世の中に たえて光のなかりせば 藤の心はのどけからまし 作:ひょっとこ斎
いつも行っている日本棋院に、お母さんと一緒に入る。
中に入ると、和谷くんが友達と話をしていた。
「お、藤崎。試験今日だっけ」
「こんにちは。うん、これから」
「和谷、知り合い?」
隣の、ちょっと年上の男の子が疑問を口にする。なんとなく見覚えはあるけど、初対面。見覚えがあるってことは、プロになった人だろう。
「ああ。森下先生の、姉弟子?」
「なんで疑問系なんだよ」
「年下だしなぁ」
「はじめまして。通るかどうか分からないけど、通ったらよろしくお願いします」
「ああ、よろしく。……和谷の友達とは思えないほど礼儀正しいな」
失敬な! とか言い合ってる。ふふ、和谷くん楽しそうだ。あ、前の子が終わったみたい。お母さんと一緒に呼ばれて、部屋に入る。
「はじめまして。どうぞ、そっちへ座って。志願書と棋譜を見せてください」
「はい」
用意しておいた書類を渡す。
棋譜は、和谷くんとの最近の対局のうち、一番よく打てた一局。それ以外は、ヒカルや佐為との棋譜を出すわけにもいかないので、冴木さんとの互先の一局、塔矢くんに負けた一局。
最初の塔矢くんに勝った時のは、あまりに塔矢くんがよそ事を考えていた時だったので、さすがに選べなかった。
だから、冴木さんも塔矢くんも負けた棋譜だけど、相手がプロだったり、塔矢先生の子どもだったりするし、しょうがない……よね?
よく考えたら、負ける相手って佐為と塔矢くんを除いて、みんなプロなんだよね。冴木さんには極稀に勝てるけど、基本的に負ける。勝てる相手は、和谷くんを除いてかなり弱い。近い実力の人って、本当に和谷くんくらい。そう考えると似た年代、似た実力の集まりっていう院生研修は大事な学び場ね。
「森下さんのお弟子さんなんだね。棋譜も……。うん、ちゃんとした棋風を持ってるね」
書類は合格の様子。先生は、お母さんの方へと顔を向ける。
「試験は小一時間かかるので、お母さんは外でお待ちいただけますか?」
「ええ、分かりました。あかり、喫茶店にでも行ってるから、終わったら声かけにきてね」
「うん、ありがと」
お母さんが出て行き、碁盤の前に座る。
「では、早速打とうか。置き石は2つで」
「はい。よろしくお願いします」
置き石を置いて、対局が始まる。
盤面のリードを守るだけに留めるか、ある程度攻めていくか。せっかくの試験だし、良いところを見せなきゃ意味がない。
勝ちを目指して貪欲に攻めたら、しばらくして手が止まる。
ちらりと目を向けると、手元の書類を確認している。
すぐに再開したけど、さらに少し打ったところで、また手を止めた。
「うん、森下先生に教わっているだけあって、十分に打てるね」
「あ、ありがとうございます」
「いいでしょう。来月から来なさい」
「はい! ありがとうございます。良かったー」
「ふふふ。では、お母さんを呼んできなさい」
「はーい」
うっかり気が抜けた発言が出ちゃったけど、先生は笑って流してくれた。なんでも、緊張して粗相する子も結構いるんだって。ヒカルが受ける前に、注意しておかないと……。
しばらく説明を受けて院生がたくさんいる対局室へ通される。対戦表の見方なんかを教えてもらいつつ、ちょっと和谷くんたちのところに向かう。
「藤崎、どうだった?」
「来月から来なさいって。これからよろしくね」
「おう。こいつらとの挨拶は、まあ今度でいいか」
「そう? じゃあ、来月からよろしくお願いします」
周りの人に、ぺこりと頭を下げる。女性も結構いるし、和谷くんと一緒に検討していた子に、とびきり美人がいた。凄い、こんな子も囲碁をやってるのね。
その場は特に話もせず、お母さんについて帰る。
「ごめんね、色々とお金かかっちゃって」
「んー? 大丈夫よ、気にしない気にしない。あかり強いみたいだし、これくらいはね」
逆行してからこっち、なるべくワガママを言わないようにしている。でもその中で、囲碁に関することと、ヒカルに関することだけは、かなり無茶を言っている自覚がある。プロになってお金を稼げたら、ちゃんと返すから、それまで待ってもらおう。
週明け、院生試験を通ったと部活で報告すると、皆から祝福の言葉をいただいた。
「ありがとう。次はみんなの番だね」
来週、いよいよ海王との大会がある。大将が三谷くん、副将がヒカル、三将が筒井さんという実力順で応募した。応募した時は三谷くんの方がはっきり上だったのに、今の勝率はヒカルにちょっと傾いている。
佐為とインターネット碁を打つのが楽しくて、のめり込んでるみたいだし、その効果かな?
