バイバイ、シナモンガール   作:グリム・グリルグリン・グリーングリップ

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03 シナモン・ガール

 

 

 

 ◇

 

 

 

 

 

 「藍碧」。そんな名前のバーだった。酒場の並んだ通りの奥の、裏道を進んだところにひっそりとある、ボーイも女の子もいない、カウンターだけの小さな店だ。

 

 客はいなかった。レコードが流れている。どこか懐かしい、聴き覚えのある曲だった。すぐには思い出せない。いらっしゃい。バーテンの男が、ちらと会釈した。三〇代の中頃といったところか。ベストではなく、ポロシャツ姿だった。

 

「グレンフィディックを、ロックで」

 

 凰玖(おうく)はスツールに腰を下ろすと、メニューも開かずに言った。シングルモルト。酒については、それほど詳しくはなかった。

 

 バーに来たのは二度目だ。花楓がある日突然バーを取材したいと言い始めた際に、同伴を求められ――居酒屋とはわけが違うのだから、未成年を誘うくらいなら担当者を誘えと言ったものの、聞き入れられず――なし崩し的に付き合ったことがあった。そのとき、バーテンが色々と講釈していたのを、横で聞いていたのだ。

 

 飲みに来たわけではなかった。だが、酒場で何も飲まないのは問題があるだろう。フルーティーな、飲みやすい酒ということは覚えていた。

 

 バーテンがバースプーンを回すのを眺めながら、店内を見回した。シンプルな内装。棚いっぱいに並べられたボトル。平凡な、個人経営の酒場にしか見えない。本当に此処で合っているのか。

 

 コースターに、グラスが置かれた。

 

「マスター」

 

「俺のこと、かな」

 

「あんたがこの店の主人なんだろう?」

 

「確かに、ここは俺の店ですがね。そういうお兄さんは、何の御用で?」

 

「酒を、飲みにね」

 

「そうは見えないんだがね。うちは若い人が進んで入ってくるような店じゃない。珍しい酒は、揃えてはいるが。酒好きって感じもしない。となると、うっかり入ってきたって場合もあるが、一目見て違うと分かった」

 

「そういうもんか」

 

「ちょっと、普通の気配じゃないね」

 

 見抜かれている。よく磨かれたグラスを、口に運んだ。二口目からはゆっくりと飲む。あまり、酒に強いほうでもないのだ。酔って、〈ゴールデン・スランバー〉を操れなくなる。そんな危険性もある。

 

「これでも人を見る目はあるほうでね。何か、用があってきた。違うかな」

 

「マスター。あんた、この店じゃ酒以外のものも扱っているらしいね」

 

「なんのことだい」

 

「調べてほしいことがある」

 

「さて、なんのことかな」

 

 自分は今、危険なことをしているのか。ふと考えた。闇。裏側。そう呼ばれる危険なところに、足を踏み入れようとしているのではないか。

 

「情報屋なんだろう」

 

 今さらのことだ。すぐに思い直した。売人を、不良たちを叩きのめした時点で、既に踏み込んでいる。自分から、望んで踏み込んだのだ。

 

「どうやってここを?」

 

「人に聞いて。頼んだら教えてくれたよ」

 

「ふむ。組織の人間って感じはしないな。俺たちについても詳しくはないようだ」

 

 男の瞳に、何か凰玖の警戒を刺激するような色が過ぎる。

 

 〈ゴールデン・スランバー〉。脳裏をかすめた。呼べば、すぐに現れる〈魔人〉の幽霊。一〇年前から見えるもの。凰玖の「敵」を倒す、凰玖そのものである力。

 

 呼ぶべきか。〈ゴールデン・スランバー〉の能力なら、抵抗する間もなく無力化できる。だが、それで訊きたいことを訊き出せるとは限らないのだ。場末の不良や売人とは違う、一癖もふた癖もある人間の心を「落とす」には、手間がかかる。一度の〈夢〉の時間内で、はたして落とせるのか。

 

 加えて〈微睡み〉を見せられるのは、二四時間に三回という制約もあった。それ以上使おうとすると、強烈な眩暈に襲われ、立つことすらままならなくなるのだ。使わなかったぶんを翌日に持ち越すことはできないし、どうして深夜零時を回ると再び使えるようになるのか、理由は分からないままだった。凰玖はこのことを、力を使ううえでの守らなければならない「ルール」なのだと、分からないなりに納得していたが。

 

