バイバイ、シナモンガール 作:グリム・グリルグリン・グリーングリップ
◇
鎖のしなる音。
「訊きたいことがある」
人ならざる女が、
「なんでしょう」
吸血鬼。あるいはそれに準ずる化け物。人ならざる美しさの女の声は、やはり美しく、しかし起伏に欠けていた。
会話の意思がある。あるいは、慈悲のつもりなのか。
凰玖は自身の激しい鼓動を聞きながら、腕にしがみつく綾子のちからを感じ、浅く息を吐き出した。
「ちょっと、凰玖」
「深山町一家殺人事件。知ってるか」
「なんです?」
「お前も、関わっているのか」
情報屋が言っていた。この街で「何か」が起こっている。晴奈が殺された理由と、目の前の化け物は、その「何か」と関わりがあるのかもしれない。二つの事件を、不可解な犯行という共通点でのみ結びつけた、根拠に欠ける、推理でさえない、曖昧で突拍子のない発想だと――聞いたときの凰玖は思っていた。
だが明確な敵意を眼前にした今なら、この化け物ならば。もしかしたらあるかもしれない、と考えざるを得なくなっていた。そう思い知らされるような存在だった。常識から逸脱した「何か」。本当に「何か」、あるのなら。訊かなければならない。
「知りませんね。聞いたこともありません」
「そうか」
嘘か本当かは分からない。氷のような口元の女だ。それでも、嘘は言っていないように思えた。
「ねえ、凰玖ってば」
「追ってきたってことは、逃がす気はないってことか」
「ええ。目撃者を出してはならない、逃がしてもならない。それがルールですので」
「殺すのか」
鎖が、蛇がうねるように揺れて、威嚇するように金属の擦れた音を立てた。
沈黙。しかれども女は、わらったのだろうか。
「吸血鬼事件。あれは、お前だな」
「さて。答える必要はないと思いますが」
ここまでのところ、死亡者は出ていないとニュースで報じていた。意識が戻らない人間もいるそうだが。それで、今の凰玖たちが安心できるわけもなかった。
「凰玖。どういうこと」
「大丈夫だ」
思いのほか、混乱はしていなかった。綾子がいる。弱った彼女の存在が、凰玖の思考を冷静にさせている。冷静で在らなくては切り抜けられない状況だった。
――逃げられるか。
女は「武器」を持っている。つまり、戦えるということだろう。頑丈でもある。
こちらの「武器」は〈ゴールデン・スランバー〉。〈魔人〉の「幽霊」のみだ。人体を超えた破壊力は有る、目を合わせた相手を〈夢〉に落とす能力も。しかし凰玖から離して動かせるのはせいぜいが三メートル未満といったところだ。綾子を庇ったまま、戦えるのか。戦いになるのか。
「答えてよっ」
「―――」
迷いを抱えて跳ぶのは、危険だった。どこかで、躰を引っ張ることになるからだ。ましてや一人ではない。少しの遅れが、命取りになりかねない。
決める。ここで、肚を決めてしまう。今までと同じだ。そして、跳ぶ。あとは振り返らずに、前だけを見る。
「美綴。もう一度、飛ぶぞ。俺を信じるか?」
綾子は青ざめた顔を、一瞬泣きそうに歪めた。
「わかんないよ。だってあんた、ずっと、なんも言ってくれないじゃない」
「美綴」
化け物に襲われ、その化け物と平然と会話する凰玖に、ただでさえ心細さを感じていたのかもしれない。綾子は、ふっさりとした睫毛に暗い翳を落とし、様々な感情の乗った吐息を漏らすと、それでも気丈に笑みを浮かべ、ふるえながら、健気に頷いた。
「信じるよ。私はあんたを、信じてる」
凰玖は――
