バイバイ、シナモンガール 作:グリム・グリルグリン・グリーングリップ
◆
並んで座っている。
夕暮れの公園に人影はなかった。いるのはベンチに腰を下ろして、イヤフォンを片耳ずつ付けている二人組のみ。学生服の晴奈と、
カセットテープに録音された曲が流れ出す。ドラムとマリンバのローテンポなイントロから、ヴォーカルである晴奈の伸び伸びとした歌声と共に、エレキギターが入ってくる。晴奈が脚を小刻みに動かしているのを横目に見ながら、凰玖は演奏に聞き入った。
「どうだった?」
そう訊く彼女の声は、少し緊張しているようだった。
シティ・ポップスな明るい曲調で、歌詞の内容もあまり感傷的過ぎていない。聞きやすい曲だった。だからといって、ただ明るいだけではないところに、凰玖はバンドのこだわりを感じていた。メディアなどでよく取り上げられているような、年々増え続けている悲恋ソングといったものよりも、ずっと聞いていたいと思える歌だ。
「これね、前に言ったと思うけど、東京でレコーディングしたときの曲なの」
「確か軽音部の一人が、向こうにスタジオを持ってるって話してたな」
「絢音の叔父さんが、だよ。でも、そう」
「どうだった、初めての東京は」
「楽しかったよ。それに凄かった。街全体が、迫力があるっていうか。とにかく圧倒される感じ。冬木ってやっぱり田舎なんだなあって思ったりしてね。それで」
「ああ」
「あのね、その、まだちゃんと決まったわけじゃないんだけど……絢音の叔父さんからね。売り出してみないかって言われたの」
「売り出す?」
「デビューしてみないか、って」
「それは」凰玖は、予想外な晴奈の告白に驚きつつも、なんとか言葉を捻り出した。「おめでとう、と言えばいいのかな」
「ありがと」
しかし晴奈の声は、どうしてか沈んでいた。
「何かあるのか」
「レコーディングが終わった後に、たまたまバンドの人たちと会ったんだ。珍しいガールズオンリーのバンドで、私たちが軽音部だってことを知ったら、演奏を見せてくれたの。プロの、ミュージシャンの人たちがね」
切ないような笑みを浮かべながら、晴奈は続けた。
「ぜんぜん違うんだ、やっぱりプロの人たちの演奏って。私たちよりも、ずっとずっと上手だった。才能も」
こんなとき、なんと声をかければいいのか。凰玖にはわからなかった。
「当たり前だよね、音楽でお金を稼いでいるんだから。でもそのときの私たちは感動しちゃってて、優衣が訊いちゃったの。どうしたらプロになれますかって」
「なんて言われたんだ」
「プロを名乗るのは簡単なことだって。だけど、そこから
「覚悟?」
「自分を信じ続ける覚悟。自分を削り続ける覚悟がないとダメだって。あの人たちは、もう五年も歌い続けてるのに、まだ無名のままなんだって言ってた。私たちよりもずっと努力してる人たちなのに」
「そうか」
「あれ以来、部活で話題に上がったのは一度だけ。あとはみんな黙ってる。返事は、ずっと待たせたままになってる」
「その叔父さんは、本気で言ったのかな」
「分からない。冗談だったのかも。あんがい聞き直したら、あれはお世辞だったんだって言われるかもね。そうしたら私たちは冗談も通じない、ただの冗談に悩み続けるだけの、世間知らずの田舎娘ってことになるのかな。でも私は、覚悟を問われても――」
晴奈は言葉を切ると、その先を言わなかった。少し、わらっただけだ。やはり、寂しげな顔をして。
「ごめんね」
「何が?」
「ううん。けど、ちょっと失敗しちゃったな。君に相談することじゃなかった」
「構わないよ。晴奈が話してくれて、それで気が楽になるのなら、いつだって俺は聞くよ。聞かせてほしいと思う」
「うん。知ってる。クーちゃんは、いつでも私の味方をするもんね」
「ああ」
独り言のように小さな声で、晴奈が何かを呟いた。凰玖には、それが聞き取れない。「何だ?」
「なんでもありませーん」
「晴奈は、プロになりたいのか?」
「……わかんないよ」
「俺から言えるのは、この曲は、とても好い曲だと思うってことだよ。技術的なことはどうこう言えないけど、それでも、俺はこの曲が好きだな。たぶん優香さんや、薫も同じことを言うんじゃないか」
