世の中に たえて光のなかりせば 藤の心はのどけからまし   作:ひょっとこ斎

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第24手 中学2年生 その4

 月曜早々に発売された、若獅子戦について載っている週刊碁を読んだけど、火曜にある森下先生の研究会の時に文句を言いに行くわけにもいかない。ヒカルが一緒なんだから。

 森下先生たちも、特に写真に触れるでもなく流してくれたから助かった。

 そして水曜、1人で棋院に行く。うぅ、明日美さんに相談して、一緒に来てもらったら良かったかなぁ。

 

「おや、藤崎さん。今日は何か?」

「こんにちは。えっと、天野さんいますか?」

「ああ、ちょっと待ってね。おーい、天野くん、お客様だよ!」

 

 出版部の受付の方が対応してくれて、天野さんが奥から顔を出す。時々森下先生に連れられてイベントのお手伝いもしているし、だいたいの人は顔見知りになっている。

 天野さんは私を見ると、ぱっと顔を輝かせた。挨拶もそこそこに、向こうから話題にしてくる。

 

「ああ、藤崎さん! 週刊碁見てくれた? いい写真だっただろう?」

「いえ、あの写真はないですよ。明日美さんと打ってるのは、他に越智くんの対局中の写真もあったから2回戦突破した3人ってことでいいですし、塔矢くんとの対局が載るのも、まあいいんですけど」

 

 私が怒っているのが分かったからか、笑顔で近づいてきていた天野さんの顔が少し引きつり始めた。

 周りは、あちゃーって顔をしてる。

 

「よりによって、あんな顔の写真にしなくても」

「いや、でもその」

「でも?」

「真剣勝負の後の、負けた悔しさが出ていて、とても良い顔だったと思うんだけど……。頑張っているプロの卵である院生の向上心を捉えた記事にも合っていたし」

 

 確かに記事は良い出来だったけど!

 でも、恥ずかしいものは恥ずかしい。

 

「それだけ藤崎さんの今後に期待してるってことだよ。名前は出してないし、顔も望遠気味で横顔だからはっきり分かるわけじゃないし」

 

 何とかして煙に巻こうとしている。まったく、大人はこれだから。

 とはいえ、出てしまったものを元には戻せない。できることと言えば、これを盾に取って無理を聞いてもらうくらいかな。

 

「天野さん。貸し、ひとつですよ」

「え、あはは。いやぁ、参ったな」

「天野さん」

「はい、分かりました」

 

 今後、私のことを記事にするな、なんて言えない。もうすぐ始まるプロ試験を突破したら、それこそ顔が出ちゃうのも仕事のひとつと言える。まあ、もしプロになっても、勝てなきゃ埋もれるだけだから、週刊碁に載るようなこともないんだけど。その場合も、私じゃなくてもヒカルのことでお願いが出てくる可能性は高いし、貸しを作っておくのは悪くない。

 貸しの念押しをして、棋院を後にした。釘は刺せたし、良かったぁ。

 

 

 夜、ヒカルと勉強をした後、明日美さんと電話で話をした時に事の顛末を伝えた。

 

「あはは。災難だったね」

「もうっ、笑いごとじゃないよ。明日美さんみたいに美人ならまだしも……」

「何言ってるの。あかりちゃんは可愛いよ。囲碁の腕前は憎たらしいけど」

「憎たらしいって、ちょっと明日美さん」

「ごめんごめん。でも、確かに悪くない写真と記事だと思うよ」

「もー」

 

 こっちは恥ずかしさで悶絶したっていうのに。でもヒカルにはバレてないから、まあいいか。うっかり言いそうな和谷くんや、ヒカルと仲が良い伊角さんには口止めしたし。

 って、私だけのことじゃないんだった。

 

「というか、明日美さんも書かれてるよ」

「望むところよ。あかりちゃんには負けたけど、今年のプロ試験に合格する気で受けるんだから」

「うん。一緒に合格目指して頑張ろう」

 

