世の中に たえて光のなかりせば 藤の心はのどけからまし 作:ひょっとこ斎
イベント2日目は、予定していた仕事が終わり次第、今回お世話になった人に挨拶だけして早々に帰宅した。
着替えやらの荷物を持ったままヒカルの家に行くわけにもいかないので、家に帰る。
「ただいま」
「おかえり、お疲れ様。楽しかった?」
「うん、色々と勉強になったし、楽しかったよ。でも、細かい話は後でいい?」
「はいはい、いってらっしゃい」
昨日、1度寝ようとしたけど、起きて家にも電話をかけたかいがあった。
荷物を置いたらすぐにヒカルの家に行くとお母さんに伝えておいたから、苦笑まじりだけど手を振って見送ってくれる。
「ヒカル、ただいま」
「おう、おかえり。で、どうする、見に行くか?」
「元々何も見えてないし、今じゃなくていいよ。それより、話を聞かせて」
「うん。昨日、じいちゃんの家で、碁盤の様子を見たらさ、前にあった血の染みがなくなってたんだよ」
「ヒカルや佐為は、どう思ってるの?」
「佐為は、俺だけじゃなくて佐為自身にも見えないのが不可解だって。分からないけど、成仏するような感じもしねえって言ってるから、気にしなくていいかもしれないんだけどさ」
碁盤が依り代だったとして、それが、別の何かに変わった、とか?
「佐為って、碁盤に宿っていたんだよね。その時は、碁盤から離れられなかったの?」
「えーと、ああ。少しは離れられたけど、あまり遠くには行けなかったってよ。今の俺と同じ感じだな」
「じゃあ、取り憑く相手を碁盤からヒカルに変えて、定着したって感じなのかな」
前に確認したのは、いつ頃だろう。ここ数ヶ月は見に行ってないと思うけど。
「前は、えーと、いつだったかな。院生になる前くらいに、ついでに見た気がするけど」
「なるほど、もう1年以上前だね」
「碁盤に付いていた染みって、秀策の血だったんだよね?」
「佐為が、そうだってよ」
それはそれで、不思議なんだよね。秀策の血なのに、宿っているのは秀策ではなく、佐為。どうしてなんだろう。
「秀策に佐為が取り憑いた時は、涙の跡が染みになって見えるって言ってたらしいぜ」
「ふぅん。ヒカルには、それは見えなかった?」
「見えなかったな。佐為も、秀策が死んだ後は、涙の跡は消えていたってよ」
つまり、佐為が流した涙を秀策が見て、秀策に取り憑いて。
涙が消えて、秀策が流した血をヒカルが見て、ヒカルに取り憑いて。
血が消えて、次はどうなるんだろう。
「佐為って、秀策に取り憑くまでは、もっと碁が打ちたいって話だったよね。秀策が死んだ後は?」
「……基本的には同じだってよ。ただ、虎次郎とも別れたくなかったって」
「じゃ、今は?」
「えーっと、同じような感じだって。……って、そんなこと言えるか!」
何やらヒカルが佐為に怒鳴った。赤くなってるのは、怒ってるというより照れているのかな。
佐為が、何か都合の良いことを言ってくれたのかもしれない。そうだと良いな。
「秀策が死んだ後に涙の跡が消えたけど佐為は残っているんだから、血の跡が消えても佐為は残っていておかしくないといえばおかしくないのかな?」
「あー、そうなのか? ややこしい話だな」
「佐為は満足なんてしてないよね?」
私の言葉で、ヒカルが佐為と話をする。
佐為が見えないのは、こういう時にもどかしいね。
「全然満足してないってよ。塔矢名人ともほとんど差がないし、俺とあかりも同じくらい打てるようになるのを待ちたいってよ」
「ふふ、そっか」
ヒカルはともかく、私が佐為と同じくらい打てるとは思えないけど、できる限り高いところまで登りたい。
「じゃあ考えられるのは、碁盤の染みが依り代になっていたのが、ヒカルが依り代になったっていう感じかな?」
「よりしろぉ?」
なんだそれ? ってヒカル、オカルトにあまり興味はないのかな。佐為に取り憑かれたのに、そういうのを調べてもいないみたいだし。
ヒカルらしいといえば、この上なくヒカルらしい。
「佐為に問題がないなら、何でもいいか」
「……まあ、それでいいなら」
「それより、今日は俺とあかりで打つ日だな。最近ちょっと俺の方が勝率良いからな。へへ、今日も勝つぞ」
「そうだっけ。前回は私が勝ったけど」
「今月は俺の方が勝ってるだろ」
ふふふ。ヒカルってば、しっかり覚えてるんだね。今日は不安を抱えて来たけど、終わってみれば安心できたし、良い日だった。
って、浮かれてないでちゃんと打たないと。今日は、序盤から仕掛けてみようかな?
