世の中に たえて光のなかりせば 藤の心はのどけからまし 作:ひょっとこ斎
12月25日。学校から帰ってきて、いつも通りヒカルの家に行く。
日課のようにヒカルの家で碁を打っていて、飲み物もおばさんに任せるんじゃなく、台所を借りて淹れるようになった。今日も、私が淹れてヒカルの部屋に運ぶ。
「お待たせ」
「あんがと。今日はあかりと佐為が打つ番だな」
「うん、そうなんだけど、その前にこれ、クリスマスプレゼント」
「え、わざわざ?」
ヒカルが受け取り、早速袋を開けて中身を取り出す。
「手袋? これ、あかりが作ったの?」
「うん。久しぶりに編んだから、ちょっと下手なところもあるけど」
「ふーん」
ずっと打っているから、ヒカルの手の大きさは把握している。少しずつ大きくなっていく手。
「プロ試験合格のお祝いも兼ねて。食べ物じゃ素っ気ないかなって」
「食いもんでもいいけどな。まあ、ありがたくもらっとくよ。暖かそうだし」
良かった、受け取ってくれた。ここでいらないって言われたら、どうしようかと思った。
「ヒカル。好きだよ」
「え?」
ヒカルが分かっていないかのように首をかしげる。そんな仕草も可愛いけど。
「碁を始める前からね、ずっと好きだったの」
「えーっと」
「だから、その。付き合ってください」
困ったという風に、キョロキョロと周りを見る。
「どうしたの?」
「いや、佐為が逃げやがったから……」
「逃げたって」
ヒカル、もうちょっと言い方があるでしょう。
「えーっと、付き合う? って言われても、何すればいいのか分かんねえよ」
「ああ、そっか。そうだね」
うーん、どうしよう。付き合うって言っても、別にイチャイチャしたいわけじゃないし、他の女の子に色目を使わなければ、とりあえずいいんだけど。まだ中学生だし。
「時々デートしたり、一緒にいたり。他の女の子に接近しすぎるのは止めて欲しいとか、そんな感じ?」
「デートはともかく、かなりずっと一緒にいるよな。碁を打ってるだけだけど」
「まあ、そうだね」
「別にあかりが嫌いなわけじゃねえし、他の女にって言われてもよく分かんねえけど、お前が塔矢と付き合うとか言われたら、多分腹が立つし」
うーん、と悩みながらヒカルが言葉を口にする。
「でも、佐為がずっと一緒だけど、それはいいのか?」
「何を今さら。というか、佐為ってヒカルから離れられないと思ったんだけど、今はいないの?」
「ああ。いつも俺が風呂に入ってる時とか、ここで棋譜見たりしてるし、少しは離れられるぞ」
思いがけず、狙っていた状況になった。じゃあ、佐為が戻ってくる前に少し話しておこう。
「ヒカル、少し小声で話すね。佐為って、最近どう?」
「ん、何だそれ?」
「色々と考えたんだけどね、幽霊が成仏する条件って、何だと思う?」
私の言葉に怪訝そうにしながらも、ヒカルは返事をしてくれた。
「満足した時か、お祓いされた時?」
「うん。あとは諦めた時かな、とか思ってる」
なるほど、と言いながら、目線で先を催促してくる。
「最近、真剣勝負がしたいって言ってるでしょ? もし無理だと思ったら、諦めて成仏しちゃわないかなとか。真剣勝負したら、満足して成仏しちゃわないかなとか思って。どうすればいいんだろう」
「あいつはそんな殊勝なタマじゃねえけどな。千年待つような奴だぜ?」
「千年待っても、実際に打ったのは秀策の時とヒカルの時だけでしょ? 秀策は病で道半ばで亡くなったようなものだし」
「言いたいことは分かるけど、つまり何が言いたいんだ?」
「もし諦めるようなら、ヒカルも塔矢くんも、もちろん私だってまだまだ強くなるし、佐為を退屈させるのはもう少しの期間だけだよって言ってあげたい。そして塔矢先生との対局で満足するようなら、まだまだそんなものじゃないぞって。今は塔矢先生がトップだけど、ヒカルがトップに立つ頃には、今の塔矢先生よりずっと強くなるって知ったら、満足している場合じゃないでしょ?」
私の言葉に呆気にとられていたけど、すぐに少し笑いを漏らした。
「もしかして、お前それが言いたくて付き合うとか言ったの?」
「え? ううん。ヒカルが好きで付き合いたいのは本当。今のも聞きたいことだったから、付き合えたら、どこかのタイミングで、佐為ってどこか席外せる? とか聞いてみるつもりだった」
ヒカルが真っ赤になってる。顔が熱いし、私も顔は真っ赤なんだろうけど。
「考えてもみてよ、好きでもないのに、こんなにずっと一緒にいられると思う?」
ヒカルが、私の言葉で考え込んだ。あれ、よく考えたら、これってヒカルにも当てはまる?
