世の中に たえて光のなかりせば 藤の心はのどけからまし 作:ひょっとこ斎
朝起きて、いつも通りご飯を食べて、いつも通り家を出る。今日は若獅子戦の3回戦。
ヒカルの家まで行って、呼び鈴を鳴らす。おばさんと挨拶をして、待つこと少し。
「おはよ。ふぁー、眠い」
「おはよう。昨日は遅かったの?」
「佐為と打ってたら、遅くなっちまった」
いいなぁ。私もずっとヒカルと打っていたい。
ヒカルは既に負けているから対局はない。でも、塔矢くんの様子も気になるようで、一緒に棋院へ向かう。学校と違って、棋院へは一緒に行くことが多い。帰りも一緒。学校と比べて冷やかす人がまったくいないのが原因かな。学校だと、男女がずっと一緒にいると、どうしても噂をされたりするし。
雑談しながら棋院へと向かい、会場に入る。勝ち残っているのは8人で、そのうち3人が院生。そのせいか、院生の見学者が結構多い。
「明日美さん、おはよう。今日はよろしくね」
「あかりちゃん、おはよう! 顔がちょっとこわばってるよ。緊張してる?」
「え、うそ」
気付いてなかったけど、緊張してるのかな。右手を頬に当てると、明日美さんがふふっと笑って、左側の頬をつついてきた。
「まあ、気楽にとは言わないけど、楽しく打とう」
「うん。明日美さんは凄いね、全然緊張してないみたい」
言われてようやく、確かに緊張してるって実感してきた。だって、ここに来るまでヒカルと何を話していたか、全然覚えてない。
うわぁ、覚えてないなんてもったいない。
って、それどころじゃなかった。
明日美さんは慣れた感じで、院生2組の、どっちが勝つか賭けようと言った子に説教している。どうしてだろう、先週は大丈夫だったのに。
「明日美さん、落ち着いてるね」
「そりゃね。去年も若獅子戦に出てるし、それよりプロ試験本戦が大事だし」
「なるほど」
「でもま、今日はちょっと違うけどね」
場数が違うってことだね。私も、もっと余裕を持って対局に臨みたい。ずっと一緒にいる相手だから、余計にいつも通りを意識しちゃってたのかもしれない。
いつもと違う場所と状況なんだから、いつも通り打てるわけがない。それを分かった上で、いつも以上の碁を打てるように、頑張らないと。心の持ちようって難しいね。
「今日は違うって?」
「あかりちゃんに勝ちたいもん。気合いも入るよ」
ふん、と気合いを入れている。私が院生1位だから?
「私が強くなってるのは、あかりちゃんのおかげだから。これだけ打てるんだよってのを、ちゃんとあかりちゃんに見せておかないと」
「えー! 明日美さんが強くなったのは、明日美さんが頑張ってるからだよ」
はいはい、と軽く流される。そうこうするうちに、時間がきて、対局準備に入る。
明日美さんのおかげで、随分と落ち着いた。あのまま打ってたら、とんでもないミスをしていたかもしれない。明日美さんとしても、私がミスをして勝っても嬉しくないんだろう。
ニギリの結果、私が白石。明日美さんの黒石で、対局が始まった。
序盤はお互いに地を広げつつ、必要以上に攻め込まない。左右で地を確保しつつ、私の方が少し薄いけれど、明日美さんに先んじて中央へと手を伸ばす。明日美さんも負けじと打ち込んできて、激しく打ち合いが始まった。
中央での打ち込みを活かしつつ明日美さんが広げている右辺へのけん制もできればいいんだけど、なかなか良い手がない。
上辺の少し空いた空間が、今のままだと明日美さんの地になりそう。なんとかできないかな。こちらの左辺と絡めて攻めても、どう打ってもかわされる。中央との連絡をつけようとしても、分断されるのが落ち。だからといって、そのままだと面白くない。
右側から攻めたら、少なくとも2手くらいは損をさせられそうな気がする。その間に中央を補えば、地で勝てる。
少し考えて、ミスがなければ行けると判断する。中央にある薄めの浮いた黒石に、右側からツケる。
「えっ」
明日美さんが、驚いたように動きが止まる。ぱっと見、ただで石をあげます、と言っているような手だもんね。
でも、取りに来ると、私の方が何手も有利になる。放っておくと、その石を足がかりに、上辺から右上隅にかけて荒らされて、結局地が大きく削がれる。
