世の中に たえて光のなかりせば 藤の心はのどけからまし 作:ひょっとこ斎
火曜にヒカルと本田さんが対局した週末。伊角さんと門脇さんの対局がある。
ヒカルも私も外来の人。私の相手は、椿さんっていう地声の凄く大きな人。見た目は凄くおじさんだけど、プロ試験受けているってことは、30歳未満なんだよね。
「おう、お前が藤崎か。よろしくな」
「よろしくお願いします」
「上位が崩れたら、まだもしかしたらチャンスはあるかもしれねえからな! そのためには、お前に勝って調子を崩さなきゃならねえ」
星数だけを見ると、確かに可能性は0じゃない。せっかくのプロ試験なんだし、完全に可能性が潰えるまで頑張る姿勢は好ましい。
声は、もうちょっと抑えてほしいけど……。
「そうですね。そうならないためにも、全力で頑張ります」
そして対局が始まる。普段打たない相手なので、どんな碁かわくわくしながら打った。
打ち方がちょっと荒いけど、棋風としては堅実で、意外と丁寧。もっと力碁で押してくるかと思った。ヒカルもそうだけど、やんちゃでも丁寧に打つっていうのが、囲碁の面白いところだね。
「……ありません」
「ありがとうございました」
対局は、椿さんが上手く地を広げられないうちに大きく囲って、守り切って勝ち。良かった、できればこのまま、ヒカルと当たるまで全勝を維持したい。
さて、伊角さんと門脇さん、どうなったかな。ハンコを押した後に目を向けると、明日美さんが真剣な顔で盤面を見ていた。
目が合うと、明日美さんは無言で盤面を指さした。目を向けると、伊角さんの良いところが顕著に出ている盤面だった。ちょっと慎重すぎるところもあるけど、守るべき部分をしっかりと守って、主導権を握っている。
途中、ヒカルも対局が終わったようで、寄ってきた。
かなり細かい碁になっているけど、少しだけ伊角さんが優位に立っている。門脇さんも左上スミで巻き返せる場所はあるけど、打ってる2人は気付いていないのかも。
「2目半の差で、伊角さんの勝ちだったな」
「うん、かなりギリギリだったけど、やっぱり伊角さん強いね」
結局、門脇さんは急所に気付かず、伊角さんも手を加えずに終局した。
ヒカルの言葉に、私が同意していると、明日美さんが首をひねった。
「でも、門脇さんが終盤に左上スミにあった隙を見落としてなかった?」
「ああ、そうだな。伊角さんも手を入れなかったし、先に手を出していたらひっくり返っていたかもな」
かなり判断の難しい局面だったけど、ヒカルも明日美さんも気付いていたんだ。これは本当に、ヒカルとの対局も明日美さんとの対局も、気が抜けないね。
翌日の日曜、明日美さんが門脇さんと対局する日。
ここまで、私が全勝で明日美さんが1敗。ヒカルと越智くん、門脇さんが2敗。
伊角さんもまだ3敗だし、上位陣の星の取り合いがかなり激しくなってくる。
ヒカルのことを考えると、明日美さんが勝って、門脇さんを勝負から一歩後退させてくれる方が、ヒカルが合格する可能性が上がる気がする。私が明日美さんと一緒に合格したいから、余計にそう思うのかもしれない。
もちろん、私も人ばかり気にしていられない。今日は小宮さん。ある程度安定しているけど、逆に言えば本田さんみたいな怖さは少ない。