「行くぞ」
決めた。
「わっ」
腕に、脚に、力を込めた。巻き込んだのか、巻き込まれたのか。どちらでも同じことだった。ただ、心に決めた。
「行かせるとでも?」
横抱きにかかえ、走り出す。首に、しがみつくように回される腕。
「〈ゴールデン・スランバー〉」
金網がたわみ、背後から女が跳びかかってくるのを、「幽霊」の視界が捉えていた。
牙のように鋭い刃を両の手に握り、森の狩人の如く肉薄する。
綾子が悲鳴を上げ、ぎゅっと目を瞑った。
「これ、は」
刃が、身体に届くことはなかった。不可視の〈魔人〉が、振り下ろされた女の両腕を掴んでいたからだ。
〈魔人〉は、相手からは見えずとも威圧する微笑みを絶やさない。躊躇なく、顔面に
用意したのは凰玖が設計した「迷宮」ではない。対象者がかつて体験した「悪夢」を再現するというだけの、
思考を挟む間もなく、〈魔人〉は猛然と両腕を敵に叩き込んだ。衝撃を緩和できず、女は背後の金網に衝突した。その隙に、凰玖たちは内向きに反り返った金網の前に辿りついていた。
人がいれば、身体が一気に浮かび上がったように見えたことだろう。跳躍すると同時に、〈ゴールデン・スランバー〉が凰玖ごと押し上げ、あっという間に柵の上に登らせた。
見下ろす。高い。一五階建てくらいある。今さらながら、さっき自分はこの高さのビルを駆け上がったのか。
計画など無い、一心不乱の行動だった。今度は、逆だ。冷徹に耐え、見極めなければならない。〈ゴールデン・スランバー〉のタイミングを外せば、凰玖は死ぬ。
「覚悟は」
気配。
「まっ、待って。やっぱりっ」
〈眼〉を見張った。ありえないものが、見えていた。女が、身体を起こす。完全に想定外だった。動くのが早すぎる。今しがた「夢」に「落ちた」はずではないのか。
「何をした。お前は。私に、よくも、あのような――!」
鎖。それでも、飛ぶほうが速い。
飛び降りる――
しかし予想を裏切り、鎖は金網に絡みついた。足場が激しく揺れ、咄嗟に凰玖は踏ん張ってしまった。
二本目の鎖。届きかけた。〈魔人〉が弾く。突如、引き込まれた。〈魔人〉の腕を、獲物を捕らえる拘束具が縛っていた。
まずい。引き摺り下ろされる。女が、虚空に得物が巻き付いたのを、凄艶に笑った。金網を揺らしたほうの鎖が網を斬り裂きながら跳ね上がり、凰玖に迫った。体勢が、崩される。
あ――、とどちらが言ったのかは分からない。綾子の重さが、ふっ、と腕のなかから消えた。
「み、」
大きく口を開け、綾子が落ちていく。闇へ。〈ゴールデン・スランバー〉は動かない。「幽霊」が動けなければ、凰玖も逃げられないのだ。
動けよ。あと一秒、二秒、三秒後には、綾子は死んでいる。死なせるのだ。
綾子の、恐怖にゆがんだ顔。
――心に決めた。お前を、傷つけさせはしないと。
「
鎖のなかから、煙のように〈魔人〉が消えた。凰玖の躰を引き縛る怪力も。
跳んだ。
背後に出現した〈ゴールデン・スランバー〉が、凰玖を槍のように投げ飛ばした。
下へ。
風を裂き、手を伸ばした。重力に囚われた綾子。地面が見える。まだだ。〈魔人〉の腕を伸ばした。地面の黒。綾子も、手を伸ばした。三メートル。あと少し。
「凰玖!」
掴んだ。引き寄せ、抱きしめる。〈ゴールデン・スランバー〉。激突の間際にバネのように滑り込ませ、下方向への加重を横方向に押し流した。急激な転換に一瞬視界が暗くなり、余った勢いでよろめきながらも、しゃがみ込みたい欲求に耐えながら、腕のなかを見た。