「おう、任せとけ」
ガッツポーズを取るヒカルだけど、どうだろう。前世だと塔矢くんが来たんだよね。塔矢くんと当たれば、いくら強くなってるとはいえ、ヒカルじゃ相手にならない。
まあ、そんなこと言えるはずもないので、笑顔を向けて応援しておいた。応援する気持ちは嘘じゃないからね。うん。
そして大会当日。
以前の時と同様、やっぱり塔矢くんが、ヒカルの前に現れた。
「海王戦の副将ってどんな奴かな」
「僕だよ。海王の副将は僕だ、進藤」
「塔矢!」
びっくりするよね。その後、少し海王のメンバーや三谷くんたちも含めて話をしている。私は葉瀬中の部員だけど、大会に出るわけじゃないし、あまり話に入らない方がいいかな。
って思ってると、塔矢くんこっちに来ちゃった。
「藤崎さん。こんにちは」
「こんにちは。塔矢くん、ヒカルを追いかけて部活に入るって、結構無茶するよね」
「進藤が、僕とは対局しないっていうから」
真面目よね、塔矢くん。私が話しているのを見て、筒井さんと三谷くん、海王の人たちも驚いている。
あはは。塔矢くんって、あまり表に出てこないもんね。
「藤崎、塔矢と知り合い?」
「ちょっとね。塔矢先生の研究会に行ってるから」
ざわり、と海王のメンバーがざわつく。
「それで塔矢が進藤を追いかけてるってか。……進藤が強いとか、完全に勘違いなのにな」
三谷くんが、ぼそり。
あはは、と笑ってごまかす。前世ではヒカルが打ったけど、今日はどうだろう。もし佐為が打ったら、勝っちゃうだろう。そうすると、大騒ぎね。
1回戦は、順当に3勝で勝ち進む。ヒカルも気を引き締めているみたい。真面目な顔して、ちょっと緊張もしているのかな。
この顔を見る限り、ヒカルは自分で打つつもりなんだろう。
1回戦が終わったら、お昼の時間。お弁当作ってきたんだけど、ヒカル、食べるかな?
「ヒカル、お弁当あるよ。食べない?」
「俺、いいわ」
「えーっ。でも」
立ち上がって歩き出したから、後ろから付いていく。
「結構あっさり勝っただろ。結構腕上がってるよ、俺!」
「うん。かなり強くなってきてるよね。塔矢くんとの対局、頑張ってね」
「おう。いくら塔矢が佐為と打ちたがってても知るもんか。佐為、俺が打つからな」
ヒカルが、佐為に釘を刺している。
って、隠れるような感じでヒカルが柱の横に行ったけど、どうしたのかな?
きゅっと手を引かれて、私も柱の陰に隠れる。
「岸本くん、話って、ひょっとして、塔矢がイジメにあっていたこと?」
「塔矢は確かに部では浮いた存在だったが……」
内容が内容だけに、2人が会話を続けるのを聞き入っちゃった。確かにあれだけ強ければ、周りは気にするし、嫉妬する人も出るよね。
ヒカルはしばらく黙っていたけど、やがて歩き出す。階段のところで座り込む。私が横に座ると、ヒカルが小さくつぶやいた。
「イジメねぇ、まあ、当然かもな。あいつ自分のことしか考えてねーから」
「うーん。それだけ、塔矢くんも必死なんだろうね」
「……。普通そこまでしないよな」
しばらく考え込んだ結果。
「佐為、お前打て」
「ヒカル」
やっぱり。ヒカルってこういう時、意外と相手の気持ちを感じ取っちゃうのよね。
私は制止しようとしたけど、ヒカルの顔を見て、言葉に詰まる。辛そうな顔。ヒカルも凄く葛藤した上での言葉だろう。でも、それでも。言いたいことは言っておきたい。
「ヒカル、塔矢くんの気持ちも大事だし、佐為と打たせるのも大事だけど、ヒカル自身が塔矢くんと打てる機会も、滅多にないのよ。今は力が及ばないかもしれない。でも、どれくらい差があるのか、その見極めも凄く大事よ」
「ん……」
うなだれていたヒカルが、ふっと笑いを浮かべて私を見る。
「お前の言いたいことも分かるけどさ。せめてもうちょっと強くなってから塔矢と打つさ」
言っても無駄なようね、残念。
追い抜かれるのは悔しいんだけど、ヒカルが私より弱いままというのは、なんだか落ち着かない。ヒカルが強くなるためにも、こういう真剣勝負の場での上級者との対局は大事にしてほしいのよね。
でも言葉を選んでいるうちに、ヒカルは会場に戻ってしまった。ああ、何もフォローできてないよ。
私も会場に戻ると、筒井さんと三谷くんが打っていた。
「どこ行ってたの?」
「飯も食わずに、海王戦が戦えるのかよ」
言われるうちに、2回戦が始まった。
「始めてください」
「俺が白、進藤は黒で、筒井さんも白ね」
「お願いしま……す」
「やっと、君と対局できる」
塔矢くん、思いつめた顔でつぶやく。碁笥の蓋を開く時に落としちゃって、拾おうとして、手が震えている。武者震い。気迫がこっちにも伝わってきそうなくらい。
……前に私と打った時とは、大違いね。そこまでの相手がいるっていうのは、素直に羨ましい。
そして、ヒカルと塔矢くんの対局が始まった。
序盤から、慎重に打たれていく。序盤の展開ではヒカルの方が良さそうだけど、圧倒的な差はついていない。塔矢くんもさすがだけど、それ以上に、佐為がネット碁で覚えた最近の布石を試しているのが大きい。そのせいか、先が読みにくい打ち方はせず、それなりに基本に忠実な打ち方をしている。
序盤、ヒカルが少し長考している。おそらく佐為が、先の展開を読んでいるのだろう。右側の攻防でどちらを優先するか、といったところかな?
