世の中に たえて光のなかりせば 藤の心はのどけからまし   作:ひょっとこ斎

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第30手 プロ試験 その6

 伊角さんが本田さんに負けた。意外といえば意外、納得と言えば納得の相手。

 明日美さんは本田さんに勝ったけど、伊角さんが本田さんに負けた。

 この2人は院生歴が長く、研修で打つ機会もかなり多い。お互いに手の内は分かっているので、本田さんの先行逃げ切りの作戦が見事にはまったという感じだった。

 

「これで、伊角さんは4敗か」

「そうだね。和谷くんも小宮さんに勝ったから、和谷くんもヒカルと当たるまで4敗を維持できると思う」

 

 ヒカルも今日、足立さんに勝って2敗を維持している。

 そしてついに明後日の火曜に、ヒカルとの対局。

 お互い、まったく気にしないってわけにはいかず、あえて話題に出さない。

 それでも、夜はヒカルの家でいつも通り打つ。今日はヒカルと佐為が打つ日。

 私は佐為の打った手を代わりに置くだけなんだけど、佐為の考えていることが分かるような気がして、とても勉強になる。ネット碁で増え続けるsaiの棋譜をまとめるサイトなんてものも出てきているくらいだし、佐為の一手、その意味を考えるのは楽しい。

 今やっているヒカルと佐為の対局も、佐為の勝利で幕を下ろした。

 

「負けました。くそ、結構上手く打てたと思ったんだけどな」

「うん、こことか凄く良い手だよね。佐為はなんて言ってる?」

「えーと。続く手が失敗しているって。読み筋が難しい手だけど、ぜひ積極的に打っていくべきだってさ」

「なるほど」

 

 佐為は、私やヒカル相手に無敗。というより、ネット碁で中国や韓国、日本のプロを相手にしても無敗。

 私も後から和谷くんに聞いて知ったけど、中国のトッププロや韓国の九段の人相手にも、勝っているらしい。

 そんな佐為も、ヒカルに成長してもらいたいと思っているんだろう。持っている技術をたくさん教えている。

 まるで、いつか消えるのが分かっているかのように。……いや、佐為のことだから、強くなったら自分と真剣勝負ができると思っているかもしれない。ともかく、私もヒカルも、棋風に佐為の影響が濃い。

 たまに和谷くんや研究会で突っ込まれる時もあるけど、秀策の勉強をしっかりしていると誤魔化している。

 

 

 そして迎えた火曜日、運命の日。

 これまでの勝負で手を抜いていたわけでもないし、門脇さんや明日美さんとの対局もまだ残っている。でも、やっぱりヒカルとプロ試験で打てるというのは、私にとって、何よりも重要な出来事。

 

「ヒカル、おはよ」

「おう。……わざわざセンターまで行ってやるのも面倒だよなぁ」

 

 ふふ、確かにヒカルの家でも、いっぱい対局してるもんね。でも気構えというか、環境というのも大事だよ。

 

「まあまあ。家で打つのと公式戦で打つのは、全然違うよ」

「そりゃ分かってるけどさ」

 

 まだぶつぶつとつぶやくヒカルに、本音をぶつける。

 

「いつか、お互いにプロになって勝ちを重ねて、幽玄の間でタイトル戦が打てたら、最高だと思わない?」

「タイトル戦? 俺とあかりで?」

「うん」

 

 ぶはっと笑いを漏らしたけど、私が茶化さずに真面目に頷くと、ヒカルもちょっと考えてから笑みを浮かべた。さっきまでの笑い顔と違い、どことなく澄んだ良い顔をしてる。

 

「そうだな。それもいいかもな」

「うん」

 

 それきり雑談もなく、だからといってギスギスしているわけでもなく、穏やかな気持ちを持ったまま、研修センターへと向かった。

 

 

「呆れるくらい普段通りね」

「明日美さん。おはよう」

「おはよ。もっとピリピリしているかと思ったけど、今日も仲良く一緒に来るとはね。恐れ入ったわ」

「んー。やっぱり普段とは違うよ。でも、なんて言うんだろう、ピリピリしているとか、険悪な感じじゃなくて。凄く楽しみなの」

「ふぅん。ま、緊張してなければ大丈夫だね、頑張って」

「ありがと。明日美さんも負けないようにね!」

 

 お互いに檄を飛ばしあって、時間を待つ。

 他に話しかけてくる人はおらず、開始の時間となった。

 

 

 対局が始まり、ヒカルがにぎる。今日は先番が良いな。ヒカルに負けた時、私が先番だったから。

 ヒカルがにぎった数は偶数、私が置いた石の数は2個。私が先番。

 

「お願いします」

 

 一手目、決めていたというわけでもないけれど、右上スミ小目。

 佐為と打つ時、今もこの手が多い。そのせいか、自然と右上スミ小目から打つと落ち着く。

 ヒカルも、ふっと微笑んだような気がする。そして、打った手は左下スミの小目。つまり、ヒカルから見て右上スミ小目。

 まだ始まったばかりだというのに、ヒカルとの意思疎通が楽しい。深いところで繋がっている気がしてくる。

 早く打ちたいと思う気持ちを落ち着けて、慎重に、でも手控えなんてしないようにしながら、一手ずつ重ねていった。

 