「どうだろう。母さんはこのところ体調も悪いし、薫もサッカーの練習で、最近はあまり話してないから」
「話したくないのなら、俺は黙ってるよ。ただ、そういうことは、焦って決めるべきじゃないと思う。プロになるっていうのは、凄く大きなことだ。きちんと自分のなかで納得して答えを出さないと、あとで後悔すると思う。それとも、今すぐ答えが必要なのか?」
艶やかな黒髪が、左右に揺れた。
「進路を決める。だけど、それだけでこれからの一生が決まるわけじゃない。晴奈のこれからに答えを出せるのは、晴奈だけなんだ。それに俺たちは学生なんだぜ。悩める時間は、まだあるだろうさ」
「そうだね」
「俺は、晴奈がどんな答えを出しても、味方になる。力になるよ」
並んだ二つの影法師が、夕闇に溶けて、一つになろうとしている。
おずおずと、晴奈が言った。
「……クーちゃんの夢って、なに?」
「今言った」
「え」
「夢ってほどじゃないか。けど、まあ、そうあってほしいって願いでは、あるよ」
叶うのなら。
いつまでも、君のそばで。
「……ん。あれ、それって、もしかして」
「うん?」
「いや。ええと、その。――ううん。なんでも」
晴奈が笑う。さっきよりも、ちょっとだけ明るくなった表情をして。
「やっぱり、いいな」
「なにが?」
「笑った顔」
――その笑顔を、未来を。
奪ったやつがいる。
◇
「脱いで」
少女が言った。
「はやく、脱いで。その服」
美綴綾子は。部屋に入ってきてすぐ、そう切り出した。
何だというのか。意味が分からず問い返すも、綾子はビニル袋から取り出したものを次々とベッドに並べるだけだった。そしてタオルを濡らして戻ってくると、立ったままでいた凰玖をベッド脇に座らせて、凄むように言った。
「手当すんのよ。怪我してるんだから」
既に、やる気になっている。凰玖は仕方なく脱ごうとするものの、右腕が不自由なため手間取ってしまい、止むを得ず〈魔人〉を呼び出すことにした。
「わっ、それ!」
ぎょっとしたように、綾子が声を上げた。
「やっぱり見えてるんだな。腕だけか、見えてるのは?」
「腕だけだよ。なんで腕が浮いてんのよ……なんかムキムキだし……ダビデ像みたいな色してるし。当然、説明してくれるんでしょうね?」
「幽霊さ」
凰玖は〈魔人〉の左腕を使って血の滲んだシャツを脱ぎ捨てると、唖然としている綾子に背を向けた。強い視線。息を呑むような音。それから、タオルが押し当てられた。
「守護霊みたいなものかな。俺の願いを叶えてくれる」
「本気で言ってんの?」
「嘘はついてない。信じられないのなら、勝手にしろとしか、俺には言えないが」
「あんたは」
「俺も、よくは分かっちゃいないんだ。なあ聞けよ、美綴。俺に質問をぶつける前に、言っておかなくちゃならないことがある。お互いのために」
食い下がろうとする彼女に、凰玖は落ち着いた声色で続けた。
「俺にすべての状況を説明させたいと思ってるんだろうが、それは無理な相談だ。混乱してるのは分かるし、安心したいと思う気持ちも、理解できる。でも、俺はすべてを知ってるわけじゃない。むしろ、お前とほとんど変わらないんだ。悪いけどな」
綾子は、何も言い返さなかった。落胆したのだろうか。やがてタオルとは違う、冷たいものがそっと肌に触れてきた。消毒液。傷口に沁みた。タオル、そして塗り薬。指先の動き。凰玖は、じっと身を任せていた。
ガーゼが当てられる。テープの留める音がした。動きに淀みはなかった。どんな表情をしているのか、こちらからは見えない。
「美綴?」
「ひどい傷。
「何がだ」
「私を助けたから」
「よせよ」
「腕、動かないんでしょ」
やはり、誤魔化せそうになかった。
「まあな」
「私が」
「美綴。お前は、助けを求めてた。気付いたのは偶然だ。でも俺は、お前を助けられて、よかったと思ってるよ。だから、怒っちゃいない」
沈黙があった。
「……ありがとう、凰玖。助けてくれて」
「いいさ。礼なら、この手当だけで十分だ」
会話が途切れる。
「終わったよ。こっち向いて」