5月は私もヒカルも若獅子戦が始まる以外は対局が少なく、研究会やヒカルの家での勉強が中心になる。
塔矢くんは忙しく動き回っているようで、時々明日美さんから全然2人で会えないと弱音を聞かされた。はいはい、ごちそうさまです。
特筆するようなこととしては、6月から始まる女流棋聖戦の対戦相手が決まったこと。幸い明日美さんではなく、春木良子さんっていう初段の人。
明日美さんの相手は宮島広美さんという、同じく初段の人。女流は70人もいないくらいだから、予選に2回勝てば、本戦トーナメントに参加できる。
ヒカルの家で、女流の大会について説明してたら、羨ましがられた。
「いいよな、女流でも何でも、俺より早く大会に参加できてさ」
「7月頃から本因坊戦が始まるよ。秋には名人戦も始まるし、小さな大会も色々とあるし」
国際棋戦もあるけど、そういうのはほとんどタイトルホルダーや、それに近い立場の人だけ。
若手の大会なら、出るチャンスもあるかもしれないけどね。
「女流棋聖って誰?」
「木ノ内さんって人。言っても分からないでしょ?」
「……まあ」
ヒカルが知ってるはずないよね。なにせ、院生時代に桑原先生を見ても誰? とか言ってたくらいだし。
「去年は日中女流戦で勝ってたし、女流名人も持ってるし。いくつかの7大タイトルでは、二次予選まで進んでるんだよ」
「へえ。……それで、あかりより強いのか?」
わ、そんな直球で聞かれるとは思わなかった。
「単純な比較って考えると、今の時点で劣っていたとしても、そう大きな差じゃないはず。でも、場数が違うし、今の時点で挑戦者として挑んでも、不利だと思う」
「なるほどね。もし挑めるとしたら、いつ頃?」
「もしそこまで勝てたとして、来年の2月か3月くらいかな」
日程を聞いて、ヒカルが考え込む。どうしたんだろう。
「半年ちょっとか。棋戦って時間かかるんだな」
「それでも早い方だよ。男女混合戦なら、1年以上かかるんだし」
そんな話をしていると、ヒカルが鞄から何か取り出す。
「これ、やるよ」
袋に入っていて、取り出すと扇子だった。
無地で白色、骨の部分は木でできていて、シンプルながらも上品な作り。こういっちゃなんだけど、ヒカルに似合わない。
「ありがと。えっと、なんで?」
「……なんでって。お前、誕生日じゃんか」
誕生日。そういえば、そうだった。
「ああ、うっかりしてた。そっか、今日は5月17日だったね。でも、どうして扇子なの?」
「それだったら、対局の時にも持っていけるじゃん。それと、俺も同じの買ったんだ」
そう言って、ヒカルも鞄からまったく同じ扇子を出す。ヒカルとおそろい。感激でどうにかなりそう。
「これ、売ってた中で、佐為が持ってるのと一番似てるんだよ。3人でおそろいってのも、面白いだろ?」
佐為ともおそろい。それは、ヒカルが自らの懐に私を入れてくれたというか、表面上だけじゃない繋がりを感じる。
「ふふ、そっか。ヒカルも私も、佐為と同じ扇子を持ったら、簡単に負けるわけにはいかないね」
きちんと打ち切って、実力不足ならまだいい。手を抜いたような碁を打ったり、勘違いで無様な碁を打つような真似はしたくない。
今までも気をつけていたけど、より一層、そう思った。
「ヒカル。そのうち、必ず2人でタイトル戦で打とうね」
「ああ」
そのためにも今週末の若獅子戦、しっかり打とう。
大会当日、ヒカルと一緒に棋院へと向かう。
「ヒカル、1回戦から強敵だね」
「ああ、そうだな。まあ、お前の2回戦ほどじゃねえけどな」
「あはは。でも必ず負けると決まってるわけじゃないし、頑張るよ」
「おう、塔矢なんか負かしちまえ」
ヒカルが越智くんとの対局で、私は足立さん。足立さんも最近小宮さんに院生順位で抜かれたらしいけど、決して油断はできない相手。
棋院に着いて、塔矢くんや明日美さん、和谷くんたちに挨拶していると、対局時間になった。
「よろしくお願いします」
足立さんの先番で対局が始まる。若獅子戦は持ち時間が短いので、それなりに早く打たなきゃいけないので、深く読み合いをするにも、時間がかけられない。
序盤お互いに大人しい碁になった。地目の差が出ないけど、足立さんにも考えがあるんだろう。
中盤に入る頃、足立さんが仕掛けてきた。でも、それほど深く読んで打った感じじゃない。どう打ち回しても、私の石は崩れない。
ここは、2手抜いても問題なさそう。その分、中央の地を取りに行く。