油断はできないけど、しっかり打てば互角以上の勝負は間違いなくできるはず。
「ヒカル、今日も頑張ろう」
「おう、いつだって本気だし、手は抜かないさ!」
「うん。プロ試験で油断なんてできる相手、いないもんね」
ヒカルと話しながら歩くうちに会場に着く。楽しい時間は一瞬で過ぎるよね。
明日美さんも来ていたけど、目を閉じて精神集中している。話しかけて調子を崩してもまずいし、話しかけないようにそっと離れた。
時間になり、対局が始まる。午前では勝負が付かず、お昼ご飯を食べてから続きを打つ。
小宮さんが強引に攻めてきた手を潰して、私の勝ちが確定した。
私がハンコを押していると、ヒカルが寄ってきた。
「勝ったの?」
「おう、中押し勝ち!」
へへん、と嬉しそうにヒカルが笑う。こういう時の態度は、碁をやり始める前と変わらないね。
周りは、まだ対局中のところも多い。声に出して雑談していると迷惑になるので、話はせずに移動しないと。
明日美さんの様子を見に行くと、明日美さんが盤面優勢に進めている。
この調子だと勝てそう。門脇さんも苦しそうな顔をしているし、門脇さんが優位になるような、これという打開策は思いつかない。
「負けました」
よし、明日美さんの勝ち! 明日美さん、まだ越智くんにしか負けてないって凄いよね。その越智くんは伊角さんと私に負けているだけなんだけど。まだ2敗で、残る強敵は小宮さんとヒカルくらい。かなり合格の可能性が高い。
明日美さんがハンコを押してから、荷物を取りに席へ戻ってきた。
「……院生って、思った以上にレベルが高いんだな」
「え?」
「若獅子戦でベスト4に入った奴が強いのは分かってたけど、他にもプロと遜色ないどころか、今でもプロの中で活躍できそうな奴がごろごろいやがる」
「どうなんだろう。プロに入って活躍できるかは分からないけど、私はここ1年くらいで強くなれたのは、あかりちゃんのおかげね」
明日美さんが言うほど、私が何かをしたわけじゃない。強くなったのは、明日美さんの努力だよ。
「越智は、実力で劣っているとは思わんが、まあまだ幼いし、途中で崩れて総合では勝てるんじゃないかと思ったんだよな。伊角も途中で崩れたし、直接対決で勝てば行けるだろうってな。まさか、途中で負けるとはな……」
「それはそれは、残念でした」
「あ、悪い。別に馬鹿にしたわけじゃなくて。なんていうか、自分の実力を過信してたっていうか。ともかく、可能性は下がったけど、まだまだ十分にチャンスはあるからな。特に、無敗の藤崎に勝てたら、な」
過信していたとは言うけど、かなりしっかりと状況把握していたんだろう。だから、明日美さんに負けて、計画が崩れちゃったって思ったんだ。
明日美さんがここまで1敗でも、門脇さん、伊角さん、私が残っているから、それで4敗になるとでも思ったのかもしれない。
ヒカルも視界に入っていないみたいだけど、私と越智くんに負けると見越したのかな。
「簡単には負けませんよ」
「そりゃ、簡単に勝てるとは思ってないさ」
「あかりちゃん、そろそろ行こっか」
「あ、うん」
じゃあ、とぺこりと頭を下げて席を立つ。
ヒカルは越智くんの対局を少し見た後は部屋を出て行ったから、休憩室にいるかな?