めん棒を取り出した綾子は、凰玖の頬に手を添えると、目の下の傷に消毒液を染み込ませていった。沁みるのに耐えていると、ようやく綾子は気を許したように笑みをこぼした。
「偉いね、凰玖は。ちゃんと我慢できて」
「子供に言ってるみたいだ」
「昔は、弟によくこうしてあげてたんだ。怪我ばっかする子でね。ピーピー泣いてたもんよ、お姉ちゃん痛いよーって」
綾子の指先は、やさしかった。
「おい」
気づくと、綾子の眦には涙が浮かんでいた。
「やだ、ごめん。だけど、急にほっとしちゃって……」
女の涙。どうしても思い出してしまう。慰めの一つも思い浮かばず、凰玖は目を逸らしていた。立ち上がり、服を着ようとしたところで、呼び止められる。
「待って、替えのシャツ買っておいたから。Lサイズで大丈夫だよね?」
洗面台に行き、凰玖は渡された新品に着替えた。鏡には、傷のある顔が映っている。血は止まっていた。少し、気まずげな顔だ。こういうときに、気休めの一つでも言えたなら。鏡を見ながら想像して、そんな自分には違和感しか覚えなかった。
隣室から戻ると、綾子は目元を腫らしながらも、落ち着いた様子で片づけていた。凰玖を見ると、少し照れたように笑う。
「なんか泣いてばかりだな、今日の私は。かなりレアなんだぞ」
「そうか。そりゃよかったよ」
苦笑される。逆に、気遣われているような気がして、内心で溜息をついた。
「冗談よ。――分かった。なら、知ってることだけ教えて。嘘はつかないで」
「何が知りたい」
「あの……灰色の腕は、あんたの
「そうだ」
呼び出す。〈ゴールデン・スランバー〉。本当に、見えていた。石化した腕だけだが。
「このちからで、私を守ってくれたんだ」
「ああ」
「そっか。クラスメイトが超能力者か。すっごい衝撃だわ」
陳腐な響きだった。超能力。確かに、便利な道具ではある。
「お前が襲われてたのも、衝撃だったな」
「だよね。驚かせちゃった?」
いたずらそうに笑う。
「かなりな」
無理をするな、とは言わなかった。余裕然と振る舞うことで、自らを奮い立たせている。もし口にすれば、綾子の何かを傷つける気がした。
「これからどうするの」
質問というよりは、確認に近かった。
「状況を整理しよう。俺たちは狙われてる。多分、これからも狙ってくるだろう。あいつの口ぶりからすると、俺たちは消されなくちゃならないらしいからな」
「そうだね。冬木にあんな、本物の都市伝説がいるだなんて思わなかったけど。狙ってくるってことは、よっぽどの理由よね」
「
「どうやって」
「情報を集める。闇雲に動いてどうにかなる相手じゃない。幸い伝手があるから、そっちを頼るつもりだ」
「もしかして、関係あるの? 凰玖が最近してることと」
「なんでそう思う?」
「変わったからだよ、あんたが。周りは気づいてないみたいだけど、私にはわかった。それに訊いてたじゃない、あいつに。一家殺人と関係してるのかって。どうなの?」
綾子が真っ直ぐに見ている。何故だか凰玖は、嘘を吐こうとは思わなかった。
「わからない。それを調べるのさ」
「私にできることは?」
「冬木から離れられるか」
「逃げろってこと。私だけ?」気丈に、睨みつけられる。「この街に、私の故郷に、化け物がいるのに。家族友達を見捨てて、私だけ逃げろって言うの?」
「狙われる可能性は減るだろう」
「もし本当に私の命を狙ってるなら、どこにいようが一緒だよ」
「もしそうだとしても、お前よりは、先に俺のほうを狙うだろうな。あいつは」
それだけは確実に言えた。あの化け物には、それだけの
「……離れたくないのなら、傍にいてもらうしかない」
「どういうこと」
「お前が化け物に襲われても、俺が傍にいれば、対処できるかもしれない」
分の悪い賭けだった。凰玖の分身である〈魔人〉は、凰玖同様に傷を負っている。片腕のハンデ。もう一度戦ったとき、どれだけ闘えるのかは分からない。万全の状態でさえ、ここまで追い詰められたのだ。
「それでいいの、凰玖は」
「どのみち、会わなきゃならないからな」
石化の呪いを解く。そして何より凰玖の目的に近づくためには、吸血鬼を避けては通れないだろう。