「……ありません」
「ありがとうございました」
結局、仕掛けてきたところ丸々大損してしまい、私の中押し勝ちになった。
油断できない、と思っていたし、油断したわけじゃないけど。途中、少し拍子抜けした。
思った以上に、足立さんとの差ができているみたい。
「そうだ、ヒカル」
結構早めに終わったので、ヒカルの碁を見に行く。
塔矢くんの対局を見ていた明日美さんが私に気付いたようで、近寄ってきた。
「あかりちゃん、どうだった?」
「勝ったよ。明日美さんも?」
「うん、フクには悪いけど、勝ちをもらったよ」
無声音で話しかけてきた明日美さんに、勝ちの報告。
お互いに讃え合って、ヒカルの様子を見る。
越智くんもしっかり打って頑張っているけど、ヒカルの方が良い。
左辺に展開したヒカルの石が、上下どちらにも手を伸ばせる形になっているので、越智くんは守りにくそう。
「他のところ見てくるね」
「うん」
明日美さんが軽く肩に手を置いてから、席を外す。私はヒカルの打っている姿を見たいので、そのまま残る。
越智くんも何度か仕掛けていたけど、ヒカルがきっちりと地を増やしていく。盤面で5目ほどヒカルが有利になったところで越智くんは投了した。
「この右側を守った一手、先にこっちを押さえた方が良かったかな」
「ああ、そっちに打たれた方が困ったな。その場合は俺が頭を押さえに行くから……」
2人で検討し始めたので、私も少し口を挟む。しばらく話した後、越智くんが席を立つ。きっと、いつもの1人反省会。でも最近、その前に感想戦をやるので、終わった直後に1人だけで籠もるより効果があるはず。
「あかりも勝った?」
「うん。だから、次は塔矢くん」
私にとっての、大一番だね。
和谷くんや冴木さんに声をかけて、ヒカルも一緒にお昼ご飯に行く。塔矢くんと明日美さんは、今日は別行動。
小宮さんや本田さん、フクくんも一緒じゃないし、不自然じゃないはず。
「藤崎は、次が大変だな。森下先生にも言われてただろ?」
「塔矢アキラの連覇を阻止しろ! って。そんな簡単な話じゃないよね」
「俺もよく芦原さんを止めろって言われてるからなぁ」
和谷くんや冴木さんに発破をかけられる。ヒカルは何も言わない。きっと、私が勝てば塔矢くんとは対戦できなくなるから、それが引っかかってるんだろうな。
「塔矢くんと対戦したい人には悪いけど、去年の雪辱は果たしたいから頑張るね」
「ああ。塔矢なんかやっつけちまえ」
ヒカルもそう言ってくれるとはいえ、塔矢くんは大手合いでは負けなし、棋戦でも二次予選で倉田さんに負けたくらいで、ほとんど負けがない。プロになって、ますます強くなっている。
駄目駄目。考えすぎないで、いつも通り打てるように頑張ろう。
そして、午後から塔矢くんとの対局。周りに気を遣う余裕は一切ない。
「公式戦での対局は、1年ぶりだね」
「うん」
特に話すこともない。普段の研究会での手合いとは違うのは、お互いに分かっている。
……分かっているんだけど、どう言えばいいのか、塔矢くんの周りだけ空気が違う。ピリピリとした痛いほどの視線。
飲まれちゃ駄目、とヒカルからもらった扇子をギュッと握る。
「よろしくお願いします」
時間になって、対局が始まる。私が黒石。今は、主導権を握りたかったから、黒石の方が嬉しい。
深い読み合いになる前に、勝負を決めてしまいたい。短い対局時間の中で、塔矢くんの読みの深さには追いつけない。そう思っていたら、塔矢くんは大きく地を広げていく。
攻めやすい布石。攻め損ねると負けが決まるけど、序盤から勝負をしかけていく。
もしかしたら、私が攻め急ぐと気付いていたのかもしれない。しっかりと構えて、崩せない。私では崩せないようでも、佐為なら。
「失礼します」
一声かけて、席を立つ。ヒカルから聞いた、ヒカルが打つ時に佐為がよく立つ斜め後ろあたりの場所に、少しだけ体を寄せる。
扇子を手に持って、考えに没頭していると、塔矢くんが面白そうに笑う。
どうしたんだろう。って、今はそれを気にしている場合じゃないね。
座り直して、思いついた手を打っていく。
塔矢くんも予想していなかったようで、少しだけ場を荒らせたものの、完全に崩すには手が足りない。あと2手、ううん。1手でも稼げたら五分以上に持っていける。
そう思っていると、塔矢くんから私の下辺に、手痛い一手が放たれた。あ、これはどうしようもない。