「お昼の時間です。打ち掛けにして休憩に入ってください」

 

 お昼。碁に集中していたせいで、時間の経過が抜けていた。もちろん、対局時計は進んでいて、お互いに持ち時間が減っている。少しだけ私の方が時間を多く使っている。

 けれど、盤面は、少し私の方が良い。途中、ヒカルが悩んだ上で無難な一手を打ってきたところがある。仕掛けてくるか悩んだ末に、私が上手く対処したら逆効果だと思ったんだろう、一見失敗に見える変わった手は打ってこなかった。

 打たなかったのは、正解だと思う。今日の一局は、自分でもびっくりするくらい盤面が見えている。先の細かいところでの死活が普段より深く読める。でも、それはヒカルも同じようで、私が踏み込んだ一手にも、冷静に対処している。

 

「あかり、飯行くぞ」

「あっ、うん」

 

 碁に集中しすぎて、ご飯食べに行くの忘れかけてた。ヒカルが心配そうにしていたので、笑顔を浮かべて立ち上がる。

 

「ありがと。今日は、特に気合い入れてお弁当作ったんだよ」

「それはいいけど、寝不足とかじゃねえだろうな」

「大丈夫。ちゃんと早めに寝てるから」

 

 ちゃんとご飯を食べておかないと、脳に糖分が行かず、考える力が落ちちゃう。

 ヒカルも美味しそうに食べてくれるので、ひと安心。とはいえ、食べ過ぎて眠くなると困るし、プロ試験中はずっと少し物足りないくらいの分量に留めているので、ヒカルはちょっと不満かもしれない。

 食後の休憩でぼんやりしていると、外に出ていた明日美さんが戻ってきた時に私を見て何か言いたそうだったけど、近くに行こうとしたら手振りで押し留められた。

 帰りにでも聞けばいいかな。

 

「あかり、そろそろ時間だな。続き打つか」

「うん」

 

 休憩が終わって、碁盤の前に座る。

 状況は、コミを入れても私の方が3目半ほど勝っている。でも、まだまだヨセまで行ってないし、これくらいの差は簡単に覆るから油断できない。

 右辺と中央、上辺を地にした私と、左辺と下辺を地にしたヒカル。中央を手に入れている分、左上スミや右下スミもヒカルが荒らしている。

 私があまり相手にせず、中央に大きく構えたので、地はこちらが勝っているけど、見た感じは少し危ない。

 そしてヒカルが薄い中央に争いを持ち込んだ、そのタイミングで、左下の隙に一手打ち込んだ。

 

「……これは」

 

 つい、言葉が漏れるヒカル。すぐに黙って考え込む。中央を守りつつ、左下スミをおろそかにすると、一気に攻め込むぞという意思表示。

 若干悔しそうな顔をしつつ、ヒカルが一手ずつ、必死に応じてくる。私もこれまでにない充足感を味わいつつ、対局を進めていった。

 

「負けました」

「ありがとうございました」

 

 ヒカルの言葉に、お礼で応じる。しっかりと打ち合って、ヒカルに勝てた。今になって震えてきた。

 プロ試験中、1局ごと目に見えて成長するヒカルに対して、私は全然成長したと思えなかった。でも、この1局は昨日の私には打てない碁だった。

 たったの1局。でも、成長したと思える碁だった。

 

「なんで、勝ったあかりが泣きそうなんだよ」

「な、泣いてないよ」

「んじゃ、さっさとハンコ押しに行けよ」

 

 そうだった。ヒカルに促されて席を立って、ようやく周りに人だかりができているのに気付いた。

 明日美さんと和谷くん、伊角さんだけじゃなく、越智くんまで見入っていた。若干顔色が悪いけど、大丈夫かな?

 

「あかりちゃん、凄い碁だったね!」

「えっ、うん。ありがとう?」

「あはは、どうして疑問形なのよ。これだけの碁、私も打ちたいなぁ」

 

 ちょっと明日美さん、大げさすぎるよ。確かによく打てたと思うし、凄く楽しかったけど。

 ハンコを押して、席に戻る。

 ほとんどの対局が終わっていたので、少しだけいつもの院生メンバーで検討を行った。

 序盤や中盤も色々と意見が出たけど、1番熱が入ったのは、左下スミに打ち込んだ一手だった。

 

「この一手は凄いな。タイミングといい場所といい、これは取れないし、地合いが大きく削られる」

「この鋭さは、まるでsaiのようだな」

 

 和谷くん、またそれか。と思ったら、まさかの伊角さんからの一言だった。チラリと和谷くんを見た時に、ニヤリと笑われた。

 

「進藤もだけど、藤崎もかなりsaiの影響受けてるよな」

「いや、別にsaiの影響ってわけじゃないよ。秀策はヒカルと一緒によく勉強してるから、そっちじゃないかな」

 