「まあ、こっちを狙って来たら、結果的にお前を巻き込むことになるかもしれないが。どのみち、面倒なことになると思う。それでもいいのか、本当に?」
決断をさせる。綾子の生死を左右するかもしれない決断だ。しかし綾子は、まるで最初から決めていたように、ほとんど悩むこともなく頷いた。
「わかった。任せるよ」
凰玖は彼女の即断に、少なからず安堵していることに気がつき、戸惑いを感じていた。自分から言い出したことだ。それでも本当に離れることを選んでいたなら、凰玖の胸の裡にはまた違った不安がくすぶり続けていたかもしれない。
俺の知らない場所で、死なれるよりは。そんな考えがふと浮かんで、凰玖は自分をわらいたくなった。感傷的に過ぎる。涙を見たせいか。
最後の一本をくわえた。火。喫っても、あまり気は紛れなかった。そんな凰玖の様子を、綾子がじっと見つめていた。
「他に、訊きたいことはあるか」
「煙草、喫うんだ。知らなかった」
「黙ってたからな」
「いつから喫ってるの?」
「さてね」
煙の味。もう、ずっと昔のことのようにも思える。
「やめなよ。毒にしかならないよ」
「知ってる」
だから吸っているのだという気もする。躰にいいものであれば、わざわざ吸おうなどとは考えもしなかったはずだ。
「百害あって一利なしよ」
その言い方がおかしくて、凰玖はちょっと笑ってしまった。馬鹿にされたと感じたのか、棘のある声で言われる。「なによ」なんでもない、と凰玖はかぶりを振った。
「母親のようなことを言うと思った。それだけだ」
「あんたのお母さんが知ったら、悲しむよ」
そうかもしれない。もし生きていたなら、妹と一緒に口うるさく言っただろう。
「なら、秘密にしておいてくれよ」
そろそろ、場所を移したほうがいいだろう。延長する意味もないのだ。
「凰玖。やっぱりさ」
綾子は、立ち上がろうとはせずに、透き通るような目を向けてきた。
「私にできることはない?」
「それを今、話したところだろう」
「そうじゃなくて。それだけじゃなくてさ。じゃあ、言い方を変えるね。私に、何かしてほしいことはない?」
真剣でありながら、どこか切々とした響きが込められていて、凰玖は微かにたじろいだ。
「言ってほしいの。私にできることがあるのなら」
「なにもない」
ベッドに腰を下ろし、言い聞かせるような口調になった。「何もしないでいい。協力してくれるだけで」
「それじゃあ私は助けられてるだけじゃない。足を引っ張ることになるっていうのは分かってる。でも私はっ」
弓術を遣う。薙刀も遣うのだと、いつだったか話していた。徒手空拳にも自信があり、かなりの腕前だと。それでも化け物を相手に、通用するとはとても思えない。
「お願いだよ。私は、あんたに命を助けられて、そのうえ守られるだけだなんて、そんなの耐えられない」
「だから、何でもするって?」
どこか、切迫し過ぎている気がした。何が彼女にそこまで言わせるのか。綾子の眼差し。不意に何かが、凰玖をざわつかせた。怒り、とは違う。だが、強く言ってしまいそうになる。傷つけるような言葉を。呑み込んでから、凰玖は鼻で笑った。
「躰でも払おうってか」
くだらない冗談だった。
「いいよ」
綾子の眼は、動かなかった。
「凰玖が、私のこと抱きたいのなら。いいよ」
くわえていた煙草から、シーツに灰が落ちた。固まった凰玖の手を取ると、綾子は自らの胸の膨らみへと押し当てた。
「抱いてよ。それで返せるのなら」
「やめろ」
振り払っていた。上手く言葉が出てこない。出てきたとしても、今は全部が酷いことをぶつけてしまいそうだった。
「二度と、言うんじゃねえ。そんなこと」
つまらないことを、思い出した。本当に、つまらないことを。だが、綾子が記憶の中の少女と重なって、凰玖は自分が抑えられなくなりそうになった。押し黙る。無理やり、裡に抑え込む。
床に、煙草が転がっていた。指先で拾うと、凰玖は二度、深く煙を吐いた。
「ごめん」
綾子が、俯いている。
「……疲れてるんだよ、お前は」
「そうかもね」
無理やり作ったような笑み。凰玖は、何かを言おうとした。
何も、思い浮かばなかった。