まあ、私よりも佐為の方が、ずっと一緒にいるんだけどね。
「あ、佐為」
戻ってきたみたい。何やら話しているから、しばらく待とうかな。
待つことしばし、ヒカルと佐為の話が終わったみたい。
「お待たせ。一応、佐為には説明しておいたから。その、付き合うから時々席外せよって」
「え? ええっと。いいの?」
「あー。まあ、さっき言った通り、何か変わるってわけでもねえだろ?」
「まあ、そうかも」
じゃあいいじゃん、と笑われる。煙に巻かれたような気もするけど、少なくとも周りに女の子の影があっても牽制できるし、問題ないよね。
「じゃあ、ちょっと話が逸れちゃったけど、打とう」
「ああ、そうだな。さっきも言ったけど、今日はあかりと佐為だな」
「うん」
少し遅くなったけど、いつも通り打ち始める。さっきの話じゃないけど、いつまで佐為と打てるのか分からないし、一局ずつがとても大事。それでなくても、佐為ほどの実力者が毎日のように打ってくれるのは凄いことだし。
そういえば、とヒカルが口を開く。
「新初段シリーズ、言われていた通り、塔矢名人だったよ。お前は?」
「私は一柳先生。佐為との対局は何度も見ているけど、私は1回しか打ってないし、新初段シリーズは楽しみだね」
「おう。一応、佐為とは話をして、俺が打つってことで納得してるから」
「うん。直接対面して打つわけじゃないけど、来年、1月か2月で塔矢先生が空いている時に打ってくれるって話になってるから」
佐為も新初段シリーズはヒカルが打つのに不満は無さそうだし、大丈夫だと良いんだけどな。
その日も佐為には負けたけど、結構良い碁が打てた。検討を済ませて家に帰り、お姉ちゃんに報告する。
あっさりと、本当にあっさりと流されてむくれていたら、むしろまだ付き合っていなかったのが不思議なくらいだって言われた。
見ていてまどろっこしかったようで、そう言われちゃうと、ごめんなさい。
「あ、ついに? おめでと」
「ついに、って」
「どう見ても付き合ってたようなものでしょ」
明日美さんに伝えても、お姉ちゃんと同じような反応。おかしい、そこまで露骨だったかな。
「あかりちゃんは好きだっていうのが前面に出ていたけど、ある意味では進藤の方が分かりやすいよ。あかりちゃんを見る時だけ、目が優しいもん」
「ええ? そんなことないよ?」
「はいはい。そういうことにしてあげるよ」
「もうっ。あ、そういえば新初段シリーズ、桑原先生なんだよね。私は一柳先生なんだけど、お互い頑張ろうね!」
話題を囲碁に持っていくと、明日美さんからの声質が変わる。
「うん。桑原先生は新初段シリーズによく出てるけど、上から潰すというよりは試すような碁を打ってるの。去年は塔矢くん、座間先生に負けてるから、勝って自慢したいんだ」
「あはは。確かに、たまには塔矢くんに自慢したいよね。でも、今のところ公式戦では負けてないんだよね?」
「うん。連勝記録とかも更新してたはず。でも、倉田さんとの対局が延びていてまだだから、それが難関だって言ってたよ」
倉田さんが二次予選にいるのは塔矢くんの不運だけど、強い人と対局できるのは羨ましい。私と明日美さん、ヒカルは、来月にある新初段シリーズから、ようやく一歩目が始まるんだ。
「まずは新初段、そして各棋戦の予選だね。そういえば女流って、予選が少しあって、本戦トーナメントなんだっけ?」
「本因坊と棋聖はそうだね。名人はリーグ戦で、挑戦者を決める感じだね。それ以外はタイトル保持者も混ざってトーナメントとかのもあったはず」
「頑張って、一緒に本戦まで進めようね!」
「うーん、あかりちゃんはともかく、私には厳しそう」
そんな弱気じゃ塔矢くんに追いつけないよ。連勝記録を塗り替えるくらいの気持ちで挑みたい。
「もちろん私だって勝ちたいよ。でも、目標を高く持ちすぎて、目の前の試合を落としたら駄目だし」
「うん、それもあるよね。無理しすぎないように頑張ろう」
明日美さんとの会話を終えて、部屋で今日の碁の見直しをして、秀策の棋譜を並べて勉強する。
もうそろそろ日が変わりそうな時間になったけど、今日は、寝られそうにない。
ヒカルと恋人……えへへ。
年が明けて早々、ヒカルが一番手で新初段シリーズが始まった。
ヒカルに佐為の様子を聞いたら、ネット碁以外で打てる時はないか、って言ってたそうだ。私には内緒って言われてたみたいだけど、私が色々と打たせてあげようとしてるからだって。当然だけど、ヒカルには遠慮せず言いたいことを言って、私はまだまだ遠慮されている。姿も見えなければ声も聞こえないんだから、しょうがないんだけど。
「ヒカル、頑張って!」
「おう」
ヒカルが塔矢先生と一緒に部屋に入っていくのを見送って、控え室に行く。
中に入ると、桑原先生と緒方さんがいた。え、なんで?
