バイバイ、シナモンガール 作:グリム・グリルグリン・グリーングリップ
闇。
闇のなかにいる。耳鳴りがした。揺さ振られている。遠くから、膜越しのように何かの音が聞こえる。それは、誰かの声だ。
闇が、色彩を帯び始める。声も、次第に聞こえるようになる。
「――っ――」
傍に、誰かがいた。しっかりしてよ、ねえ。ぼんやりとしていた影がかたちを結ぶと、その人に身体を揺さ振られていることが、おぼろげながらに知れた。
「――玖、大丈――」
泣きそうな声だった。不意に、晴奈の泣き顔が思い浮かんだ。どうして泣いているんだ。理由は分からなかった。そんな顔をするなよ。笑いかけてやりたかった。頭を、やさしく撫でてやりたかった。君がそうしてくれたように、俺も君を抱きしめてやればよかったのか。あの日。君と別れたあのとき。君は、わらっていた。涙を流しながら。バイバイ。そう言って、俺のことをわらっていたのかな。何もできない俺のことを。君を失って、こうすることしか選べなかった俺のことを。
「
視界が晴れてゆく。
闇。星空。そして美綴綾子が、何故だか覆い被さっていた。
「ねえっ、しっかり……」
凰玖は、地面に横たわっている。目の前には、今にも泣きそうに歪んだ綾子の顔があった。美綴。言葉にしようとして、息が上手くできないことに気づいた。泣くなよ、俺は大丈夫だから。心配するな。声に出そうとするも、首と胸に鋭い痛みが奔り、代わりに苦悶だけが漏れた。
「凰玖……っ」
頭が痛い。記憶が飛んでいる。何があった、
凰玖は、ほとんど覚えていなかった。投擲された車両。避けられない、と思った。〈魔人〉が殴りつける。しかし撥ね返せない。そうするや否や、咄嗟に車両を
目まぐるしく視界が回転し、砲弾のように凰玖は地上へと叩きつけられた。地表すれすれで〈魔人〉を割り込ませたが、衝撃を消しきることはできず、地面に突っ伏すようにして背中から転がりこんだのだった。
「無事か」
今度は、声に出せた。
「うん、凰玖が守ってくれたから。でも頭から、血が出て――」
アラーム音。
綾子の向こう側に、大きな黒い点が飛んでくるのが見えた。
「美綴」
躰が悲鳴を上げる。だが、〈ゴールデン・スランバー〉は動かせる。綾子を抱き寄せると、凰玖は無我夢中で路端へと跳び上がった。
直後、軽自動車が降ってきた。ファミリー・カーは顔面から激突すると、ヘッドライトやテールランプを粉々に撒き散らし、轟音をばら撒きながら着地した。衝撃でアラームが切れ、トランクが開け放たれると、辺りにはガラスが跳び散らかっていた。
今しがた凰玖が倒れていた場所だった。あと一歩遅ければ、二人とも轢肉になっていただろう。
「逃がさないと、言ったはずです」
声に、振り向いた。
綾子が息を呑んだ。身軽な靴音を鳴らして、女が、そこに立っていた。
紫の長髪をなびかせて。両目を眼帯で隠しつつも、はっとするような美貌であり、豊満でなまめかしいシルエットを強調するような黒の服を身にまといながらも、女の両手には鎖で繋いだ短刀が提げられている。
――追いつかれた。
人ではない。1tを越す車両を軽々と投擲するほどの膂力を持ち、人の血を吸う女が、普通の人間であるはずがない。
「化け物……」
綾子が憎々しげに呟いた。
「随分と手間取らせてくれました」
血が冷たくなるのを感じた。やれるのか、この状況で。呼吸は、あまり上手くない。骨は、罅くらいは入っているかもしれない。
関係なかった。そんなものは説明に過ぎない。一度やると決めた。どんなことになろうとも、必ずやり通すと決めた。成し遂げると。そして、彼女のことも。
「何のつもりですか」
綾子が立ち上がり、女を睨みつけた。まるで凰玖を守るかのように。何の武器も持たぬままに。
「よせ」
「殺させない。ぜったいに、あんたなんかに」
女が笑みをこぼした。
「可愛らしい少女。貴女のお名前は?」
綾子の脚は、微かに震えていた。「誰が、名乗るもんか。あんたなんかに!」
「それは残念です」