 決意を新たに、気合いを入れる。

 よし、まずは今日の佐為との対局を棋譜に残そう。まだ、佐為に勝ったことないんだよね。塔矢くんももちろん強いんだけど、研究会の場なら勝ったこともある。

 佐為は、そういうのとは別格の強さ。

 定石を何もかも無視するとか、そういうわけじゃない。ただ、ここぞという時に、これしかないという一手を打つ。ヒカルが時々打って、私も最近真似しているような、ぱっと見が悪手に見えつつ、後からじわじわと効いてくるような一手とは違う。例えば右辺で打ち合いの途中、一手前だと右辺がぼろぼろになるし、一手後だと間に合わない。そんなタイミングで、中央に右辺を睨んだ一手を打ち込む。今の私じゃ、その域には達していない。というかタイトル戦でも、そんな一手は滅多に見ない。

 やっぱり碁打ちとしては、憧れを抱かずにいられない。

 

「ヒカルと打てて、佐為と打てて。きっと今は凄く幸せな時なんだろうな……。佐為、いつまでこの世にいてくれるかな?」

 

 ずっといれば、ヒカルが荒れることもないんだろうなぁ。

 あ、でも、もしヒカルと付き合えたり、あまつさえ結婚できたりすると、見えないとはいえ佐為がいるって考えると色々と無理かも!

 ……うん。考えないようにしよう。なるようになる。というかなるようにしかならない、と言うべきかな。この場合。

 

 

 週末、いつものように院生研修を終えて、ヒカルと明日美さん、和谷くんや伊角さんと一緒に部屋を出た。部屋を出てすぐ、和谷くんがカドワキという人がプロ試験を受けるらしいって話題を出してきた。

 

「門脇? 何年か前、学生三冠を取ったっていう門脇?」

「伊角さん詳しいね。ネットで見たんだけど、なんかプロ試験を受けるかもってあったんだよ」

「外来も強いのが来るからなぁ。去年は院生での合格者、真柴だけだぜ」

 

 ふぅん。門脇さんという名前は覚えがないけど、プロになった人なのかな。今年通らなかったことだけは間違いないけど、来年以降はおぼろげにしか覚えてない。

 雑談しながら棋院を出て、駅まで歩く。

 みんなと別れて、ヒカルと一緒に電車に乗った。今日はヒカルと打てる日。最近、ヒカルと示し合わせて、コミは通常通りでヒカルが黒、私が白で打っている。

 ヒカルは攻めるのが上手くなっているけど、まだまだ勉強したいからという理由で黒を持って、私は守るのをもっと上手くなりたいから白を持っている。

 

「あと少しで、プロ試験予選だね」

「あー、そうだな。俺も免除だよな。なんかここ最近の成績で8位以内だっけ?」

「うん。3ヶ月以内の成績ね。ヒカルの場合は7位だっけ?」

「上はお前と伊角さん、越智と和谷。あとは奈瀬と本田さんか。最終順位だと、本田さんと和谷を抜いて5位になったんだぜ」

「うん。一気に上がったよね。若獅子戦の結果?」

「そうかもな。なんだかんだで、塔矢と打てたのは大きかったよ。俺と塔矢の実力の差が分かったからな。立ち止まっていられねえよ」

「ふふ。塔矢くんの前に、まずは私だね」

「ちぇっ、分かってらぁ。今日こそ勝ってやる!」

 

 うん、頑張ろう。塔矢くんに置いていかれるわけにはいかないもん。

 でもプロ試験も層が厚い。私もそれなりには自信があるけど、伊角さんに越智くん、明日美さんはそれほど実力が変わらないと思う。ちょっとしたミスで、勝ち星を取られるだろう。ヒカルも当然強いし、外来の門脇さんって人も、学生三冠を取るくらいだから、下手をすると院生トップクラスの実力はありそう。

 

 

 そんなこんなで碁に打ち込んでいたけど、夏休みを前にようやくお母さんを説得できて、貯めていたお年玉と若獅子戦の賞金で、パソコンを購入できた。

 ネット回線を引くのと、月額使用料は、お父さんに甘えたら出して貰えることになった。パソコン自体は自室に置かず、リビングに置くのが条件のひとつ。他の人も使えるというのと、変なことしていないというのと。