「……負けました」
十分に守れると思っていたけれど、打たれたら分かった。
「ありがとうございました」
悔しい、とうつむくと、塔矢くんがフォローのように声をかけてくる。
「途中、寄せられた時は困ったけどね。結構きわどかったと思うよ」
「あはは。ありがとう。でも、もし塔矢くんより先に下辺を守ったとしても、そうするとますます攻めの手が足りなくなるし、崩せる場所は思いつかないよ」
簡単に検討を済ませて席を立つと、結構人だかりができていた。あらら、気付かなかった。
「明日美さーん、負けちゃったよ」
「うん、でも良い碁だったよ」
持ち時間の関係で、普段と違う碁になっちゃったけど、面白かった。塔矢くんは、低段者の中では頭ひとつ抜けた存在だと思う。だからこそ、こういう場所で戦えるのは、非常にありがたいよね。
「あかり、お疲れ」
「ありがと。ヒカルはどうだった?」
「勝ったぜ」
そっか、良かった。明日美さんに目を向けると、小さく笑ったので、きっと勝ったんだろう。
「塔矢くんと明日美さんとヒカルが勝ち、他のメンバーはどう?」
「へへ、俺は勝ったぜ!」
和谷くんが手でピースサインを作る。良かった、院生の方からも2勝が出てるね。
本田さんは冴木さんに負けて、小宮さんも勝ち。
「残った8人のうち、6人が研究会の奴って、結構良い感じだな」
冴木さんが嬉しそうに笑う。みんな頷く中、明日美さんが笑いながら文句を言う。
「ちょっと、私は女の子なんだけど。奴はないんじゃないですか?」
「おっと失礼。越智は進藤に負けて、藤崎が塔矢、フクも奈瀬に負けた結果だから、しょうがないよな」
プロ側で5人、院生側で5人もいるから、結構勝ててもおかしくない。
それでも同研究会の潰し合い以外では負けていないっていうのは、思ったよりも嬉しいね。
「来週は、ヒカルと明日美さん、和谷くんと小宮さんが当たるんだね」
「うん」
研究会だとヒカルの方が明日美さんより安定感あるけど、一発勝負だし、何が起こるか分からない。しっかりと準備して、ヒカルに勝ってもらわないと!
いったん家に帰ってから、すぐにヒカルの家に向かう。部屋で碁盤を挟んで座り、今日の対局について意見を求めた。
「私が押さえる前に塔矢くんがこう打ってきたから、手が足りずに崩壊しちゃったの」
「ああ、そうか。でもさ、その前にこうやって打てばどうだ?」
ヒカルが示した手を試すと、下辺を守りながら塔矢くんの左下隅を攻められる展開になった。
「本当だ、これでだいぶ実戦より良いね」
「うん。佐為も良さそうだってよ。それでも、塔矢が打ち間違わなければ、少し足りないか?」
「そうだね。他に稼げそうなところは……」
2人で考えて、どうしても思いつかない時は佐為に頼る。佐為は私たちが思いつかない手を示してくれる時が多く、とても参考になる。
最近、佐為とヒカルの対局時に、時々ヒカルが驚くような新手を打つ時もあって、そういう時は嬉しい反面、置いていかれるような気持ちになって、凄く焦る。
「ん、あかりどうした?」
「ううん、なんでもない」
ヒカルがこうして、ちょっとした時に気にかけてくれる。この関係が壊れないためにも、しっかりと打たないと。そう思っていると、ヒカルが思いもかけないひと言を発した。
「塔矢やお前に置いていかれないように、俺も必死だからな。再来週の奈瀬と、和谷か小宮さんとの対局も、絶対に勝って塔矢との決勝戦に挑まないとな」
「え、私? 塔矢くんはともかく、私は最近、あまり調子良くないよ」
私が首を傾げると、ヒカルは笑いながら肩をすくめる。
「別に、勝ち負けだけがすべてじゃないじゃん。今日の塔矢との対局もそうだけど、お前って大崩れしないし、どんな相手でも自分の碁を打てるのは大したもんだと思うぜ」
「そうかな? うん、そう言ってもらえると、嬉しいかも」
びっくりした。内心で落ち込んでるのが分かったのかな、と思ったけど、ヒカルの顔を見てると、そんな様子はない。本心からそう思ってそう。
うん、元気出てきた。落ち込んでる場合じゃないよね。っていうより、やっぱり塔矢くんに負けて、気分は沈んでいたみたい。せっかく、ヒカルと一緒なのにね。
「でもヒカル。塔矢くんが冴木さんに負けるとは思わないんだ?」
「あー、考えてなかった。でもさ、冴木さんが勝つと思うか?」
冴木さんごめんなさい、確かにちょっと想像できない……。