明日美さんもすぐに気付いたようで、どう打つのが被害が少ないか、考えている。
少し長考した結果、明日美さんは荒らされるのを覚悟で、中央での勝負を挑んできた。
うん、多分正解。それでも少し相手の地を減らした上で、中央も五分のまま展開できたから、コミの分がそのまま差がついた状態。
ヨセに入り、そのまま逆転されずに、終局した。
「ありがとうございました」
「ありがとうございました。あぁもう、悔しい!」
「上辺への打ち込みがなかったら、危なかったと思う」
「うん。多分ギリギリ勝てるかなぁって思ってた。油断してなかったけど、あの手は見えてなかったよ」
明日美さんと感想戦をやっていると、塔矢くんも対局が終わったようで、こちらに向かってきた。
「どちらが勝ったの?」
「私の負け。でも、結構頑張ったんだよ」
「うん、ちょっとの差だったよ」
ここの手が良かった、こう打っていたらどうか。ヒカルや伊角さんも交えて、検討する。先週対局したのが良かったのか、ヒカルと塔矢くんも普通に話をしている。
「え、でもこっちの手は?」
「そんな手はないだろう。こう打てばどうしようもない」
「えー、でもこうすれば何とかなるんじゃないか?」
うん。普通に話していると思ったけど、あまり長く話を続けると良くない気がする。周りも2人の言い合いに冷や汗をかいているし、どうにかしないと。
「まあまあ。次があるし、検討はこの辺で終わろ。2人とも、気になるなら帰ってから自分で確認して。ヒカル、帰ってから試しに打ってみよう。相手くらいするから。ね?」
「あー。まあ別に、そこまでじゃねえけど」
斜めを見ながらいじけた様子で言っているのは、他人から見たら照れているか拗ねているか、という感じ。多分佐為に諭されたか何かだろうな。
塔矢くんもまだ何か言いたそうだったけど、ため息をついて気持ちを落ち着けている。イライラしていると次の試合に影響があるから、それまでに落ち着けてほしい。
「さて、じゃあ次の試合を始めるぞ」
時間がきて、準備を進める。対局は2つ。残念ながら越智くんも負けたみたいで、冴木さんが四段の人とやって、塔矢くんと私が対局。
塔矢くんも落ち着いたようで、普段通りの顔になっている。
「さっきはごめんね。ちょっと熱くなった」
「ううん。ヒカルと言い合いしてムキになってるの面白かった」
「別にムキになってたわけじゃ」
「ほらまた。ヒカルとの対局、面白かった?」
「……うん。思いもよらない手が多くて、色々と考えさせられたよ。まだまだ実力不足だとは思うけど」
「確かにそんなところあるね。でも、日に日に実力を伸ばしているし、そう遠くないうちに一気に強くなるかもね」
「どうだろうね。僕が白だね」
「今日は、簡単には負けないよ」
「芦原さんじゃないけど、普段打ち慣れている分、一番手強いと思ってるよ」
話しながらニギって、私が黒で対局が始まる。
「よろしくお願いします」
普通にやっていては勝てない。第1手を4の五、高目に打つ。危ない碁になりやすいので、普段は取らない手。塔矢くんは気にした風でもなく、右下隅の小目に打った。
地は少なくても、打ち合いになったら勝てると踏んだのだろう。実際に今まで、塔矢くんと打ち合って、まともに勝ったことは数えるほどしかない。
撹乱させるには自分の実力が不足しているかもしれないけど、打てるだけ打ってみよう。
しばらく互角の勝負をしていたけど、途中で読んでいない手を打たれて、少し形勢が塔矢くんに傾いた。その分でこちらも別のワカレで得は取った。でも、差は小さいながらも、このままだと負ける。
細かい部分より、全体を見て薄いところを探す。どこも厚みがあって、攻めにくい。
こういう時、佐為ならどうするだろう。複数を同時に牽制する1手。今を逃せば、もう挽回の目はない。
上辺の付近に打つ。塔矢くんは小さく首をかしげる。ぱっと見たところ、悪手にも見える手。でも、この後を上手く打てたら、この1手が邪魔をして相手の応手を制限できる。
塔矢くんはしばらく考えて、警戒しつつも別の場所に打つ。何かあるとは思っているみたいだけど、意図が読めずに様子見ってところかな。
いくつか手を進めて……よし!