鎖が奔った。一瞬で綾子の腕を拘束すると、女へと手繰り寄せ、身動きができないよう縛り上げた。「美綴」動こうとした凰玖の脚を鎖がすくい、絡め取った瞬間、凰玖の身体は大破したリアバンパーに叩きつけられていた。
朦朧としかける。それでも、何とか意識を手繰り寄せる。〈ゴールデン・スランバー〉。呼び出せた。現れた〈魔人〉は、普段と変わらずに笑ったままだ。女は綾子の顔に触れ、何かを話し掛けていた。やはり変化には気づいていない。
奥の手。チャンスは、まだある。だが距離が遠かった。踏み込むしかない。呼吸を整える。指先に冷たいものを感じた。ガラスの破片。濡れていた。自分の血かと思ったが、違う。臭い。ガソリンが、タンクから漏れ出していた。
「いいでしょう。ならばこのまま、貴女の勇者が石になるのを見ていなさい」
逃げて、凰玖。縛られた綾子が声を張り上げる。女が近づいてきた。眼帯に片手を伸ばし――
外した、
「な――」
驚愕の声は、どちらから先に漏れたものか。
女の身体から瞬時に力が抜け、鎖が地面を強かに打った。
〈
その〈魔人〉の右腕が、青ではなく石灰色に染まっていた。盾として咄嗟に庇わせた部分は、万力で固定されたかのように、指先一つ動かせなくなっていた。まるで石になったかのように。そして石化は、右の掌を染め、肘にまで広がり始めていた。
「――貴様は――また――」
〈夢〉に落ちたはずの女が、絶叫した。
「――私に――姉様たちを――!」
凰玖は、それ以上考えるのを止めた。
踏み出す。一歩の距離。まだ足らない。もう一歩。前のめりになった。
射程圏内。
女の顔に、左腕を叩き込んだ。
仰向けに吹っ飛ぶ。
綾子が駆け寄ろうとした。女が、身体を起こすのが見えた。
「〈ゴールデン・スランバー〉」
黄金の双眸が、女の両目を射抜いていた。瞋恚に塗れた表情の女は、膝をついたまま、空を仰ぐような姿勢で硬直した。〈夢〉の中身を設計する暇はなかった。一度目と二度目は対象者の〈悪夢〉を追体験させるというものだった。だが三度目は違う。今の女は、女の人生のなかで
「――姉様――」
怒りも悲しみもなく、女はただ呆然と口を開けている。
その顔面に、ファミリー・カーが突き刺さった。
軽自動車は、女の無防備な肢体を重質量で轢き潰すと、直後に衝撃でガソリンへと引火し、爆炎と黒煙に包まれた。
「―――」
凰玖は。伏せるように地面に手をつきながら、喘ぐように息をした。右腕の感覚がなかった。そこだけ神経が通っていないかのようだ。痛みと疲労と得体の知れない気持ち悪さにそのまま眠りこみそうになりながらも、〈ゴールデン・スランバー〉で支えつつ、どうにか凰玖は立ち上がった。
車は、よく燃えていた。煙もよく上がっている。女は燃え盛る車の下だ。それとも、まだ〈夢〉を見ているのか。
奥の手は、もう使い切ってしまっている。〈魔人〉の石化は、右腕の付け根近くにまで及び、そこで止まっていた。
「凰玖……」
八〇〇キロはあるだろう物体を持ち上げ、投擲する。試したことはなかった。ほとんど賭けだった。それでも、〈魔人〉は片腕だけで期待に応えてくれた。
「なんなの、それ?」
「何がだ」
「
綾子の眼差しは、〈魔人〉に向いていた。凰玖は一瞬、何を言われているのかわからなかった。
「美綴……お前、
「見えてるって。わかんないよ、いきなりそこに現れたんだよ。今、急に」
〈魔人〉を動かす。強張らせている綾子の視線は、確かに「幽霊」を追っていた。
「―――■■―――」
車から音が聞こえて、凰玖は躰が硬くなるのを感じた。小さな音だった。しかしパーツの融ける音でも、ゴムチューブの弾ける音でも、酸素を貪る炎の歓喜でもない。〈魔人〉だからこそ聞き取ることのできた、虫のように小さい声だった。怨嗟の色に染まり尽くした、此の世ならざる者のおぞましい叫び声だった。
〈魔人〉の腕を見る。やはり、石化は解けていない。迷ったのは、一瞬だった。
「行くぞ。掴まれ」
「だめだよ。あんな無茶して、怪我してるのに」
「掠り傷だ」
「馬鹿じゃないの?」
「まだ死んでない」
「あんたねえっ」
「あの化け物は。まだ、死んでない」
「―――」