 今は、売人から訊き出すために、一度使った状態でここに座っていた。残り二回。零時までまだ時間がある。今日訪ねるのは、早まった行動だったか。

 

「ああ、知らないね。あんたらのことなんか。でも、俺はここに来たよ」

 

 勝負。この場で訊き出せるのか。賭け、という言葉が頭に浮かんだ。跳ぶと決めてしまえば、あとは振り返らずに跳ぶだけなのだ。

 

 凰玖は、男から目を逸らさなかった。

 

「何が知りたいんだ」

 

 張りつめていたものが、鎮まるのを感じた。肌を刺激するような気配を放っていたのが嘘のように、男は微笑んでいる。

 

 曲が変わった。その曲にも、聴き覚えがあった。音質があまり良くなく、歌詞がはっきりと聞き取れないなかで、「エブリバディ・ノウズ・ディス・イズ・ノーウェア」という一節が不意に現れた。凰玖のなかで、合致する感触があった。このアルバムのタイトル。やはり、知っている曲だった。それも、ずっと昔に聞いたことがある。いつだったか、父親の部屋で。

 

「この曲」

 

 ――レコード。

 

 父が、趣味で集めていた。ふっと連鎖的に、記憶が蘇ってくる。ニール・ヤング。「シナモン・ガール」。さっき、「藍碧」に入ったときに流れていた曲だった。両親が死んだあと、真っ暗な部屋にこもって誰とも話さずに、差し入れされた食事にも手を付けず、ぶっ倒れるまで何日も聴き続けていたのだ。そのときのレコードの一つが、これだった。珍しいのかも分からない。アルバムの最初に収録されている曲だから、何一〇回と聞いていたのを覚えている。

 

「なんだって?」

 

「いや」

 

 思い出せたからといって、どうということもなかった。感傷に浸っているときではないのだ。

 

 凰玖は息を漏らすと、パッケージに手を伸ばした。男が灰皿を置き、ハイライトをくわえたところへ、マッチを差し出してくる。

 

「深山町一家殺人事件」

 

 煙を吐き、呟くように言った。

 

「犯人を捜してる」

 

「なるほどね」

 

 男はもう一つグラスを出すと、テーブルの下からボトルを出し、自分のへ注いだ。

 

「だが、そいつは警察の仕事だろう」

 

「捕まえるなら、そうだろうな」

 

「お兄さん、名前は?」

 

「名前、か。アガサ、なんてのはどうかな」

 

 前に花楓が連載していた小説に出てきた、男の名だ。なんとなく、気に入っていた。

 

「我々の業界にも、相場ってもんがある。社会奉仕じゃねえんだ、払えるのかな」

 

「情報は、あるのか」

 

「さてね。世間一般に公表されている以上のことが知りたいんだろう。となると、調べてみなくっちゃ、なんとも言えんね」

 

「金なら、払うよ」

 

 バイトで貯めた金。足りなければ、死んだ両親の遺産から出してもいい。

 

 額を訊いた。覚悟していたものの、ちょっと驚くほどの値段だった。安くはない。高校生に払える額ではない――ただの学生であれば、だが。

 

 犯人を見つけるための手段。他には思いつかなかった。これしかない、ピンポイントでベッドする。当たれば、一攫千金(はんにん)に手が届く。そう考えれば、高いとは思わなかった。

 

「そこも、意外だな」

 

「腕は確かなんだろうな」

 

「まあ、やってみようか。興味が湧いた。事件というより、阿笠(あがさ)、君にだがね」

 

 ハイライトを揉み消し、立ち上がった。

 

「明日、また来る」

 

 「藍碧」を出ると、雨は、まだ降ってはいなかった。星は見えない。ほんのりと火照った身体に、夜風が心地よかった。

 

 歩きながら、凰玖は鼻唄(メロディ)を歌っていた。「シナモン・ガール」。久しぶりだったが、やはり、忘れてはいなかった。

 

 

 

 

 

 ◇

 

 

 

 

 

 玄関を開けると、真っ暗闇だった。時計は二〇時を回っている。凰玖はリビングの照明をつけると、溜息を洩らしながらテーブルでパソコンを開いている女を睨んだ。

 

「電気くらい、暗くなったらつけろよ」

 

 男物の、ダブダブしたシャツを着ている花楓は、赤いフレームの眼鏡と共に下がっていた視線を上げ、「おかえり」と気だるげに手を挙げた。

 

「飯は」

 

「いただきましたー」

 