塔矢くんの手が止まる。考えた通り、さっきの1手が活きて、塔矢くんの数手が無駄になったようなものだ。
これで、ほぼ五分。あとはミスせず、少しでも上回れば、勝てるかもしれない。
「半目差……」
上手く打ったと思ったけれど、ギリギリのところで届かなかった。ヨセに入ってからも、どこか打てる手がないか探した。僅かな綻びも見逃さないつもりだったけど、見つからなかった。
これが、塔矢アキラ。
「ありがとうございました」
どちらともなく挨拶を口にして、ため息を吐く。そう、相手は塔矢くんなんだ。
去年、佐為と打つための対局を除いて全勝でプロ試験を突破して、プロになってからも、座間王座との新初段シリーズを除いて、今まで数戦やって負けなし。週刊碁でも、未来の名人候補とまで言われる存在。
その塔矢くん相手に半目差なんだから、誇っていいくらい。
「ふ、藤崎さん?」
少しぼやけた、動揺した風の塔矢くん。慌てた様子なんて珍しい、というか初めて見たかも。
明日美さんも声をかけてくるけど、ごめん、今ちょっと待って。
「塔矢、検討とかは今度でいいよな。あかり、行くぞ」
ヒカルが手を掴んで引っ張る。もう。片付けずに行くなんてできないよ。
片付けようと手を伸ばすと、明日美さんが肩を叩く。
「いいから。やっておくから」
言葉に甘えるというより、ヒカルに引きずられるように連れて行かれて、外に出た。
建物の隅、周りからあまり見えない場所に来て、ヒカルがようやく手を離した。
「あーもう、しょうがねえなぁ」
ヒカルがポケットからハンカチを出すと、私の顔をぐしぐしと拭き始めた。
「わっ、ちょっとヒカル」
「ちょっと黙ってろって」
しばらくされるがままになっていると、少し気分が落ち着いてくる。
「ヒカル、ありがと。もう大丈夫」
「ほんとかぁ?」
「うん。ふふ、まさかヒカルに慰められるとは思わなかったよ」
「へん、俺だってたまにはな! っていうか、あれだけ泣いたら誰だってギョッとするぜ」
本当にね。ああ、恥ずかしい。しかもプロの塔矢くんとやっておきながら、負けたら泣くとか、何様なんだっていうね。勝てるつもりだったんだって、泣いてから気付いた。
「ふふ。ヒカルとおそろいだね。塔矢くんに若獅子戦で負けちゃったの」
「そんなのいらねえよ。……勝ちたかったな」
「うん」
そのまま、黙って数分経ってから気付く。
「ご、ごめんね。佐為もせっかく検討とか、言いたいこともあったかもしれないのに、こんな場所に連れて来ちゃって」
「いいって。佐為なんか気にしなくて」
「もう。またそんなこと言って」
でも、本当に戻らないと。
篠田先生、怒ってるだろうなぁ。
「じゃあ戻るか」
「うん。先生とか、スタッフの方に謝らないと」
「俺も一緒に謝ってやるって」
「ヒカルが引っ張ってきたもんね」
「な! 俺はなぁ」
「冗談。ありがと」
微笑むと、ヒカルがしょうがねえな、って顔になる。うん、調子も戻ってきた。
棋院に入り、会場へと戻る。
「勝手に抜けちゃって、ごめんなさい!」
「藤崎さん、碁石を碁笥に入れて、対局が終わるんです。急に席を立ってはいけませんよ」
篠田先生から、お叱りの言葉を受ける。
はい、反省してます。塔矢くんが、周りと談笑していたので、そちらにも近づく。
「塔矢くん、さっきは本当にごめんなさい」
「いや、大丈夫。というか、ちゃんと終局していたし、構わないよ」
軽く笑みを浮かべて気にしないよう言ってくれた。でも、と言いかけたところで、明日美さんに抱きつかれた。な、何事!?