「ふん、馬鹿にしちゃって」
「明日美さん、ひそかにかなり怒ってる?」
「だって、私には勝てるってナメてたもん。簡単には負けてられないわ」
「うん、そうだね」
頑張ろう、と言いながらヒカルと合流して、帰路につく。
夜、ヒカルと対局しながら話していると、中盤くらいで上手く打たれて、優位だった盤面が逆転した。
その後も取り返せる部分を攻め立てたけど、僅かに届かず、1目半差で負けてしまった。
「ヒカル、この部分、上手く打ったよね。佐為かと思うくらい。実際、佐為ならどう打つか考えたら、ここ以外ないよね」
「そうそう。やっぱりあかり相手だと佐為のことを隠すとか面倒なことを考えなくていいから楽だな……。佐為が『私ならどう打つか、というのを考えてもらえるのは光栄だけど、自分なりの最善の一手を追求するのも忘れないでくださいね』だとよ」
「うん、それはもちろん! でも、やっぱり佐為の読みの深さには、まだまだ追いつけないよ」
「プロ試験対局前に、1勝しておきたかったんだよな」
ヒカルがようやく勝てたぜ、と嬉しそうにしている。
私としては、前世を含めると何年かかっているか分からない今の実力に、2年足らずで追いつくヒカルの才能が眩しすぎる。
でも、思ったより焦りはしない。プロ試験の間は負けたくなかったけど、しょうがない。
「でも、プロ試験で簡単に勝てるとは思わないでよ」
「当たり前だろ。たった1勝できただけなんだしよ。よし、もう1回打とうぜ」
「うん、と言いたいところだけど、もう時間が遅いから。明日は佐為とヒカルだし、明後日は私と佐為だから、その次かな?」
「えー! せっかく勝てたんだから、もう1回打ちてぇな」
うう。ヒカルに求められるなんて、断れないじゃない。
「じゃあ、遅くなるって家にかけるから、ちょっと電話借りるね」
「んー。それなら飯を食った後、お前ん家に行くよ。そっちで打つなら、そんなに文句もねえだろ?」
なるほど、確かに。だいたいの時間を約束してから部屋を出て、おばさんに挨拶をして、いったん帰る。
お姉ちゃんとお母さんが帰っていて、今日の結果を聞いてきた。
「ただいまぁ」
「お帰り。どうだった?」
「ついに負けちゃったー」
「そう……。まあ、でもまだ1敗でしょ? 残り頑張れば、受かるのよね?」
お母さんが慰めてきた。あっ、そっか。
「あ、ごめん。プロ試験は勝ったよ。負けたのは、ヒカルの家で。これまで負け無しだったんだけど今日初めて負けちゃったの」
「あら、そうなの? でもヒカルくんともまだプロ試験で当たってなかったのよね」
当たった時が大変ね、なんて楽しそうに言っちゃってる。いいんだけどね。
「それはそうと、今日、ヒカルが来てもう一局打つから、早めにご飯食べちゃうね」
「ふぅん。仲良さそうで羨ましいこと」
お姉ちゃんがからかってきたので、ふふんと胸を張る。
「うん、頑張ってるから!」
「はいはい。ごちそうさま」
話しながらご飯を食べて、少し休憩しているとヒカルがやってきた。さっさと自室に入って、盤面を挟んで座る。
「じゃあ、にぎるね」
「おう」
そして、私が白石で対局が始まる。さっきは私が先番だったから、逆だね。
布石はお互いに様子見から入って、あまり戦わない。このまま盤面互角だと、コミの分だけヒカルが負ける。どこで攻めてくるか、というのが大事。
ある程度お互いに陣地が確保できたかな、というところで、私の左辺に手を入れてきた。私は、これを受けるか流すか、それとも無視してヒカルの右辺に攻め込むか。
いつも受けていて、さっきも受けて失敗した。今回は受けずに流してみる。こういう場面で攻め込むのが塔矢くんだと思う。私には、まだそこまで攻守のバランス良く綱渡りをするだけの実力はない。
結果として、今回は私の勝ち。
「今回はあかりに上手く打たれちゃったな」
「うん、連敗まではなかなかね。でも、本当にヒカルは強くなってるよね。もう私とほとんど互角かな?」
「どうだろうな。だったら塔矢にも近づいたし、嬉しいんだけどな」
やっぱり塔矢くんかぁ。私は通過点なのかな。
……あっ、駄目だ。この思考は良くない。
「ヒカル、今の対局、佐為は何か言ってる?」
「ん? あー……」
佐為にも混ざってもらい、対局の検討を行う。ちょっと露骨に話題を逸らしたけど、ヒカルに気付いた様子はない。
