世の中に たえて光のなかりせば 藤の心はのどけからまし 作:ひょっとこ斎
名人戦の予選で塔矢くんに負けて少し経った頃、女流棋聖戦のトーナメント組み合わせが棋院から送られてきた。
明日美さんとは、2回勝てば準決勝で当たるけど、私の2回戦の相手に元女流本因坊がいる。明日美さんのブロックは、三段までの若手が多い。
今の女流本因坊と女流名人は、別のブロックにいるので、決勝までいかないと当たらない。
「2回戦が大変そう」
「あかりちゃん、頑張って。勝つ自信はないけど、私もできるだけ頑張るよ」
プロ試験中なので人数が少ない若手の研究会で、明日美さんと一局打ち終わってから雑談に興じる。
自信がないなんて言いつつ、塔矢くんの家に行って打ってもらっているらしい。この碁会所で2人だけで打つと、市河さんの目が怖いもんね。
「塔矢くんの家で打てるのいいなぁ」
「あれ、浮気?」
ちらりとヒカルを見ながら、明日美さんがからかってくる。こういう時の明日美さんは、ムキになると喜ぶので、軽く流す。
「まさか。塔矢くんの家だと、塔矢先生にもアドバイスいただいたりできるんじゃない?」
「うーん。いない時も多いけど。時々教えてくれるよ」
塔矢先生に教えてもらえる機会が多いのは羨ましい。でも私には聞こえないけど、ヒカルが塔矢先生に教えてもらう時があれば、きっと佐為が羨ましがるだろうな。
塔矢くんとヒカルの対局が終わったようで、激しく言い合いながら近寄ってくる。本当に仲が良いよね。
そして、こちらの話に反応して、塔矢先生の情報を教えてくれた。
「海外に行く時も、母さんと一緒に出ていってるよ。今は無理だけど、参加する棋戦が減ってそれなりに余裕が出てるからね」
「へえ」
「ふーん。塔矢先生、そのうち俺とも打ってほしいな」
今は名人戦の挑戦手合いが間近に控えているから、海外旅行をする暇はないだろう。
佐為と塔矢先生は、退院した後も1回打っている。成績は佐為の3戦全勝だけど、ほとんど互角の勝負。
ヒカルも打ってもらう機会があればいいんだけど、今のところうまく時間が合わせられず、対局できていない。
「それよりプロ試験の方、本田さんは厳しくなってきてるね」
市河さんが近づいてきたからか、明日美さんが話題転換を試みる。私も気になっている話題なので、素直に便乗する。
「うん。可能性はあるけど、上位が崩れないね」
「和谷も頑張ってるよね」
プロ試験は後半にさしかかり、合格者は伊角さん、門脇さん、越智くん、和谷くんに絞られている。本田さんや小宮さん、フクくんは黒星が増えてしまって合格争いからは脱落している。正確には本田さんはまだ脱落したわけじゃないけど、上位4人のうち2人が急に崩れるとも思えない。
「全勝者はいなくて、1敗が伊角さん、和谷、越智、門脇さん。その下が4敗の本田さん、5敗の小宮さんと片桐さんだね」
「和谷、受かればいいのになぁ」
横からヒカルが会話に混ざってきた。うん、しげ子ちゃんの喜ぶ顔も見たいし、ぜひ受かってほしい。
「その4人同士で当たってないのは、伊角さんと和谷くん、伊角さんと門脇さんだね。越智くんは本田さんとの対局が残ってるけど、そこで負けてもプレーオフには出られるはず」
越智くんが一番合格の可能性が高い。逆に、2人との対局が残っている伊角さんは大変だ。
そんな話もしつつ、碁の勉強で日々が過ぎていった。
そして10月に入り、女流棋聖戦のトーナメントが始まった。
1回戦は問題なく勝ち、2回戦がある木曜。
朝、ヒカルが学校に行く時間に合わせて家を出る。
「あかり。今日が正念場だな」
「うん。相手は三次予選にも残ったことがある人だからね」
「大丈夫、普段通りに打てたら勝てるさ」
ヒカルにそう言ってもらえると、勇気が湧いてくる。
「ヒカルは来週の木曜が二次予選の1回戦だよね。一足先に私が木曜の勝ち星をもらっておくね」
「ああ、すぐに追いつくから待ってろ」
よし、気合い入れて頑張ろう。
棋院に着いて中に入ると、森下先生が部屋の前で知り合いの方と話をしていた。
「おう、藤崎」
「おはようございます」
2人に挨拶して、頭を下げる。今日、森下先生は名人戦の三次予選。あと2つ勝てば、リーグ戦という正念場だ。