「美綴」
無事だった。目尻には涙の乾いた痕がある。戦慄いていた。無理もない。喜怒哀楽が綯い交ぜになったような表情をしていた。
「死んじゃうかと思った」
「悪い」
脇道。人通りが無いのが幸いだった。
「あと少しで、あたし、このまま死んじゃうかもって」
「悪かった」
綾子は、凰玖を睨みつけるも、すぐに自己嫌悪にかられたように呟いた。震える声で。
「ごめん。助けてくれたのに」
「いや、まだだ」
〈ゴールデン・スランバー〉の〈眼〉には、ビルから落ちてくる女が映っていた。
「凰玖?」
強く、抱き寄せた。体温。吐息。死者とは違う、生きている人間の熱。今度は手放したりはしない。
「大丈夫だ。お前は、死なない」
「え?」
「守るよ、お前を」
約束する。――賭けてもいい。
「掴まれ」
地面を蹴った。
「……ズルいよ、そんなの」
そんなこと言われたら、信じるしかないじゃん。胸に押し付けた綾子の表情は、凰玖には見えなかった。しかし、彼女がしっかりとしがみつくのを感覚すると、一気に速度を上げた。
人目を逃れるために、民家の屋根を飛び移って走る。瓦を蹴りつける瞬間、〈魔人〉は射出台のように宙へと押し出すと、同時に凰玖を庇いながら、次の足場へと接地させ、目まぐるしく高速で射出を繰り返してゆく。
着地の瞬間、凰玖は〈魔人〉に身体を委ね切っていた。任せてしまうのだ。一度目はひやりとしたものの、理解してからはそうするほうが安全だった。〈魔人〉の動きは、凰玖の求めるイメージをそのままに再現している――凰玖自身の肉体以上に完璧に、微塵の誤差なく凰玖の要求に応えていると云っても過言ではなかった。まさしく、望月凰玖の分身であるかのように。だから凰玖に求められているのは、滞空時と着地時に、冷静を乱すことで姿勢を狂わせないことだけだった。そうしていれば、ミスは決して起こらない。とはいえこれは、凰玖だけの感想だ。
懸命に押し殺す悲鳴が、何度も聞こえた。
人が生身で出せる上限速度を軽々と飛び越えるような男に抱えられている。加えて一般道であれば、車両が走るのを躊躇うような速さだから尚更の恐怖だった。冷たい空気の壁は〈魔人〉が鎧となって防いでいるとはいえ、理屈のわからない綾子にとっては、安心できる要素はほほ皆無といっていい。
しかも――
「凰玖、あいつはっ」
「ああ。いる」
凰玖は己の目で前方を確認しながら、〈魔人〉の双眸で背後を目視した。
――追ってきている。
女もまた、難なく人外の速域に達しながら追ってきていた。
「どうするの」
「さあな。あいつに聞け」
「凰玖!」
「舌を噛みたくないのなら、今は口を閉じてろ」
どこへ逃げればいい。とにかく、人のいる場所だった。それしかない。この先をまっすぐ行けば繁華街がある。そこへ行けば、なんとかなるかもしれない。だが両者の距離は、数秒前よりも確実に近づいている。じきに、攻撃の手も届くようになる。
どこかのタイミングで、迎え撃つ必要があった。
――鎖の唸り声。
「きゃっ」
闇を奔る牙は、左右から二つ。聞こえていたし、見えてもいた。しかし〈魔人〉の両腕は埋まっている。
跳んだ。高く。そして滞空する。届く直前、凰玖は躊躇せず〈魔人〉に身体を手放させた。
吹き付ける風。この瞬間に凰玖は、完全に無防備になっていた。鎖が迫る。〈魔人〉は拳を、同時に叩きつけた。鎖は互いを巻き込みながら屋根を掻き削り、破片を撒き散らしながら遠ざかる。