 コートを脱いで掛ける凰玖へ、椅子に胡坐で座りながら、だらけきった声で言う。眼鏡姿は何度も見せていたから、一瞥されるだけで、今さら何か言われることもなかった。

 

「風呂は?」

 

「まだ。あっ、凰玖、コーヒー入れてくんない?」

 

 望月花楓は、ブラウンのロングヘアに端正な顔立ち、グラマラスな身体つきもあって、スーツを着れば社長秘書に見えなくもない。だがその本性は凰玖の前にいる、あと数年で四〇の大台に乗るというのに、自活能力が壊滅的という残念な女だった。

 

 一〇年前に家族を失った凰玖を引き取り、高校の進学費用やマンション等の生活費を工面してくれていなければ、おそらく一生混じり合うこともなかっただろう。

 

「だって凰玖のコーヒーのほうが美味しいんだもん」

 

 手を洗ってから向かうと、待ち構えていたように花楓が猫撫で声で言った。

 

「何も言ってねえだろ。インスタントなんだから誰が入れようと一緒だ。というか、その口調やめろよ。歳を考えろって」

 

「歳のことは言うなっ、今は関係ないっ」

 

「いつまでも、俺がこうしていられるわけじゃないんだからさ」

 

「……えっ、なに、どういうこと」

 

 途端に、ひるんだような声を出す。

 

「なんでそんなこというの、急に」

 

「いや」

 

 普段なら、思っても言わないことを、なぜだか口走っていた。まさに、口を滑らせるといった感じで。花楓がどんな顔をしているのか。今は見えないが、想像はついた。

 

 手元のコップに少量の湯を注ぎ、先に粉末を溶かしてから、湯を注いだ。

 

「べつに、言ったみただけだ。そういうこともあるだろう、ってな。言われたくなければ、しっかりしてくれよ。人生、何が起こるかわかんねえんだし」

 

 背を向けたまま、砂糖とミルクを、三杯ずつ入れる。

 

「あと花楓。いい加減に、誰かいい人みつけろよ」

 

「やめてよ。そのことに関しては、聞く耳は持ちません」

 

「笹木さん、いろいろ言ってくるんだ。俺にさ。素材はいいし、モテるのにって。今を逃すと、ただでさえ行き遅れてるのに目も当てられなくなるって」

 

「だぁーっ、あのパツキン乳牛(ちちうし)女、私の凰玖になに吹き込んでやがるっ」

 

「いやあんたのじゃねえよ。あんなのでも、心配してくれてるんだろう。はい、コーヒー」

 

「うぅっ、ツッコミが冷たい。ありがと。でも騙されちゃだめよ、あの女はべつに私を心配してくれて言ってるわけじゃないんだから」

 

「皮肉だとしたら、言いたくなる気持ちも分からないじゃないけどな。あ、俺も言いたいことがあったんだ。花楓さ、自分の担当者からの電話くらい、ちゃんと出ろよ。ガキじゃあるまいし。おかげで俺のほうに掛けてくるんだぜ、俺は伝言係りじゃないっての。ええ、緑坂今(みどりざかこん)先生?」

 

 こんなナリではあるが、美人小説家と持て囃されたこともあったのだ。

 

「でもアイツ、ねちねちと説教してくるのよ。年下のくせに」

 

「歳は関係ないって言ったの、もう忘れたのかよ。それに」

 

 向こうのほうがあんたよりもずっと大人だ、とは思っても口に出さなかった。話がこじれるのが目に見えている。

 

「それに?」

 

「なんでもない」

 

 だが、一方でいい機会だとも思った。いずれ、このことは話しておかなければならないのだ。

 

「なあ花楓。けどさ、本当に、俺もいつまでもいるわけじゃないんだ。真面目な話だぜ。卒業したら、ここを出るつもりだし」

 

「ええーっ、なんで。初めて聞いたよ。いいじゃないべつに、仕事だって、ここから通えば。ずっと……」

 

「あんたの世話をしていろって?」

 

 皮肉っぽく告げると、口をつぐんだ。まるで繊細で傷つきやすい少女のような反応。いじめすぎたか。凰玖は、今度は、やさしく言った。

 

「あんたには世話になってる。感謝もしてるよ。俺がいるせいで、あんたにいつまでも迷惑を掛けていたくないんだ」

 

「いいのに」

 

「俺の問題だよ」

 

「私はどうなるのよ」

 

「だから、それをどうにかしてくれって言ってるんだろ」

 