研究会でも森下先生の奮闘は話題になっていて、塔矢先生と対局するには名人戦で勝つしかないと決まってから、名人戦の予選は特に気合いを入れていたという話だ。
でも、森下先生は絶対に認めない。ふふ、凄く意識しているのに違うと言い張るとか、可愛いところあるよね。
可愛いとか本人には絶対に言えないけど。
「なんだ、緊張しているかと思ったが、平気そうだな」
「緊張してましたけど、森下先生の顔を見たら落ち着いてきました」
「そうか」
「森下先生も頑張ってください!」
「ああ。何年かぶりだが、残りたいもんだ」
森下先生は棋力も高いし、もっと活躍できると思うんだけどな。体力面ではちょっと陰りが出てくる年齢だから、全部の棋戦を同等に力を入れるっていうわけにはいかないだろうけど。
ともかく、いったん席に向かい荷物を置く。
念のために、碁笥の確認もしておく。極稀に両方とも白石だったり、両方とも黒石の時があるから、事前に確認しておかないとね。
森下先生のところに戻って話しながら時間を過ごしていると、開始時間が近づいてきたので、話を切り上げて席に向かう。
「あなたが藤崎さんね? 今日はよろしく」
「よろしくお願いします」
先に相手が座っていて、こちらを見極めようとしてか、睨むように見つめながら声をかけてきた。
でも、うん。気圧されるほどの気迫じゃない。笑顔で挨拶をして席に座る。
ニギリの結果、私が後手で勝負が始まった。
女流棋聖戦は、1手30秒なので考える時間はあまりない。
何手も先を読む力より、直感でより良い手を探したり、ミスをしないように注意が必要なんだけど、私はゆっくりと考える方が得意というか、直感に頼って打つのは苦手。だからヒカルとたくさん打って鍛えてるけど、苦手分野なのは間違いなかった。
でも、今日は凄く調子が良い。相手は強いし、ちょっとの失敗で一気に形勢が傾く危険性があると思っていたけど、不思議なくらい、盤面が見えている。
例えば左上スミでの攻防の途中でも、全体を見て弱そうなところ、攻めるべきところが掴めている。
左上スミは互角の打ち合いだったけど、相手のアタリに対して手を抜いて、中央を攻める。まだ中央ではなく左上スミの攻防が続くと思っていたんだろう、一瞬手が止まり、どうするべきか迷ったようだけど、そのまま左上に石を置いた。
当然、左上スミは相手の地になるけど、それほど大きな損失にならない。相手の中央が薄いうちに攻め立てて、断点が多くなって決着がついた。
「……ありません」
「ありがとうございます」
少しだけ感想戦をした後、自分の師匠が今日打っていると相手に説明をして了承を得て、早々に席を立った。良い碁を打てたのは良かったけど、森下先生の状況が気になる。
様子を見ると、中盤だけど森下先生の方が良さそう。ずっと見ていて邪魔になっても悪いので、部屋を出る。
「おや、藤崎さん。もう終わったのかい?」
「一柳先生。はい、終わりました。先生は?」
「俺はまだまだ。相手が長考してるから、気晴らしにね」
一柳先生は、今日は天元戦の最終予選だったかな。確か去年は、準々決勝で緒方さんに負けてシード権を逃していたはず。
「どうですか?」
「そうだね、まだ途中だから気を抜けないけど、手応えは良いね。と言っても、悪かろうが打つしかないんだけどな。はは」
愉快そうに笑う一柳先生。
「そういえば、プロ試験の結果は知ってるかい?」
「はい。越智くん相変わらず調子良さそうですね」
「彼は間違いなくプロになれるレベルだね。甘いところも多いけど、そりゃ若手だから当然だ。少なくともプロ試験で足踏みするレベルじゃねえな。だからこそ、最近のプロ試験突破者は要注意だと思わねえかい?」
「あはは。どうでしょうか」
うーん、そんなこと言われても、返答に困る。
一柳先生と当たれるところまで駒を進めているのは、今のところ塔矢くんだけ。塔矢くんの同期も、辻岡さんはそこそこ勝っているけれど一次予選の突破には届いていない。真柴さんは調子が悪いみたいで、結構苦戦しているし。
私たち3人は始まっていない棋戦もあるし、まだまだこれからだ。
「2年目でリーグ戦入りする塔矢くんみたいな子もいるし、キミみたいに1年目で高段者に混ざって打つ子もいる。まだまだ若手に負ける気はないけど、少なからず意識するよな。緒方くんや芹澤くんになると、憎たらしいだけなんだけどさ」
