世の中に たえて光のなかりせば 藤の心はのどけからまし   作:ひょっとこ斎

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第43手 プロ1年目 その3

 週が明けて、水曜日。今週は私と明日美さんのデビュー戦。学校が終わったらヒカルも来てくれるし、これからのプロ生活で不安を抱かないためにも、絶対に勝ちたい。

 棋院の近くで明日美さんと合流して、棋院へと向かう。

 

「明日美さんの相手の真柴さんって、まだ初段なんだよね?」

「うん。真柴は昇段できてないみたいね。何かと周りに言い訳を作る奴だから、負けた碁を研究なんてしないんだろうね」

 

 ふーん。せっかくプロになったんだから、ただ打つだけじゃもったいないのにね。

 院生でもプロ並みの人はいるけど、プロだと間違いなく強い人ばかり。たまにしか強い人と打てない院生研修に比べて、研鑽を積むにはもってこいの場だ。

 

「山田さんは、どうだろう、強い人かなぁ」

「どうかな。やってみないと分からないけど、普段通り打てたらきっと大丈夫よ」

「でも、緊張して失敗するかもしれないし、お互い気を付けないとね」

 

 そんな話をしているうちに、棋院に到着する。

 手合いがある大部屋に行くと、真柴さんはまだ来ていなかった。私の相手はいるかな?

 

「おはよー、2人とも早いね」

「芦原さん。おはようございます。あれ、今日は対局日でしたっけ?」

「うわ、2人が初対局だから気を利かせて早く来たのに、酷いな。……って、そっか。先週の研究会で言うつもりだったけど、研究会がなくて言えなかったんだ。あはは、忘れてたよ」

 

 相変わらず軽い。

 そんな話をしていると、新顔が珍しいのか、芦原さん経由で色々な人に挨拶してもらった。何人かは院生出身のようで、明日美さんとは顔見知りみたい。

 

「はあ、なんだかね。あかりちゃん、しつこいのがいたら、ちゃんと進藤に相談しなさいよ?」

「え、しつこいって?」

「彼氏持ちって聞いたら、普通は諦めるでしょ」

 

 いやいや。さすがに中学生相手にアプローチしてくるような人はいないでしょう。明日美さんが目的で、仲が良さそうな私を足がかりにするならともかく。

 そう言うと、明日美さんは苦笑している。でも本当に、3年後ならまだしも、今はまだまだ大人とは言えない。

 あ、そろそろ始まりそう。指定された席について、山田さんと向かい合う。

 

「今日が初めてなんだろ? ちやほやされてたけど、囲碁は別だからな」

「はじめまして、よろしくお願いします。おっしゃる通り、今後は囲碁の実力で声をかけてもらえるよう、精進します」

 

 もしかしたら嫌みかもしれないけど、言ってることは正しい。囲碁に真面目な人なのかな。そうだと良いな。

 それ以上は特に会話もなく、時間になって対局が始まる。

 

 

 打ち始めは緊張したせいで足が遅くて後手に回ったけど、相手の追及が薄い。緩手が多いせいで、序盤の不利をあっさり挽回できた。

 昼を挟んで午後になり、さほど時間をおかずに盤面の地目差を付けられて、ヨセに入る前に相手が投了した。良かった、しっかり勝ちきった。

 周りを見ると、終わってない方が多くて、明日美さんのところも対局中だった。見に行くと、明日美さんが顔を上げて、口元に笑みを浮かべる。

 ちらりと盤面を見ると明日美さんが有利だったけど、勝った気になってちゃ駄目だよ。勝負は最後まで分からないんだから。

 明日美さんも分かっているのか、盤面に目を戻した時には真剣な顔になっていて、気持ち良く碁盤に打音を鳴らしていった。

 

「やった、お互いに初勝利! ふふふ、今日はお姉さんが奢ってあげるよ」

「え、ほんとに? あ、でも明日美さん、この後予定あるんじゃないの?」

 

 塔矢くんと待ち合わせとか、結果報告とか。

 と言ってから気付いた。今日は関東にいなかったはず。

 

「あはは、あれば良かったんだけどね。塔矢くん、今日は名古屋じゃなかったかな。進藤は来るの?」

 

 あ、やっぱり。早くも高段者との対局が始まっているのは、凄く羨ましい。

 

