「戦車道」
それは、世界中で女子の嗜みとして親しまれ、90年を超えてなお続く伝統武芸のひとつ。事の始まりは1918年、中央同盟国側の敗戦で終わりを迎えた第一次世界大戦。敗戦国となったドイツは欧州の嫌われ者となり、ヴェルサイユ条約によって巨額の賠償金、そして領土と軍備に厳しい制約を掛けられることとなった。
時を同じくして、帝政ロシアでは共産革命が勃発、レーニン率いる赤軍共産党が政権を掌握。レーニンは「帝政時代に結ばれたあらゆる契約に義務を負わない」とし、対外責務もすべて踏み倒す通告をした。これに仰天した欧州各国はロシアの旧政権である白軍を支持、共産政権を倒そうとするも「赤いナポレオン」の二つ名を持つ英雄トハチェフスキー率いる赤軍の前に軍事的に敗れ去り、干渉は失敗に終わってしまう。
一方、同じように賠償金の対外責務に苦しめられてきたドイツは、この革命に対して新生ソビエトの態度を支持、自らもまた戦勝国が課した賠償金の支払いを拒否した。
大戦末期、ドイツの将軍たちは自軍の開発した強力な兵器、戦車の圧倒的な突破力を骨身にしみて味わっていた。しかし、ヴェルサイユ条約によってドイツは戦車の国内製造、及び輸入を一切禁じられており、そこでゼークトら将軍たちはソビエトと秘密協定を結び、西側の監視の及ばないソ連領内各地にドイツの武器製造・訓練施設を建設。ドイツは優秀な人材を続々とソ連へと送りひそかに軍備を進め、そこでソ連の士官たちも席を並べ、最新の研究を共に学んでいった。
ソ連内各所に建設されたドイツ戦車工場は、「ソビエト連邦に対する、農業への大規模な支援」を名目に民間の農業トラクター工場に偽装、地道にではあるものの、着々と軍備増強への道を進んでいった。しかし、各国がその動きに疑念を抱き、また、実際に戦車の運用教練を行う必要性に迫られるようになると、ドイツ軍部は「これは戦闘訓練ではなく、若者の健全で規律正しい育成を目指すスポーツ「戦車道」である」と説明、そのスポーツ性を強調するため、メンバーに女性や子供を積極的に起用、中でも中心になったのは十代の自由ドイツ青年団の少女たちであった。
こうして、今日における戦車道のレギュレーションの基礎は、この時に定まったのであった。
だが、未曾有の悲劇を生んだ第二次世界大戦終結後、占領ベルリンで対立したソ連と英米ら戦勝国は、互いの地上戦力を計るため、中隊規模で行われる戦車道を提案し、双方が了承。実弾で行われた試合は、互いの示威行為でもあり、全面対決の前哨戦の様相を呈していた。試合はフラッグ戦形式で行われ、出場者は懲罰が免除された。
しかし、戦後の一触即発の状況が過ぎると、アメリカは実際に死傷者が出る実弾による戦車道からは身を引き、イギリスもそれに倣うが、ソ連がこれを拒否、東西で互いに睨みを利かせあう冷戦が始まった。戦車道を続けたいソ連と、戦車道から身を引きたい英米。両者の平行線ともいえる議論に終止符を打ったのは、当時のとあるソ連士官の何気ない一言だった。「お互いにできないのなら、ほかの誰かを代役に立てればいいじゃないか」と。
そのソ連士官の提案に英米や、ほかに戦車道に参加していた各国もそれに同意。敗戦国で、貧困に喘いでいた日本に目をつけ、1952年に経済復興の案として戦車道を提案、各国が多額の支援と提携をもとに、それぞれひとつの国の
こうして、どこか歪んだままの体制で50年余り続けられてきた戦車道。そして、その50年余りの間に、本来の戦車道の意義を、世界中の誰もが見失っていった。スポーツから武芸へ、そして、武芸から国家間の威信をかけた
かつての戦車道の理念がどこへ消えたのか、なぜこうも歪んだ体制がまかり通ってしまっているのか、それはもう誰にも分らない。ただひとつだけわかっているのは、現状では誰が勝ったところで終わることはないだろう、ということだけであった。
次回より、原作のキャラクターも登場します。