつての彼女と比べれば足元にも及ばないほど拙いままだが、それでも必死に思いのたけを語ろうとするそのセリフには、どこか重みがあった。
「でも…、今はもう『イージス艦みらい』の私を…、必要としてくれる人なんていないの。今の私は、誰かが作った『長浦未来』でいなきゃいけないの。『長浦未来』は本当の私じゃないのに、それを演じなきゃいけないのは嫌なの。だから、海軍にずっと残っていたかったのに。私は『イージス艦みらい』として生きていたかったのに」
そこで初めて、みらいは2人の方に顔を向ける。その目には、また大粒の涙が浮かんでいた。自分でも気づかないうちに、その言葉は饒舌さを取り戻している。
「なのに、海軍は私のことなんか必要としてなかった。もうあそこに居場所なんてないの。『イージス艦みらい』としても、『長浦未来』としても、今の私はいらない子だったのよ…!!あれだけずっと頑張ってきたのに…、なんで…」
そこから先は一切言葉にならなかった。ずっと胸の内に秘め続けてきた思いのたけをぶちまけたみらいは、そのまま俯いて嗚咽を漏らし始める。やはり、彼女は今日も涙を流さずにはいられなかった。
ゆきなみは妹のその姿を、1年前に見た他の誰かと重ね合わせていた。高雄型重巡洋艦3番艦『摩耶』。実戦配備前の初任務として与えられた船団護衛の為、ともに艦隊を組んで満州へと渡ることになった彼女は、当初ゆきなみ型3姉妹を一方的に敵視していた。最終的には一転してあすかとも仲良くなった彼女が語ったその理由は、自らよりも性能で優るゆきなみ型に追い落とされかねないという危機感だったそうだ。
自分自身が秘める実力や国防への思いの強さは何ら変わらないのに、周囲の環境が変わったというだけで自分が勝ち取ってきた居場所を追い出される、という恐怖感。それはみらいが数か月前にまさに味わったものと同質だろう。違いがあるとすれば、1年前の摩耶にとってはその心配は杞憂に終わったけれど、みらいの場合は現実に起きてしまったという点だ。超えたくなかった一線を超えてしまった、その悔しさは計り知れない。
「そっか…。ずっと辛かったんだネ、みらい」
ふと、金剛が口を開く。ゆきなみとみらいが、同時に彼女の方に顔を向けた。
「私も、本当は海軍に残りたかったヨ。比叡も、榛名も、霧島も皆一緒。ゆきなみもあすかも、敢えて聞いたことはないけど多分そうだと思うナ」
その言葉に、ゆきなみは思わず苦笑いした。図星だ。やっぱりこのお姉さんはただのムードメーカーではない。皆が内心何を感じているかをちゃんと分かっている。伊達にこの11年、最初に艦娘がこの世に現れた時から生きてきてはいないのだ。それだけの時間が経っても、見た目も精神もずっと若々しいままだが。
「それでネ、こっちに来てみたらビックリしたノ。今はもう『戦艦金剛』じゃなくなった私を皆歓迎してくれて、雅恵おばさんもお客さんたちも大事にしてくれて。想像もしてなかったんだヨ。まさか、海軍を辞めても自分を必要としてくれる人がいたナンテ。それを知って、凄くHappyだったんダ、私」
金剛はそう言うと、また優しい笑みを浮かべてみせた。
「みらいも一緒だヨ。もし本当に誰からも必要とされてなかったら、雅恵おばさんだってみらいをこのお店には置いておかなかったんじゃないカナ。確かにここは海軍じゃないし、今の私たちはあの時とは違う場所にいるケド、それでも自分たちを必要としてくれてる誰かがいる。それは凄く幸せなことだと思うナ」
次の瞬間、みらいは驚いて声を失った。金剛が、自分の身体を正面から優しく抱きしめたのだ。それは、彼女にとってはまるで予想もしない行動だった。
「今は『長浦未来』のままでもいいじゃナイ。たとえ後付けで誰かが作ったものだとしても、それもまたみらいの一部。そして、それを必要としてくれている人がいるんだカラ。あなたは、『イージス艦みらい』だから大事にされてきたわけじゃナイ。あなたという存在が、かけがえのないものだからこそなんだヨ。名前なんて問題じゃナイ」
「金剛…」
涙でくしゃくしゃになった顔を向けるみらいに、金剛は笑顔のままあるセリフを投げかける。その言葉はみらいの心を蝕んできた闇に止めを刺し、彼女をそこから救い出す為の何よりの決定打となったのだった。
「あなたが『イージス艦みらい』であろうが、『長浦未来』であろうが、これからもずっと大切に思い続けてくれる人はいるヨ。そして、今ここに誰より強くそう思っている2人がいること、忘れないでネ」
「ううっ…、うわぁ…、ああああっ…!!」
ごめんなさい、そしてありがとう、金剛。私、頑張るから。もう挫けたりしないから。だから見守っていて、これからもずっと。涙腺が完全に決壊したみらいが、そのメッセージを言葉として伝えることは出来ない。だが、その思いはハッキリと伝わった。この世界で初めて得たかけがえのない友人の力により、みらいの心は再び絶望の淵から不死鳥のごとく蘇ったのだった。
艦娘はそのいずれもが個性的な性格の持ち主ばかりですが、基本的に皆いい子だと思ってます(もちろん、曙みたいに当たりが強く素直になれない子とかもいますし、二次創作だと腹黒キャラにされちゃう艦娘もいますがまぁそれはそれとして)。このシリーズでは、少なくとも艦娘サイドには根っからの悪人はいません。今回はその方針を体現するようなストーリーになったと思います。
実は、かくいう作者も昔とある事情で精神的に打ちのめされた経験があり、みらいの内面世界はある程度当時を思い起こしながら書いている部分もあります。結局自分は病院の世話になることもなく立ち直れましたが、当時の自分ははたから見るとかなり異様に見えてたらしいです。ちなみに、鬱病の人に対しては「頑張ってね」や「皆待ってるよ」は絶対禁句です。当人をさらに追い詰めるだけですので。もし身近に苦しんでいる方がおられる場合は、是非金剛やゆきなみ、あすかの対応をご参考にしてみてください。
次章ではまた大きな転機が訪れる予定です。戦闘艦艇を復活させた海軍による艦隊戦とかも描いてみたいなぁと思ってたり。今後もマイペースで思いの向くままにやっていきます。引き続きよろしくお願いします。それではまたお会いしましょう。