「うん、学校帰りに寄ってくれるはずだけど」

「お邪魔なら後日にするけど、どうする?」

「明日美さんが良いなら、私は歓迎。ヒカルはどうか分からないけど、大丈夫でしょ」

 

 ヒカル、両手に花状態だね。もし明日美さんに色目を使うようなら、絶対に許さないけど。

 話しながら1階に下りると、ヒカルが既に来ていた。

 

「ヒカル、お待たせ」

「終わったか。あかり、奈瀬も、結果どうだった?」

 

 ヒカルの言葉に、奈瀬さんがえへんと胸を張る。

 

「勝ったよ」

「お祝いに、明日美さんが奢ってくれるって!」

「え、まじで? やった」

「進藤に奢るとは言ってない」

「差別じゃねーか」

「勝ったお祝いだもん。不戦勝じゃ別に褒められないし」

「打ってても勝ったさ」

 

 勝ったら、余計に明日美さんは奢ってくれないと思うよ。

 そう思い、くすくすと笑っていながら移動する。

 私は明日美さんの言葉に甘えて、ケーキセットを奢ってもらい、ヒカルは自腹で、パスタを注文している。麺類が好きだよね。

 注文待ちになり、明日美さんが口を開く。

 

「打ってみた手応え、どうだった?」

「うーん。こんな言い方すると悪いけど、ちょっと物足りなかったかな。調べたら、去年の若獅子戦で越智くんに負けてる人だったの。その頃から、それほど成長していないのかもね」

「あかりちゃんは、塔矢くんほどじゃないけど普通じゃないから。それはそうと、真柴の奴、マグレで受かったんじゃないかって言ってくるのよ。あー、腹立つわ」

 

 真柴さん、そんなこと言ったんだ。嫌味にしても酷いね。

 

「もうずっと冷静に打とう、怒って碁が単調になったら思うつぼだって自分に言い聞かせながら打ったよ」

「うん、熱くなったら勝てる勝負も勝てなくなるよね」

「まったくもう。マグレなのは真柴の方だってのに」

 

 大した腕じゃないくせにって、明日美さんも結構言いたい放題に言ってる。っていうか、全然冷静になれてないんじゃないかな。

 私たちがそんな話していると、ヒカルがため息を吐く。

 

「いいよな、対局できて。ああ、俺も早く打ちてえな」

「次の予定って決まってた?」

「再来週。なんて名前だったかな、三段の人」

「進藤も負けないようにね」

 

 もちろん、と返しつつ、どこか上の空。週末に佐為と塔矢先生の対局があるし、そっちを気にしているのかな。

 

「なあ、あかり。俺が出られる棋戦って、近いやつで何があるんだ?」

「7月頃から始まる本因坊戦かな。あと、名人戦も8月か9月頃から始まるよ」

「3ヶ月後か、長いなぁ」

「私たちは一足先に、6月から女流棋聖戦が始まるけどね」

 

 明日美さんが凄く良い笑顔で自慢する。嬉しそうだけど、からかうのはほどほどにしておいてね。

 

「なんだそれ、ずるいぞ」

「ふふん。って、自慢することじゃないんだけどね」

 

 はあ、とため息まじりの明日美さん。それはそうだけど、女流棋戦があるのはありがたいと思う。

 

「女流も大事な大会だよ。今の女流トップの人、3次予選まで残ったことある人もいるんだし、当たれるかどうか分からないけど、戦える機会があるのは嬉しいよ」

「あはは。トップと当たる時のことを考えるのは、あかりちゃんらしいね」

 

 囲碁には男女の差がない。実力の差で勝てないだけで、七大タイトルすべて、男女混合戦なんだ。

 これは、体力勝負のスポーツと比べても、非常にやりやすいと思ってる。性別の壁ではなく、個人の資質がものを言う世界。

 勝てばそれで良いなんていうつもりはないけど、やっぱり勝負事の世界だし、勝ち進めるなら勝ちたい。

 

「今年すぐ当たれるとは限らないけど、勝てば高段者とも当たれるもんな。俺もお前も」

 

 うん。高段者はもちろん、ヒカルや塔矢くん、明日美さんとも打ちたいね。

 そして佐為も、今は無理でも、場を整えてそのうち棋戦に出られるようになってほしいな。

 根回しが必要だと思うけど、saiのネット人気を考えたら、上手くいけば参加できるネット棋戦も開かれる気がする。

 みんなで意気込みを確認しつつ、その日はお開きとなった。

 

