世の中に たえて光のなかりせば 藤の心はのどけからまし 作:ひょっとこ斎
家に帰って用事を済ませて、すぐにヒカルの家に向かった。
前世ではこんなにヒカルの家に行ってないし、行ったとしても相手をしてもらえなかっただろう。囲碁をやってて良かった。佐為に気付けたのも大きい。きっと、囲碁をやってるだけじゃ、佐為を隠そうとするヒカルからは逃げられただろうし。
今日は、私とヒカルが打つ日。打ちながら、雑談に興じる。
「え、事前に申し込みが必要?」
「うん。結構お金もかかるし、おばさんに相談しておかないと駄目だよ」
「面倒だなぁ」
「しょうがないよ。それとね、棋譜もいるから用意しておかないとね」
「キフゥ? なんだそれ?」
「え、棋譜知らない?」
うそ、説明したことなかったかな。……うん、あらたまって棋譜について説明してないかも。チラリと部屋の中をチェックしてみたけど、塔矢名人詰碁集とかあるだけで、囲碁雑誌や囲碁新聞は見当たらない。
「棋譜っていうのは、打った順番を記録していって、それを見ると打っている途中も含めて全部分かるようになっているの。何を考えて打った手かを考えるのに便利よ」
「へえ」
「いるのは試験の時だけど、今度持ってくるね」
「おう、ありがとな」
えへへ、ヒカルにお礼言われちゃった。
「ああ、それと長く借りてたけど、この碁盤、来週返すわ」
「えっ、そうなの?」
痛んできたから買い替えるとか?
「ああ。じいちゃんと打ってさ、足つきのを買ってもらえることになったんだよ。ちゃんと俺が打ったんだぜ」
「そうなんだ。おじいちゃんには勝てた?」
「おう、あっさりとは言わねえけど、なんとかな」
そっか、それは良かった。おじいちゃんも、ヒカルが真剣に囲碁をやるようになって嬉しいんじゃないかな。
「じゃあ、碁盤が届いた後に、持って帰るね。それと、週末塔矢くんと打つの、一緒に見ていていい?」
「ああ、別にいいけど」
「やった。ありがとう」
良かった。断られたらどうしようかと思ったのよね。
「って、ちょっと待て。なんであかりが知ってるんだ?」
「ああ、ごめん。説明してなかった。今日、囲碁のイベントって言ってたでしょ?」
「うん」
「そこに塔矢くんが来たの。インターネット碁の話になって、塔矢くんがインした時に、たまたま佐為と対局になったの。イベント会場だし、落ち着いて打てないってことで、塔矢くんが再戦をお願いしたっていうわけ」
「へぇ。偶然ってのもあるんだな」
「そうね」
前世でも、ヒカルというか、佐為と塔矢くんはインターネット碁を打ったのかな。私がイレギュラーになったバタフライ効果なのかどうか分からないけど、佐為と塔矢くんの対局は、間違いなく私とヒカルの勉強になる。絶対に見ておきたい。
海外勢からも注目されているとか、塔矢くんがプロ試験初日だとか、そういうのは言わない方がいいだろう。ヒカルも塔矢くんと打つリスクくらいは分かっているだろうし、何にでも口を出せばいいってものじゃないよね。
それはそうと……。
「ヒカル、強くなったよね」
「え、そう?」
まだまだ負けるとは言わないけど、相当腕を上げてる。無理な手が減っているだけでなく、こっちが地を荒らしにいくと、ちゃんととがめてくる。
ここ一ヶ月くらいの間に、どんどん強くなってる気がする。院生下位の子とそう変わらない手応え。
「お前が帰った後にも佐為と検討したり、佐為と打ったりしてんだぜ。ちょっと佐為が強すぎて腹立つけど、まあ、勉強にはなるよ」
「……羨ましい」
佐為と寝るまでずっと打てるとか、本当に羨ましい。
「休みの前日とかに、私も泊まりがけで打ってもらいたいな」
「えぇ、嫌だよ。眠いじゃん」
駄目かぁ。ヒカル、まだ恋愛とか興味ないんだね。本当に面倒そう。私が恋愛対象外ってだけならどうしよう。そうだったら、くじけそう……。
というか前世の時でも、中学時代はもちろんプロになってからも、かなり経っても恋愛沙汰に興味なさそうだった。だから油断してたというのもあるんだけど、今世では油断しない。
夜通し打つのは断られたけど、これまで通り夕方から打つのは問題ない。私にとって、とても大事なヒカルとの時間。佐為もいるけど。
そして週末。佐為と塔矢くんが打つ日。
ヒカルと一緒に、三谷くんのお姉さんがいるネットカフェに入る。二人で行くのにお金を払わないってわけにもいかないので、ヒカルと半分ずつ払う。
「うう、緊張してきた」