「……進藤とは一度すれちがっただけでな」
え、桑原先生の言葉、どういうことだろう。
「……ばかばかしい」
「こ、こんにちは」
後で緒方さんに聞いてみよう。そう思って挨拶すると、桑原先生がこっちを見て、目線だけで挨拶を返してくれる。
正面の位置は陣取られたから、端の碁盤が置いている場所に座る。
「お嬢ちゃん、そんな隅っこに座らんと、こっちに来なさい」
「えっと、はい」
席を移動して、桑原先生の隣にお邪魔する。
「ふむ。お主も今年の合格者じゃの?」
「はい。藤崎あかりと申します。よろしくお願いします」
「よろしくの。お前さんも、なかなか面白そうじゃの」
「ありがとうございます」
何が面白そうなのか。何も分からない。緒方さん助けて。
「藤崎、あまり相手にしなくていいぞ。第六感で進藤に目を付けて、わざわざ来るくらい暇なだけの爺さんだからな」
「ふぉっふぉっ、手厳しいのぉ」
え、ちょっと待って。桑原先生、囲碁が強いだけじゃなくて霊感もあるの? そんな話、聞いたことないよ。
混乱しているうちに、塔矢くんと明日美さんがやってきた。
「藤崎さんと緒方先生……桑原先生?」
「キミは名人の息子じゃったかの?」
「はい。はじめまして。塔矢アキラと申します」
「ふむ。お主も進藤が気になってるんじゃの? となれば、名人も注目してるというわけじゃの。面白い」
完全に桑原先生の独壇場になってる。明日美さんに挨拶する暇もない。
「そっちの嬢ちゃんは、儂の新初段シリーズのお相手じゃの? なんといったかの」
「奈瀬明日美です。よろしくお願いします」
「そうそう、奈瀬さんじゃったか。塔矢門下なんじゃろ?」
「は、はい」
「悪いが、緒方くんの妹弟子には負けてられんのぉ」
桑原先生、悪そうな顔になってる。これは明日美さんをからかうというより、緒方さんを挑発してるよね、絶対。
「ふん。奈瀬、桑原本因坊とはいえ、逆コミもあって負けてるようじゃ、二度と指導してやらんぞ」
「ええっ。そんな無茶な」
「緒方さん、大人げないですよ」
明日美さんが嘆いて、塔矢くんがフォローする。あらら、いい感じじゃない。
「さて、それはそうと、緒方くん。楽しみな一局になりそうだし、どっちが勝つか賭けんか?」
「賭けですか、面白いですね」
いやいや、緒方さん。乗ろうとしないで。もう、普段は芦原さんや私たちを指導する立場なのに、どうして桑原先生の前だと子供みたいになっちゃうの。
結局、桑原先生が先にヒカルに賭けて、緒方さんが塔矢先生に賭けた。まあ、立場上そうなるよね。
「そろそろ始まる時間じゃの」
時間が来て、対局が始まる。
と、なかなかヒカルが一手目を打たない。時間がかかるところじゃないし、もしかしたら佐為が何か言ってるとか?