 

 週末。佐為と塔矢先生の再戦日。

 今日はお姉ちゃんは出かけてるけど、両親が家にいる。昨日のうちから、大事な対局だからって言っておいたから、邪魔にはならないと思う。でも、約束の時間、10時13分頃になっても塔矢先生がログインしてこない。

 

「まだいないな」

「うん。もしかしたら、誰かお見舞いに来ているかもしれないね」

 

 誰か来ていたら、打ち始めるなんてできない。既に打っているなら、途中で止めるのは相手にも失礼だしって続けられるけど。

 そうして待っていると、すぐ塔矢先生がログインしてきた。

 ログインが分かるように取っただけのアカウントをログアウトして、saiのアカウントに変わった。

 

「わざわざログインをチェックするために別名にするとか、きっちりした時間じゃなくて中途半端な時間にするとか、面倒なことするよな」

「私やヒカルのアカウントがあると、知り合いにばれるでしょ。そして引っ込んだと同時にsaiがログインしたら、塔矢くんや和谷くん、一柳先生に気付かれたらすぐばれるよ。時間も、きっちりした時間ばかりじゃ塔矢先生が追及されちゃうし」

 

 そして、ほぼ予定通りの時間に対局が始まる。前回同様、持ち時間は3時間。

 序盤は穏やかに進むかと思いきや、塔矢先生が急戦を仕掛けてきた。塔矢先生がこんな早いタイミングで仕掛けるのなんて、初めて見る。

 佐為があっさりといなして、攻撃に転じる。塔矢先生は守りもそこそこに、別の場所を攻め立てる。凄い、低段者がやると全然守れずに一瞬で負けるような展開だけど、攻め気に逸ってるようで、ギリギリのところで守りにもにらみを利かせた手を打っている。

 佐為も楽しそうに応手を模索している。いや、楽しそうって言っても顔や声は分からないんだけど。ヒカルの顔と佐為の打ち筋で、凄く楽しんでいるのが伝わってくる。

 

「これ、前回と違って地の勝負にはならないよな」

「うん。どっちかが活きてどっちかが死ぬ、そういう囲碁だね」

 

 そして、結果としては佐為が勝った。最近の棋戦で、少し挑戦的な碁が増えていたけど、ここまで変わった碁ではない。塔矢先生にとっても、佐為の影響は大きかったんだろう。

 

「佐為が、すげー勉強になったってよ。今まででも最高峰の打ち手と、勝ち負けだけじゃない碁でこれほど楽しめるとは、ってさ」

「うん、佐為も塔矢先生も楽しそうだったよね。2人とも綱渡りなのに、レベルが高いからこそ成立するというか」

「そうだな。ここの一手とか凄い手だよな」

「右辺を攻めながら上辺や中央を守る一手だよね。こういう手をほぼノータイムで打てるのは練習量だけじゃないよね」

 

 佐為の見極めは、囲碁センスなんて言葉じゃ言い表せない。

 

「佐為も、ここが決め手だったってよ。……この対局で1番分かれ目になった部分が見極められるのは十分に実力があるからこそだってよ」

 

 でも、打たれてから分かるのでは遅い。打っている途中に、その一手を打てないような展開にできたら、勝ち目があるかもしれない。

 ……佐為を相手に勝ち目? 私ってば、かなり大それたこと考えちゃってた。うう、佐為はもちろん、ヒカルにも黙っておこう。

 場所をヒカルの家に移して、検討と対局に没頭する。

 

 

 打った碁の検討を終えて、休憩でひと息ついている時に、ヒカルが質問を投げてきた。

 

「そういや、お前は次の対局ってどうなってんだ?」

「5月まで対局はなさそう。でも来週は指導碁の依頼を受けてるのと、4月末あたりに、泊まりがけで囲碁のイベントに行く予定なの」

「へえ。指導碁か。俺には来てないな。どこでやるんだ?」

「ヒカルにも、きっとすぐに来るよ。場所は都内だよ。でも、指導碁の依頼が来るより、きっとタイトルの期待をしてもらう方が嬉しいよね」

 

