世の中に たえて光のなかりせば 藤の心はのどけからまし 作:ひょっとこ斎
10月に入り、ヒカルが院生として通う日がやってきた。日曜、ヒカルの家に行く。
「おはよう、ヒカル」
「おう。まだちょっと早いか?」
「いいんじゃないかな。早めに行こう」
おばさんに挨拶をして、ヒカルの家を出る。雑談をしながら駅まで歩く、幸せな時間。
「そういえば、佐為ってネット碁続けてるんだよね?」
「あー、さわぎになってるって言ってたけど、俺だって気付きそうなの塔矢くらいじゃん。やっぱり佐為が打てる場所は他にないし、何とかなるかと思ってさ」
「うん、そうだよね。前にも言ったけど、チャットとかしなければ多分大丈夫。気を付けるとすれば、ネット碁そのものより、ヒカルの方ね」
「俺?」
「佐為の話題で盛り上がった時に、何か言っちゃったり、不自然に黙ったり?」
特に和谷くんの前では要注意。ずっと佐為の碁をチェックしてるもんなぁ。暇でもないだろうに……。
「ああ、大丈夫だって。俺がそんなミス、するわけねぇじゃん」
「そうかなぁ。気をつけてよ」
大丈夫大丈夫と、あっけらかんとしている。ホントかな。
「そういや、またichiryuと打ったぜ。佐為はこれまででトップクラスに強いって。他に、他の国の人でも強いのと対局してるし」
「一柳先生と? いいな、私も打ってみたい」
「あかりはネット碁しねえよな」
「いつか、パソコンを買えたらやろうと思ってるの。外だと時間の都合も難しいし」
週のうち、森下先生と塔矢先生の研究会、院生研修、囲碁部に顔出しすると、だいたい日が埋まる。外でネット碁を打つ機会って、本当に難しい。
ヒカルは気楽に強いのとばかり対局できたらいいのになって言うけど、昇段制やレート方式になったら、それこそ無敗のsaiは誰だって大騒ぎになる。
「強さが細かな数値に出ないから紛れてるってのもあるし、ある程度はしょうがないよ」
「そんなもんなのかな。それと佐為は、強いだけが全てじゃないって。拙いからこその面白い手もあるから、今のままでいいってよ」
なるほど。そういうものかな。ちょっとその境地は分からない。
棋院に着いて対局部屋に入る。いつもと違ってヒカルと一緒だから、少しだけ緊張する。普段通り、普段通り。
ちらほら人がいたので、仲の良い人と挨拶をして座った。ヒカルは周りを眺めている。
「おはよう。そっちの人は友人?」
「内田さん、おはよう。うん、幼なじみの進藤ヒカル」
「お、おはよう。今日からよろしく」
「よろしく。藤崎さんの友人なら、凄く強いの?」
「え? いや、そんなことねえよ」
話しかけてもらえて助かった。話していると、周りに少し集まってくる。そのまま雑談していると、キノコカットの男の子が入ってきた。
そしてそのまま、臆した様子もなく空いている席に座る。別に話しかけるなって雰囲気でもないので、ちょっと近付く。
「おはよう。今日からよろしくね」
「……おはよう。こちらこそ」
もう。せっかく挨拶したのに、愛想ないなぁ。まあいいか。
そうやって時間を潰すうちに、篠田先生がやってきた。
対局のために割り振られた席に座り、先生がヒカルともう1人、越智くんという男の子を紹介する。
今日の対局相手は、1組だけどプロ試験の予選で落ちた男の子。もちろん油断はできないけど、きちんと打てたら、負ける相手ではない。
しばらく打っていると越智くんが終わったようで、ヒカルの盤面を見たり、他の盤面を見たりしつつ、こっちに向かってきた。
私の盤面を見て、足を止める。盤面が進んでも立ち去る気配はないので、腰を据えて見るみたい。
「……ありません」
「ありがとうございました」
相手が諦めて、中押し勝ち。左側に地を作りたかったみたいだけど、左辺で上下を分断したから、生きている部分が激減してしまったのが決め手になった。
「ねえ、君が院生トップ?」
越智くんが私に聞いてきたので、小さく首をかしげた。
「みんなプロ試験中だから、この場ではトップだと思う。1組に上がる前にプロ試験が始まっちゃったから、1組の上位とは対局してないの。伊角さんって人が試験始まる前の1位だよ」
「ふーん」
それはそうと、ヒカルはどうだったのかな。見たら終わって検討しているみたいだったので、越智くんを置いてそっちに近づく。
遠目で見た感じだけど悔しそうだし、負けたんだろうな。
「ヒカル、どうだった?」
「……3目半差で負け」
結構惜しい。篠田先生の検討に混ざる。盤面を見る感じ、これという悪手はないけど、地に辛い窮屈な打ち方になってる気がする。初めてで緊張したのかな。
「ちょっとの差だね。1日に4戦するし、焦らず頑張ろう」
「ああ、でも、次は勝つさ」
「落ち着いて打とうね」
技術面では、佐為に敵う人はいない。篠田先生ですら、佐為なら圧倒できるはず。