 和谷くんってば。否定するの分かってるくせに、こうやって茶化してくる。

 これで誤魔化せると思ったら、明日美さんが弱音を吐いた。

 

「私も最近、よく秀策は並べてるけど、こういう一手を思い付ける気がしないよ……」

「うーん。でも、明日美さんが秀策を並べ始めたのは最近でしょ? もっと学べば、もっと色々と見えてくると思うよ。あと、和谷くんじゃないけど、saiの碁も勉強になると思う」

「ああ、佐為の打ち方はホントにすげーもんな」

 

 今のヒカルの言葉は、ネットのsaiじゃなくて隣にいる佐為を意識したよね。こっちはバレないように気を遣ってるのに、気楽そうに言ってくれちゃって。

 というか、ヒカルはこれで3敗なんだし、もうちょっと悔しそうにしてもいいのに、結構あっさりしている。気になるけど、今聞くようなことじゃない。

 あまり長々と残るわけにもいかないので、途中からは片付けながら話をして、帰り支度も済ませる。

 

「じゃあ、また週末」

 

 

 残り試合は、あと4戦。私は門脇さんや明日美さんとの対局が残っていて、ヒカルは和谷くんや越智くんとの対局が残っている。

 帰りの電車で、私は対局後から持っていた疑問を口にした。

 

「ヒカル、今日は私に負けたのに、あまり気にした風じゃないよね?」

「ああ。佐為とも話していただけどよ。たまたま1勝したとはいえ、まだ俺よりお前の方が実力は上だからな」

「へえ」

「諦めたわけじゃねーぞ? あかりにも、ちゃんと公式戦で勝ってやるさ。それに、今日負けてもまだ3敗だし、俺が残り全部勝てば、何人になるかわかんねーけどプレーオフは確実だろ。じゃあ、細かいことは抜きにして、残り全部勝てばいいって分かりやすいじゃん」

「まあ、確かにその通りだね。私が明日美さんや門脇さんに負けたとしても、明日美さんは2敗で門脇さんは3敗。ヒカルが勝てば越智くんもだけど、3敗で並ぶね」

 

 単純というより、吹っ切れた感じかな? 良い方に働けば、残りの対局で、良い結果になりそう。

 

「ああ。それより、さっさと帰って今日の対局検討しようぜ。さっき話してても、佐為がうずうずしてて邪魔でしょうがなかったぜ」

 

 言ってから、耳を軽く押さえる。もう、佐為が文句を言うって分かってて邪魔って言うんだもんなぁ。それだけ仲が良いとも言えるけど。

 

 

 そしてちょっと長めの検討を終えて、私とヒカルで打った後、家に帰った。

 

「あ、ちょうど帰ってきた。ちょっと待ってね」

 

 お母さんが、受話器を押さえて私を呼ぶ。

 

「明日美ちゃんよ」

「あ、はーい」

 

 明日美さんから電話だったみたい。すぐに受話器を取り、話し始める。

 

「はい、お待たせしてごめんなさい」

「ううん。今日はお疲れ様」

「明日美さんも、お疲れ様。それで、どうしたの?」

「実はさっき、塔矢くんから電話があって、今日の対局内容を教えてほしいって言われたんだけど、伝えてもいいかな?」

 

 塔矢くんが? えっと、わざわざ明日美さんに?

 

「うん。構わないけど……」

「そう、良かった。一応、あかりちゃんに聞いてからってことで返答はしてないんだ」

「気を遣わなくても大丈夫だよ。さっきの対局、結構たくさん見てたし」

「それはそうなんだけどね」

 

 明日美さんは思ったよりも義理堅い。少し突っ込んで聞きたいこともあるけど、プロ試験中に明日美さんの気を散らしちゃったら大変だし、無事に合格したら聞こう。

 それ以外は特に塔矢くんの話題にはならず、私もだけどヒカルも負けないくらい打てていたのが凄いって話も持ち上がった。

 

「うん。ヒカルは本当に、日を追うごとに強くなってる気がする。でも、明日美さんもプロ試験が始まってから今までで、随分と強くなったよね」

「本当? そうだったら嬉しいな。塔矢くんに教えてもらって、秀策の棋譜を勉強して、結構大変だったんだよ」

 

 明日美さんは、本当に疲れたとため息を吐いた。塔矢くん、一切妥協しないもんね。

 無事にプロ試験が終わったら、一緒にケーキを食べに行こうと約束して電話を置いた。

 

 

 ご飯を食べ終わってから部屋に戻り、ベッドに倒れ込む。疲れた。普段の何倍も気力を振り絞った。

 これで良かったのかどうかは、残り試合が終わるまでは分からないし、もしヒカルが落ちたら、私もショックを受けると思う。でも、最善を尽くすのは、これからプロとしてヒカルと打つには必要不可欠だった。これから一生を勝ち負けの世界に身を置くんだ。

 でも、今日だけはもう碁から離れて、ゆっくりお風呂に入って、さっさと寝よう。


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