 家族は誰も囲碁が分からないし、もちろんsaiも知らないから問題ない。

 

「ヒカル、今日はちょっと、うちに来ない?」

「何かあんの?」

「ふふ、とっておきのお楽しみがあるの」

 

 ヒカルが家に来るのは、凄く久しぶり。ずっと私が行っていたからね。

 

「じゃーん。どう?」

「うわ、パソコン買ってもらったの? いいなぁ」

「ネットの月額とかは払ってもらってるけど、パソコンは自腹だよ。ほら、若獅子戦の賞金とかでね」

「へえ。……もしかして、俺のせい?」

「まさか。佐為が打つために来てくれて構わないけど、私もネット碁打つし、何かと便利なんだよ」

 

 インターネットを楽しむ以外にも、これまでノートに付けていた棋譜は全部PCに移すつもり。ただ、データは消えちゃう危険性もあるので、ノートに書いてからPCに打ち込むのは変わらない。

 あとは言えないけど、私がヒカルの家に行くばかりじゃなく、時々うちに来るというのも、色々と大事。

 

「ふぅん。で?」

「で? って。ネットカフェに行かなくても佐為がここで打てるようになるよ」

「いいの? やったぜ! いちいちネットカフェに行くのも面倒だったし、三谷のおねーさんいない時はお金かかってたしさぁ」

「ふふ。お母さんとお姉ちゃんに、私がいない時でも使えるように言っておくから。あ、でも2人のどちらかが使ってる時は駄目だからね」

「わーってるよ。それで、打っていい? 佐為が打ちたいってうるさいんだよ」

「うん。どうぞ」

「ありがと」

 

 さっそく、ヒカルがネット碁を開始する。ログイン早々、対局申し込みが入った。佐為は誰が相手でも気軽に受けるから、申し込みが多いんだよね。

 ほとんどの相手があまり強くないけど、時々凄く強い人がいる。韓国や中国のプロとも、何度か対戦しているみたい。

 今はプロ試験を控えているし、ヒカルの気を散らせるわけにはいかないから無理だけど、そのうち佐為と塔矢先生を対局させてあげたい。そのためには、ネットカフェじゃなくてここで打てるのは本当に大進歩だね。

 

「ネットで調べたんだけどね。佐為が誰かって考察してるサイトとかもあったよ」

「へえ……。って、まずいんじゃねえの?」

「大丈夫、ほとんど的外れだし、和谷くんの推理ほど的確なのは少ないから。面白いのだと、離島で医者かなにかじゃないかって説。他に医者がいないから離れられず、プロになれない。でも実力が桁違いに高くて、ネット碁を覚えたから楽しくて仕方がないっていう感じだった」

「へええ、色々と考える奴いるんだなぁ」

「それだけ佐為と対局したい人が多いってことね」

 

 一応セキュリティも気にしてるし、どこからアクセスしているか調べたりなんかできないはず。ネット碁を提供している会社が調べたら分かっちゃうかもしれないけど、さすがにそんなことするはずないし。

 話しているうちに佐為が勝って、次の対局申し込みが来る。一柳先生だ。

 

「お、ichiryuだ」

「一柳先生、時々いるよね」

「結構打ってるぜ。かなり強いから、佐為も喜んでるし」

 

 かなり強いっていうか、凄く強いよ。でも、佐為には一度も勝てていないみたいね。一柳先生が弱いんじゃない、佐為が強すぎるんだ。

 本当に、相手になるのは韓国のトッププロか、塔矢先生くらいだと思う。

 それはそうと、佐為と一柳先生の対局。途中、一柳先生の渾身の一手があって形勢が傾くかと思ったけど、佐為が負けじと何度も攻め立てて、主導権を握り返した。

 

「決まりだね。佐為は凄いね」

「ああ。ずっと負けなしだもんな」

 