「なんでお前が緊張するんだよ」
関係ないけど関係あるというか。一昨日の塔矢先生の研究会でも、塔矢くんは相当ピリピリしていた。
私が塔矢くんに何か言えるわけもなく、事情を知っている緒方先生と顔を見合わせるのがせいぜいだった。きっと、緒方先生も今日の対局は観戦しているだろう。
そして時間になり、対局が始まる。
「佐為、普段の布石と違うね」
「最近よく見る布石を試したいんだってさ」
なるほど。確かに塔矢くん相手なら、メリットもデメリットも、分かるだろう。佐為もネット碁を始めて、私やヒカルとばかり打つよりも打ち方の幅が広がったのは間違いない。
練習手合いでは研究のために色々な打ち方をするけど、苦手な打ち方はたどたどしいもので、しっかりとした打ち筋にならない。ネット碁だと、私が苦手な打ち方を得意とする人もいるし、一柳先生くらいの人は滅多にいないにしろ、私より強い人はいくらでもいる。
話がずれたけど、塔矢くんとの対局は、勝負を急ぐかのように早々に塔矢くんが仕掛けた。でも佐為は慌てず躱す。しかも、無難に逃げるのではなく、塔矢くんの勇み足をとがめて、少ない石で相手の石を無駄にしている。塔矢くん、この攻防で数目は損をしている。
ただでさえ佐為を相手にするのは厳しいのに、こうなると無理をしてでも攻めるしかなくなる。辺での争いだけではなく、中央にも大きく地を作ろうとするも、あっさりと荒らされて、活路が消える。
「投了ね」
「ふう。佐為、どうだった? 塔矢は強くなってた?」
普段なら声を出さないんだろうけど、今は私がいるから、佐為への問いかけも口に出す。佐為の返答は聞こえないけど、ヒカルの気遣いが嬉しい。
「ふうん。……佐為、塔矢も強くなったけど、それ以上に自分や俺が強くなった、ってさ」
少し嬉しそうにヒカルが話す。確かに伸び率だと、ヒカルの方が塔矢くんより上ね。
「ヒカル、明日は棋院に行こうか。願書を出しておかないと」
「ああ、そうだった。めんどくせぇなぁ」
「まあまあ。そうだ、ついでに棋譜の書き方教えるよ」
いったん家に寄って棋譜を持ち、ヒカルの家に向かい、うんざりした顔のヒカルを宥めて説明する。
私が書いた棋譜と、無記入の棋譜を見せる。
「これが棋譜。どう打ったか、経過も分かるから面白いでしょ?」
「ふーん。3枚とも同じ相手でもいいのか?」
「どうかな、構わないとは思うけど」
「じゃあ、最近お前と打った奴書くよ」
うん、それでもいいんじゃないかな。……ん?
「ヒカル、全部覚えてるの?」
「大体覚えてるぜ」
「そうなんだ。でも必要なのは試験を受ける時だから、1枚は私との対局でいいと思うけど、残り時間があれば部活で三谷くんや加賀さんに打ってもらって書いた方がいいかもしれないね」
試しに1枚、私との対局を書くのを、横から覗く。コウの書き方を説明したりしつつ書き終わるのを見届けて、今日は対局はせず、佐為と塔矢くんの検討を行う。佐為がどういうつもりで打ったのかも聞けて、とてもためになる。中央付近に打たれた一手で、全方位の牽制を視野に入れるとか、ただごとではないよね。
翌日、ヒカルと一緒に棋院へと向かい、受付に提出する。
受付のおじさんが顔見知りだったので挨拶をかわす。
「藤崎さんのお友達?」
「はい。一緒に院生研修通えたらいいなって」
「そうかい、きみ、頑張ってね」
「ああ!」
元気よく返事したヒカルに微笑ましい顔を向ける。中学生って、まだまだ子どもだもんね。もう2年もすれば、あれだけ落ち着いて打つようになるなんて、今の姿からは想像もできない。
「試験日が来月のいつになるか、棋院から来るの。それまでにもいっぱい打って強くならなきゃね」
「ああ、そうだな。って、塔矢!?」
ガラッと棋院の入り口が開き、塔矢くんがやってきた。
「進藤!」
ビックリした。周りも何事かと目を向けてくる。
「塔矢! ビ、ビックリするじゃねーか!」
「と、塔矢くん。ヒカルも、ちょっと外に出よう」
「あ、ああ」
二人が同意して、まずは外に出る。通行の邪魔にならないよう道の端に寄ってから、私が塔矢くんに話しかける。
「塔矢くん、ヒカルがここに来てるの知ってたの?」
「碁会所のお客さんが進藤を見たって言っていて、つい」
少し冷静になったようで、棋院に入るなり叫んだのを恥じている。ヒカルも驚きから立ち直ったようで、警戒しつつ声をかけた。
「なんだよ、急に。なんか用?」
「インターネット碁をやったことは?」
「ねーよ」