今は、塔矢くんの名前も、明日美さんの名前も出してほしくない。せっかく私の部屋で、佐為がいるとはいえ2人で打ってるのに。
2日後、火曜日。明日美さんと伊角さん、門脇さんと本田さんの対局がある日。
明日美さんは、大変な対局が続く。ヒカルは来週、日曜に足立さんとの対局、火曜に私との対局があって、再来週は和谷くんや越智くんとの対局もある。
「和谷くん、中盤頃には4敗したけど、その後はずっと勝ってるね」
「ああ。状況次第だけど、4敗でプレーオフとかもあり得るし、油断できねえよな」
うん。気を抜ける相手じゃない。ヒカルも、それが分かっているならきっと大丈夫。
それより今日は明日美さんの方が気になる。
「あかりちゃん、おはよ」
「おはよう。明日美さん、今日も正念場だね」
「うん。伊角くん、院生研修で勝ったことないんだよねぇ」
意外といえば意外だけど、1組での対局が数ヶ月前なら、おかしいってほどでもないのかな。
「でも、明日美さんも若獅子戦でプロに2連勝してるし、絶対に互角以上の戦いができると思う」
「うん。ありがと。頑張るね」
にっこり笑う明日美さん。今日勝てば、かなり楽になるはず。逆に負ければ、残りの対戦相手を考えると、勝ち星とは逆で伊角さんがかなり優位に立つ。
考えると厄介というか、まだ本当に誰が合格するのか、見当も付かない。
「うん、頑張ろう。私も頑張る。できることは、1戦ずつ、油断せずにしっかりと全力を出し切ることだね」
当たり前だけど、その当たり前がずっとできるかどうか、というとかなり難しい。
プロでも精神的な揺さぶりはやるし、緊張で寝られないなんて話も聞く。冴木さんも、1度名人戦の二次予選の最終戦で、勝てば三次予選ってところで、緊張で眠れずに負けたって言ってたし。
明日美さんは寝不足というわけでもなさそうだけど、緊張してて硬くなっているように感じる。でも、何かを言って逆効果だったりするといけないし、自分で乗り越えるしかない。
そんなことを思っているうちに時間がきて、対局が始まった。
……伊角さん、やっぱり強い。
越智くんや門脇さんに勝っているんだし、私も凄く苦戦したんだから当然なんだけど。
明日美さんの攻めが生きず、地を荒らされてはどうしようもない。
「負けました」
ぺこり、と頭を下げつつ宣言する明日美さん。悔しいだろうけど、表面上はなんともなさそう。
「いやー、辛かった。どこを打っても上手く生きずに、良いようにやられちゃった」
伊角さんの強いところがきちんと出た碁だった。明日美さんも、言うほど悪くないんだけど、こういう日もあるよ。
門脇さんも本田さんに勝って、3敗を守った。
これで、20戦目が終わって、私が全勝。
ヒカルと明日美さん、越智くんが2敗。
伊角さんと門脇さんが3敗で、和谷くんが4敗。
本田さんは門脇さんに負けて6敗だから、さすがに厳しい。他には……外来の片桐さんも6敗で、ヒカルと門脇さん、明日美さんとの対局も残っている。
このあたり、油断して番狂わせが起きると、どう転ぶか分からなくなる。
ヒカルには念のため、後で注意するように伝えておこう。
私も、ヒカルや明日美さんと一緒に合格したければ、間違っても門脇さんに負けるわけにはいかない。ヒカルや明日美さんとの対局で手を抜くわけじゃないけど、注意して打たないと。
来週は、ついにヒカルとの対局。
しっかりと体調を整えて、万全の状態で挑まないと勝てない。はっきり言って、プロ試験の序盤で当たったら、ほぼ間違いなく勝てたと思う。
プロ試験の2ヶ月足らず。短いと思っていたけど、ヒカルが打ってきた碁の時間を考えると、十分に長い。つまり強くなって当然。最終戦じゃなかった分だけ、マシなくらい。そう考えると、越智くんは可哀想かもしれない。
「ヒカル、プロ試験はあと7戦。悔いの無いように、全力で挑もうね」
「ああ、当然。いつも通りの打ち方をするっていうのは簡単じゃないし、いつも以上の力を出すのはもっと難しいけどな」
そうだね。どんな状況でも普段通り打つ、その難しさ。
今のところ、動じずに打てる人は、知ってる中では佐為と塔矢先生、そして塔矢くんの3人くらい。緒方先生や森下先生は、意外というか見ての通りというか、気分や感情によって結構碁が変わる。
今はプロ試験に挑んでいる段階で、まだまだだけど、私もいつか、その域に達したい。