 一柳先生にも、他の誰にも負けない。そりゃ噂にもなるよね。

 その日はずっとネット碁を打って、1日を終えた。

 

 

 夜、お風呂上がりにひと息ついていると、座ってテレビを見ていたお姉ちゃんが、ニヤニヤと笑いながらからかってくる。

 

「あかり、パソコン買えて良かったねぇ」

「うん。買えなかったとしても、ずっと一緒に碁は打つけどね」

 

 笑って返すと、ため息ひとつ。

 

「はあ、からかいがいが無いわね。あーあ、私も誰か探さないと。あんたの知り合いで、いい人いない?」

「……いると言えばいるけど、お姉ちゃんと付き合うとか、あまり想像できない」

 

 まず頭に浮かんだのは、塔矢くん。まじめだし、見た目もいいし、将来性も高い。可愛いところもあって、なかなか他にいない。

 他にも緒方さんだとか、伊角さんだとか。現実的な線としては、筒井さんとか。和谷くんはしげ子ちゃんを応援してるので駄目。

 加賀さんも凄い人なんだけど、義兄になるのはちょっと嫌かな。

 

「どこまで本気?」

「んー。本気と言えばどこまでも本気。本気じゃないと言えば、ちっとも本気じゃない」

「もうっ、何よそれ。つまり本気じゃないってことよね」

「もしあかりが紹介してくれるなら、それは本当におすすめなんだろうし、まじめに話をするわよ。あかりの顔を潰すわけにもいかないからね。でも、あかりが紹介してくれるとは思ってないから、そういう意味では本気じゃない。というか、あかりの知り合いなら囲碁関係者でしょ? 四六時中囲碁まみれは、私にはちょっと無理かもね」

 

 うーん、なんだか煙に巻かれたような……。つまり、深く考えなくていいってこと、だよね?

 

「囲碁部の先輩とか、もしかしたらお姉ちゃんも知ってるかも」

「うん? あんたの先輩ってことは、1つか2つ下?」

「1つ下かな。囲碁部の部長だった筒井さんって人とか、将棋部の部長だった加賀さんって人とか」

「筒井って人は知らない。加賀は悪名高い、あの加賀でしょ?」

 

 ああ、やっぱり加賀さんは有名なんだ。まあ中学生で煙草吸ってるし、素行は良くないよね。頭は良いんだけど。筒井さんは知らないみたい。一学年下の、接点ない人を知ってたら、それはそれで問題だよね。

 

「他の知り合いは、どうだろう。明日美さんみたいな美人と一緒にいてもなびく様子もないし、結構難しいと思うよ」

「ああ、たまに電話で話してる子よね。可愛いの?」

「凄く美人。年齢は、お姉ちゃんのひとつ下」

「ふうん。囲碁も強いの?」

「強いよ。今年も一緒に合格しようって頑張ってるんだ」

「つまりあれね。プロの卵たちは、色恋沙汰をしている場合じゃないわけだ。そんな暇があったら、プロになるための努力をする、と。あかり、ヒカルくん追いかけてて大丈夫?」

「大丈夫。囲碁の勉強は手を抜いてないし」

「ああそう、ごちそうさま」

「お姉ちゃん、ヒカルに余計なこと言わないでよ」

「分かってるわよ。馬に蹴られたくないもの。プロになってから、告白するんでしょう? まあ、頑張って」

 

 そんなことを言い残して、お姉ちゃんはお風呂に向かった。

 もう。言いたい放題なんだから。ヒカルに変なこと言わないか心配ね。私がいない時は、ネット碁をするのはほどほどにしてもらった方がいいかも。

 

 

 そんな日々を過ごすうちに夏休みに入り、プロ試験予選が始まる。

 予選が終わって、フクくんから経過を聞いた。

 

「じゃあ、フクは予選自体は通ったものの、門脇に負けたんだな?」

「うん。強かったー。去年やった塔矢くんほどじゃないけど、もしかしたら伊角さんくらい強いかもー」

 

 強いと聞いて、警戒心を持つ。それは他のみんなも同じようで、伊角さんと和谷くんが話をしている。

 