声を失った綾子を、抱き寄せた。表情は見ない。〈ゴールデン・スランバー〉。屋根に、跳び上がった。痛みはある。しかし、我慢できないほどではない。綾子も抵抗はしなかった。石化した右腕が近づくと避けるように身じろいだが、負担になるのを恐れてか、大人しくしている。
派手に破壊したのだ。人が来る前に、逃げる必要があった。そして何より、まだ死んでいないであろう女からも、逃げなくてはならなかった。
これからどうするのか。
繁華街の光。凰玖たちは、そこを目指して跳んだ。
◇
息苦しさに、目が覚めた。
柔らかいベッドに寝ている。躰は、泥のような倦怠に包まれていた。スプリングを軋ませながら、凰玖は喉の渇きを感じて身を起こすと、けばけばしい印象のある、見慣れない部屋を見回した。
駅の近くに建つ、幾つかのホテルのうちの一つ。使用可能な部屋を表示板から選び、顔のない窓口で前払いすれば、誰でも簡単に利用できるホテルだった。ベッドがキングサイズで、常にシーツが新品なのは、
綾子の姿はなかった。棚上に書置きがある。「買い物に出てきます」。娘らしい、小さく綺麗な文字で書かれたそれを手に取り、立ち上がろうとした瞬間、呻き声が漏れた。凰玖の右腕は、肩から下は棒のように固まっていて、ほとんど動かせなくなっている。
仕方なく左手のみを使って、格好を改めた。パンツは、傷は酷いが使えなくはなさそうだったものの、コートに至っては大きな穴が二つも開いている。それに、眼鏡。どこで落としたのか――心当たりが有りすぎた。化け物と遭遇し、化け物から逃亡し、傷だらけになりながらそのうえ眼鏡と帽子まで失くす。散々だな、まったく。他に探っていると、コートの内側に指が引っ掛かった。
ブルーのパッケージ。しわしわになりながらも、中身は無事だった。窓際に近づき、カーテンを少し開けた。冬の夜気が肌に冷たい。備え付けの灰皿を傍に置くと、凰玖は残り少なくなっていたハイライトをくわえた。少し手間取りながら、ジッポではなく、安物のライターで火をつける。
ゆっくりと、吸った。すぐに、貧血に似たような感覚が襲ってきた。しゃがみ込みたくなるのを耐えていると、峠を越したようにやがてそれも消えて、味が分かるようになる。
所詮は煙だ、美味いとは思わない。だが、不味いとも思わなかった。
――とんでもない日だったな、今日は。
一つや二つではない。わらえるくらい、考えるべきことが多過ぎた。
――どうしたものかな。
吸血鬼事件の犯人と思わしき化け物に、襲われた。奴に、目をつけられた可能性は高いだろう。再び襲われた場合、凰玖だけならば、逃げるくらいのことはできる。だが綾子には無理だ。狙われたとしたら、次はない。また間に合うとは限らないのだ。それを考慮すると、〈微睡み〉に落として記憶のゲシュタルトを崩すのは最後の手段にするべきだと凰玖は思っていた。
その綾子に〈ゴールデン・スランバー〉のことを知られたのは、止む負えないことだったが。吸血鬼と渡り合ったちからについて、彼女は必ず追及してくるだろう。何故〈魔人〉が見えるようになったのかは分からない。見えているのは、右腕だけなのか。詳しく訊く必要があった。恐らく、石化とも無関係ではない。
袖をまくった。〈魔人〉が鎖で縛られたほうの腕だ。うっすらと痕が残っていた。触ると、痺れのようなものが走った。「幽霊」の躰が怪我をすれば、
「〈ゴールデン・スランバー〉」
呼び出した「幽霊」を見た。改めて右腕を動かそうとしても、反応するのは右肩までだ。凰玖の右腕も、まったく同じ症状だった。
「厄介だな」
これまでも直感的に二つの相関性は理解していた。だが現状は深刻だ。凰玖の武器は〈ゴールデン・スランバー〉のみ。これが石化したままでは確実に悪影響が出る。そして石化がこれ以上進行しないという保証もないのだ。
「お前はいつでもわらっているよな」