不安になっていると、ヒカルが一手目を打つ。
「あ、やっと打った」
明日美さんがつい、という風に声を漏らす。数分はかかっていたよね。どうしたんだろう。
「結構かかったな。緊張していたというわけでもないだろうが」
「そうですね、今日も朝から楽しみにしてましたし」
話していると、部屋に天野さんが入ってきた。
「緒方さんに、桑原先生まで。どうしたんですか」
「進藤という小僧が気になっての。前にすれちがった時に、ピンときたんじゃよ」
「ピンと? それだけで?」
「勘だそうですよ」
「ふぉっふぉっ、勘を馬鹿にしてるようじゃ、儂には勝てんぞ」
緒方さんが馬鹿にしたように言うけど、私としては、桑原先生への警戒心が増すばかり。
「でも、勘だとしても桑原先生に注目されるとは大したものですよ。緒方さんも来てるくらいだし、塔矢先生も、進藤くんを指名したくらいですし」
「それは、塔矢くんがライバル視しているからじゃないですかね」
「ライバルなの? 塔矢くん?」
「それは……」
簡単には認められないよね。今の段階では塔矢くんより確実に弱いし、でも小学生の時に負けてるし。いつか、ヒカルは塔矢くんに明かすのかな。
「お、進藤が仕掛けたの」
「進藤、ちょっと無茶じゃないかな」
「多分、ヒカルはこういう意図だと思うけど、どうかな」
明日美さんに返事しつつ、いつものヒカルらしくないな、とも思う。逆コミをもらっている打ち方じゃないというか、普通に互先で打っているような打ち方。塔矢先生にそんな打ち方をしたら、潰されるだけなのに。
でも、佐為じゃない。ちゃんとヒカルが打っている。
「でも、父さんも無理に攻めなかった。逆コミを埋めようと思ったら、もっと攻めないといけないのに」
「お互いに、逆コミじゃないような打ち方だな」
塔矢くんのつぶやきに、緒方さんが同意する。チラリと天野さんを見ると、首をかしげられた。
そんな話があったわけじゃないみたい。となると、何も言わずに互先のような打ち方になってるのかな。
「この手は……」
「ふぅむ。面白い手じゃの」
ヒカルが、いかにも取りに行きたくなるような手を打つ。緒方さんが反応して、桑原先生が笑う。
「名人は、取りに行くと思うか?」
「どうでしょう。細かいけど、取りに行ったら荒れそうな場所ですね」
「そうじゃの。普通にやっても勝てんし、それこそ賭けに出たといったところかのぅ」
打ち進める途中で、和谷くんが部屋にやってきた。あ、院生研修の対局が終わったんだね。
そういった判断に迷う手を時々打ちながら、やっぱり打ち方に無理が出てしまったのか、ヒカルの投了で終わった。
逆コミという目で見たら、ヒカルの2目ほどの負けだと思う。
「なかなか面白い碁じゃったな」
桑原先生がつぶやき、緒方さんは肩をすくめる。桑原先生も気になるけど、今はヒカルだ。
天野さんを筆頭に席を立ち、検討を行う対局室へ向かう。
対局室では、ヒカルはあまり口を挟まなかった。一手目から検討しているけど、自分から考え方を言うのは少なくて、聞かれたことに答える程度。
まあ、悔しかったからというのもあるだろうけど、それだけじゃないよね。
少し遅れて塔矢くんと明日美さんがやってきた。桑原先生は来ないので、そのまま帰ったんだろう。
「じゃあ、こんなところでしょうか。お疲れ様でした」
天野さんが解散を宣言して、三々五々帰っていく。
ヒカルが席を立ったので、私も周りに挨拶をして棋院を後にした。
「ヒカル、お疲れ様」
「おう」
どうだった? って聞きたいけど、部屋についてからの方がいいかな。
黙ったままのヒカルと一緒に、家まで帰る。
部屋に入って、ヒカルが口を開くまで待つ。
「佐為と塔矢のオヤジが打つ前にさ。俺と塔矢のオヤジが、どれくらい差があるんだろうって思ってよ。あかりには悪いけど、今日は俺と佐為で打たせてくれねえ?」
「あ、うん。いいよ」
「あんがと」
佐為とヒカルの差。塔矢先生とヒカルの差。もちろん、一局打つだけで分かるようなものじゃないけど、ヒカルとしても気になったんだろう。
「すげー強かったのは確かだけど、佐為とは随分打ち方が違うよな」
「うん。塔矢先生はバランス感覚が凄いよね。攻めている時でも、引くべきだと思ったら即座に切り替えられるし」
「そうだな。それでいて、読みも深いんだから、そりゃなかなか負けねえよな」
負けたけど、あまり落ち込んでいないし、ヒカルも佐為のことを考えているのが分かる。佐為の様子は分からないけど、打っている内容から判断すると、今日は色々と楽しかったんじゃないかな。嬉しそうな空気が碁に出ているもん。
「今日さぁ、俺と塔矢名人の対局見てたら、打ちたくてしょうがねえって佐為が言ってさ。今度どこかに連れて行きたいんだけど、なんかあるかな?」
「あ、うん。じゃあ、近々ある碁のイベント調べておくね」
「おう、よろしく」
デートだ! あれ、私の家族とヒカルの家族みんなで行ったお正月の初詣を除いたら、初デート? これは気合いを入れないと!