 塔矢くんにも、かなりの頻度で来ているらしい。多忙を理由にあまり受けてないみたいだけど。イベントの参加はあまり断っていないみたいだし、単に好みかもね。

 そもそも、塔矢くんは指導碁をするよりもタイトルに向かって勝っていく姿を見せる方が、お客様も喜ぶ。ヒカルもすぐにそうなるだろうし、できるものなら私もそうなりたい。

 

「タイトルかぁ。塔矢のオヤジとも、いつか公式戦で対局できるのかな」

「きっとできるよ」

「そういえば、塔矢のオヤジのところ、また行くんだろ?」

「あ、そうだね。明日、行ってみる?」

 

 明日の午前中に、顔を出すと決めて、そういえば気になっていたことを伝える。

 

「そろそろ『塔矢のオヤジ』は止めた方がいいよ。これからプロになるんだし、ちゃんと塔矢先生もしくは塔矢名人って言う方がいいよ」

 

 素人のうちは、友達のお父さんってことで塔矢のオヤジでも構わないかもしれない。でも、プロになった以上、塔矢先生は大先輩にあたるんだから、きちんとした呼び方をしないといけない。

 

「ああ、そっか。じゃあ塔矢名人かな。塔矢先生っていうのは変な感じだし、塔矢名人なら分かりやすいじゃん」

「うん、それでいいと思う」

 

 棋院で塔矢のオヤジなんて口に出して、礼儀を気にする人に聞かれたら、きっと怒られるもんね。

 塔矢先生のお見舞いに行く時間を決めて、あらためて打とうとしていると、ヒカルが思い出したと口を開く。

 

「そういや、俺がたまに行ってる碁会所にさ、今度一緒に行かねえか?」

「ヒカルがよく行くところって、前に5人で行ったところだよね」

「そうそう。子どもが珍しいってのもあるかもしんないけど、結構みんな優しくしてくれるんだぜ」

 

 ヒカルがよく行くところなら、行こうかな。お礼を言うのはヒカルが怒るだろうし、指導碁を少し打つくらいがいいかもしれない。

 

「いいよ。いつ行くの?」

「来週、指導碁があるって言ってただろ、その週の水曜は空いてないか?」

 

 普段から持ち歩く手帳で確認すると、問題なく空いている。ヒカルの対局はその翌週だし、問題ないよね。

 

「うん、分かった。事前に言っておくの?」

「いや、別に」

 

 いいのかなぁ。まあ、遊びに行くだけだし、事前に言うっていうほどじゃないかな。

 そんな話をしているうちに、夜が更けていった。

 

 

 日曜になり、朝から病院へと向かう。

 検査等もなく、受付で確認した上で、塔矢先生の病室へと向かう。

 

「おはようございます」

「ああ、おはよう。2人とも、よく来てくれたね」

 

 中に入ると、すでに来ていた明子さんが出迎えてくれた。

 

「あら、あかりさんに……進藤さんだったかしら」

「はい」

 

 明子さんとヒカルは、ここで1回会ったのみだから、面識はないに等しい。それでも名前を覚えているのは、塔矢くんが時々名前を出すからかな。

 

「すまないが、席を外してくれるか」

「はいはい」

 

 苦笑しながら席を立った明子さんに、ヒカルと一緒に頭を下げる。空いた席に座るよう促されて、ヒカルと並んで腰を下ろした。

 

「前回もそうだったが、今回もまた、充実した良い碁だった。負けたのは悔しいがね」

「佐為も、紙一重だったって。もっとたくさん打てたらいいのにね」

「……うむ、そうだな」

 

 塔矢先生が、何やら考え込む。ちらりと顔を向けてきたので、席を立って入り口で見張り番になる。

 扉はほんの少しだけ開けているので、声は聞こえる。

 

「saiは、プロにはなれないんだな?」

「はい。プロにはなれません。あいつ、ネット碁しかできないから」

 

 塔矢先生とヒカルの会話。見えないけど、ヒカルの言葉に、塔矢先生が頷いているのが分かる。

 

「……プロでもない、誰とも知れぬ人物とあれだけの碁が打てるなら、引退しても良いかもしれない」

「い、引退!?」

 

 部屋の外で聞いているだけのつもりなのに、つい叫んじゃった。でも、引退ってちょっと待って。

 中でヒカルも同じように叫んでいて、塔矢先生が、ほんの少し声を大きくしながら、話し出す。多分、私にも聞こえやすくなるように配慮してくれたんだと思う。

 