もう一度、吸血鬼に会う必要があった。石化した原因は、間違いなくあの女なのだ。呪い――と表現するのが適当かどうかは定かではないが、これ――を解く方法は、掛けた張本人に訊くのが一番だろう。しかし、頼んだところで素直に解呪してくれるとは到底考えられなかった。そもそも、どうやって見つけるのかという問題もある。向こうが襲いに来るのをただ待つというだけではあまりにも後手であるし、あの化け物を相手にそれは避けるべきだった。
いっそ情報屋に調べさせるか。ニュースによれば、犯行は綾子を含めて複数にのぼっていると聞く。吸血鬼の活動範囲を絞り込み、次の犯行現場を予測するという、いわば探偵の真似事だが。冬木は広い街だ。保険程度に考えておくのなら、悪くない気がする。
――街中でばったり会えるのなら、それはそれでぞっとするな。
警察を利用する、という手もあった。綾子に被害者として警察に通報させる。証拠である吸血痕は、首筋に残ったままのはずだ。だがどこまで当てにできるのか。
ため息が出るくらいに、問題は山積していた。しかし視点を変えれば、対処すべき相手が見えてきたということでもあった。
二本目に火をつける。凰玖は、吸血鬼が喋っていた情報を覚えていた。「目撃者は消す」。「ルール」。二つの言葉を考え続けていると、凰玖のなかに一つの仮定が生まれていた。
――情報屋の言っていた、冬木で開催されている
一人ではないはずだ。吸血鬼以外にも、
憶測だった。いずれにしても、情報が少なすぎる。判断を急ぎ過ぎるのはよくない。
ただ、吸血鬼のような存在が複数いる可能性を考えると、凰玖は肚の底が冷たくなるのを感じた。
「あの女……」
吸血鬼。人外。恐るべきもの。〈ゴールデン・スランバー〉の全力を受けてなお、平然としているように見えた。
全力だったのだ。最初に殴り飛ばしたときも、その次のときも。手加減などしなかった。女の顔に拳を叩き込んだ瞬間、そして自動車を投げつけて爆破したあの瞬間、凰玖は確かにあの女を
「―――」
握っていた拳を、開いた。そうだな、そうだったな、と独りごちる。あのとき、自分は正真正銘
掌を広げては、握るのを繰り返す。血など、こびりついてはいない。だが、汚れている、と思った。いや、ずっと前から汚れていたのだ。一〇年前。家族を見捨て、ひとり生き残ったあのとき。
あの場で焼け死ぬか、体力の限り歩き続けるか。選択の余地はなかった。それでも、自分で望んだことだった。自分で、進んで、汚れたのだ。何も変わらない。今も、昔も。
わけもなく、わらいが込み上げてきた。不可解な感情の蠢き。ジリジリと肌を灼くような、苦痛と、かすかな快感が入り混じった、疼きにも似た昂揚。なんだ、この気持ちは。
たまらなくなった。初めてだった。何かが、破れかけている。まだ、耐えることはできていた。しかし、身をゆだねて、突き抜けてしまえば、どうなるのか。
抑え込んだ。その先を想像することを、許さなかった。我慢したところで、雪のように消えて無くなるわけではない。だが凰玖は、臓腑の底にそれを沈めた。
窓に、男が映っていた。男は、愉しそうにわらっていた。
自分の顔だった。
「凰玖……?」
扉の開く音がすると、綾子が立っていた。
ビニル袋を提げながら、何故か彼女が強張った顔をしているのがおかしくて、凰玖は口元をほころばせた。
「何を突っ立ってるんだ。さっさと入れよ」
◆
某所。
ビルヂング屋上にて。
「なによ、あれ」
夜空とネオンの輝きを一望していた少女が、愕然と言った。
「……凛」
傍には誰も姿もなかったが、少女の驚愕に答える声がある。
「なんなのよ、あれはっ。ちょっと、どういうこと!?」
「落ち着きたまえ。少しは冷静に――」
「なんで! な、ん、で、あの二人がサーヴァントに追われてるのよ! あれって、どう見ても綾子と望月くんじゃない! しかもありえない速さで逃げてたしっ。マスターなの? 魔術師なの? どういうことよっ」
「凛」
「あーもうっ、あったまきた! 行くわよ、アーチャー。なにがなんでもぜったい問い詰めてやるんだからっ」
「……やれやれ、まったく」
――闇は、なおも
パワーとスピードと精密性に性能を配分したスタンドであれば、初見に限ってなら、我が王の聖剣も白羽取りできるのではないかと思います。
フラグです。はい。