「そうよー、もう気にしない気にしない。おかげでなんとも言えない空気になったし、私と塔矢くんでせいいっぱいフォローしてあげたけど、気にしない」
「……今度、ケーキでも奢るよ」
「やった。さすがあかりちゃん! ……でもおかげで、塔矢くんが周りにいた院生とも検討代わりの打った手の説明したりしてたし、結果的に良かったと思うよ」
ひとしきりはしゃいだ後、私にしか聞こえない小声で教えてくれる。
そっか、塔矢くんも気を使ってくれたんだ。本当に感謝だね。
明日美さんが離れて、周りで見ていた人にもごめんなさいと頭を下げる。院生のみんなは気にしないように言ってくれたし、初対面のプロの方も、軽く手を振って気にしてないとジェスチャーで伝えてくれる。
みんないい人だ。
「さて、じゃあ勝ったのは冴木二段と塔矢初段だね。おめでとう。来週の土曜、時間は今日と同じで。決勝戦のみだから、持ち時間は……」
冴木さん勝ったんだ! 凄い!
説明が終わった後、ヒカルや和谷くんと一緒に冴木さんに声をかけた。
「冴木さん、決勝戦進出おめでとう」
「ありがと。藤崎さんも惜しかったね」
「あはは。お恥ずかしいところをお見せしました。勝てるかなーって思ったんだけど」
「本当にいい勝負だったよ。俺も負けてられないな」
ヒカルと和谷くんもそれぞれ激励した、といっても火曜にまた研究会で会うんだけどね。
帰ってからヒカルの家で、今日の碁について検討をする。
私には思いつかなかったけど、佐為に指摘されて、いくつか追いつける手があったことを知る。
そして塔矢くんも気付かなかったけど、私にも甘いところはたくさんあった。佐為だけじゃなく、ヒカルも気になったところを指摘してくれて、私が気付かなかった点も多々あった。
間違いなくヒカルも強くなっている。佐為の存在も大きいけど、塔矢くんの存在もまた大きい。
「先週、院生研修の時にも話に上がったけど、プロ試験楽しみだな」
「そうね。みんな必死に勝ちを狙いに来るし、1戦たりとも油断できない日が続くね」
また今度、和谷や伊角さんを誘って碁会所に行くというので、暇な日は付いていきたいとお願いする。
そして翌週、冴木さんは塔矢くんに及ばず、塔矢くんの優勝で若獅子戦は幕を閉じた。
閉じたんだけど……。
週刊碁で、若獅子戦の様子を取り上げられて、塔矢アキラに一番惜しい勝負をしたってことで私との棋譜が載っている。
それは別に構わない。実際、冴木さんとの勝負より、私との勝負の方が僅差だったんだから。
ただ、明日美さんとの対局の様子や、負けて泣いている写真まで載っているっていうのはどういうこと?
恥ずかしくて死にそう。普段から見ないだろうから大丈夫だと思うけど、ヒカルに見られないようにしないと……。