「うむ。タイトル戦となれば、どうしても1日かけて移動、取材などにわずらわされることも少なからずあるからね」

「でも、そんなの困る! 佐為と打たせた俺のせいになっちゃうじゃん」

「そんなことは関係ないさ。私が勝手に辞めようと思っただけだ」

 

 でも、塔矢先生が引退なんて絶対に嫌だ。ヒカルや塔矢くんと一緒に成長するのも楽しいけど、いつかタイトルホルダーの塔矢先生に挑みたい。

 

「佐為だって、そんなの気に病んじゃうし」

「でも、私が辞めると、saiと打てる機会は増える」

 

 何かと説得しているけれど、塔矢先生にはあまり響いていない。どうしたものか。

 話が少し途切れて、沈黙が続く。

 

「ヒカル、交代」

「お、おう」

 

 ヒカルが説得できないみたいだったので、私が変わる。佐為が説得の言葉を考えていたようには見えない。佐為も塔矢先生と打てる方が嬉しいだろうし、説得する気はなかったんじゃないかな。

 

「佐為、今回だけは私のやりたいようにやらせてもらうね。ごめん」

 

 すれ違いざま、ぼそりと小さくつぶやく。塔矢先生には聞こえないくらいの声量で。

 ヒカルが振り向き、大きく頷いてくれた。うん、百人力だね。

 

「塔矢先生、代わり代わりで異論を口にしてごめんなさい。あの、もし体調が悪くなるようなら、すぐに切り上げますので」

「はは、大丈夫だよ。でも、すまないが、藤崎さんの意向には沿えないよ」

 

 ヒカルが座っていたところに腰を下ろして、塔矢先生と向かい合う。

 引退はするつもりだってことだね。うーん、どう攻めようか。

 

「じゃあ、せめて休養ってかたちにして、例えば名人戦だけに絞るとか、そういうのも駄目なんですか?」

「そんな勝手はできんだろう」

 

 辞める方が勝手じゃないかな。……勝手、か。

 

「塔矢先生、わがままを言っても良いですか?」

「うん? 辞めるなというのは、わがままに含まれないのかな?」

「ええ、それだけだと、単なる願望ですので」

 

 なるべく強気に、塔矢先生を挑発するように笑みを浮かべる。

 

「私、師匠は森下先生です」

「うむ、それはもちろん分かってる。棋風に森下さんの影響もあるね。年齢に見合わない力強さ、特に中盤の粘りはいかにも彼らしい」

 

 それで? と続きをうながす塔矢先生に、言葉を返す。

 

「でも、塔矢先生も師匠だと思ってます」

「そうか」

「私を含めて、塔矢先生に対局した弟子は、緒方さんだけです。挑むところまで行けてない。実力が足りないのは事実ですけど、いくらなんでも早すぎます」

 

 塔矢くんでプロになって1年。私や明日美さんは、プロになったところ。棋戦の都合上、どうやっても挑めるところまで駒を進められない。

 対局をするだけじゃない、今は全然勝負にならないけれど、いつか、塔矢先生にも勝ちたい……!

 

「10年とは言いません。せめて5年は、1つだけでもタイトルホルダーとして待ってもらえませんか」

 

 私の言葉に、塔矢先生は黙って腕を組み、黙り込んだ。

 しばらく待つと、ゆっくりと目を開けた。

 

「私の師匠との対局を思い出したよ。そうか、そう言われると弱いな」

「じゃあ」

「考えておこう」

 

 もし、引退するとしても、私から言えることはこれ以上ない。

 雑談に切り替わって少しした頃、外でヒカルの声が聞こえてきた。あっ、ヒカルを忘れてた。

 

「ヒカル、どうしたの」

「藤崎か」

「緒方さん。おはようございます」

「ああ、おはよう。それで、進藤を見張りに置いて、何を話していたんだ?」

「見張りってそんな。それより中に入らないんですか。ほら、ヒカルも」

 

 緒方さんは何やら言いたそうだったけど、押し切る。

 

「緒方くん、おはよう」

「おはようございます。それで、何の話を?」

 

 塔矢先生の前でも、緒方さんは追及を緩めない。困ったな、どうしたものかな。

 

「いやなに。私の病気を心配してくれてね。藤崎さんが上がってくるまでタイトルホルダーでいてもらいたいと活をいただいたところだよ。ちょうど、十段戦の最中だからね」

 