「伊角さん、門脇知ってたよな。どんな棋風?」

「そんなこと知らないさ。あくまで、何年前だったかな、学生三冠取ったってくらいだよ」

「えっとね。僕と打った時は、地を優先してて、それほど攻めてこなかったー。でもこっちから攻めたのに、気がついたら受け手に回ってて、どうしようもなくなっちゃったんだ」

 

 分かるような、分からないような。

 警戒は必要だけど、だからといって、どうしようもないよね。

 

「俺も門脇とやったぜ。あれ、多分そうなんだと思う」

「小宮。やったって?」

 

 近くで聞いていた小宮さんが、話に入ってきた。小宮さんは院生順位8位で、予選は受けてないよね。どういうことなんだろう?

 

「院生研修を終えて帰ろうとしてたらさ、ちょっと腕試ししたいってオッサンが話しかけてきたんだよ。帰っても1人で勉強するだけだし、せっかくだし受けたら、これが強くてさ。あえなく負けちまったんだよ」

 

 小宮さんが負けるってことは、相当強いよね。どの対局も油断なんてしないけど、門脇さんとの対局は、特に気をつけておかないと。

 

「ふうん。なあ、伊角さん、和谷。また来週にでも、碁会所行かねえ?」

「空いている日ならいいぞ。えーっと、金曜なら」

「やった! 武者修行ってやつ、やりたかったんだよ。外来ってオッサンばっかり来るんだろ? そういうのも慣れておかないとさぁ」

「しょっちゅう河合さん達と打ってるじゃないか」

「そりゃそうだけど、あそこはもう慣れちゃったんだよ。もっと別のところに行きたいっていうかさ」

 

 ヒカルが、伊角さんや和谷くんに声をかけている。予定のない日なら付いていきたいけど、金曜は塔矢先生の研究会だから無理。残念だけどしょうがない。

 ヒカルと一緒に碁会所を回るのも勉強になるけど、塔矢先生の研究会の方が良いはず。碁会所だと打つのはヒカルだし、佐為の話も聞けないし。

 面白い対局があれば、帰ってから聞いてもいいからね。

 

 

 そして金曜日、塔矢先生の研究会。塔矢くんの顔を見たら、お姉ちゃんとの会話を思い出しちゃった。

 

「藤崎さん、どうかした?」

「あ、いや。ごめんね、何でもないの」

 

 不思議そうに塔矢くんが首をかしげる。そんなに変な顔をしちゃったかな。気をつけないと。

 それ以外は取り立てて問題はなかったけど、塔矢先生の家を出た後、明日美さんに肩を抱きかかえられた。

 

「きゃっ。明日美さん?」

「あかりちゃん。今日のは何? 浮気?」

「え、何が」

「塔矢くん見て少し顔を赤くして目を逸らすとか、怪しいなぁ」

 

 嘘、顔まで赤くなってた? それは良くない。勘違いさせちゃってたらどうしよう。

 

「それはその、塔矢くんを意識したとか、そういうのじゃなくって」

「ふぅん。じゃあどんな理由? お姉さんに話してみなさい」

 

 明日美さんがお姉さんぶって言ってくるけど、本物のお姉ちゃんはもっと馬鹿なことを言うんです。

 渋っていたら、駅前でコーヒーショップに引っ張られた。これは、話すまで帰らせてくれない感じだぁ。どうしたんだろう、明日美さんらしくないけど。

 

「実はね……」

 

 お姉ちゃんがいい人がいれば紹介してほしいって言ってて、塔矢くんが頭に浮かんだ、という話をすると、明日美さんが目に見えて機嫌が悪くなった。

 あれ、これは……。

 

「ふーん。で、あかりちゃんは、塔矢くんをお姉さんに紹介するんだ?」

「しないよ。しないけど、ちょっと思い出しちゃっただけ」

「……そう。それならいいけど、塔矢くんも昇段して忙しくなるし、あまり雑事で手を煩わせるのも良くないからね」

「うん。そうだね」

 