「知ってはいるんだ」
塔矢くんが色々と探りを入れて、ヒカルは何とかごまかす。
それはいいんだけど。
「前に、一柳棋聖にも勝ったことがあるし、saiの正体が誰かと大さわぎだ」
「え、saiの正体?」
おっと、騒がしいことがヒカルにバレちゃった。これはよくない流れになりそう。
「まあ、大さわぎって言っても、ネット碁を打つ一部の人だけね。それより塔矢くん、何をしにきたの?」
「……もしかして、お前、俺かもしれないって思ったんだ?」
ヒカルが軽く煽って、塔矢くんはがっかりしてつぶやく。
「やっぱり、君じゃない……か」
「なんだよ、お前も俺じゃないとは思ったんだ?」
「そう、君のはずがない。悪かった、もう二度と、君の前には現れない」
いやぁ、それは無理だと思うよ。
塔矢くんがあまりにもヒカルを見ないから、余計だと分かってるけど、口を挟まずにはいられない。
「塔矢くん、ヒカルがどうして棋院にいるか、分かる?」
「え? そういえば……」
それどころじゃなかったって感じね。
「ヒカルね、来月、院生試験を受けるの」
「え、院生?」
「わ、悪いかよ」
あり得ないと言いたそうな顔。ヒカルもそれが分かったのか、不服そうに口を尖らせる。
「いや、悪くはないが……通らないだろう?」
「決めつけるなよ」
「明らかに駄目なら、私が止めるよ。でも私は、止めなかった」
言いたいことは分かるよね、と。
塔矢くんが、ヒカルの中の佐為を追いかけたように。
「ヒカルは塔矢くんを追いかけて、強くなろうとしてる。今はまだ及ばないけど、今年プロになる塔矢くんと、今年院生になるヒカル。この距離は確かに遠いけど、それは絶対的な差かな?」
塔矢くん、ごめんね。
佐為の存在含めて、情報量が違いすぎるからフェアじゃないのは分かってるけど、ヒカルが馬鹿にされて黙っていられない程度には、私も馬鹿なの。
ギリッと歯をかみしめて、塔矢くんが質問を投げかけてくる。
「……藤崎さんは、進藤が強くなると思ってるの?」
「さあ、どうかな。未来のことなんて、何も決まってないもん。ヒカル次第としか言えないよね」
前世と今は違う。少なくとも、私が違うせいでで完全一致はしないから、どうなるかなんて分からない。
でもヒカルは強くなると思うし、追い抜かれても、いつか追いつけるだけの下地を作るために、今も私は必死で頑張っているつもり。努力すればいいってものじゃないけど、かなり密度の濃い勉強ができていると思う。
「進藤、追いかけたければ、好きにすればいい。それなら、僕は君なんかには手の届かない、ずっと遠い場所まで行くよ。近付けさせやしない」
おぉ。熱い宣言。ヒカルは戸惑いつつも、しっかり言葉を返す。
「じゃあ、俺もそこまで行ってやるさ!」
うん、それでこそね。手の届かない遠い場所。タイトルの保持者と、その挑戦者。きっと、二人はその位置まで行く。私の存在なんか、二人の碁には関係ないだろう。
でも、だからと言って、諦める気はさらさらないの。最初はヒカルを追いかけるためだけだったけど、今では私にとっても、碁はとても大事な存在。誰にも負けたくない、いつか勝ちたい。たとえ、塔矢くんでも。
去って行く塔矢くんを見送りながら、私はヒカルの顔を覗き込む。
「ヒカル、帰ろう。帰って、佐為と一緒に勉強しなきゃね」
「ああ。院生試験くらい、軽く通ってやるさ」
「頑張って。塔矢くんに追いつくには、まず私は越えていかないと駄目よ」
「あかりにかぁ、なんだかんだ、お前も強いからなぁ」
「ふふふ。まだまだヒカルには負けないよ」
ヒカルが強くなる速度には負けるけど、私もヒカルが囲碁を始めた時から考えると、半年ちょっとで随分強くなった。まあ、考えたら森下先生の研究会だけじゃなく、塔矢先生の研究会に加えて、何よりかなりの頻度で佐為やヒカルと対局や検討をしている。佐為の指導は凄く大きいし、ヒカルと打つのは、何にも変えられない貴重な時間。
うん、強くなるわけだね。
「来月の院生試験で受かっても、1組の上位はまだしばらくプロ試験中だよ。どっちにしろ上位に入るまでは2組で対局が続くけど、それもいい勉強になるよ」
「ああ。でもすぐに1組になって、プロ試験とかもあっさりクリアしてやるさ」
「プロ試験は1年に1回だから、来年だけどね。私もそれまで、1組の上位目指して頑張るね」
思いがけない塔矢くんの登場だったけど、ヒカルの意識が高まったのは良いことだと思う。その点では、塔矢くんに感謝ね。