滞空から着地へ。間際に〈魔人〉が支え、再び減速から加速へ。
心臓が鳴っていた。綾子に〈ゴールデン・スランバー〉が見えていれば、きっと絶叫しただろう。
鎖が、今度は凰玖をすり抜けて虚空を滑った。〈魔人〉で撃ち落とすには距離が有りすぎる。狙いはすぐに分かった。鎖は数一〇メートル先の屋根に食らい付くと、力ずくで屋根を縦に引き剥がしたのだ。薄目を開けていた綾子が声を上げた。背後では、病院のと思しき看板を鎖で引き抜いた女が、鞭のようにしならせて投擲するところだった。
舌打ち。屋根は、もう目の前だった。
跳躍。ならば一段と高く。
すかさず不意を突くように、屋根に絡みついていた鎖が、綾子の脚へと舌を伸ばした。
取らせない。危うく、弾き飛ばした。間髪入れずに看板による砲撃が来る。躱さずに、正面から殴りつけた。女に向かって飛んで行った看板は、地上へと蹴り返されて石垣を無残に破壊した。
繁華街の光が見える。しかし、辿り着くにはまだ遠い。一方で女との距離は見る〃々うちに縮まっていた。凰玖が回避しようと余計な滞空時間を増やすほどに、女はそのぶんを加速に費やせるためだ。不利なのは分かっていた。だからといって、打てる手はそう多くはない。
いっそ飛べたなら。数時間前には思いもしなかった〈魔人〉の用途が、凰玖の頭を過ぎった。自在に空へと逃げることができれば、障害を気にする必要もなくなる。だが現実は〈ゴールデン・スランバー〉にいくら掴まったところで、無限に空を飛び続けることはできない。常に浮遊しているように見えるこの奇妙な「幽霊」にも物理法則は適応されるらしく、空中で支えさせようとしても、自然と落下してしまうのだ。更に重力に逆らって物体を動かそうとするとき、〈魔人〉の膂力は明らかに減衰する。つまりは凰玖が
「――っ、」
耳が竦むような大音量。カー・アラームの絶叫が、けたたましく響き渡った。〈魔人〉の見た光景は、今度こそ凰玖の顔を盛大に引き攣らせることになった。
「な、なんなのっ?」
女は鎖に繋いだ車両を、質量兵器さながらに放り投げた。
急げ。喉元が窄まるのを感じながら、凰玖は命じていた。〈魔人〉は命令に忠実に動き、凰玖たちを力一杯投げ飛ばした。
躱した。
巨大な威容が、猛然な速度で消灯した民家を突き破り、粉々に押し潰した。
「凰玖っ――!?」
アラーム。アラーム。アラーム。
応える余裕などない。住宅街に警報音と破壊音が木霊する。跳んだ。次々と車両が、降ってきた。跳べ、もっと速く。目の前に、降ってきた。綾子の絶叫。恐怖にもがくのを抱きしめながら、凰玖は跳ぶしかなかった。止まれば、追いつかれる。跳びざまに、真正面の住宅にBMWが突き刺さった。大破した破片が、〈魔人〉を襲う。頬に、鋭い痛みが奔った。目のすぐ下。気にしている暇はなかった。此処が住宅街である以上、投擲物の補充は容易いのだ。
轟音。セダンが、前方の電柱に突き刺さった。激しくショートし、束ねられた電線がばら撒かれ、電柱が火を噴きながら倒れかかってくる。
――まずい。
避けようとしたのと同時に、凰玖は躰が冷たくなるような悪寒に襲われた。
滞空している。そこへ、車両が投擲される。投擲の狙いは、数を増すほどに正確になっていた。そして狙い澄ましたように、まっすぐ飛んでくる
叫んでいた。〈ゴールデン・スランバー〉。
〈魔人〉が、撃ち抜く。
だが。
視界に、ボンネットの黒。
衝撃が、来た。
HF二章のPVを見ていたらテンションが上がって気が付くと書き直していました。