ここで学ぶのは技術ではなく、同程度の実力者を相手の立ち回りだね。そういう意味では、私も早く伊角さんたち上位陣と戦ってみたい。
今月いっぱいはプロ試験でいないし、伊角さんが受かったら、打つ機会はなくなる。
午前中のもう1戦、午後からの2戦ともに、ヒカルは白星を上げられなかった。
「ヒカル、今日の対局内容、後で検討しよう。対局相手の棋風も分かってるから、私でなきゃ言えないこともあると思うし」
「ああ、頼むわ」
ヒカルが囲碁を覚えて強くなるにつれ、私もかなり強くなっている。ヒカルを見ていると、手を抜けないというか、一緒に上がってる感じ。
それはそうと、さっきは和谷くんがからかってきたけど、今は誰も茶化さない。
少しだけピリッとした空気が流れる。普段ずっと練習とかしていて、逆行してからは公式の大会とか出たことないけど、こういう緊張感も、たまにはいいよね。
「じゃあ、また。みんな、残りのプロ試験も頑張ってね」
それぞれ挨拶をかわして、帰路につく。
家に帰らず、直接ヒカルの家に行く。
「ヒカル、今日はどうだった?」
「もうちょっとな対局もあったんだぜ。結果は全敗だけどさ」
「うん。ヒカル、ずっと佐為と打ってるのはいいんだけど、同格の相手と打つのも勉強になるよ。必要な技術が変わってくるというか」
いかに序盤で有利に立って、そのリードを守れるか。格上と打っていると技術は身につくけど、1目差を争うような細かな勝負は発生しない。
「検討しようか。一手ずつ確認していこう」
「ああ」
ヒカルが対局を並べて、気になるところを確認していく。私が気付かなかったところも、佐為がきちんと指摘する。
佐為が指摘してくれる時は、私はあまり必要ない。それでも、時々意見を口にする。
「なるほどな。じゃあ、こういう手は?」
「うーん。左辺のやりとりだと意味はないかな」
「……佐為も、こっちのノビの方がいいって」
ヒカルと一緒に勉強するようになって一年足らず。院生になっても、こうやって打ってくれている。私が帰った後は、佐為と打っているらしいけど、そのうち忙しくなると、打つ回数は減りそう。
ちゃんと先を見据えて、布石は分厚く用意しておこう。
ヒカルの家から帰る時、おばさんといつものように話をする。ヒカルは玄関まで来てくれる時もあるけど、佐為と打ち始めるとおざなりだ。
「ごめんね、ヒカルったら、見送りにも来ないで」
「ううん。それより、毎日遅くまでお邪魔しちゃってごめんなさい」
「いいのよ。ヒカルがあれだけ碁にハマるとは思わなかったけど、あかりちゃんが詳しくて助かったわ。おじいちゃんも、碁は打つけど、業界については詳しくないみたいで」
困った、と顔に出すおばさん。おばさんに頼られるようになるのは、絶対良い方に天秤が傾くはず。
「あはは、週刊碁とか買うか、ネットで情報収集でもしないと難しいよね」
「そうなのよね」
「プロになったら一人暮らしするようになる人も多いし、私もヒカルも、もっと色々と自分で出来るようにならないと駄目なんだけどね」
「あら、お母さんから聞いてるわよ。料理もできるって」
「最低限の料理はできる、かな?」
「いいわねぇ、女の子は」
「ヒカルが一人暮らしするようになったら、料理くらいは作りに行ってあげようかな」
「ぜひそうしてちょうだい。放っておくと、何も食べずに部屋に籠もるんだから」
おばさんとそんな会話を楽しんで、家を出る。料理については、前世でお母さんから教えてもらっていたし、逆行してからも、小学生の時はお手伝いしていた。最初は手が小さくて、包丁を使うのもおっかなびっくりだったけど。
「ただいまー」
「おかえり。晩ご飯できてるわよ」
はーい、と返事をして、洗面所に向かう。手洗い、うがいを済ませて、部屋着に着替えてから食卓に向かう。
せっかくおばさんとああいう話をしたし、持ちかけてみよう。お姉ちゃんもいるし、ヒカルとの仲は応援してくれているからうまく後押ししてくれる、はず。
「お母さん、今日、おばさんと話していたんだけどね。プロになったら、一人暮らししていいかなぁ?」
「……駄目とは言わないけど、大人になったらね」
「プロになったら、大人じゃない?」
「中学生でプロになったとしても、大人とは言いません」
「中学生でプロになれるとは思ってないけど。20になってなくても、プロになったら構わないよね?」
「お母さんが良いと言っても、お父さんが駄目っていったら駄目」
むう、手強い。
「じゃあ、ヒカルくんと一緒に住んだら? 一人暮らしじゃなければいいんでしょ」
さすがお姉ちゃん。的確なフォロー。後で秘蔵のチョコを持って、部屋に行こうかな。
「お母さんはいいけど、お父さんが余計に反対しそうね……」
「ああ……」
お母さんの言葉に、お姉ちゃんも同意する。うーん、行き遅れるよりはいいし、お父さんの意見は無視しちゃっていいと思うんだけどな。
「お父さんはともかく、お母さんはOKくれる?」