「……少しは成長しただろうか、僕は」
塔矢くんの言葉に、ヒカルがため息を吐く。そうよね。塔矢くんは元々強いのに、ますます遠い存在になっちゃう。
「君も変わった。打ち方が様になってきた」
「え、打ち方? ああ……」
毎日、放課後は部活で打って、夜は私や佐為と打ってるもんね。集中力も凄いし、そりゃ打ち方も変わるよ。それに、ヒカルも随分強くなったんだよ。
あれ、今までヒカルの目に気合いが込められてなかったけど、少し変わった?
「……ん?」
あ、思わず声が出ちゃった。ヒカルが打ったのは、11の八。こういう局面で打たれる場所じゃない。
塔矢くんも不思議そう。
しばらく打つと、ヒカルがなんとなく、中央に大きな模様を作ろうとしているのかな、と感じた。間が空きすぎて、凄く緩いけれど。実力がともなえば、凄く楽しそうな気がする。
そして、手が追いついていないから意味を成さなかったけど、さっきの11の八、今の左辺のやりとりで悪手を打たなければ、結構いい位置で塔矢くんの手をとがめられたんじゃないかな?
「……なんだ、これは」
塔矢くんがつぶやく。うん、反応に困るよね。前世の時はヒカルが怒鳴られたけど、その時より実力があるのは間違いない。だから、ヒカルの碁も、一応形になってる。でも生きるべき石は死んで、四方すべて形勢が悪い。塔矢くんには遠く及ばず、佐為と打つつもりだった塔矢くんとしては、困惑するだろう。
以前の碁が古かった、というのも、今の悩みに直結してそう。新しい打ち方を学んだ、それを色々と試しているという風にも見える。
「遊んでいるのか?」
「ん? 遊んでねえよ、本気で打ってる」
「ふ、ふざけるな!」
あー。もう。大会中に叫ぶとは、塔矢くんもまだまだ子どもね。
「塔矢くん、大会中よ」
「塔矢!」
海王中学の先生も、塔矢くんをたしなめに来た。
「最後まで打ちなさい。もしくは、中押し負けにするか? 言っただろう、打てば分かると」
ああ、1回戦の様子を、先生は見ていたのね。確かに塔矢くんが固執するような腕とは言えない。
でも、先生も塔矢くんも、ヒカルを馬鹿にしすぎている。どれだけ頑張っているかも知らないで。
「くそっ」
塔矢くん、知ってる? ヒカル、打つたびに強くなるの。特にネット碁をやった日の夜は、それが大きい。メンバー表を提出した時は三谷くんの方が強かったけど、一ヶ月もしないうちに、ヒカルの方が強くなってる。
私との実力差もまだまだ大きいけど、打っていてヒヤリとする回数、日に日に増しているの。
「……負けました」
そして、この盤面での投了。実力がないほど、目算もできないから投了が遅い。筒井さんに学んで、目算もかなり正確になってきた。
「以前の君に、垣間、神の一手すら見たと思ったのに……」
「……」
ヒカルは、何も言い返さない。内心、ショックを受けてるだろうな。
「ヒカル……お疲れ様」
「ん……」
横を見ると、筒井さんも負けた。三谷くんは頑張っているけど、はっきりと白が悪い。
「――正直な話、君がこんなに打てるとは思ってなかった。楽しかったよ」
「……まだ、終わってないだろ」
「おや、最後まで打つのか?」
うわー、嫌みっぽいー。三谷くんも、悔しいだろうなぁ。
筒井さんも、思わずといった風に、涙がこぼれている。
私、長年囲碁を打ってるけど、勝ち負けに対して、最近は意識が薄かったかもしれない。
森下先生や、そのお弟子さんには鍛えてもらうだけ。和谷くんに真剣に打ってもらうけど、だいたい勝つし。
塔矢くんとヒカルは、今は実力面で釣り合っていないけど、そのうち釣り合う。そして、ライバルとしてしのぎを削る。
私にとっての、ライバルって誰だろう。ヒカルを挟んでのライバルは、前世でヒカルと結婚した人だけど、いくらか年下の、ヒカルがプロになって何年か経ってから知り合ってる。私は今世でそこまで待つ気はないし、囲碁のライバルというのもおかしい。
いつか私にも、ライバルと言える人が現れるのかな……。