 うわぁ、これはまた、緒方さんを挑発するようなことを。って、今のは……。

 塔矢先生を窺うと、小さく、でも確実に頷いてくれた。

 

「ヒカル、私たちはそろそろ……」

 

 ヒカルに話しかけつつ、声が震えないように注意しないと。

 ああ、とヒカルが頷いて、揃って塔矢先生の病室を出た。

 

「あかり、大丈夫か?」

「うん、ちょっと安心したというか、気が抜けたというか」

 

 あ、駄目。

 足に力が入らず、ヒカルの腕にしがみつく。ヒカルは驚いた顔になっているけど、ごめん、ちょっとだけ待ってね。

 

「進藤。藤崎さんも。どうしたの?」

 

 え、と顔を上げたら、ちょうどエレベーターで塔矢くんと明日美さんが出てきた。うわ、本当にちょっと待って。

 

「あの、ちょっと立ちくらみで」

「立ちくらみ? 大丈夫?」

 

 塔矢くんは素直に心配してくれるのに、横でにやにやと笑っているのはどういうことかな。

 

「明日美さん、言いたいことあるなら言ってくれていいよ」

「いや、別に? 立ちくらみなら、両手でしっかりと進藤の腕にしがみついても、しょうがないよね?」

 

 言われて、抱え込むようにヒカルを掴んでいるのに気付く。ああ、それどころじゃなかったから……。

 少し恥ずかしくなって、片手で掴む程度に離れる。

 

「父さんの病室、今は誰かいるの?」

「緒方さんが来てて。入れ違いで入ったところだから、少し時間を潰してからの方がいいかも」

 

 それじゃあ、と4人で病院を出て、しばらく喫茶店で時間を潰した。

 話題に出たのは、やっぱりというべきか、昨日の塔矢先生と佐為の碁。

 

「ちょっと父さんに話を聞きたくて。奈瀬さんも気にしていたから、一緒に行こうかって」

「ふーん。見ててお前はどう思ったんだ?」

「父さんも普段と全然違ったけど、応じるsaiの碁もまた、普段と違った。随分と挑戦的な手が多くて、まるで父さんと一緒に研究でもしているかのようだったよ」

 

 鋭いというか、洞察力が高すぎる。ちょうど、佐為も似たようなことを言っていた。

 

「なるほどね。ま、塔矢名人も辞めずに続けてくれるみたいだし、俺だっていつか……」

「辞める? 続ける? 何の話だ?」

 

 あ、ヒカルのお馬鹿。

 当然のように塔矢くんの追求が始まり、ヒカルがしどろもどろになる。

 少しだけ説明をして、あとは塔矢先生から直接話を聞いてもらうように納得させる。

 

「まあ、納得はできないが、父さんから直接聞いた方が良いのは確かなようだね。明日美さん、そろそろ行こう。進藤、藤崎さん、また来週、研究会で」

「うん。あかりちゃん、進藤も。また来週ね」

 

 なんとか逃げ切った。でも、最後に明日美さん、悪い顔で笑ってたよ。ふとした時に明日美さんって呼んでもらえるっていうのが分かったからだろうけど。

 

「ふぅ、塔矢の奴、面倒だよなぁ」

「今のは全面的にヒカルが悪いよ。まったくもー」

 

 私が文句を言うと、ヒカルががっくりと首を落とす。

 

「あーもー、佐為もあかりも、同じように説教しやがって。でも、ちょっと疲れたな。気分転換にどっか行くか?」

「え、うん」

 

 デートかな。デートだよね。どうしよう、どこが良いかな。

 

「いつも行ってる道玄坂の碁会所とか……」

 

 あ、これは黙っていると駄目なパターンだね。

 

「たまには、デートしようよ。映画か何か」

「映画ぁ? やだよ、じっとしてるの」

「じゃあ、ボウリングとか?」

「うーん、それなら良いけど。……ボウリングの説明、佐為にしてやってくれよ、うるさくてしょーがねえよ」

 

 ああ、佐為が来てから囲碁三昧だから、ボウリングに行ってなかったよね。というか、私も今世では初めてかもしれない。

 

「ボウリングっていうのはね……」

 

 ヒカルと手を繋いで、佐為に説明しながら駅へと向かった。


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