「状況次第ね。極端な話、囲碁のために一人暮らしや同棲したいっていうなら賛成だけど、同棲したいから囲碁をダシにするっていうなら反対」
「それなら大丈夫。囲碁が目的だから。ヒカル、今は囲碁しか見えてないし」
ヒカルと親密な関係になるのは、それこそ成人してからでも遅くない。
「でも急にどうしたの。今までそんな話、あまりしてなかったのに」
「今日から院生研修にヒカルが来るようになったの。そしたら一気に世界が広がるから」
周りにも女の子が増える。学校だと誰も囲碁を打たないし、心配する必要なんてない。でも、院生の子はみんな、プロを目指して頑張っている。ふとした拍子に惹かれてもおかしくない。
「そっかそっか。あかり、しっかり見張っておきなよ」
「見張るって、それは窮屈で邪魔くさいと思われるよ」
そのあたりの見極めは難しい。ヒカルは奔放な性格だけど、その分束縛を嫌う。ヒカルが好き勝手に動いて、その後を付いていくというのは、私の性格にも合ってる。前世では、付いていくだけの棋力が無かったけど、今は違う。どこまでも付いていくって決めたんだ。
そんな私の決意とは打って変わって、ヒカルが悩んでしまっている。
2回目の院生研修でも、ヒカルは勝ちを掴めなかった。ため息をついているヒカルと一緒に棋院を出ようとすると、緒方さんが立ち話をしていた。
「おや、藤崎。院生研修か?」
「緒方さん、こんにちは」
「こ、こんにちは」
ぼんやりしていたのでヒカルを肘でつついて、挨拶をうながす。
緒方さんは当然ヒカルを覚えていて、フッと笑みをこぼす。
「進藤、お前も院生になったんだな。どうだ、結果は?」
「うーん、いまいち、かな」
「まあ、せいぜい頑張れよ。そうだ、アキラくんは今日も勝って、プロ試験合格を決めたぜ」
え? もう?
確実とは思っていたけど、まだ5戦も残して、もう決めちゃったんだ。ヒカルがそのまま疑問を口にする。
「あれ? プロ試験って今月末あたりまであるんじゃ?」
「残り全部負けても、今の4位には抜かれないそうだ。……直接聞いてなかったし、あらためて聞くが、お前も塔矢名人の研究会に来るか?」
そっか、前とは少し違う。少なくとも今は院生になってるし、棋力は測れるだろう。
「行かねーよ。俺は塔矢と一緒に勉強したいんじゃないんだ」
「くくく、そうか。じゃあ、きみとアキラくんの対局を待つとするかな」
緒方さんと話をしていた天野さんに軽く会釈をして、ヒカルと一緒に棋院を出た。
「塔矢のやつ、あっさりプロになっちまいやがった」
「うん。プロ試験を受ける子の中じゃ、頭ひとつ抜けていると思う」
というか、プロにも色々といるけど、塔矢くんは勝てるプロになると思う。
さすがにずっと負けなしとはいかないけど、きっと低段者には敵なしだよね。
「俺も、こんなところでつまづいてる場合じゃねえよな」
うーん。でも、だからといって簡単に勝てるようになるなら、苦労はないんだよね。
「帰って、検討しよう。何か見えてくるかもしれないし」
急いで帰って、早速検討を始める。
「待って、この石の意図は?」
明らかにおかしな手。まるまる一手損になりそう。
「この手は、左辺から打たれた時に、こう……」
「それでさばける? ちょっと苦しそうだけど」
「行けると思うんだけどな。……佐為は、その先を見ないと何とも言えないって」
「そう。じゃあ後でまた考えよう。続けて」
ヒカルの打つ様子を見ながら、やっぱり先ほどの一手は、意味がないまま終局した。
でも打った意図は分かった。確かに後々、左辺から中央に攻め込む時、邪魔になっていただろう。
ただ、右辺での攻めに失敗したせいで、それ以前に碁が終わってしまった感じ。
「……佐為が、ここぞという時の踏み込みが弱いって。怖がってるような手だって言うんだ。ちゃんと打てたら、さっきの一手も意味を出せそうなのにってさ」
「ふぅん。その一手、今のヒカルには打つタイミングが難しそう。早すぎると、今みたいに他で損しちゃって勝負にならないし、遅いとそれこそ手遅れだし」
でも、こういうのをセンスがあるって言うんだろう。私はどう転んでも、ああいう手は打てない。
「佐為が、手加減無しで打ってみたらどうかってさ」
今日は、私とヒカルが打つ日だったけど、検討するしやめておく方がいいかなって思ってた。でも、佐為は打つべきだって言ってるらしい。仮に序盤で崩れても、一見無茶な手でも、とにかく踏み込んでいく立ち回りを意識させたいってところかな。
「うん、分かった。じゃ、早速打とう」
普段と違い、1手10秒の早碁のペースでどんどん打つ。実は私は早碁は苦手で、逆にヒカルは結構上手い。意図せず、良い勝負になっている。負けはしないけど、数目の勝負で、ちょっとした差で勝敗が入れ替わっていた一面も多かった。
そんな対局を繰り返すうちに、夜が更けていった。