 童顔も相まって、花楓は容姿だけならば二〇代の後半と言っても通じる。それに、身内びいきでなくとも美人だ。金もある。ただし、生活能力は笑えるくらい哀れな女だった。

 

 凰玖はダイニングキッチンの流し台に置かれた食器を、スポンジで手早く洗った。

 

「いま、こいつメンドクサイって思ったでしょ」

 

「まあな」

 

 いつものことだ。優しくし過ぎると、たまに調子に乗る。原稿が進んでいないときは、特にそうだ。

 

「傷つきましたっ」

 

 無視した。

 

「凰玖」

 

「なんだよ」

 

「訊いていい?」

 

「なにを」

 

 視線。

 

 窺うような――

 

「気のせいかも、しれないけどさ」

 

 空気が、微妙なものに変質した。心のどこかで、身構えるのを感じる。

 

 ぽつり、と花楓が言った。

 

「変わったよね」

 

「なにが?」

 

「あの、やなこと訊くけどさ」

 

「嫌なことなら訊くなよ」

 

 

「危険なこと、したりしてないよね?」

 

 

 手が止まった。何も、表情には出していないはずだ。

 

 苦笑しつつ、動きを再開した。ついこのあいだ似たようなことを言われた、と思いながら。

 

 水が、排水溝に呑まれてゆく。花楓のほうを向いた。白い喉が、上下に動くのが見えた。

 

「危険なことって、たとえば?」

 

 四分の一だけ血のつながった女。頼りがいのない保護者ではあるものの、訊く権利は、十分にあると思っていた。

 

 それでも、ひずみを直視し続けるくらいなら目を逸らす人間が多いように、彼女があえて薄氷を踏むような真似をするはずがないと、凰玖は長年接してきた経験から見抜いていた。

 

 緑坂今の小説の人物と違い、望月花楓は勘は鋭いが、内向きで臆病な性格であり、今だって表情は強張っている。それは訊いてしまえばどうなるのか、何が起こるのか、漠然とであってもなんとなく想像がついてしまうからだ。

 

「どうした?」

 

 だから凰玖は、微笑んで、やさしく問いかけるだけにした。

 

 花楓にとっては、やはり、それだけで十分だったはずだ。

 

「ううん。やっぱり、気のせいかな」

 

 かぶりを振り、白々しく笑った花楓。

 

 凰玖も、笑っていた。

 

「そうか」

 

 再び視線を落とす前、彼女の眼には、物憂げな光と、安堵の色が混在して見えた。

 

 気づかないふりをした。

 

「それじゃあ風呂、入れてくるから」

 

 水を切り、タオルで拭ってから、脱衣所へ向かった。

 

「あの」

 

 振り向かなかった。

 

「………うん」

 

 何も、言われなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 ◆

 

 

 

 

 

 

 

 夢を見ている。

 

 

 死体と、死臭と、がれきと炎でいっぱいになった海を、あるいている。

 

 

 どこを目指せばいいのか。父も、母も、妹も、みんなも。傍にはいなかった。名前を呼んでも、誰も答えてはくれない。

 

 ――「そっち、なの」

 

 筋骨隆々の、身体の半分下は煙みたいな幻のような男が、導くように前を進んでいた。

 

 ――「そっちに行けば、助かるの」

 

 歩き続けた。

 

 結果として、地獄を生き延びた。

 

 

 

 家族を置き去りにして。

 

 

 

 

 

 ◆

 

 

 

「あっ、こ、こんにちわ、凰玖くん。初めまして……じゃないんだけど、その、覚えてるかな。き、君のお父さんの妹の、花楓だよ」

 

 

 それから――

 

 

 

 ◆

 

 

 

 ある日のことだった。

 

 

「――ねえ、こんなところで一人でいて、つまらないでしょ? いっしょにあそぼう? わたしは、みやもりはなって言うの。あなたのお名まえは?」

 

 彼女と、出会った。

 

「そう。おうく、っていうのね。おうく、おうく……うーん、ちょっと言いづらいわ。そうだ、じゃあ、クー、ってよぶね。クーちゃん。かわいいでしょ!」

 

 彼女が、微笑んで手を差し伸べる。

 

「ねえクーちゃん。わたしと、お友だちになろう――?」

 

 そんなあの子に、救われたのだ。

 

 

 

 ◆

 

 

 

 

 

 

 

「は?」

 

 だから。

 

「刺された……?」

 

 凰玖は――

 

 

 

 ある一つのことを、決めたのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 




















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