「またそんな」
「おっと、そろそろ戻らねえと。秒読みが始まってたら大変だ」
「お話ありがとうございます。頑張ってください」
「うん。良い気分転換できたし、勝ったら談話で藤崎さんと話したおかげって書いてもらうよ」
「いや、それは」
「あはは。冗談だよ」
慌てていると、笑いながら手を振って去っていく一柳先生。
あぁもう。大事な対局のはずなのに、私をからかって遊べる余裕があるのは凄いけど、ちょっとは自重してくれないかな。
ため息を吐いて時間を見ると、今から学校に行っても最後の授業に間に合うかどうか、というくらい。森下先生の結果も気になるし、このまま棋院で待とうかな。
森下先生の対局を少し離れた場所から見ていると、いつの間にか時間が経っていたようで、やってきたヒカルにひそひそと声をかけられた。
「あかり」
「ヒカル。早かったね」
「まぁ、すぐに来たから」
笑顔を向けて、ヒカルに隣を譲る。
「私は勝ったよ。森下先生ももうすぐ決まりそう」
森下先生がかなり有利な状況になっていて、ミスをしない限り、覆る心配はなさそう。
相手も分かっているのか、かなり悔しそうにしている。
「負けました。森下さん、調子良いねぇ」
「おかげさまで。久々にリーグ戦まで行ける可能性が出てきたので、必死ですわ」
対局相手とそれなりに仲が良いようで、雑談し始めた。私は目線でヒカルに合図して、席を立った。
「あかり、お疲れ様。勝てて良かったな」
「うん、ありがと」
えへへ。ヒカルに褒めてもらうのが何よりのご褒美だよ。
しばらくヒカルと話していると、森下先生が部屋から出てきた。
「おう藤崎。応援ありがとうよ。進藤は……藤崎の応援か?」
「えっ。俺だってちゃんと先生の応援に来たんだぜ」
「そうか?」
「だって、あかりは午前中で終わるじゃないですか」
「ははは。分かっとる。わざわざありがとうよ」
ヒカルが先生にからかわれて拗ねている。ふふ、先生も勝って機嫌がいいのか、楽しそう。
「俺はちょっと感想戦やってから帰るが、お前らはどうする?」
「あー、俺たちはもう帰ります。俺、学校帰りだから遅くなったらまずいし」
「そうか。気をつけてな」
先生さようならー、と小学生のような言葉を置いて、ヒカルと一緒に棋院を出る。
「ヒカル、帰ったら早碁で打ってくれない?」
「うん」
今日の手応えは、今までと少し違った。感覚を忘れないうちに、もう一度打っておきたい。
……佐為と打ったら自信がなくなりそうなので、ヒカルと。
ヒカルと打った結果、掴んだ手応えは間違ってなかったようで、早碁でヒカル相手に、5戦して3勝2敗。珍しく勝ち越せた。
「なんか、強くなってねえ?」
「なんだか、盤面がよく見えるの」
「ああ、そういう時あるよな。じゃあ、忘れないうちにもう一局……ってこんな時間か」
時計を見ると、かなり時間が経っている。あまり遅くなると怒られる。
「今日はありがと。えへへ、久しぶりにヒカルから勝ち越せたよ」
「そうか? んー。まあ、公式戦で当たってないから、なんとも言えねえけど、お前だって塔矢以外には負けてないだろ?」
「うん、まあ一応」
「俺も前は塔矢に勝ったけど、次も勝てるかっていうと、怪しいしさ。俺とお前で実力差があるわけじゃないし、焦る必要はねえんじゃねーか」
言ってることは正しいけど、ヒカルが励ましてくるとは思わなかった。しかも、焦るななんて、ヒカルに似合わない。
でも、うん。ヒカルも成長してるんだなぁ。もう中学3年生、15才だもんね。
「ヒカルらしくないアドバイスだね。でも、ありがとう。公式戦、当たりたいね。大手合いは今年当たらないけど、来年は当たるかなぁ」
「どうだろうな。その前に、何かの棋戦で当たるんじゃねえかな」
確かに、来年以降は勝ち進んだ結果次第だけど、今年は当たる可能性が十分にある。
「手加減なしだよ」
「当たり前じゃん」
囲碁を打つだけではない充実した時間を終えて、家に帰った。
来週はヒカルと高段者との本因坊戦の二次予選が始まるし、私も再来週に同じく本因坊戦の二次予選を控えている。再来週と言えば、名人戦では公式戦で再びヒカルと塔矢くんの対局がある。
プロ試験も終盤だし、何かと気になる出来事が多い。気を抜かず、しっかりと頑張ろう。