 自覚があるのかどうか分からないけど、こういう時にあまりいじるのは良くない。ムキになって、逆効果ってこともある。塔矢くんもヒカルと一緒で、女の子なんて二の次だもんね。

 いや、碁が1番で、佐為の謎が2番だから、三の次? そんな言葉ないけど。

 何度か確認されつつ、何も行動しないと約束して、ようやく解放された。つ、疲れた。

 

 

 家に帰ってヒカルの話を聞くと、どうやら韓国の研究生と対局したらしい。えー、いいなぁ。棋譜を再現してもらうと、凄く楽しそうな一局だった。

 

「結果は俺の6目半勝ちだけどさ、1手か2手ミスってたら負けてたかもしれねーし、面白かったぜ」

「うん。ここの打ち回し、上手いよね。ヒカルらしさもある良い手」

「だろー。へへ。最近、佐為じゃなくて、俺自身が院生内や韓国の研究生にも勝てるようになってきてるし、塔矢だって佐為が打った碁を追いかけてるけどさ、そのうち俺の碁で消してやるさ」

 

 ん?

 

「消す?」

「ああ。佐為の碁が俺だって思われてるからさ。俺の碁で上書きしてやんねーと」

 

 ヒカル、思い違いをしてる。一局の大事さ、それは消えることなんてない。

 棋譜に残っているかどうかだけじゃない、打った事実を消すということは、存在自体が消えるということ。

 私の前世で私が打った碁は、この世にはないけど、私は今でも覚えている碁はある。中学最後の大会で打った一局。結婚の報告を聞く前、最後にヒカルと打ってもらった一局。

 私の中にしかないけど、両方とも大事な、それこそ消えると私が消えてしまいそうな対局なの。

 

「小6の頃に、塔矢くんと打った碁は、佐為と塔矢くんの碁だよ」

「なんだよ、うるせーな」

「ヒカル、真面目な話。ここで打ってる、ヒカルと佐為の対局。私と佐為の対局。そして、ヒカルと私の対局。私はヒカルとの対局が一番大事だけど、佐為との対局もとても大事なの。もちろん、ヒカルと佐為の対局を見るのも大事」

「そりゃまあ、そうだけどさ……」

「勉強のためってだけじゃないよ。ヒカルとも佐為とも対局すると楽しいんだけど、ヒカルは違う?」

 

 私の言葉に、ヒカルは気まずそうに顔を背ける。

 

「確かに塔矢くんは意味が分からないというか、ヒカルとの謎の碁になってると思う。でも、私たちは佐為を知ってるんだから。消す必要なんてないよ。ヒカルはヒカル、佐為は佐為。それでいいじゃない」

 

 しばらく沈黙が続いたけど、ヒカルが、はあっと大きくため息を吐いた。怒ったかな? でも、ここは引けない。引いちゃったら、私の全てが、意味を失う。

 

「わーったよ。悪かった。俺だって、別に佐為が邪魔なわけじゃないんだけどさ。ネット碁で佐為に打たせてたら、俺が打った分は、俺だって思っちゃったんだよ」

「うん。実際に佐為が見えて、佐為の代わりに打ったのはヒカルなのに、偉そうに言ってごめんなさい」

「いいって。もう分かったから。……佐為も、ありがとうだってよ」

「うん」

 

 怒ってないようなら良かった。安心したら、気が抜けた。

 喧嘩というわけじゃないけど、こういう言い合い、やったことなかったし、嫌われたらどうしようって、今になって凄く怖くなってきた。

 

「ああもう、また泣いてる。お前、最近泣き虫だなぁ」

「これは違うの。安心したというか」

「はいはい。……佐為、うっせーよ」

 

 ん? ヒカルが少し赤いけど、どうしたのかな。まさか知恵熱!?

 

「ヒカル、体調悪くない? 知恵熱? もうすぐプロ試験が始まるのに、倒れたら大変!」

「……はぁ?」

 

 すぐにおばさんに言って、ヒカル寝かさなきゃ!


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